第33話 聞き間違い
夜明け前の森は、まだ冷気を含んでいた。
白い息が、行軍列の間を細く漂う。
号令は短く、声は抑えられ、金具の音すら最小限に抑えられている。
グラントが青い光束を走らせ、天幕を粒子に分解して回収していく。
ルーシーはその隅で、温めた布でエドの身体を拭き、着替えさせ、背負った。
「出発だよ、エド」
列に戻る。部隊は密度を保ったまま、森の奥へ進んだ。
低い咆哮が、森の奥から響いた。
地面が鈍く揺れる。落ち葉が跳ねた。
セリーヌの手が上がる。
「停止」
囁くような声だったが、列は一拍で止まった。
全員の手が、既に武装に伸びている。
上空からジェイミーが滑り込む。
「前方は三十里だ。大型魔獣二体が交戦中。周囲の魔物がこちらへ流れてきています」
「全軍、戦闘配置。ケイン、前衛で突破路を確保。シンシア、後方支援。音響拡散は避けて」
「了解」
「承知」
返答が揃い、各隊が動き出す。
後方でスレイアが舌打ちした。
「この傷さえなけりゃ……」
だが、その手には既に杖が握られている。
魔導団の少女たちから、普段の柔らかさは消えていた。視線は鋭く、陣形は崩れない。
ルーシーは背中のエドを抱き寄せ、身体を薄い白光で包んだ。
「大丈夫……エド。お姉ちゃんが、守るから」
声はほとんど風に溶けた。
◇
『大丈夫だよ、エド……』
『お姉ちゃんが、守ってあげる――』
エドは目を開けた。
見慣れた木の天井。朝の光が差し込んでいる。
卓の上には、湯気を立てる朝食が並んでいた。パン、スープ、果物。きれいに揃えられている。
水の流れる音。陶器が触れ合う小さな響き。
顔を向けると、台所でタリアが背を向けて皿を洗っていた。
「……タリア姉さん」
声が少し掠れた。
「さっき、何か言った?」
「え?」
タリアが振り返る。濡れた手を布で拭きながら、首を傾げた。
「何も言ってないよ?」
「……そう」
(聞き間違い、か)
柔らかいパンをちぎり、口に運ぶ。ほんのり甘くて、温かい。
噛みながら、何度も窓の方へ目をやった。
カーテンが揺れている。木々が擦れる音。朝の光が、床を金色に染めていた。
暖かい。
だが——
(……静かすぎないか)
「どうしたの、エド?」
タリアが微笑んでいる。
「ただ……ちょっと静かだなって」
「静か?」
「いつもなら、もうメイおばさんが薪を割ってる音がするし、ハナちゃんたちも外で騒いでるはずだろ」
タリアは窓の外に目を向け、くすっと笑った。
「昨日、川で遊びすぎて風邪でもひいたんじゃない? 心配なら見に行ってあげなさい。私は薬の準備してから行くわ」
「……うん」
靴を履き、扉を開ける。朝の空気が頬に触れた。
振り返ると、タリアが手を振っている。
「気をつけてね」
「すぐ戻るよ」
扉を閉めた。
村の道を歩く。
砂利を踏む音が、やけに大きい。
煙突から煙は出ていない。扉も窓も閉ざされ、人の気配がなかった。
(……やっぱり、変だ)
ハナちゃんの家。村の東端にある、少し大きめの木造の家だ。
扉の前に立ち、叩く。
トン、トントン。
「ハナちゃん? いる?」
返事がない。
もう一度叩く。沈黙。
胸の奥が、すこし冷たくなった。
扉を押すと、ギィ、と簡単に開いた。
中は暗い。昼なのに、奥が見えない。
エドは息を潜めて入った。背後で扉が閉まる。小さな音。振り返るが、何もいない。
足音を殺して進む。空気が重い。
台所の前で、足が止まった。
壁の包丁立て。刃が光っている。
理由は分からない。だが、手が伸びた。
一本抜き取り、腰の後ろに差す。柄が冷たかった。
奥の部屋。扉に耳を当てる。音はない。
ゆっくりと押した。
暗い室内。ベッド。小さな身体。薄い布団が、不規則に上下している。
「ハナちゃん……?」
近づく。汗で髪が額に張りついている。顔色が悪い。
「大丈夫? 具合——」
肩に手を置き、顔を覗き込んだ。
目がなかった。
鼻も、口もない。のっぺりとした白い面が、こちらを向いている。
エドは反射的に飛び退いた。
だが、腕が伸びてきた。細いはずの腕が、鉄のような力で喉を掴む。
「ぐ……っ!」
床に押し倒される。背中が板を打つ。息が詰まった。
喉が締まる。空気が入らない。
視界の端が暗くなり始めた。
(——死ぬ)
背中に、硬い感触。
(——包丁)
最後の力で手を回した。指先が柄に触れる。掴む。引き抜く。
振り上げて——突き刺した。
「ぎゃあああ——ッ!」
悲鳴。手が緩んだ。空気が戻る。
エドは咳き込みながら、もう一度振り下ろした。
手が離れない。離したら、また掴まれる。
だから刺した。何度も。
やがて、動かなくなった。
「……はぁ……はぁ……」
肩で息をする。手が震えている。
刃先から血が滴り、板の上に小さな水溜まりを作っていた。
目を擦った。視界が滲む。
もう一度、見る。
そこに横たわっていたのは——いつものハナちゃんだった。
丸い目。色を失った瞳。半開きの口が、こちらを見ている。
「……あ」
手から包丁が落ちた。
カラン、と乾いた音がした。
それ以外、何も聞こえなかった。
エドは立ち上がり、転がるように家を飛び出した。
朝の光が眩しい。足がもつれる。
何も考えられない。ただ走った。
振り返ることは、できなかった。
【ブックマーク登録で、更新を見逃さず読めます】
少しでも「楽しめた」「ざまぁに期待」と思っていただけたら、
ページ下の【★★★★★】にして評価いただけると、泣いて喜びます!
ブックマークとあわせて、ぜひ応援よろしくお願いします!




