第46話 消えた魂
三人の聖女が語り終えても、しばらく誰も口を開かなかった。
室内には、すっかり冷めた茶の微かな香りだけが残っている。
末席の聖女が、とうとう肩を震わせた。堪えきれず、涙が膝に落ちる。
「……酷すぎます」
月怜もまた、袖の内で深く指を握り込んでいた。
セリーヌはすぐには答えない。
肘掛けに指を添えたまま、静かに目を伏せ、やがてモネイアラへ視線を向けた。
「どう見る?」
カップを置いたモネイアラの顔から、いつもの気怠い笑みが消えている。
「オフィーリアをあそこまで容易く殺せる者は、連邦にもそう多くないわ。私たち四公爵か、あなたの王騎。そのあたりね」
「でも、私たちが動くならオフィーリアは狙わない。側近を一人殺したところで、エルサファオを警戒させるだけ。割に合わないわ」
「では、秘典が目的か」
セリーヌは呟き、すぐに小さく首を振った。
「……それも違う」
頭部を破壊された遺体。盗み出された秘典。
痕跡すら残さない手際でありながら、やっている事の筋が通らない。
書が目的なら、遺体をあそこまで破損させる意味がない。殺しが目的なら、わざわざ書を持ち去る理由がない。
「サンドラが前に報告していた件と――」
月怜が顔を上げた。
だが、セリーヌは答えない。肘掛けの指が、ゆっくりと閉じられる。
何かが、近づいている。
けれどまだ、形を成してはいない。
◇
冷たい窓硝子に、セリーヌは手を添えていた。
アストサルドの展望窓。夜空の下、厚い雲海が果てまで続いている。月光は雲の裏に沈み、その奥に、巨大な建造物の輪郭だけが朧に浮かんでいた。
背後で、変装した聖女の一人が目を閉じる。
胸の前で両手を重ねると、淡い金光が指先を走った。
「ソルメロス様と連絡が取れました。聖殿ラティス外縁、第三聖環へ。通路を開いてくださるそうです」
セリーヌは振り返らず、迫ってくる雲海を見据えたまま短く頷く。
やがて、前方の雲層に金色の紋様が広がった。
機体が小さく震える。
次の瞬間、視界のすべてが金色の光に呑まれた。
◇
光が晴れると、白い列柱が遥か先まで続いていた。
回廊の外では雲の海が翻り、丸天井からは星の光が絹糸のように降り注いでいる。
「セリーヌ?」
奥から、小さな足音が近づいてきた。
「……どうして、ここに」
姿を見せたのは、子供ほどの背丈の影。
けれど、その面差しに幼さはない。静かな表情の奥に、疲労と悲しみが深く沈殿していた。
「私だけ何も知らないまま、というわけにはいかないでしょう」
セリーヌの言葉に、ソルメロスは何か言いかけ――結局、目を伏せた。
横手から、ゆるやかな足音が重なる。
「遠路、よくぞお越しくださいました」
白金の長衣に身を包み、銀髪を結い上げた老婦人が、錫杖を手に歩み寄ってきた。深い皺の奥に、若き日の気品がまだ残っている。
「ソラフィア猊下……」
セリーヌの目が、かすかに揺れた。
「孫娘の件で、公爵閣下にまでご足労いただくとは。面目もございません」
その笑みは、あまりに苦い。
月怜の表情も静かに沈む。
ソルメロスが三人の聖女へ視線を向けた。
「聖女院へ戻りなさい。戻ったことは、誰にも知られないように」
三人は無言で頭を下げ、側廊の奥へ消えていく。
その背を見送りながら、セリーヌが低く零した。
「……自分の聖女まで、隠さなければならないのね」
ソルメロスは、すぐには答えなかった。
長い沈黙の後、噛み締めるように口を開く。
「聖殿の結界は、鳴らなかったわ」
「……そう」
傍らで、ソラフィアが顔を伏せた。
「この聖殿で、あの子にあんな真似ができる者がいるなど……」
「本来は、モネイアラに伝言を託すだけのつもりだった。あなたが直々に来てくれるとは」
ソルメロスが言葉を継ぐ。
「伝言で済む話ではないでしょう」
セリーヌが短く遮った。
ソルメロスは目を伏せ、それからふと尋ねる。
「……モネイアラは?」
「あの人のことだから、もう自分で動いているわ」
ソルメロスが、わずかに苦笑した。
「遺体は?」
「祭壇に。聖女たちが交代で見守っている」
セリーヌは少しの間を置き、低く告げた。
「――『死魂還し(しこんがえし)』を試したい」
その言葉が落ちた瞬間、ソラフィアの錫杖についた聖環がかすかに鳴った。
「あの術式を用いれば……あの子の亡骸は……」
老婦人の唇が震える。
