第29話 姉の面影
牢の壁には、無数の名前が刻まれていた。
線。
文字。
エドは壁にもたれ、それをぼんやりと眺めていた。
理解は、追いついていない。
なぜ自分が生きているのか。
なぜあの人は、あんなことをしたのか。
魔族の総帥。
敵の頂点。
なのに、自分を庇った。
勲章まで捨てて。
意味が、分からない。
(……俺が弱いからだ)
拳を握る。
(俺が弱いから、誰かが代わりに背負う)
(いつも、そうだ)
師匠も。
タリア姉さんも。
そして今度は、あの人まで。
視線が落ちる。
ベッドの下に、一本の蔦が落ちていた。
細いが、真っ直ぐ。
拾い上げる。
手に馴染む重さ。
剣の代わりには、ならない。
「……くそ」
立ち上がる。
振る。
空気を切る音。
また振る。
速くなる。
(もし、あの時——)
足が滑る。
(俺が強ければ——)
体勢が崩れる。
背中からベッドに落ちた。
息が荒い。
天井を見上げる。
月明かりが、格子の影を落としている。
その時。
視線を感じた。
誰かに、見られている。
反射的に顔を上げる。
鉄格子の向こう。
人影。
「うわぁっ!?」
思わず叫ぶ。
「きゃっ!」
向こうも同時に小さく悲鳴を上げた。
女の声だった。
エドは目を凝らす。
暗くて顔が見えない。
だが、身なりが違う。ただの兵士じゃない。
「……何だよ」
息を整えながら、吐き捨てる。
「蔦を振り回してるガキが珍しいか?」
影は、答えなかった。
代わりに——
ゆっくりと、片膝をついた。
「……は?」
「お礼を、言いに来ました」
声が震えていた。
「あなたに」
エドは眉をひそめる。
「俺に? 何の礼だよ」
「……」
「おい、やめろって。立てよ」
エドは慌てて鉄格子に近づいた。
「そんな礼をされる覚えなんか——」
「あなたは、私を知らないでしょう」
影が、静かに言った。
「でも——タリア・ケレスの名なら、覚えているはずです」
世界が、止まった。
エドの呼吸が消える。
昨日、見た背中。
白い髪。
あの名前。
「……まさか」
声が、かすれた。
影が顔を上げる。
月明かりが、その頬を照らした。
「私は、ルシフィール・ヴェスティージ」
「タリアの、姉です」
白い髪。
澄んだ瞳。
柔らかな輪郭。
エドの視界に映ったのは、タリアだった。
違う。
違うと、分かっている。
でも、顔が——
「あなたが、妹の仇を討ってくれた」
ルーシーの声が、遠くなる。
「ありがとう。本当に——」
届かない。
音が、水の底に沈んでいく。
顔が、重なる。
記憶が、溢れ出す。
あの夜。
炎。
床に押さえつけられた頬。
動かない身体。
笑っている男たち。
——ベッドの上で、泣き叫ぶタリア姉さん。
「……ぁ……」
喉から、壊れた音が漏れた。
「エド君……?」
ルーシーが怪訝そうに覗き込む。
見えない。
目の前にいるのは、ルーシーじゃない。
タリア姉さんだ。
あの夜のタリア姉さんだ。
「タリア……姉さん……」
声が裂けた。
「やめろ……やめてくれ……!」
「エド君!? どうしたの!?」
ルーシーが叫ぶ。
届かない。
世界が、あの夜に引き戻されていく。
「誰か……誰か来てくれ……!」
「姉さんを……助けて……!」
絶叫が、牢獄に響いた。
足音が駆けてくる。
「おい、何があった!」
妖狼族の兵士が飛び込んできた。
暴れるエドを見て、即座に押さえにかかる。
「落ち着け!」
腕を掴まれる。
床に押し付けられる。
その圧。
その体勢。
その角度。
——あの夜と、同じだ。
「ァァァァァァァァッ!!!」
理性が、焼き切れた。
身体の奥から、何かが爆ぜる。
兵士の体が、宙に浮いた。
壁に叩きつけられる。
「がはっ……!」
「な、何だこの力……!」
エドの手に、短剣があった。
兵士の腰から奪っていた。
ルーシーが凍りつく。
刃は、兵士に向いていない。
逆手に握られている。
刃先は——自分の頭。
「やめて!!」
考えるより先に、手が動いた。
杖を振る。
詠唱もない。
制御より先に、魔力が弾けた。
雷光。
「ぁあああああああああっ!!」
少年の身体が跳ねる。
筋肉が硬直し、短剣が落ちる。
焦げた匂い。
静寂。
エドの身体が、崩れ落ちる。
ルーシーは駆け寄った。
倒れる身体を、抱き留める。
「エド君……! エド君……!」
震える手で、頬に触れる。
エドの瞳が、薄く開いた。
焦点が合わない。
でも、ルーシーの顔を見ている。
唇が、動いた。
「……タリア……姉さん……」
そのまま、意識が落ちた。
ルーシーは、強く抱きしめた。
涙が止まらなかった。
「ごめんなさい……」
小さな身体を、壊れ物のように抱く。
夜は、何も答えなかった。
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