第42話 封じられた記憶
目の下の身体が、溶けていた。
筋肉が煙のように薄れ、無骨な肌が白く滑らかに変わっていく。
ボロ布が紫のローブに織り変わり、剛い顔の輪郭が柔らかくなり——。
見慣れた、美しい顔が現れた。
「……っ」
エドの呼吸が止まった。
鉈を握る手が凍りついた。
タリア。
あの日から、ずっと守りたかった人。
「あ……どう、して……」
「どうしたの? 会えて嬉しくない?」
『タリア』はゆっくりと身を起こした。首の傷が、見ている間に塞がっていく。
手が伸びてきた。エドの頬に触れる。温かい。
「おいで。お姉ちゃんに、抱きつきたくない?」
「来るな……!」
エドが後ずさる。鉈を探す。ない。いつの間にか消えていた。
代わりに——手の中に、冷たい短剣があった。
考える間もなく、『タリア』の影が目の前に現れた。
短剣を握るエドの手を、両手で包み込み、持ち上げる。
鋭い切っ先が、白い喉元に押し当てられた。
「違う……離せ……!」
手を引こうとする。動かない。細い指のはずなのに——びくともしない。
「さっきまであんなに元気だったのに。どうしたの?」
顔が近づく。甘い匂いがする。
エドは目を閉じた。
——閉じた瞬間、記憶が溢れた。
暗い部屋。タリアの悲鳴。引き裂かれる布の音。
自分は床に押さえつけられている。目を逸らせない。
笑い声。タリアの声が、途切れた。
「いい反応。師匠が死んだ時より、ずっと面白い」
『タリア』の声が、遠くで笑っている。
エドの意識が白く弾けた。全身が痙攣する。呼吸ができない。
「ふぅん……ちょっと刺激が強すぎたかしら」
『タリア』が溜息をついた。手を離す。
崩れ落ちたエドを、両腕で抱きすくめた。
「よしよし。もう痛くないわ」
温かい。
柔らかい。
——ドスッ。
「あ……?」
左胸に、激痛が走った。
短剣が心臓を貫いていた。
抱きしめた腕はそのまま。笑みもそのまま。
赤黒い瞳から、色が抜けていく。
ゆっくりと。鳶色に戻っていく。
殺意が消えた。苦痛が消えた。何もかもが、遠くなっていく。
エドの身体が、『タリア』の胸の中に崩れた。
「やっぱり、このままじゃ駄目ね」
『タリア』は微笑んだまま、二本の指をエドの額に当てた。
指先から、赤黒い霧が滲み出す。少年の眉間に、ゆっくりと沈み込んでいく。
「もう一度、忘れなさい」
声は優しかった。
「全部忘れて。大丈夫。目が覚めたら——」
「何も、覚えていないから」
霧がエドを包んだ。
意識が沈んでいく。
闇。
温度がない。音もない。
ただ、どこか遠くで——声が聞こえた。
『エド! どこにいるの、エド!——』
誰かが、泣いている。
(この……声……)
(聞いたことが、ある……)
ガラガラと何かが崩れる音。瓦礫を掻き分けるような。
そして——声が、近づいた。
『よかった……無事で……っ』
柔らかな感触。
身体を包み込むように、抱きしめられている。
頬に、温かくて湿ったものが触れた。
(泣いてる……?)
(なんで……)
『ごめんね……ごめんね……お姉ちゃん、守れなくて……』
(お姉ちゃん……)
(お姉ちゃん……?)
暗闇の中に、姿が浮かんだ。
雪のように白い髪の、少女。
だが——顔が見えない。輪郭だけが滲んで、消えていく。
(誰だ……?)
(この声は……お前なのか……?)
(姉さん……?)
姿に手を伸ばす。
届かない。
(姉さん——!)
「タリア姉さんッ!!」
——闇を、突き破った。
目を開けた。
木の天井。
薬草の匂いが鼻を突く。その奥に、淡い花の香り。
身体の上に、温かい布団がかかっている。
「……ぅ」
頭が重い。こめかみを押さえる。
「夢……?」
声が掠れていた。
ギィ、と木戸が押し開かれる音がした。
「あら、起きたの?」
軽い足音。見慣れた影が、盆を持って枕元に来た。
「タリア……姉さん?」
「何? 私の顔に何かついてる?」
「いや……何でもない」
「はい、これ飲んで」
タリアが白い錠剤と水を差し出した。
「何これ」
「お薬。あなたね、ハナちゃんと川で遊ぶなって言ったでしょ。案の定、風邪ひいて」
「あ……」
エドは赤くなって目を逸らした。
「ちょっと苦いけど、飲んだらすぐ寝なさい。朝には良くなるから」
「……うん」
タリアの微笑みに促されて、錠剤を口に放り込む。
「にっが……!」
「あはは、ごめんね~」
タリアが舌をちょこんと出して、ポケットから飴を取り出した。
エドの口元に、差し出す。
心臓が、一拍跳ねた。
素直に口を開けた。
甘い。さっきの苦味が溶けていく。
「あ、そうだ!」
タリアがぽんと額を叩いた。
「看病に夢中で忘れてたわ。エド、ここでいい子にしててね。すぐ戻るから」
木戸が、静かに閉まった。
タリアの足音が遠ざかっていく。
エドは飴を転がしながら、天井を見上げた。
笑みが浮かんだ。自然に。
「タリア姉さん、やっぱ可愛いな……」
「久しぶりに見た、あの顔」
口に出してから、止まった。
(……久しぶり?)
(なんで僕、そう思ったんだ——)




