第48話 酸っぱい一切れ
「う、嘘ぉ……ッ!?」
中庭の真ん中で、エドは両耳を押さえて立ち尽くしていた。
「これっ、L.U.N.A公都ライブの……特別席のチケット、だよね!?」
第三班の少女たちが、淡い金色の小さな札を取り囲み、目を輝かせている。
「エド、これ本物!?」
「偽物じゃないよね……!?」
「こんな席、普通は手に入らないよぉ……!」
「本物だよ……。ルーシー姉さんが、昨日は皆が頑張ってくれたから、ご褒美にって」
ほんの一瞬、中庭が静まった。
次の刹那、先ほどの倍はあろうかという悲鳴が、空を突き抜ける。
「ル、ルーシー様直々に!?」
「ご褒美……ッ、私たちに!?」
「特別席って、間近でお姿が拝めるって事だよね!?」
「エド、あんた最っ高に役立つわね!」
「やっぱり第三班の男の子は違うってこと!」
「手伝った甲斐があったってもんよ!」
「ちょ……っ、息、できな……」
数人に抱き枕のように挟み込まれ、エドの手足が硬直した。
「ネ、ネフリ先輩……たすけ、て……」
ネフリは、ちらりとエドを見た。
それきり、何事もなかったように身を翻し、淡々と庭の掃除を続ける。
(……バカ)
口元が、ほんの少しだけ綻びかけたのを、きつく引き結んだ。
◇
朝食のあと、第三班は学舎へ戻った。
エドは自分の席につき、机を見下ろして、ふっと息を吐く。
「……また、教室か」
呟いた直後、始業の鐘が鳴った。
ばん、と勢いよく扉が開く。ミランダ先生が、眼鏡を押し上げながら入ってきた。
「抜き打ちテストよ。不合格者は、外を三十周」
教室全体が、凍りついた。
がたん。
後方で、椅子の倒れる音がした。
「どうしたの、エド・ウォーカー」
「な、なんでもないです」
エドは慌てて立ち上がり、倒れた自分の椅子を直した。
ほどなく、淡い青の文字で組まれた試験紙が、一人一人の机の上に魔法で浮かび上がる。
(……まずい。最近、全然復習してない)
しかも、見覚えのない単語がいくつも紛れ込んでいる。
無意識に、隣の席へ視線が滑った――瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
手首にはめられた腕輪が、カンニング防止の微かな金光を放っている。
「……」
エドは、素直に視線を戻した。
ペンが、こつん、と机を叩く。やがて深い溜息をひとつ落とし、ようやくペンを動かし始めた。
◇
昼休み。
エドは机に突っ伏していた。
(午前の三限、すべてテスト……。三科目とも落ちたら、一体何周走らされるのか……)
ぽん、と肩を叩かれた。
「ねえ、坊や。クラブ、もう決めた?」
「クラブ……?」
顔を上げると、第三班の少女たちが机を囲んでいた。
「まだ、決めてない……」
「なら、ちょうどいいわ」
レーナが腕を組む。
「うちの製菓部に来なさい」
「お菓子の……製菓部?」
「あんた、料理上手いんでしょ?」
「昨日のあれ、本っ当に凄かったよ。絶対楽しいって」
「それにねぇ」
レーナの口角が、にやりと持ち上がった。
「うちの部、ネフリもいるんだから」
少し離れた席で、ネフリの耳の先がぴくりと動く。
「レーナ」
「正規の従者の間じゃさ、男連中の何人かが、ネフリの初めての手作り菓子をずぅっと――」
背後から伸びたネフリの手が、レーナの口を物理的に塞いだ。
「余計な事は、言わなくていい」
レーナが、もごもごと抗議の声を上げる。
(……ネフリ先輩、まだ誰にも、お菓子を贈った事ないんだ)
贈り物。
その一言が、ふいに、エドの思考の奥を引っ掻いた。
街道に散らばった、いくつもの破片。
踏み砕かれた、ガーネット。
折れ曲がった、銀の翼。
「……どうしたの」
レーナを放したネフリが、少し声を落として尋ねた。
「なんでも、ない」
エドは首を振り、誤魔化すように小さく笑ってみせた。
◇
午後は、講義がなかった。
結局エドは、第三班の勢いに押し切られる形で、製菓部の部屋へ連れ込まれていた。
部室には、甘いクリームと、焼ける生地の匂いが薄く立ちこめている。
そしてネフリは、なぜか極めて自然な流れで、エドの真横の調理台に立たされていた。
(……何なの、あの子たちは)
ネフリは内心で息を吐き、手元の材料に、ことさら集中するふりをした。
隣では、エドが生地をこねている。その手つきは、確かに手慣れたものだった。
「……まだ、あの日の事を考えてるの」
エドの指が、ぴたりと止まる。
ややあって、こくり、と頷いた。
「うん」
生地を見つめたまま、言葉を続ける。
「侯爵家のお嬢様と、僕は面識すらないんだ。なのに、どうしてあそこまでするのか――やっぱり、分からなくて」
ネフリは、しばらく黙った。
「あの女がああいう真似をしたのは……今回が初めてじゃ、ないらしい」
「え?」
「龍威がガラディオン学院を出たのも――あの女絡みだって、聞いた」
「赤毛のトカゲが? ……なんで?」
「分からない。でも、皆、不思議がってる。あの家柄と実力で、見習い従者になんて、なる必要ないはずだから」
学生会長まで務めた、あの男が。
エドは、生地を見つめて考え込んだ。
あの鋭い棍術。底の知れない気導の御技。学科の試験で、毎度のように頂点を取る背中。
確かに、他の従者とは、何もかもが違う。
(どうして、セリーヌ様の城に……? しかも、エレナ絡みで?)
考え込むうちに、エドの手の動きが半拍遅れた。
「気を散らさない。ちゃんと、こねる」
「あっ、はい」
エドは慌てて、指先に意識を戻した。
それでも、出来上がった菓子はそれなりの仕上がりになった。
ふんわり焼けた生地を小さく切り分け、泡立てたクリームを乗せ、色鮮やかな果実を添える。
「ネフリ先輩、食べてみて」
差し出された一つを、ネフリはためらいなく口に含んだ。
「……」
「どう?」
「少し、酸っぱい」
「酸っぱい……?」
エドも、小皿の一片を口に運ぶ。眉を寄せ、味を確かめた。
「ネフリ先輩、もしかして……酸っぱいの、苦手?」
「うん」
エドは、残った生地に目をやった。
「分かった。じゃあ、もう一回作るね」
ネフリの手が、止まる。
「……そこまで、しなくていい」
「平気だよ」
エドはもう、道具を握り直していた。
卵を割り、また一から、生地を丁寧に混ぜ始める。
その横顔を、ネフリは静かに見ていた。
手元に落とすべき視線が、つい、何度も彼の方へと戻ってしまう。
それを、少し離れた場所から、レーナたちが見守っていた。
誰も、何も言わない。
ただ、その目には、揃って同じ言葉が浮かんでいた。
(さっさと付き合っちゃえよ、このバカ二人!)




