第45話 方舟の主
柔らかな光が、二人の身体を包んでいた。
ルーシーは膝をつき、両手を翳し続けている。手の甲の傷が開いているが、構わなかった。
ポリンが壁面から次々と現れ、担架を形成する。転送門が開いた。
「急げ! 両大公を緊急治療室へ!」
テレサの指示が飛ぶ。二人の身体が担架に乗せられ、光の中に消えた。
転送門が閉じる。
廊下が、静かになった。
ルーシーは立ち上がろうとした。足がもつれ、壁に手をつく。
「ルーシー様、あなたも限界です。休んで——」
テレサが肩を支えた。
ルーシーの視線が、病室の奥に向いた。ベッドの上のエドが見える。穏やかに眠っている。
(エド……くん……)
視界が暗くなった。テレサの声が、遠くなっていった。
◇
待合室は、静まり返っていた。
セリーヌの部下たち——蒼月魔導団の副官三人が、壁際に並んでいる。二人は目を赤くして俯き、最年少のアリシアだけが二人の背を交互にさすっていた。その手も、僅かに震えている。
ケインは椅子に腰掛け、腕を組んでいた。顔は動かない。だが右脚が、小刻みに揺れ続けている。
ガチャリ、と扉が開いた。
白衣の医師が出てくる。副官のフィリスが真っ先に詰め寄った。
「先生、容態は」
「……まだ、危険な状態です」
フィリスの顔から血の気が引いた。一歩、退いた。
「そんな……ありえない……」
声が掠れている。
「数百年ですよ……」
「あの方たちが、どれだけの戦場を潜り抜けてきたか。三百年前の大戦ですら、ここまでの重傷は——」
「あの子供か」
ケインの声が、背後から落ちた。
低い。静かだが、刃物のような声だった。
「総帥はあのガキのために名誉を失い、今度は命まで——」
「ケイン」
フィリスが振り返った。
「あの子とは関係ない」
「関係ないだと?」
「あの子が自分の意志でやったのなら、帝国で毒を使う必要はなかった。一人で全員殺せたはずだ。そうしなかったということは——」
「分かってる」
ケインが遮った。
顎を引き、唇を噛んでいる。目が赤い。
「分かってるが……納得できるかは別だ」
フィリスは何も言わなかった。
医師が一歩前に出た。
「皆様。どうか、悲観なさらないでください」
穏やかだが、芯のある声だった。
「ここにある設備は、モネイアラ様が長い年月をかけて築き上げたものです。必ず、お二人を治してみせます」
フィリスは窓の外を見た。青い空。緑の丘。生きている街。
この方舟を作った女のことを、思った。
「……頼みます」
◇
医療棟の奥。
テレサは書架を引き、壁面の黒いパネルに腕の端末を翳した。
ピ、と音がして、隠し扉が開く。中に入ると、扉が閉じた。
薄暗い小部屋。操作卓が一台。
端末を操作すると、空中に投影が立ち上がった。
暗い画面。輪郭だけが浮かんでいる。紫水晶のような長い髪。柔らかな曲線。顔は見えない。
「状況は」
声は気怠い。だが、テレサの背筋は自然に伸びた。
「モネイアラ様。ポリンシステムへの不明侵入の原因を特定しました。データを送信いたします」
沈黙。グラスが卓に置かれる音だけが聞こえた。
やがて。
「……セリーヌが連れてきた子供?」
「はい」
ガン、と何かが叩きつけられる音。
テレサの肩が跳ねた。
「あの女……また余計なものを持ち込んで……!」
テレサは黙って待った。
しばらくして、声を出した。
「モネイアラ様。一つだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「言え」
「これはシルウィード様の判断ではなく——当時の状況をお聞きください」
テレサは、ルーシーの証言と記録データの不一致、アルファの自爆、赤黒い稲妻——全てを簡潔に伝えた。
投影の向こうは、長い沈黙だった。
「……ぅ、ぐ……」
低い呻き声が漏れた。男の声。苦痛を押し殺したような。
テレサは目を伏せた。
「分かった」
モネイアラの声が戻った。先ほどの苛立ちは消えていた。
「トリーナ」
投影の奥で、足音が鳴った。
「そのエド・ウォーカーという小僧の情報を洗い出せ。出生から現在まで、何を食ったか、夢で何を呟いたかまで、全て。明朝までに私の卓に置け」
「かしこまりました、我が主」
静かな、よく通る女の声だった。
「テレサ」
「はい」
「A5区画の研究成果を出せ。全て、あの二人に使え」
テレサの目が見開いた。
「モネイアラ様……あれは、何十年もかけた最高の——」
「黙れ、馬鹿者」
声が、少しだけ小さくなった。
「あまり言わせるな」
間があった。
「この世界には……あいつらが必要なんだ」
テレサは唇を引き結んだ。
「……了解いたしました」
通信が切れた。
投影が消え、部屋が暗くなる。
テレサは操作卓の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと椅子に沈み込んだ。
大きく息を吐いた。
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