第22話 白髪の副官
井戸端で、老人がゆっくりと目を開けた。
混濁していた瞳に理性の光が戻るのを確認し、ルーシーは小さく息を吐いた。
下流の村々への影響は、想定よりも軽微だった。
川の流れで希釈された毒の濃度は、致死量には達していなかったのだ。
(……犯人にも、多少の良心はあったのかしら)
(本来の配合なら、この村も助からなかった)
治療は完了した。
今は、目の前の命が助かったという事実だけが重要だ。
その時。
ゴオオォォ……。
大気が鳴動した。
昼下がりだというのに、空の色が変わっていく。
青空が喰われ、不吉な緋色が天を覆い尽くす。
「うぅ……頭が……」
突然、子供たちが耳を塞いで蹲り、老人が苦悶の声を上げた。
(これは……精神干渉!?)
ルーシーは咄嗟に宙へ舞い上がった。
「総員、聞きなさい!」
拡声術を通した声が、村中に響く。
「直ちに精神障壁を展開! 心を強く持ちなさい!」
蒼月魔導師団の術者たちが、一糸乱れぬ動きで詠唱を開始する。
展開された防御結界が、精神汚染の波を弾き返した。
(これは……)
空を見上げ、ルーシーは戦慄した。
(お母様が言っていた……『月蝕』……まさか、スレイア様が?)
だが今は、現象の解析より優先すべきことがある。
「作業続行! 治療を終わらせなさい!」
夜の帳が下りる頃。
本隊の野営地に戻ると、入口で小柄な影が飛び込んできた。
「ルーたぁん!」
ドスッ。
抱きつかれた衝撃で、一歩後ろへずれる。
「やっと帰ってきた! もうダメかと思った!」
「はいはい……で、何があったの」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃのシンシアが、必死に状況を説明し始めた。
話を聞き終えたルーシーは、無言で天幕の奥へ進んだ。
豪奢なベッドで、スレイアがすやすやと眠っている。
その横の治療槽には、魔力枯渇で気絶したアリシアやガレットたちが横たわっていた。
「……なるほどね」
「みんなが死にかけてるのに、元凶のバカ団長は爆睡してるってわけ」
シンシアが重い溜息をついた。
ルーシーは静かに、腰のポーチに手を伸ばした。
取り出したのは、ずしりと重い金属の槌。
「この大バカ者! あたしたちが足棒にして働いてるってのに、何気持ちよさそうに寝てんのよ!」
「ひぃっ!? 落ち着いてルーシー!」
シンシアが慌てて羽交い締めににする。
「スレイア様、頭叩いたらもっとバカになっちゃうよ!?」
「離しなさい! 一発殴らないと気が済まない!」
「ダメだってばぁ!」
ひとしきり暴れた後、ルーシーは槌を下ろした。
「ハァ……。この寝顔見てると、毒気が抜けるわ」
その時。
天幕の入口が開き、一人の騎士が入ってきた。
「フィリス様!」
ルーシーとシンシアは反射的に直立し、敬礼する。
フィリスは苦笑して手を振った。
「楽にしてくれ。ルーシー、戻ったばかりですまないが、仕事だ」
「蒼月魔導師団にしかできない頼みがある」
「……何でしょうか」
監獄、地下深層。
隠し通路の奥で、ルーシーは胸を痛めていた。
壁から「救出」された人々。
心臓は動き、肺は呼吸していた。
だが、魂はとうの昔に砕けていた。
(……酷すぎる)
ルーシーは深く息を吐いた。
「……安らかに」
静かに祈りを捧げ、術式を編む。
柔らかな光が、壊れた人々を包み込んだ。
苦痛に歪んでいた表情が、穏やかなものへと変わっていく。
白い光の粒子となって、暗い地下から消えていく。
一人、また一人。
ルーシーは最期まで、その場を離れなかった。
廊下の角を曲がった時、凛とした後ろ姿を見つけた。
(総帥閣下? どうして監獄に……)
「総帥閣下!」
ルーシーは小走りで駆け寄った。
セリーヌが足を止める。振り返ったその顔には、隠しきれない疲労が浮かんでいた。
「……ルーシーか。戻ったのだな」
「はい。水源の浄化、完了しました」
ルーシーは僅かに視線を落とした。
「それと……壁に埋められていた方々ですが……私の判断で、送らせていただきました」
深々と頭を下げる。
救えなかった悔しさと、命を奪った罪悪感が胸を刺す。
ふわ、と。
頭に温かい手が乗せられた。
「え?」
顔を上げると、セリーヌが優しく微笑んでいた。
「詫びる必要はない。お前は正しいことをした」
「最も辛い役目を背負わせてすまない。よくやってくれた」
「いえっ!」
ルーシーは慌てて首を振った。
「私などより、総帥閣下の方が……」
言葉が止まった。
視線が、セリーヌの純白の軍服に釘付けになる。
袖口から脇腹にかけて、暗赤色の染み。
すでに乾き、黒ずんでいる。
セリーヌは視線に気づき、自分の服を見下ろした。
「あぁ……着替えるのを忘れていたな」
困ったように、淡く笑う。
「明日、審判を行う。準備を頼む」
「了解しました」
セリーヌは踵を返し、夜の闇へ消えていった。
やがて中庭から、天馬の翼音が遠ざかっていく。
ルーシーはその場に立ち尽くしていた。
(明日……ついに、審判の時が来る)
鉄格子の嵌まった窓を見上げる。
青白い月が、冷たく輝いていた。
夜風が、雪のような白髪を揺らす。
ルーシーの唇が、音もなく動いた。
「……タリア」
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