第40話 偽りの師
長剣を、地面に突き立てた。
樫の木の根元。ミューザの傍に、墓標のように。
エドは両手を合わせ、目を閉じた。
長くはない。だが、確かな沈黙だった。
(……行くよ、おっさん)
目を開ける。振り返らなかった。
足元に転がっていた鉈を二本拾い、丘を下りていく。
身体が、妙だった。
皮膚の下を微かな電流が走るような、ちりちりとした感覚。
足を止める。
『エド——!!!』
『しっかりして——!』
脳の奥に、女の声が響いた。遠い。水の底から届くような。
(……誰だ)
考える暇はなかった。
背後から——鋭い風切り音。
エドは振り向きざま、両手の鉈を交差させた。
ガギィンッ!
火花が散り、腕に痺れが走る。力が重い。足が地面を削った。
弾き返し、後方へ跳ぶ。十メートル、二十メートル。
見えた。
染みだらけの長剣を片手にだらりと下げ、穏やかに笑っている男。
エドの目が見開かれた。
さっき、あの木の下で息を引き取ったはずの——。
だが、驚きは一瞬で消えた。
歯を食いしばる音が、夜に響いた。
「この……クソ野郎が……ッ!」
鉈の切っ先を向ける。
「本物の師匠はどこだ。あの人に何をした」
「おやおや」
『ミューザ』が眉を上げた。笑みは崩れない。
「意外だな。てっきり泣いて縋るかと——」
ザシュッ!
言い終わる前に、エドが踏み込んでいた。
二刀が唸る。腰、膝、首筋。連続三撃。速い。だが荒い。
『ミューザ』は長剣一本で全てを弾いた。涼しい顔のまま、半歩退いて間合いを取る。
「おぉ、本気じゃねぇか」
エドは答えない。踏み込む。左の鉈で薙ぎ、右で突く。
弾かれる。
もう一度。突く。払う。斬り上げる。
全て捌かれる。
剣先がゆらりと揺れた。蛇のように。
エドの喉元を掠め、頬を裂き、肩に赤い線を引く。三連撃。どれも浅い。だが全て急所の際だった。
見えているのに、間に合わない。
鉈で弾く。弾く。弾く。一手ずつ遅れる。腕に、脚に、細い傷が増えていく。
「いい動きだ、小僧」
『ミューザ』が剣を止めた。わずかな間。
「だが、足元が雑だな。朧影歩を使っているつもりか? 師匠として言わせてもらうが——まだ未完成だ」
「黙れ……!」
「教えてやろうか。こうやるんだ」
『ミューザ』の輪郭が揺らいだ。
陽炎のように薄れ、消え——エドの横に現れた。
同じ歩法。だが、次元が違う。
エドは反射で鉈を振ったが、刃は残像を切り裂いただけだった。
空を切った——その瞬間、全身の毛が逆立った。
(誘い込まれた——!)
右側から、空気が悲鳴を上げた。
『ミューザ』が回転している。長剣が銀白の嵐になっている。
「よく見とけ、小僧」
幻朧剣。
師匠の奥義。一度だけ見せてもらったことがある。あの時は丘の草が円形に刈り取られた。綺麗だった。
思考が消えた。
本能だけで二刀を振った。
キキキキキキン——!
剣戟が一つの音になる。何合打ち合ったか分からない。見えていない。ただ金属が触れる感触だけを頼りに、腕を動かし続けた。
刃と刃の隙間——一瞬の空白。
エドは地面を蹴り、後方へ飛んだ。
着地。膝が震えている。
距離が開いた。『ミューザ』は追ってこない。元の位置で、長剣を下げたまま笑っている。
「はぁっ……はぁっ……」
冷汗が全身を濡らしている。
(防いだ……)
立ち上がろうとした。
ブシュッ。
「……え?」
全身が——裂けた。
腕。太腿。脇腹。背中。髪の毛ほどの細い傷が、いつの間にか刻まれていた。それが今、一斉に口を開いている。
血が噴き出す。服が赤く染まっていく。視界が白く飛び、足の感覚が消えた。
「が……っ!」
膝から崩れた。地面に手をつく。指の間から血が流れていく。立ち上がろうとして、腕が震えた。力が入らない。
「馬鹿な……防いだはずだ……っ」
「防いだのは七割だ」
『ミューザ』の声が、頭上から降ってきた。
「残りの三割は——お前の身体が覚えてるだろう?」
エドは歯を食いしばった。立ち上がろうとして、腕が震え、また崩れた。
血が、草を赤く染めていく。
「さて」
足音が近づいてくる。
「まだやるか、馬鹿弟子?」
その声は——師匠そっくりの、温かい声だった。
あの丘で、稽古をつけてくれた時と同じ声。
「いい踏み込みだ」と褒めてくれた時と、同じ。
だからこそ——吐き気がした。




