エピローグ/復楽園《ふくらくえん》
……自分が新たな神となり、もうじき一年が経とうとしている。
ルシフェルは青いケシの花園を歩みつつ、ひとつきりそっと息を吐いた。永遠の幸福に包まれながら、いまだに昔を思い出すことがある。
今は皆、自分のことを慕ってくれる。
生まれながらの天使たちも、人間から転生をとげた天使たちも。
『魔王として生きて、みずから最大の苦しみを味わった方』と。
『それ故に、誰よりも慈愛に満ちた方』と。
本当に、新しいこの世界に必要なのは、そのような愛の神だった。
(……けれど、何となく違う気がする)
自分には、新たな神としてまだ何かが足りないような……どうしてかそんな気がしてしまう。
そうしてラファエルをはじめ、『笑い方の変わってしまった』旧くからの天使もいて……。こちらを見つめる微笑みに、涙なしに泣き出すような、痛みと哀しさも混じっていて。それが何故なのか、自分にはまるで分からなくて。
青いケシの花を見つめて、もうひとつ固く息を吐く。考えても考えても、向けられる淋しい笑顔の理由が分からない……、
「にーいさんっ! え、何なに? 何そんな難しい顔してんのさ?」
いきなり目の前に降り立って、ミカエルが満面の笑みで問いかける。その勢いに気おされて、こちらも気弱に微笑んだ。
「……いや、見回り……」
「えーぇ? そんなん他の天使に頼みゃあ良いのに! ユダが言ってたよ、『ルシフェルはどこに行ったのかなあ』って! へへへ、ラブラブだねえ!」
「…………ユダは、今何をしている?」
「新しい産着仕立ててる! イエスも手伝ってあげてるよ。でもユダめっちゃ不器用だから、さっきから何べんも指を針で刺しちゃって……」
「えぇ!? 大変だ、すぐ様子を見に行かないと! ああ、でもまだ見回りが……っ!」
思いきり噴き出したミカエルが、愛妻家の兄の肩をばんばん叩く。
「大丈夫、ぼくが代わりにやっとくって! だから早いとこ行ってあげ……」
言いかけたミカエルが、ふいに大きく首をかしげた。あまりにも今さらに浮かんだ疑問を、くちびるをとがらして問いかける。
「……ねえ、でもさ、こういうのって『近親相姦』? って言うんじゃないの?」
「天界に生きるわたしたちに、そういう禁忌はないだろう。そもそも『血がつながっている』訳でもないし、『遺伝子上の問題』とやらもありえない」
ルシフェルがすごくまじめに答えを返す。微妙な表情の弟に、思わず言ってやりたくなる。
(そもそもお前、わたしの堕天前にあれほど『兄さんと恋仲になりたい』と……)そう言いかけて、それはずいぶん昔の話、と今の話題をふってみる。
「というか、ミカエル? お前とイエスだってそういう……」
「あぁあ! そういや兄さん『妖精』のうわさ知ってるかい!? ほら、このごろ天界に綺麗なちっちゃい生き物が現れたって話!」
あからさまに話題を変えられ、苦笑しながら首をふる。どうもミカエルはイエスとの関係を話の種にされるのが、いまだにくすぐったいらしい。
「聞いた覚えがないな、『妖精』とはいったい何だ?」
「えー、何かね、昔はいなかった生き物がふよふよ飛んでるんだって。姿はまんま妖精みたいなんだけど、一年前にいなくなった堕天使たちに、なんか顔立ちが似てるって……」
ルシフェルがふっと黙り込む。兄の反応に気づかぬままに、ミカエルが軽く言葉を重ねてゆく。
「ぼくも昨日、ここらで初めて見たんだけどさ。そのうちの一匹は、ベリアルそっくりだったなあ」
「……あの名を呼ぶのは止めてくれ。あいつは酷い奴だった。名を聞くだけで虫酸が走る」
切り捨てるような兄の言葉に、ミカエルが金の目を見開いた。
……ミカエルは、ベリアルにまつわる悲惨な出来事を、ほとんど知らない。何も伝えていないからだ。ユダのあのことも『流産』だとしか言っていない。
嫌だった。
