これから始まる
『もうじき消え去る運命なのだ』と……初代の神はしみじみ想う。
堕天使たちも少しずつ、天使へと転生し始めた。それぞれにさまざまなきっかけで前世を思い出し、季節が巡り花のつぼみがほころぶように、新しく生き直そうとしているらしい。
ベリアルも過去を想い出すなり、ユダのもとへと駆けつけて……すそにすがって涙しつつ、「おわびに何でもいたします」と心底から願う彼女に、ユダは微笑ってこう告げた。
「じゃあ、おれの妹になって」……そうしてベリアルは過去を赦され、フェリアルとしてユダと仲良く過ごしている。気おくれしたような美天使の笑みも、このごろはだいぶ緩んできたらしい。
ルシフェルも甘く苦笑しつつ、そのことを自然に受け入れて……最近はよく家族ぐるみ一緒に出かけ、天界の花園を皆で眺めて、イエスのこさえたアップルパイをつまんでお茶しているという。
善いことだ。自分の創った者たちは、もうわらわなしで生きていける。わらわはもう、いらないものだ。
そう想いながら、サルシェンは静かにお茶を飲む。
目の前には、ルシフェルとユダの幼い息子の姿がある。ミヒャエルと名づけられた、カフェオレ色の肌の天使は、手作りのおやつをぽりぽり食べている。
「……美味いか? ミヒャエル」
「うん! サルシェンはお料理上手だね!」
満開の笑みでそう言われ、体じゅうがおかしいくらい熱を持つ。初代の神は理由も分からず、ほんのりとほおを染めてうつむいた。
関係としては、ミヒャエルは『孫』にあたるのだが……幼い天使は、どうしてもサルシェンを「おばあちゃん」と呼ぼうとしなかった。
「そんなの変だよ、こんな綺麗なお姉さんを『おばあちゃん』って呼ぶなんて! あなたはサルシェンって名なんでしょ? 何て言ったってそう呼ぶからね!」
黄金の短髪をせわしくかき上げ、いっそちょっぴり怒ったように、ミヒャエルはそう宣言した。
……正直、そう呼んでほしくない。そう呼ばれると、なぜだか知らん、しんしん胸が痛むのだ。甘く疼くような痛み。今まで味わったことのない、不思議な痛み。
今、ひそかな胸の痛みを抱えて見つめるミヒャエルは、嬉しげにぽりぽりおやつをついばんでいる。天界の花の蜜を絡めてこさえた、くるみのおやつ。
昔はルシフェルやミカエル、イエスもこの菓子が好きだった……。子どもたちの幼いころを思い出し、サルシェンのほおに微笑が浮かぶ。
――いろいろあった。本当にいろいろ。
『不万能の神』だった己のあやまちゆえ、あらゆる悲劇が沸き起こり……ようやく幸福が訪れた今もなお、一部の魂たちは地獄で罰を受けている。
『悪役を演じていた』にすぎない彼らを、いつかは必ず救いあげよう……新たな神となったルシフェルたちは、それを何より望んでいる。ミヒャエルが生まれて百年経った今もなお、魂の救済はかなわない。
今、見た目が十二歳くらいに成長したミヒャエルが、ふっと目を上げて何かに気づく。おやつをつまむ手をとめて、じっとこちらを見つめてくる。
「……ねえ、サルシェン。このごろ何だか、元気がないみたいだね?」
「……ああ、そうだな……誰にも言わず消えていこうと想っていたが、お前にだけは打ち明けよう。ミヒャエル、わらわは病気なのだ」
「病気っ!? どうしたの、どこが悪いの、どんな風に……!?」
初代の神は、そっと己の豊かな胸へ手を添える。何もかもをあきらめきって、淋しい歌のように応える。
「……お前を見ていると、胸が苦しい。しんしん甘く疼くのだ。ミヒャエル、お前が笑うのを見ると、ほおがしゅんしゅん熱くなる。お前がわらわにしゃべりかけると、体じゅうが火のついたようにかっとなる……」
ふっといっぺん言葉をくぎり、サルシェンが熱い吐息をつく。ミヒャエルは何でかぱくんと口を開いて、こちらをあぜんと見つめている。
