プロローグ
森の中。木漏れ日が地面を斑に染めている。
エドが背伸びして、タリアの髪に桃色の花を挿した。
淡紫の髪と、花弁。
(……きれい、だな)
見惚れる少年に、タリアが微笑んでいる。
穏やかで、温かな笑み。
◇
深夜。
エドが寝返りを打ち、無意識にタリアの身体に腕を回す。唇が小さく動き、寝言を漏らしている。
タリアが微笑んでいる。
さっきと同じ角度で。同じ深さで。
エドの唇を、見つめていた。
微笑みが消えた。
手が、静かに伸びる。
細い指が、エドの喉元へ。
——直前。指が逸れた。
人差し指の腹が、エドの唇に触れていた。
輪郭をなぞる。何度も、何度も。
カチリ——
タリアの身体がベッドから浮き上がり、首が不自然に振れた。
周囲が崩れ落ちる。壁が剥がれ、床が裂け、その下に黒と白の線だけが脈動する虚の空間が広がった。
ソレは浮かんでいた。タリアの輪郭が崩れ、顔のない人型だけが残っている。
震える指が、自分の唇があった場所に触れた。
指先が止まる。
次の瞬間——両手が、弾かれたように顔を覆った。
頬を探り、顎を辿り、首筋に降りる。
肩を抱き、腕をさすり、やがて——背を丸めた。
声はなかった。ただ、顔のない面が俯き、線で編まれた身体が小さく震えていた。
傍らに、透き通った白い影が浮かんでいる。
淡紫の髪。穏やかな面差し。
『タリア』の魂は、何も言わなかった。
ただ、静かに——微笑んだ。
ソレは俯いたまま、動かない。
やがて白い影が薄れ、消えた。
長い沈黙。
線が動いた。ソレにタリアの姿が戻り、周囲が巻き戻るように再構成されていく。
台所が現れた。
エドが立っている。
頬に涙の跡。手に包丁。
刃を見つめていた。
自分の顔が映っている。歪んで、滲んで。
「……馬鹿だな、俺」
静かに、首筋に当てた。
瞼が閉じる。
手が——滑り落ちた。
だが、裂ける感触は、なかった。
手の中は空。包丁が消えている。
「どういうつもり」
戸口に、タリアが無表情で立っていた。
エドは空の掌を見つめ、乾いた息を漏らした。
「……生き死にすら、お前に決められるのかよ」
そのまま仰向けに倒れ込む。
「好きにしろ」
天井を見つめる瞳には、何も映っていなかった。
「——フンッ」
タリアが袖を振り払い、背を向けた。
沈黙が、台所を満たした。
「……姉さんがここにいる。それじゃ、駄目なの」
「あの人たちは、もう戻ってこない」
「記憶を消してあげる。全部」
「消した俺と一緒にいて——お前は楽しいのか」
返事はなかった。
「……本気で、そうするつもり?」
エドが身体を起こした。タリアの目を、まっすぐに見る。
「現実は、ここよりずっと残酷よ」
「構わない」
声に震えはなかった。
「……応えたいんだ。あの人たちに」
風はない。だがタリアの髪が一筋、揺れた。
タリアは少年の目を見つめていた。
口元が、ゆるやかに弧を描く。
「——そう」
世界が、音もなく崩れた。
その下に——天井まで届く氷柱が、幾十と並んでいる。
中に凍りついているのは全て同じ顔。エド・ウォーカー。
何十もの「死んだ自分」が、閉じた瞼のまま並んでいた。
「確認してやる」
喉を裂くような声が、四方から降ってきた。
「お前の……」
「覚悟」
氷柱が光った。
記憶が、砕けるように弾ける。
——熱い。——冷たい。——痛い。息ができない。骨が折れる音。血の味。土の味。暗闇。叫び声。自分の叫び声——。
「ぁ、あ……ッ!!」
エドは膝をつき、額を床に叩きつけた。止まらない。身体が痙攣する。
笑い声が氷窟に反響した。
だが——エドの耳には届いていなかった。
その時。
脳裏に、旋律が流れた。言葉のない、ゆるやかな歌。
——ああ、知っている。この歌。
背中に触れていた、あの掌。
同時に——耳元で、同じ旋律が聞こえていた。
同じ歌。だが、声が違う。
もっと深い。もっと柔らかい。
ずっと昔から知っている、あの声。
痛みは消えない。記憶も消えない。
だが——指が動いた。
氷の床に爪を立てる。膝を引きずる。歯を食いしばる。
腕で身体を持ち上げ——立った。
自分の足で。
景色が溶けていく。
風が吹いた。草の匂い。
見覚えのある丘。見覚えのある村。
空に、タリアの姿をしたソレが浮かんでいる。
口元に弧を描き、視線をすっと横へ流した。
エドがその視線を追う。
剣が一本、丘の草に突き刺さっていた。
細身の直剣。使い込まれた柄。日に褪せた革の巻き。
エドは歩み寄り、柄を握った。
——手が、覚えていた。