「ええ」
セリーヌは、視線を逸らさなかった。
「だからこそ、ご親族の意思を伺いたい」
ソラフィアは目を閉じた。
錫杖を握る老いた指が、ゆっくりと締まっていく。
長い沈黙。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……どうか、お願い致します」
声が震えている。
「あの子に、まだ伝えるべき言葉があるのなら。この老いた耳で、聞いてやりとうございます」
セリーヌは静かに頷いた。
ソルメロスも目を閉じる。次に開いた時、その瞳には光が戻っていた。
「やりましょう」
「月怜。現場を見てきて」
セリーヌの言葉に、月怜は無言で頷き、ソラフィアと共に白い霧の奥へ消えていく。
「祭壇へ案内するわ」
ソルメロスが手を上げると、足元から金色の光が波紋のように広がった。
光が晴れた時、二人は祭壇の前に立っていた。
白金の高柱が四方を囲み、刻まれた聖紋の上を淡い光がゆっくりと流れている。中央では、数本の聖火が音もなく燃えていた。
守衛の聖女たちが深く頭を下げる。
ソルメロスは手を上げ、それを制した。
セリーヌの視線が、祭壇の中央へ向かう。
白布が、不自然にくぼんでいた。端には、乾いた暗色の染みが滲んでいる。
セリーヌの眉が、わずかに寄った。
祭壇の傍らには、若い少女が立っている。
目元は赤く腫れ、裾を握る指は白く強張っていた。
ソルメロスの足が止まる。
静かに歩み寄り、何も言わずに少女の頭へ手を置いた。
「ソルメロス……様」
「マヤ。お母様の死の真相を、知りたいの」
マヤが、涙の滲んだ目を上げた。
「セリーヌに術式を頼んだわ。一時だけ、お母様の魂を呼び戻すためのものよ。ただし……その代わりに――遺体は残らない」
「……え?」
「魂を呼ぶために、術式が遺体を喰らうの」
「嫌っ!」
叫びが祭壇に響いた。
守衛の聖女たちが、揃って身を竦ませる。
「お母様、もうあんなお姿になっているのに……亡骸まで残らないなんて……!」
「マヤ。つらいのは分かっている。でも、真相に辿り着くには――」
「真相……?」
少女の視線が、不意に揺れた。
セリーヌへ。
「だって……その方は、魔族の方ではありませんか! お母様の事件に関わっているかもしれないのに……証拠を消しに来たんじゃないんですか……!」
「マヤ」
ソルメロスの声が冷えた。
守衛の聖女たちまでが反射的に俯く。
「セリーヌに謝りなさい」
少女の拳が震えていた。
長い間のあと、マヤはセリーヌの前へ進み出る。
「……申し訳、ありませんでした」
セリーヌは、その少女を見下ろした。
少しの沈黙の後、膝を折る。
「そう思われても、仕方ないわ」
マヤの指先が、かすかに震える。
「あなたに酷なことを頼んでいるのは分かっている。それでも、私も、魔界の者も、こんな真似はしない。それだけは信じて」
「……」
「すまない」
ソルメロスが低く呟いた。
「いいの」
セリーヌは、白布の下の遺体へ視線を戻す。
ソルメロスの目の奥には、抑え込んだ痛みが滲んでいた。
「それでも……試してほしい。あの子を、このまま無駄に死なせたくない」
セリーヌは一拍置いて、頷いた。
「分かったわ」
祭壇へ向かう。
聖女たちが、無言で道を開けた。
遺体の前で、セリーヌは目を閉じる。
その時、ふと視界の端にマヤが映った。
ソルメロスの傍らで、まだ俯いている。けれど、その肩は先ほどよりも速く上下していた。
セリーヌは視線を戻す。
指先を唇に当てた。歯が、皮膚を裂く。
血が宙に浮いた。
落ちない。意志を持つように広がり、祭壇の縁に深紅の環を描いていく。
聖火が揺れた。
聖女たちの顔から血の気が引く。ソルメロスの眉が寄った。
詠唱が紡がれる。
低く、古く、深い闇の底から這い上がるような響き。
「――令」
深紅の光が、祭壇の下から立ち昇る。
白布の端が、見えない風に揺れた。
セリーヌは指先を遺体へ向ける。
「――喚」
赤い光が、一気に広がった。
その瞬間。
セリーヌの瞳孔が、細く収縮した。
「セリーヌ?」
セリーヌは目を細め、もう一度、底知れぬ集中力で術式を探った。
「……どうしたの」
セリーヌが、ゆっくりと顔を上げる。
「――どういうことだ」
「え?」
「オフィーリアの魂が……ここにない」
祭壇から、聖火が揺らぐ音すら消えていた。




