第44話 侵蝕
ドクンッ。
心臓が一度、強く跳ねた。
空気が粘る。意識が引っ張られるような感覚。
——次の瞬間、光に呑まれた。
「……っ!」
目を開けた。木の天井。薄暗い。
(さっきの……何だった?)
額に手を当て、身を起こす。頭が少し重い。
窓の外が、夕焼けに染まっていた。
「姉さん……?」
呼んだ。返事がない。
「まだ帰ってないのか」
腹が鳴った。
「……仕方ない、自分で作るか」
台所に立ち、棚から食材を引き出した。踏み台に乗り、包丁を握る。
トントントン。
手が勝手に動いた。野菜が均等に刻まれていく。
「へへ……姉さん驚くだろうな、俺がこんなに——」
手が止まった。
(待て)
包丁を持つ右手を見る。
(俺、いつから料理できるようになった……?)
(誰に教わった……?)
頭の奥で、ノイズが走った。
断片的な映像。森の中。巨大な魔物。自分がそれを切り開いている。内臓を裂き、肉を焼いて食べている。
桃色の蝶が、一瞬だけ視界を横切った。
声。聞き取れない声。
「っ……うわ——!」
バキッ。
踏み台が砕け、エドは床に叩きつけられた。
衝撃で板が割れる。腰を打った痛みより先に、目に入ったのは——板の下の暗闇。
「……何だ、これ」
割れた板を持ち上げる。周囲の床板も浮いた。
石造りの階段が、地下へ続いていた。
冷たい空気が、下から吹き上がってくる。
エドは台所の蝋燭を手に取り、腰に包丁を差した。
理由は分からない。ただ、持っていたかった。
階段を降りる。暗い。寒い。壁に白い霜が張っている。
やがて、底に着いた。
蝋燭の灯りが、氷の塊を照らした。
氷柱が、等間隔に並んでいる。中に、何かが閉じ込められていた。
エドは一歩近づき、灯りをかざした。
メイおばさん。
目を閉じて、眠っているように凍っている。
隣。ハナちゃん。その隣。マークおじさん。
「なんで……みんな、なんでここに……!」
奥へ走った。師匠は。姉さんは。
師匠はいなかった。姉さんも。
代わりに——。
エドは、足を止めた。
奥の区画。天井まで届く氷柱が、何十と並んでいる。
中に凍っているのは、全て同じ顔だった。
自分の顔。
最初の一体。胸に大穴が空いている。魔物の爪で抉られたような傷。
隣。全身が黒く焼け爛れ、顔の半分が溶けている。
その隣。腹が異様に膨れ上がり、口から何かが溢れている。
どれも自分だ。
どれも——死んでいる。
何十体もの「エド・ウォーカー」が、氷の中で目を閉じていた。
「あ……あ、あ……」
脳の奥で破裂音がした。
氷の中の「自分」を見るたびに、記憶が弾ける。
森で魔物に胸を貫かれた。
毒を飲んだ。
鞭で打たれた。
飢えて動けなくなった。
全部、自分だ。全部、覚えている。
「なんだよこれ……なんだよこれッ……!」
コツ。コツ。コツ。
軽い足音が、背後から近づいてきた。
「悪い子ね。勝手に入っちゃ駄目って言ったのに」
エドは振り返り、包丁を抜いた。
「お前は誰だ……! 俺の記憶に何をした!!」
『タリア』は微笑んだまま、首を傾げた。
「そんなこと言わないで。姉さんは、不良の子は嫌いよ?」
「ふざけるな! 化け物!」
エドの手が震えている。刃が蝋燭の光を反射して揺れた。
「村のみんなの死は、お前のせいか!」
「違うわ。あれは決まっていた運命よ。誰にも止められなかった」
『タリア』が一歩、近づいた。
「でも、あなたは違う」
『タリア』がさらに一歩。その目が、笑っていない。初めて。
「何が——」
目の前に、『タリア』がいた。距離がゼロになっていた。
冷たい指がエドの頬に触れる。温かい吐息が、顔にかかった。
「私をこの世界に呼んだのは、あなたよ。あなたが、私を必要としたの」
声は優しかった。だが、指先は鉄のように冷たい。
「覚えてない?」
「俺が……お前を……?」
身体が震えた。自分の意志ではなかった。
内側から、何かが暴れている。手足が勝手に引き攣り、歯がカチカチと鳴った。
エドは『タリア』を突き飛ばした。突き飛ばしたつもりだった。だが腕が途中でぐにゃりと曲がり、自分の身体が自分のものではなくなっていく。
瞳が、赤黒く染まっていった。
視界が歪む。身体の輪郭が揺らぐ。関節がありえない方向に軋み始めた。
「あら。思い出しちゃった?」
『タリア』が首を傾げた。
その時——桃色の光が、闇の中に差し込んだ。
蝶だった。何十匹もの、淡く光る蝶が舞い込んでくる。
『タリア』の笑みが、消えた。
スレイアは見ていた。
桃色の光の向こうに、エドの姿があるはずだった。
だが——そこに立っていたのは、人の形をした「何か」だった。
黒と白の線が絡み合い、ねじれ、人型を形成している。顔はない。目も口もない。ただ、線だけで編まれた輪郭が、ゆらゆらと揺れていた。
(何……これ……)
脳に、釘を打ち込まれたような痛みが走った。
「ぐ……っ」
視界が滲む。目を開けていられない。
歪んだ人型の奥から、声が響いた。
「——蟻が。邪魔をするな」
声ではなかった。音ですらなかった。
スレイアの視界が暗転した。
◇
病室。
エドの身体から、赤黒い稲妻が噴き出した。
桃色の蝶が一瞬で消し飛ぶ。光が弾け、スレイアの背が弓なりに反った。
「スレイア——!」
セリーヌが手を伸ばした。
間に合わない。
電弧がスレイアの全身を貫いた。
バァンッ!
スレイアの身体が浮き上がり、壁を突き破った。破片が散る。廊下まで吹き飛ばされ、床を跳ね、転がった。
セリーヌが飛び出し、背後から抱き止めた。だが余波が二人を貫き、壁にめり込む。セリーヌの口元から血が溢れた。
腕の中のスレイアは、目を閉じたまま動かない。口元から赤い筋が一本、顎を伝っている。
「スレイア様! セリーヌ様!!」
ルーシーが廊下に飛び出した。
二人が壁にもたれている。セリーヌは意識がある。だが震える手で、スレイアを抱えたまま離さない。
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