第42話 届けたい味
宴会場、中央席。
エレナは、料理に手をつけていなかった。
周囲の席では、低い声で会話が交わされている。
「黄身を割ると、印象がまるで変わるな」
「前の二品より、こちらの方が記憶に残るかもしれない」
聞こえないふりをした。
だが、隣ではゲイノが「いいな、これ」と笑いながら黄身を割り、サンドラまで「素朴なのに、雑じゃない」と目を細めている。
(……何がそんなに美味しいのよ)
こんな料理を作ったのが誰なのか、自分は知っている。
なのに、会場中が認めている。父も、母も。
皿の上では、半熟卵がまだ微かに湯気を立てていた。
エレナは、目を逸らした。
しばらくして、侍従が皿を下げに来る。
「待って」
エレナが呼び止めた。
「これ、もう冷めてしまったわ。温かいものに替えてもらえる?」
「かしこまりました。確認して参ります」
侍従が微笑み、皿を下げていく。
テーブルの下で、エレナの指先が強く握り締められていた。
自分でも、気づかぬうちに。
◇
宴会棟の厨房。
最後の一皿が、送り出された。
第三班の全員が、ほぼ同時に深く息を吐く。
「……終わった……」
レーナが調理台に手をつき、突っ伏しかけた。横では一人が膝から崩れかけ、ネフリに腕を掴まれている。
「まだ厨房よ。座らないで」
「足の感覚がないんです……」
班員の一人が泣き言を漏らし、周囲から小さな笑いが起きた。
エドは、竈台の前に立っていた。額に汗。空になった鍋を見下ろし、長く息を吐く。
「……できた」
小さな声だった。だが、レーナには届いていた。
肩を、ぽんと叩かれる。
「まぁまぁね。少なくとも全員道連れにはならなかったわ」
「あなた、さっき誰より真剣だったくせに」
ネフリのジト目に、レーナは悪びれずに即答する。
「あれは自分の将来のためよ」
また、笑い声が起きた。
料理長は、少し離れた場所に立っていた。
何も言わない。
ただ、口元がごく僅かに緩んでいた。
その時。
侍従が一人、料理を載せたまま戻ってきた。
「どうしたの」
「中央席のエレナ様から……こちらが冷めてしまったので、温かいものに替えてほしいとのことです」
料理長は、皿を見た。
半熟卵は沈み、ソースは温度を失っている。ほとんど、手がつけられていなかった。
二秒、黙った。
「捨てなさい」
侍従が、固まった。
「ですが――」
「二度言わせないで」
侍従の口が、閉じた。
料理長は布巾で手を拭うと、静かに続けた。
「伝えなさい。この料理はもう出せない。他の主菜で対応できるか確認して。それと――」
料理長の顔に、一瞬だけ冷笑がよぎる。
「一番美味しい時に食べなかったものを、冷めてから温め直せだと? 温かいものが食べたいなら、サンドラに家で作ってもらいなさい」
「……かしこまりました」
侍従は肩を硬くしたまま、退がっていった。
エドは少し離れた場所で、その一部始終を見ていた。
表情は、動かない。
ただ視線だけが、料理長の背中を追っていた。
◇
「申し訳ございません。あちらの料理はすべて終了しており、新たにお出しすることができません」
戻ってきた侍従の言葉に、エレナの眉が寄った。
「他の主菜でしたら、厨房の状況を確認いたしますが」
「結構よ」
答えたのは、サンドラだった。侍従に軽く頷く。
「ありがとう」
一礼し、侍従が去る。
エレナは、母を見た。
「お母様」
「不満なら、自分で厨房へ直接言いに行きなさい」
サンドラは杯を傾けた。
「ただし、泣かされても知らないわよ」
エレナの顔が、微かに強張る。
サンドラは、笑っただけだった。
ゲイノが杯を置き、上座へ目をやった。
「おかしいな」
「どうしたの?」
「そろそろ第三次鉱区入札の時間だが……セリーヌ様の姿が、まだ見えないな」
サンドラも主賓席を見た。侍従が席を整えている。だが――主の姿が、ない。
ゲイノが、声を落とす。
「あの料理長が、こういう宴席であの料理を通したというのも、少し気になるな」
「だから面白いのよ」
サンドラが軽く笑った、その時。
腕輪が、蒼く光った。