今永遠の幸福の中で、その名を再び耳にするのはおぞ気の立つほど嫌だった。
ミカエルが、不思議そうに二三度金の目をまたたく。それからふうっと、ほろ苦い微笑をほおに浮かべた。
「ひどい名前だよね、『ベリアル』って」
「……え?」
「ねえ、ひどい名だと思わない? だって『無価値』って意味なんだから……」
ルシフェルは黙ってまばたいた。弟が何が言いたいのか分からない。ミカエルはどこかやるせない微笑を浮かべて、肩をすくめて言葉を重ねる。
「……ベリアルはね、自分の名前、ものすごく嫌いだったんだって。いつかあいつは言ってたよ、『僕はこの名前の通り、何ひとつ価値のない、意味のない存在なんだろうか。誰かに名を呼ばれるたびに、そう考えてしまうんです』って……」
弟の言葉がすうっと胸に突き通る。
知らなかった。あれほどまでに憎んでいた相手のことを――わたしは何ひとつ、知らなかった。思わず胸を押さえると、心の内にベリアルの面影が浮かぶ。
彼は記憶に染みついた、醜い笑顔はしていなかった。淋しそうに微笑しながら、こちらをじっと見つめていた。
「皆がみんな、堕ちるにはいろんな理由があったんだ。……きっと」
いつになく神妙な顔でそう言って、ミカエルが急にやんちゃに笑ってみせる。
「ねえ、それよりさ、早くユダのとこ行ってやりなよ! いくら新しい神様だからって、おなかのおっきい奥さんをほったらかしたらいかんでしょー? ねえ『お父さん』!」
「……お前だって、『お父さん』だろ?」
「…………は?」
あたたかい声で返されて、ミカエルがぽかんと大きく口を開けた。その顔がぽうっと赤くなり、どんどん崩れてにやけてくる。
「…………は? え? いやいや、冗談だよね? やだよ兄さん、ひとのこと変に嬉しがらせてさ……」
「冗談どころか……昨日イエスが言ってたぞ。お前との赤ちゃ、」
「ええーちょっともうっ! 何でそんな大事なこと、ぼくより先に兄さんに言っちゃってんのかなーっ! イエスーっ! おめでとーっ! ありがとうーーっっ!」
六枚の羽をばあっと広げ、ミカエルがすごい勢いで飛び去った。飛びながらも何やかんや騒いでいて、ルシフェルは思わず苦笑する。その苦笑が、少しずつほおから抜けてゆく。
真顔になったルシフェルが、ゆっくり、静かにうつむいた。
「……ベリアル……」
さっきまでとは違った思いで、その名を口にする。
『害されたのだ』と、思っていた。
ユダばかり、わたしばかりが、あまりに酷い目に遭わされたのだと。
それでも――ベリアル。
お前は、本当は、わたしの思っていたよりずっと。
いや、お前だけではない。きっと他の全ての堕天使たちも、それぞれに色々な、淋しい切ない想いを抱えて。
「……そのお前たちを、わたしはずっと『悪しき者ども』と頭から決めつけ、蔑んで……」
胸が痛い。
自分に足りなかったのはそれなのだと、今さらになって気がついた。
穢れきったと、思っていた。最後の審判のまぎわに、堕天使たちの全てに真っ黒な殺意を抱いて。その後に清い心へ立ち返って。
それで良いのだと思っていた。いや、実際にそこで『神になる条件』は満たされたのだろう。けれど、自分は、本当は。
「……何も分かっていなかった……」
地獄の堕天使たちの中で、自分ひとりが正しいと。その思いこみに芯まで溺れ、理解しようともせずに、馬鹿にし続け、蔑み続けて。
――どれほど、彼らを傷つけたのか。
ああ、そうか。
そもそも、全てわたしを神とするための、芝居だったというのなら……、
「……あの堕天使たちも……芝居のために仕立てられ、知らずに『悪役』を演じていて……!」
そうして、名ばかりの『愛の神』のわたしのために……彼らは最期まで『悪役』のまま、魂までも消え失せて……!
痛くて熱い胸が痛い、声も出せない、涙も出ない……かがみ込む神の首すじに、ふっと何かが口づける。
(…………ユダ?)
