第38話 最後の授業
青い空。白い雲。——潮の匂いが、風に乗って届いてくる。
波の音が、足元まで響いていた。
セリーヌとスレイアは顔を見合わせた。
目の前には砂浜が広がり、その向こうに緑の丘陵、さらに奥には高層の建物群が海風に霞んでいる。
「ここ……アルタナスに戻ったの?」
「いえいえ」
テレサが手を振った。
「ここはアストリオン内部の居住区です。島ひとつ分くらいの広さがありまして」
「島……?」
スレイアが目を剥いた。
「モネイアラのあのイカれた女、島丸ごとこの中に突っ込んだの?」
「我々にも原理は分かりません。ただ、あの方だからこそ成し得た奇跡かと」
テレサが苦笑いを浮かべる。
セリーヌはテレサを見た。
「スフィディラン指揮官。ここに医療設備はあるか」
「シルウィード様、お怪我を?」
「私ではない。隣のこの馬鹿が」
スレイアが「えっ」と声を上げた。
テレサの目がスレイアの背中に落ち、息を呑んで一歩退いた。
「グランディ帝国に、クラウエル様を傷つけられる者がいたんですか……?」
「あー……それはその……」
スレイアが目を逸らす。
「それより」
セリーヌがテレサを引き寄せ、声を落とした。
「部隊に子供が一人いる。意識が戻らない。身体じゃなく、心のほうだと思う——精密な検査ができる設備はあるか」
テレサはルーシーの背中のエドを一瞥し、頷いた。
「医療棟なら最新の設備が揃っています。問題ないかと」
腕の端末を操作すると、銀色の流線型の車体が滑るように飛来し、二人の前で停止した。両側の扉が開く。
「ルーシー様、経路を設定しておきました。このまま乗っていただければ」
「……はい」
ルーシーはセリーヌを振り返った。セリーヌが静かに頷く。
ルーシーは小さく頭を下げ、エドを抱えて車内に乗り込んだ。
「ちょっと! あたしは!?」
スレイアの声を背に、車が音もなく加速し、視界から消えた。
テレサが再び端末を操作する。もう一台が飛んでくるのを見て、スレイアはようやく肩の力を抜いた。
車内は柔らかな光に包まれていた。
操縦桿はない。窓の外を景色が流れていく。
ルーシーはエドの頭を膝に乗せ、黒い髪をそっと撫でた。
「エド……もう少しだよ」
指先が、額から頬へと滑る。
「きっと目が覚める。今度こそ」
少し間を置いて、声が小さくなった。
「……起きた時、また私を見て怯えるかな」
返事はない。穏やかな寝息だけが、車内に響いていた。
『怖がらなくていいよ、エド……』
声が、闇の中に落ちてきた。
◇
星が見えた。
夜空いっぱいに、細かな光が散らばっている。
足の下は柔らかい草。空気は涼しく、虫の声が遠くで鳴いていた。
エドは、この場所を知っている。
村の裏山。毎日、師匠と剣を振った丘だ。
老いた樫の木の幹に、ミューザを寄りかからせた。
「じっとしてろ、師匠」
上着を脱ぎ、布を裂き、腹部の傷に巻きつけていく。手が震えて、うまく結べない。
「やめろ……エド」
ミューザの大きな手が、エドの手首を押さえた。
「もう効かねぇよ。頭がぼんやりしてきた」
「黙れ。まだ止まる」
エドは手を振り払い、布を締めた。
ミューザは抵抗しなかった。
樹に背を預けたまま、空を見上げている。月が明るい。
「……なぁ、エド」
「喋るな。血が——」
「聞けよ、馬鹿弟子」
声は弱い。だが、目だけはまだ生きていた。
「俺はな……なんでここにいるのか、よく分からねぇんだ」
エドの手が止まった。
「何か、大事なことを忘れてる気がする。思い出せそうで、思い出せねぇ。ずっと、もやがかかったみたいだ」
ミューザはゆっくりと視線をエドに戻した。
「お前は——俺の知ってるあのガキか?」
「……」
「そうか」
ミューザの口元が、少しだけ緩んだ。
「なら、いい」
咳が出た。血が唇の端を伝う。
「お前……強くなったな。俺が思ってたよりずっと」
「……」
「だが、剣が重い」
エドが顔を上げた。
「お前の剣はな、痛みで研いだ刃だ。切れ味はある。だが、振るたびにお前自身も削れてる」
ミューザの目が、まっすぐにエドを見ている。
「覚えてるか。最初に俺のところに来た時、お前なんて言った」
エドの唇が震えた。
「……姉さんを、守りたいって」
「そうだ」
ミューザが笑った。血だらけの顔で、穏やかに。
「あの時のお前の目がな、俺は好きだった」
手が持ち上がりかけて、途中で落ちた。
「最後の授業だ、馬鹿弟子」
息が浅くなっている。
「しっかり生きろ。痛みから逃げるんじゃねぇ。立ち向かう勇気を捨てるな」
「そして——忘れるなよ」
「お前の……その、優しい……心を……」
手首を掴んでいた指が、ゆっくりと開いた。
草の上に、落ちた。
「……師匠?」
返事がない。
「おい……おっさん」
月明かりが、ミューザの顔を照らしていた。
目は閉じている。口元に、かすかな笑みが残っていた。
「嘘だろ……おい……おっさん……!」
声が震える。
握った手が、もう握り返してこない。
「おっさんッ!!!」
叫びが、夜の丘に響いた。
星が、何も言わずに瞬いていた。
第二章まで読んでくださった皆様、そろそろ素直になって下の【★★★★★】を押してもいい頃合いじゃないですか?
メンタルをゴリゴリ削りながらこの物語を書き進めています。作者が生き延びるためにも、ぜひ評価や感想でエネルギーを分けてください!お待ちしております!




