妖精みたいな
その日、新しい女型の天使が生まれた。
柔らかい薄桃色の巻き毛に、綺麗ないちご色の瞳。およそ今まで創られた天使の内で、一番と言っても良いほど美しい。
……その天使が天使長ミカエルに連れられて、初めて神様に謁見した。
「ルシフェル様、お初にお目にかかります」
深くおじぎをした後に、顔を上げてあいさつする。黄金色の髪の神様は、ふっとかすかな笑みを浮かべた。
「天界にようこそ、生まれたての新たな天使よ。祝福をもって、お前にふさわしい名をつけよう。お前の名は……」
「ベリアル」
天使の口からいきなり言葉がこぼれ出る。そのひと言に神もミカエルも、ひどく驚いた顔をした。
「……ベリアル、ですよね?」
不思議そうに首をかしげる美天使に、ルシフェルがくちびるを噛みしめる。ふいにあきらめたように微笑み、黙ったままでうなずいた。
「……お前がその名を望むなら、それで良い」
『ベリアル』は白鳥のように優雅なしぐさで頭を下げる。……彼女が部屋を去った後、ミカエルが扉の方を見つめながらつぶやいた。
「……あいつ、覚えてるのかな。昔のこと」
「いや……おそらく覚えてはいないだろう。だとしたら表情が柔らかすぎる」
ミカエルが兄の方へと目を向けて、小さな疑問を口にする。
「だったら、どうして『ベリアル』って」
「……深く刻まれているんだろう。自分でも気づかないくらい、記憶の深いふかいところに、傷が残っているんだろう」
ベリアル。
天界の言葉で『無価値なもの』という意味だ。
遠い昔、ベリアルという男型の天使が堕天した。堕天使として永く生き『最後の審判』で裁かれて……小さな妖精に転生した。
そうして今、美しい天使が生まれでて、自身に同じ名をつけた。
「……あいつは、やっぱり『ベリアル』なのか」
ミカエルが静かにうつむいて、ぽつりと小さく言葉をこぼす。
「二度も転生したっていうのに。男型から女型に変わっても、心の傷は癒えないのか……」
ミカエルの双子の兄のルシフェルが、黙って小さく鼻をすする。
昔『魔王』を演じていた神様は、両の手を祈る形に組み合わせた。万物が祈りを捧げる対象は、もう自分しかいないというのに。
* * *
ろうそくの揺れる光に照らされて、ベリアルはラファエルの部屋にいた。
ベリアルは日の落ちる時間になると、このごろいつも彼を訪ねる。ラファエルのそばにいると、不思議と心が安らぐのだ。
ラファエルはオレンジ色の短髪に、切れ長のすみれ色の目を持っていた。古参の天使で、位もひどく上級なのに、こんな自分ととても親しくしてくれた。
ラファエルの男らしい、逞しい顔立ちには、どこか淡い陰がある。
彼と仲の良い女天使が、ベリアルにこう教えてくれた。
「ラファエルは、ずっと昔は、少年みたいにからからよく笑うひとだった」
「それが『天使たちの堕天』っていう事件の後、めったに笑わなくなったのよ」
「……それでも、このごろは少しずつ昔みたいに、微笑うようになってきたんだ」
そう言って古参の天使は、ベリアルを見て少しどこかが痛いみたいに微笑んだ。
分からない。ラファエルの変化も、彼の友人の痛んだ笑顔も、理由が全く分からない。分からないけど、陰のある彼のことが、何だかひどく愛おしい。
――愛おしいから、ふたりきりの部屋の中、彼の目を見つめて口にする。
「ラファエル様……」
「ふたりきりの時は、呼び捨ててくれてかまわない。いつも言っているだろう?」
「……じゃあ、ラファエル」
おずおずと口にしてみたら、何だかひどくなつかしそうな目で見られた。なつかしそうで、悲しい目だった。見つめられるこちらの方まで、切なくなってしまうような。
……その目のままで微笑んで、ラファエルがベリアルの巻き毛に優しく触れる。
「ベリアル」
甘い声音で名を呼ばれ、思わず体をこわばらせる。
「……自分の名が、好きではないのか」
確かめるように訊ねられ、黙ったままでうなずいた。ラファエルがくしゃり苦笑して、軽く頭を撫ぜてくれる。
「……馬鹿なやつ。ならば何故、その名をみずから望んだのだ」
「分からないけど、ずっと昔……生まれる前のずっと昔に、その名で呼ばれていた気がして……」
『無価値なもの』。
……もしこの感覚が、思い違いでないとして。生まれる前の昔の自分は、どんな風に生きていたのか。名前の通り、誰にも望まれない生を、独りで生きていたのだろうか。
「フェリアル」
急にラファエルがつぶやいた。
フェリアル。天界の言葉で『妖精』という意味だ。部屋の中に妖精が迷い込んできたのかしらと、ベリアルは後ろをふり向いた。
(……だれもいない……)
首をかしげてふり返る。ラファエルがじっとこちらを見つめている。深いすみれ色の目に、こちらの姿が映っている。
「――フェリアル。私が決めた、お前の名だ」
耳からまるでいっぱいに、体じゅうに花が咲いていくみたい。
(フェリアル)
ベリアルと似てまるきり違う、丸くて甘く柔い響き……。
熱があがって言葉にならず、しゃべったら涙があふれ出しそうで。くしゃくしゃの笑みを浮かべるのが精いっぱいで、そのうえラファエルが言ってくれる。
「……もし気に入ってくれたなら、神様に改名を願い出たらいい」
深くふかくうなずくはずみに、目からしずくがこぼれ出る。
ずっとずっと逢えなかった運命のひとにするみたい、あまりに熱っぽく抱きしめられて……火のついたような耳たぶに、潤んだ声でささやかれて。
「おかえり、私の愛しいひと。……初めまして、フェリアル……」
どうしてそんな言葉が出たのか。『おかえり』の意味は、分からない。分からないままに、応えてみる。
「……ただいま、ラファエル……」
口にしたとたん、涙があふれた。小雨混じりだった両目が滝のように涙を流す。
どうしてこんなに涙が出るのか分からない。
なんでこんなに嬉しいのかも、分からない。
(――愛されていた)
きっと生まれるずっと前から、このひとにちゃんと愛されていた。
そのことに、昔の自分が、気づこうとしていなかっただけなんだ……。
どうしてかそう考えて、考えたらもっともっと涙があふれて。馬鹿みたいに泣きながら、厚い胸板にすがりつく。なだめるように背を撫ぜる、ラファエルの大きな手のひらが、切ないくらいあったかくて。
(やっと、幸せになれたね。フェリアル……)
自分の中にひそむ誰かがそう言った。
ほんの少しだけ低音の、でもまぎれもない自分の声で、優しく祝福してくれた。