目を落とす。表情が、わずかに変わった。
端末を取り出し、通信に出る。投影は開かない。声だけを、耳に流し込む。
何も言わなかった。ただ、聞いていた。
数秒後――目の奥が、沈んだ。
「……了解」
通信が切れる。
ゲイノが、見ていた。
「今夜の最終工程、私たちで引き受けるわ」
驚きはなかった。ナプキンを置き、ゲイノが静かに立ち上がる。
「大きい話か」
「ええ」
サンドラも、立った。
エレナは、二人を見上げた。
さっきまで、家族として話していた二人。
立ち上がった瞬間――空気が、変わっていた。
サンドラの笑みが消え、目が鋭くなる。ゲイノは穏やかなまま、薬指の指輪を親指で撫でていた。
エレナは口を開きかけて、止めた。
「……行ってらして。お父様、お母様」
サンドラが一瞬だけ娘を見て、笑みを戻す。
「すぐ戻るわ」
ゲイノが、軽く笑った。
二人が中央の壇上へ向かう。近づくにつれ、周囲の会話が少しずつ収まっていく。
サンドラが場を抑え、ゲイノが規則の説明を引き取った。一つの目配せ。一つの間。二人の間に、確認の言葉は要らない。
張り詰めていた会場が、彼らの呼吸に乗って、静かに落ち着いていった。
エレナは、席から見ていた。
父も、母も――こういう場では、眩しいほどだった。
(いつか、私も――)
視線が、主賓席へ流れる。
淡い青の目に、闘志が灯っていた。
だが、その下に。
(セリーヌ様が、なぜこのタイミングで席を外したの……?)
テーブルの下で、指先がまた握り締められた。
料理のことで燻っていた苛立ちは、いつの間にか、別の感覚に押し出されている。
名前のつかない不安が――胸の底に、沈んでいた。
◇
アクリスタ上空。
飛行体が、夜空を滑っていた。逆涙滴型の機体。両翼の円盤から、淡い青の光が流れている。
操縦席では、テレサが半透明の球状制御盤に指を走らせていた。その表情から、いつもの軽さが消えている。
客室。
セリーヌは宴会用のドレスを脱ぎ、白い長外套に着替えていた。隣に、月怜。
対面には、スティペロスの随行員に扮していた三名の女性。
一人が、顔を上げた。
「シルウィード公爵閣下。このような大切な宴席にご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません」
残る二人も、頭を下げる。
「構わないわ」
セリーヌは穏やかに言った。
「普通の事件なら、こんな形で持ち込まれたりしないでしょう」
視線が、横へ流れる。
モネイアラが反対側の席で脚を組み、魔導人形が運んできたステーキを静かに口へ運んでいた。目は閉じたまま。表情がない。
「あなたがわざわざ彼女たちをあんな格好で連れてきた時点で、ただ事ではないと分かるわ」
「ふん」
モネイアラが低く笑い、フォークを置いた。
「さすが連邦の護国大公ね。こんな時でもすぐ動ける。感心するわ」
セリーヌが、向かいに座る。
「ソルメロスの右腕が襲われた。痕跡がほぼない。通常の事件ではあり得ない」
モネイアラが目を開けた。翠玉の瞳。
「通信で済ませることもできたのに。なぜ自分で行くの?」
セリーヌは、窓の外を見た。アクリスタの灯火が遠ざかっていく。
「現場でなければ、見えないものがある」
それから、三名の女性へ目を戻す。
「それに……サンドラが以前報告してきた件と、関係があるかもしれない」
三人の表情が、一瞬変わった。
「あなたもそう思うのね」
モネイアラの目が、細くなる。
セリーヌは、否定しなかった。
月怜の腕輪に、短い通知が灯った。
「セリーヌ様。宴会場は、サンドラとゲイノ伯が引き継いでいます。第三次入札も予定通りです」
「任せておいて」
セリーヌが応じた瞬間、月怜は視線を感じた。
モネイアラが、こちらを見ている。その視線が――月怜の欠けた角のあたりで、止まっていた。
「……何?」
「別に。久しぶりだから。綺麗になったなと思っただけ」
「今はそういう話をする時ではありません」
「だから可愛くないって言ってるの」
モネイアラが、低く笑った。
窓の外で、アクリスタの灯りが小さくなっていく。