そう思ってふり返ると、いつかルシフェルの周りには小さな光が群れていた。ぼんやりと灯る昼間のあかり、虫の羽のある小さな姿。
――妖精だ。皆がみんな、見覚えのある顔をしている。そうして、目の前のとびきり美しい妖精が……ベリアルそっくりの妖精が、幸せそうに笑ってみせた。その笑みは何だかあまりにあどけなく、あまりにも素直に美しく……。
「……そうか。そうか……お前たちは、妖精に転生したのだな……!」
『魂までも失せるが良い』との神の言葉も、あれもまた芝居だったのだ。
彼らもまた、救われたのだ。
それぞれの哀しみで歪んでしまった魂は、こういう形で報われたのだ。
「……ごめん。ごめんよ……」
――ありがとう。
心の底から湧き出た言葉に、妖精たちがさわさわ笑う。甘い赦しの舞のように、ひらひら神の周りを飛んで、やがてどこへともなく飛び去った。
胸の痛みが小さくなって、でもまだ消えずに残っている。これは自分への罰だ、きちんと受けて償おう……。
ルシフェルは彼らの後ろ姿を見送って、ずっと少しだけ鼻をすする。そのとたんすぐ後ろで声がした。
「――何だ、ルシフェル泣いておるのか?」
ぎくりとして振り返ると、先代の神がこちらを見上げて笑っていた。
「こんなところで何をしておる、身重のユダをほうっておいて?」
(ミカエルとおんなじこと言うんだな)
内心でぽつりつぶやいて、ルシフェルが神に笑いかける。
「いや、見回り……」
言いかけておいて、思い直して言葉を変えた。
「……散歩です」
「散歩とな? そんなことしとらんと、早くユダのところへ帰ってやれば良かろうに!」
神が新婚の息子をからかって、からからと嬉しそうに笑う。……今や全ての秘密を捨てて、目の前のサルシェンは乙女の姿の子どものようだ。その笑顔を見ている内に、ルシフェルはふっと前からの考えを口にする。
「母様……あなた様はそろそろ『ふたり身』になるおつもりは?」
「……っふ、ふたりみ……っ!」
サルシェンが華奢な肩を跳ね上げて、白いほおに血をのぼせる。くちびるをつんととがらして、すねたそぶりで腕を組む。
「……わらわには夫など創れない。お前もちゃんと知っておろう」
ほおを赤くしてつぶやく顔が、やっぱりしみじみ淋しそうで。
(……母様、『神と結ばれるのは神』という法などありません。現にわたしとユダだって……)
言おうとして、何やかんやと理由をつけてごまかされそうで、ルシフェルはそっと口をつぐむ。
母様。あなたが『神は神としか結ばれぬもの』と、ご自分を縛っておいでなら。わたしとユダとの紡ぐ命が、神のわたしの力を継いで、神に等しい者ならば。
「……母様、生まれてくるわたしの子は、きっとあなたを好きになります。ユダももちろん、あなたのことが大好きですよ」
遠回しな言い方に、母神はきょとんとした顔をする。それからさあっと、おやつを落とした童女のような、くしゃくしゃの泣きべその顔になる。……言葉の裏側の『皮肉』を考えてしまったらしい。
『あんな目に遭わされたユダが、お前を好きなはずないだろう』――。
自分が内心でそう呪っているとでも、勘違いしてしまったのか。幼女を思わせる笑顔の裏で、サルシェンはまだ色々のことを深く悔やんでいるらしい。
「……そんな意味で言ったのではありませんよ、母様」
柔く微笑してささやいて、母神のほおへ口づける。そっと目を拭ったサルシェンが、あまりにも分かりやすく話題を変える。
「……ああ、そうだルシフェル! さっきミカエルがここに来てはいなんだか? 何だかわあわあ騒ぎながら飛んでったやつ、あれはミカエルだったような……」
「あ、それ絶対にミカエルですね。ついさっき『おめでた』のこと、口にしちゃったものですから……」
「おめでた? い、イエスがか!? そうか、イエスとミカエルの……っ!」
サルシェンがぱっと弾けるような笑顔になって、わくわく両の手を握りしめる。
「――そうか、それでミカエルはあんなにおかしゅうなっていたのか! ようし、それならばあいつらを存分にからかいに……いやいや、お祝いを言いにいってやろうぞっ!」
初代の神は十二枚の翼を広げ、ミカエルのもとへ飛び去った。
花園にひとり残されて、ひとつため息がのどをこぼれる。ため息のゆくえを追うように、花の咲く地面に目を落とす。
……花咲く地面の底の底には『幸せの裏側』がひそんでいる。いまだ地獄にいる『悪役』たちは、永遠に舞台を出られずに、苦痛の海で溺れている。
「……救うことが、出来るだろうか」
(いつか、全ての魂を)
胸の内でつぶやいて、右の手でそっとこぶしを握る。その目の前がふうっとかすんで、不浄な霧が現れた。霧はふらふらと震え、歪み、懸命に何かの形をとろうとする。
堕天前、あれほど憎んでいた『不浄なもの』。
その霧に、ルシフェルはそっと手を伸ばす。大きな手のひらで、霧に触れ――優しいしぐさで、撫ぜてやる。
殺す気などない。ただ、ただ、触れて、撫ぜてみたかった。
霧は戸惑ったように揺らめいて、やがて自然に、満ちたりたように消えてゆく。ルシフェルの目に、そのさまは少し悲しく見えた。
今は全てが美しく目に映る。
綺麗なものも、穢いものも。
善なるものも、不浄なものも……。
ああ、これきり見回りはやめにしよう。
ユダのところへ、皆のところへ、すぐに帰ろう。
ルシフェルは内心でつぶやいて、青い花を一輪つみとる。花を手に十二枚の翼を広げ、大空へ白く飛び立った。
……妖精になったベリアルが、夢見るように微笑みながら、新たな神の天翔けるのを眺めていた。
そのいちご色のつぶらな瞳が、だんだん、潤んでにじんできた。……