「お前は、何か特別なのかもしれんのう……お前は、きっとわらわに、罰を与えんがために生まれた……」
だから、わらわはきっともうじき消えるのだ。つぶやいてしおれたように微笑むと、ミヒャエルは変わらず口を開いたまま、そのほおがじわじわと色づいていく。
「……それは……、」
かすれた声でつぶやいて、カフェオレ色のほおをほんのりと桜色に染めて。幼い天使は何度かまばたき、びっくりするほど大人びたまじめな表情になる。
「……ねえ、サルシェン。それは……それは病気じゃないよ」
そうささやいて、少年天使はこちらのほおにすっと手を触れ、固まるこちらの目を見て言った。
「恋、してるんだ。――ぼくに」
耳が壊れたのかと思った。恋など。恋など知らない、知らなかった。今の今まで夫も創造出来なかった、出来損ないの神のわらわに……恋など、恋など、出来ようはずが……、
知らぬ間に口に出ていたらしく、少年天使は黙って幼いくちびるを寄せ、旧い神の口もとへ触れるだけのキスをした。
――くちびるが灼け落ちてしまうよう、体じゅう火をつけられたろうそくのようにとろとろ溶けてしまうよう……、
「……治った? 病気」
「――ひどくなった……!」
訳が分からない、目が壊れたのか、熱いしずくがあふれ出す。止めようとしてもとまらない。ミヒャエルはまるで大人みたいに微笑んで、こちらの頭を柔く優しく撫でてくる。
「……治らなくていいんだよ。治さなくていい『病気』なんだ……サルシェン、君は病気になるのが遅かったんだ、たいていみんながかかるんだ……」
ミヒャエルの微笑む金色の瞳に、情けなくべそをかく自分が映る。弱々しくて、ちっぽけで、生まれたばかりみたいに見える。
少年天使は十二の翼でうっとりするほど柔らかく、こちらの体をつつみ込み……甘くも芯からまじめな声で、熱い耳もとにささやいてくる。
「一緒に、病気につきあうよ。サルシェン、消えることないよ……」
その、瞬間。
何もかもが終わりになって、何かが新たに始まる気がした。
足りなかったんだ、これが。この気持ちが。自分にこれがなかったから、今までは救えなかったんだ。
始まったんだ、新しいことが。わらわも変わって、今度こそ……もうじき『本当の幸い』が……、
そう想ったとたん、部屋がぐらんと大きく揺れた。旧い神とミヒャエルを内部に抱いて、神の住居の『神樹ルポラ』が身を震わせ、ありったけの花をふるふる散らしたのだ。
七色の花びらが、窓の外をオパールの雪さながらに舞い散って、夢のように美しかった。
「わああ……虹の花火みたいだぁ!」
舌足らずなその感嘆が、訳も分からず胸にかあっと火をつける。
はしゃいで窓へ駆けよるミヒャエルの後を、声もなくただ追いかけて。そろそろと後ろから幼い肩を抱き、炎に口づけるように、その首すじへ口づける。
体が燃え立つように熱い、胸が破裂しそうに高鳴る、十二の羽が勝手にふるふる震えにふるえる。
――ああ、好きだ。息子のルシフェルも、ミカエルも、イエスもユダも、全ての己の創りしものが愛しいが……それとは全く違った色合いで、お前のことが。
「誰より、何より、大好きだ……!」
言葉にすると甘い気持ちが、胸いっぱいにふくらんで……ふり向いた少年の目に映る、少女みたいな笑顔の自分。
ミヒャエルはまるきり天使そのものの笑みを浮かべて、こちらの右手をふわりと握る。握る手にきゅっと力を込めて、くちびるだけでささやいた。
……ぼくも。
そうしてもう一度、今度はちょっとだけ大人向けのキスをくれた。
このまま消えてもいいと思えて、思えたことが嬉しくて。消えるもんかと思い直して、そのままそっと目を閉じる。ミヒャエルの食べたくるみの蜜の甘さを、舌にかすかに感じながら……。
こうして世界は変わり始めた。
己の恋が、この世界が、どれだけ素晴らしく変わりゆくのか――。
初代の神は、知るよしもない。
(完)




