第44話 名前を呼ぶ声
アクリスタ上空。
飛行体が、夜空を滑っていた。逆涙滴型の機体。両翼の円盤から、淡い青の光が流れている。
操縦席では、テレサが半透明の球状制御盤に指を走らせていた。その表情から、いつもの軽さが消えている。
客室。
セリーヌは宴会用のドレスを脱ぎ、白い長外套に着替えていた。隣に、月怜。
対面には、スティペロスの随行員に扮していた三名の女性。
一人が、顔を上げた。
「シルウィード公爵閣下。このような大切な宴席にご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません」
残る二人も、頭を下げる。
「構わないわ」
セリーヌは穏やかに言った。
「普通の事件なら、こんな形で持ち込まれたりしないでしょう」
視線が、横へ流れる。
モネイアラが反対側の席で脚を組み、魔導人形が運んできたステーキを静かに口へ運んでいた。目は閉じたまま。表情がない。
「あなたがわざわざ彼女たちをあんな格好で連れてきた時点で、ただ事ではないと分かるわ」
「ふん」
モネイアラが低く笑い、フォークを置いた。
「さすが連邦の護国大公ね。こんな時でもすぐ動ける。感心するわ」
セリーヌが、向かいに座る。
「ソルメロスの右腕が襲われた。痕跡がほぼない。通常の事件ではあり得ない」
モネイアラが目を開けた。翠玉の瞳。
「通信で済ませることもできたのに。なぜ自分で行くの?」
セリーヌは、窓の外を見た。アクリスタの灯火が遠ざかっていく。
「現場でなければ、見えないものがある」
それから、三名の女性へ目を戻す。
「それに……サンドラが以前報告してきた件と、関係があるかもしれない」
三人の表情が、一瞬変わった。
「あなたもそう思うのね」
モネイアラの目が、細くなる。
セリーヌは、否定しなかった。
月怜の腕輪に、短い通知が灯った。
「セリーヌ様。宴会場は、サンドラとゲイノ伯が引き継いでいます。第三次入札も予定通りです」
「任せておいて」
セリーヌが応じた瞬間、月怜は視線を感じた。
モネイアラが、こちらを見ている。その視線が――月怜の欠けた角のあたりで、止まっていた。
「……何?」
「別に。久しぶりだから。綺麗になったなと思っただけ」
「今はそういう話をする時ではありません」
「だから可愛くないって言ってるの」
モネイアラが、低く笑った。
窓の外で、アクリスタの灯りが小さくなっていく。
◇
シルウィード城、中央宴会場。
第三次鉱区入札は、サンドラとゲイノの主導で進んでいた。セリーヌ不在の動揺も、二人の見事な手際で既に収まっている。
だが、ルーシーは席に戻っても、視線が定まらなかった。
入札の投影も、周囲の会話も、頭に入ってこない。
「ルーシー」
ガレットが言った。
「行ってきなさいよ」
「セリーヌ様に何か聞かれたら、来賓へのご挨拶中って言っておくから」
アリシアが微笑む。シンシアも頷いていた。
ルーシーは少し迷い――静かに、立ち上がった。
宴会場の外縁を歩きながら、見習い侍従たちの姿を探す。レーナたちは見えた。だが、エドはいない。
その時。
銀白の髪が、視界の端を過ぎた。
ネフリだった。飲料を届けた後、立ち止まらず、静かに回廊の方へ向かっていく。
ルーシーの足が、自然とそちらへ向いた。
厨房で見た光景がよぎる。忙しく動くエドと、ネフリ。二人の視線のやり取りだけが、他の班員とは違う特別な色を帯びていた。
「あの」
ネフリが空のトレイを回収人形に渡し、振り返ったところだった。
白い髪。穏やかだが、舞台の残光がまだどこかに宿る目。
ネフリの動きが、ごく微かに止まる。
「ルーシー様」
「突然ごめんなさい。今、少しだけ時間をもらえますか?」
一瞬の沈黙。それから、小さく頷いた。
「少しだけなら」
「ありがとう。……できれば、静かな場所で」
ネフリの目が、わずかに見開かれた。だが、それ以上は聞かなかった。
◇
宴会場の側庭。
回廊を幾つか隔てた先。音楽とざわめきは、柔らかく遠のいていた。
夜風が、木の葉を揺らしている。
ネフリは石灯籠の傍に。ルーシーは、水面を見つめていた。
沈黙が、少し続いた。
「さっきの料理を」
ルーシーが、口を開いた。
「あの味は……妹にしか分からない味なの」
「妹……?」
「タリアという名前」
その名を出した声は、静かだった。
「昔、姉のもとを離れて、色々な場所を旅した子。医術を学びたい、もっと多くの人を助けたいって。ある小さな村に落ち着いて、そこで一人の男の子に出会った」
ルーシーの口元に、淡い笑みが浮かぶ。
「手紙に書いてくるの。あの子がこんなことを言った、あの子がこんなことを考えた、って。嬉しそうに」
ネフリは、黙って聞いていた。
「でも、当時の姉には、分からなかった。妹がなぜあの子をそんなに大切にするのか」
