第36話 鳶色の終わり
円盤は音もなく浮かんでいた。
外縁に二重の環。中心に黒紫の光核。それだけで、空気の質が変わるほどの魔力が漂っている。
核の下部から機関室の扉が開き、一人の女が姿を現した。
紫の戦闘服に全身を包み、頭部を覆うヘルメットの左側に指を触れる。装甲が液体のように溶け、褐色の髪と鋭い目元が露になった。
軽やかに跳躍し、セリーヌの前に着地する。
「初めまして、シルウィード殿」
背筋を伸ばし、拳を胸に当てた。
「スティペロス地区、第三師団指揮官——テレサ・スフィディラン。お迎えに参りました」
セリーヌが一歩、前に出た。
「スティペロスということは……あの方の指示か」
「はい。ただし、スカロディア陛下の勅令を受けての派遣です」
「陛下の文書は」
「こちらに」
テレサが腰の筒から書簡を取り出す。セリーヌが受け取り、封蝋に流れる金色の紋章を確かめた。城の意匠。間違いない。
表情がわずかに緩んだ。
「……了解した。だが、この規模の部隊を輸送するには、飛艇が必要では?」
円盤を見上げる。
テレサが微笑んだ。
「ご心配なく。隊列を整えていただければ、『アストリオン』が転送いたします」
(アストリオン——)
セリーヌの目が細くなった。
(あの女……本当に完成させたのか)
号令が落ちる。数千の兵が素早く列を組んだ。
テレサが腕を掲げ、指を走らせる。円盤の外環が回転を始め、光の線が地面に降りてきた。
兵士たちの足元に、紫の紋様が浮かぶ。
一瞬の閃光。
丘の上から、軍が消えた。
◇
光が消えた。
暗い。静かだ。さっきまでの霧ではない。もっと深い闇。
足元に、小さな炎が転がっていた。蝋燭だ。床に落ちた包丁のすぐ横で、心許なく揺れている。
(何が……起きた……?)
「このボンクラ弟子が! ボサッとしてんじゃねぇ!」
しゃがれた声。痛みを噛み殺したような響き。
エドは顔を上げた。
闇の奥から、大きな影がよろめきながら現れる。真っ直ぐな長剣を杖代わりにし、一歩ごとに血が地面に落ちていた。刃はあちこちが欠けている。
「師匠……!?」
「逃げろ、エド。こいつらは——お前の知ってる連中じゃねぇ」
ミューザが膝をついた。左腕の袖が赤黒く染まっている。
エドが駆け寄り、肩を支えた。
「どうしてこんな怪我——」
「うふふ~」
低く粘る笑い声が、霧の中から漏れてきた。
村人たちが、ゆっくりと輪を縮めてくる。
だが——もう、微笑んでいなかった。
面の皮が、文字通り裂けていた。笑顔だったはずの表面にひびが入り、その隙間から覗くのは、歪んだ口と、ぎょろりとした目。
「杭で手足を打ちつけたのにさぁ、まだ抜け出してくるんだもんなぁ」
「先に手足を切り落としときゃよかったねぇ。そしたら腹で這いずって来たかもしれないのに——イヒヒヒ!」
「想像するだけで傑作だよねぇ! アハハハハ!」
捕った獲物の料理法を楽しげに語る声。
ミューザが歯を食いしばった。
「……貴様ら……ッ」
エドは動かなかった。
村人たちの声が、別の何かと重なり始めていた。
暗闇の奥に、記憶が閃く。
——木の杭に縛りつけられた師匠。
——その前に立つ、黒い礼服の少年。
——笑いながら、剣を突き刺す。何度も。何度も。
鳶色の瞳が、ゆっくりと暗赤に染まっていった。
「逃げろ、エド! 俺がここで——」
エドがミューザの手を払った。
長剣を奪い取る。
「……エド?!」
返事はなかった。
欠けた刃を引きずり、村人たちの輪へ向かって歩き出す。剣先が地面を擦り、耳障りな金属音が闇に響いた。
「エド!!! 何をする気だッ!!」
一陣の破風音。
次の瞬間——エドの姿が消えた。
銀光が一閃。
最も近くにいた「村人」の首が飛んだ。身体が崩れ落ちるより先に、エドは次の標的に踏み込んでいる。
速い。
長剣が弧を描くたびに、悲鳴が上がり、血が舞う。
二体、三体、五体。
エドは止まらない。表情がない。ただ、暗赤の瞳だけが闇の中で灯っている。
斬る。踏み込む。返す。突く。
十秒もかからなかった。
シュッ——。
手首を返し、長剣で半円を描く。刃に纏わりついた血が、一振りで散った。
静寂が降りた。
エドは屍の間に立っていた。暗赤の瞳が、ゆっくりと周囲を巡る。
足元の一体に、目が止まった。
首を斬ったはずだ。だが、首はついている。
代わりに——胸に、焼け焦げた大穴が空いていた。
(……何だ、これは)
隣の一体。
腹が、異様に膨れ上がっている。内側から何かが破裂したかのように。
その隣。
全身に、無数の槍が突き立っていた。エドの剣ではない。
手が震え始めた。
一体ずつ、見ていく。焼死。圧死。刺殺。溺死。
どれも、エドがやったものではない。
どれも——エドの剣では、絶対にできない殺し方だった。
(俺が……斬ったはずだ)
(なのに……こいつらは……)
長剣が、カタカタと鳴っている。
握っている手が、止まらない