指が、わずかに握られた。
「聞こうと思った時には、もう遅かった」
風が吹いた。水面の灯りが、揺れる。
「村は戦争に呑まれた。姉が知った時には、一年が過ぎていた」
それ以上の詳細は、語らなかった。
ネフリも、求めなかった。
二人とも、その先に何があったかを知っている。
「あの子は……いろいろなものを背負わされた」
ルーシーが、静かに言った。
「多くの人は、あの子がしたことだけを見る。でも姉は知っている。あの子は、本来そういう人間じゃなかった」
沈黙が、落ちた。
「過去のことは、私には分かりません」
ネフリが、口を開いた。低い声だった。
「でも、今のあの子なら、知っています」
ルーシーが、顔を向ける。
「不器用で、自分を低く見すぎる。人を助けたいのに、迷惑をかけるのが怖くて言い出せない」
声が、少しだけ柔らかくなった。
「小手先の誤魔化しをしても、すぐ見抜かれる。叱られると黙って俯く。褒められると固まる」
「でも――怖くても、逃げない」
ネフリの目が、遠くの宴会場の灯りに向いた。
「この料理のために、頭を下げて回って、条件を交渉して、私たちまで厨房に引き込んだ」
「ひどい目に遭って、立ち上がれないくらい落ち込んで。それでも今日、竈台の前に立って、料理長に怒鳴られながら、最後まで作り上げた」
一拍。
「届けたい人の前に、届けるために」
ルーシーは、目を閉じて聞いていた。
脳裏に、像が浮かんでいる。
おぼつかない手つきで何かを運んでいる小さな背中。悪戯がバレて慌てている顔。叱られて唇を噛んでいる横顔。それでも、竈の前で必死に手を動かしている姿。
そして――。
厨房の熱気の中で、一瞬だけ見えた、あの真剣な目。
ルーシーの指が、胸元に触れた。
ゆっくりと、目を閉じた。
◇
城の裏庭。
草地に仰向けに寝転がり、エドは夜空を見上げていた。
身体は疲れ切っている。なのに、頭が休まらない。
料理長が全員に、宴会場へ行ってこいと言った。レーナたちは即座に飛び出していった。足取りが、軽かった。
エドは見送り――反対の方向へ歩いた。
『そのまま帰るの?』
背中に、料理長の声。
『……仕事は終わりました』
『聞いてるのはそれじゃないでしょう』
足が、止まった。
声は、怒っていなかった。
『あの子、来てたわよ。遠くから、ずっとあんたを見てた』
『……え?』
『あんたが忙しすぎて気づかなかっただけ。厨房の端に、立ってた』
エドの目が、揺れた。
『来てくれた人を、放っておくの?』
何も、言えなかった。
今、草の上に寝転がりながら、その言葉がまだ頭の中を回っている。
ルーシー姉さんが、来ていた。
見ていた。
なのに、声をかけなかった。
なぜだろう。
邪魔したくなかったのか。
それとも――もう、失望していたのか。
胸が、詰まった。
あの日の光景が蘇る。ガーネットの粉。折れた銀の翼。ヒールの下で砕ける音。
「……俺が、会いに行ける顔かよ」
声は、夜風に溶けた。
静寂。
エドは、顔を覆っていた腕を退けた。
星が見えた。淡い光。城の灯火に負けそうなほど、頼りない。
「……だめだ」
呟いた。
「こうしてても、何も変わらない」
袖で顔を拭い、起き上がる。
「……せめて、一回は会わないと」
宴会場の方へ、一歩踏み出した。
「エド」
背後から。
とても静かな声。
エドの全身が、止まった。
振り返る。
木の影と、灯りの境目に。
ルーシーが立っていた。
白い髪が、夜風に揺れている。
エドの口が動いた。声にならなかった。
視界が、先に滲んだ。
「ぼく……」
頭を下げた。泣き顔を隠すように。
「ルーシー……姉さん……」
声が途切れた。押し殺そうとして、できなかった。
ルーシーの表情が、微かに揺れた。
彼女は止まらなかった。
数歩で距離を詰め、エドを抱き寄せた。
エドの身体が一瞬硬くなった。
そして、崩れた。
両手がルーシーの服を掴んだ。
「ごめん……なさい……」
声が断続する。
「ごめん……俺……」
ルーシーが頭を抱え、髪を撫でた。指が、一撫で、一撫で、ゆっくり通っていく。
「大丈夫」
彼女の声も、わずかに震えていた。
「大丈夫よ」
エドは泣いていた。声を殺そうとして、殺しきれなかった。
ルーシーは抱いたまま、目を閉じた。
頬を伝うものを、拭わなかった。
「あなたは……とても頑張ったわ」
少し離れた木の陰。
ネフリが立っていた。
前に出ることはしなかった。
二人を、静かに見つめていた。
夜風が、銀の髪を揺らした。
しばらくして。
ネフリの肩の力が、ゆっくりと抜けた。
とても浅い、とても静かな笑みが、浮かんだ。
ここ数日ネットの調子が悪く、すみません!
第43話に未掲載だったパートを先ほど追記しました。
やっとエドとルーシーが会えましたね。本当によかったです……。




