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全てのものは

 ――ルシフェルは己を疑った。己の耳を疑った。

 耳がおかしくなったのか? いや、頭がおかしくなったのか?


 あまりに巨《おお》きな幸せのあまり、きっとわたしは狂ってしまった。だって、イエスがそんなことを言うはずが……、


(わたしが、次代の神となる?)

 思わず問いかけようとして、あわてて再び口をつぐむ。ひと言でも言葉にすればおしまいだ、きっと涙があふれてしまう……。


 天使たちの誰ひとり、予想もしなかったイエスの言葉。


 誰も何も言えないまま、ひたひたと沈黙が満ちてゆく。次に言葉を発したのは、『万能の神』サルシェンだった。


「ルシフェル、今こそ全てを明かそう。わらわはお前をだましていた。『あまりにも綺麗すぎて、高みに至れないもの』とは、つまりは、お前のことだったのだ」


 え?

 え?

 ……それじゃあ、まさか。


 息を呑む息子の前で、神が玉座を降り立った。ルシフェルに……また己の創りし全てのものに、初めて真実を語り始める。


「そうだ、わらわは出来損ない……混沌から生まれた親なしの神なのだ。今までのあらゆる悲劇はみな、わらわの……親のわがまま故《ゆえ》だ。わらわは、初めて創造したルシフェルに、神の座を継いでほしかった……」


 もうざわめくことすら忘れ、天界全ての生き物が神の言葉に聞き入っている。


「わらわはルシフェルを愛している。己の夫も創れぬわらわが、初めて創造した子ども。わらわがこの手で創りしものは、その全てが愛しいが……ルシフェルだけは特別だった」


 神様が、愛おしげに自分の息子をひたと見つめる。それからそっと目をそらし、再び赤い口を開く。


「だが、わらわはルシフェルを、特別綺麗に創りあげてしまったのだ。その清さ、人間のそれとは格が違う。ルシフェルはしっかり己を持っているが……一番大事なところでは、自分の頭で考え、納得した上でわらわに従ってしまうのだ」


 むしろおのれを蔑《さげす》む口調で打ち明けて、神は告白を続けてゆく。


「ルシフェルはあまりに美しすぎて、清すぎた。この者は神の高みに至れぬ者と、わらわは一度は世継ぎにするのをあきらめた。そうして、双子の弟のミカエルも、世継ぎとしてはふさわしくない器だった」


 ミカエルがかすかにうろたえた顔をする。そんな息子とまともに目を合わせ、神は言葉を重ねてゆく。


「ミカエルが望むのは、兄の栄光だけだった。双子の兄への狂気のような愛情が、その魂を支配していた。そんなお前に『兄をさしおいて神になれ』など、どうして命じられようか」


 ミカエルが細く息を吐き、黙ったままでうなずいた。神も静かにうなずき返し、また告白を続けてゆく。


「そうしてわらわはまた新しい命を創った。三番目の子どものイエスを、跡《あと》継《つ》ぎとして申し分なく創り上げてから……やはり『ルシフェルを神にしたい』と望んでしまった……」


 神の紫水晶《アメシスト》の目に、語ることへのためらいがよぎる。混乱しきったルシフェルの目にも、その瞳は暗く深く沈んで見える。


「……それからわらわは『ルシフェルへの試練』として、清すぎる人間と、地球を創った……」


 神は大きく息を吐き、吐いてから意を決したように言葉を重ねる。


「その前に、天使を創造する時も、いくらかの魂を穢《けが》れやすいようにこしらえた。全て、ルシフェルを世継ぎにするための『舞台』と『役者』だったのだ……」


 つつみ隠さぬ告白に、そよ風さえも歌うのをやめ、神の言葉に聞き入っているようだった。


 その中で、ルシフェルがようやく口を開いた。あまりの衝撃にあふれそうだった涙も涸《か》れて、こぼれた言葉は老人のようにかすれていた。


「では……それでは、全てのものが、わたしを神にするための……芝居だったと、いうのですか……?」

「そうだ」

「そんな……そんな……ならば、なぜ……」


 必死に問いかける胸いっぱいに、言いしれぬ想いがせり上がる。


 ならば、今まで、全ての生き物の味わった苦しみは。

 全て、わ(・)た(・)し(・)の(・)せいなのか……!


「ならば、なぜ……最初から明かしてくださらなかったのか……!」

「明かせばお前は『神になどならなくていい』と望んだろう。自分の未来の栄光を捨て、あらゆる魂の平凡な幸せを望んだろう。わらわは何をどうしても、お前を神にしたかったのだ……」


 自分のちっぽけな本性をありのままにさらけ出し。

『全知の神』が皆《みな》に向かってひれ伏した。赤毛がべったり土につき、草や花びらで汚れてゆく。


「すまなかった。お前たちの味わった哀しみ、あらゆる苦々しい想いは……全部がぜんぶ、この愚かな神の創ったものだ」


 思いもつかぬ神の行為に、天使たちが息を呑む。何とも言えぬ表情で、痛ましいほど瞳を潤ませている者も……。ためらいつつも手をさし伸べたイエスに向かい、神が苦しげな笑みを浮かべる。


「イエスよ、お前にもすまないことをした。わらわは、お前にもずっと嘘をついていた」


 さし伸べた手が、止まってしまう。声もなく見つめてくる娘に、神は初めて打ち明ける。


「……お前がわらわに『妹がほしい』と願った時。あの時すでにわらわには、『神の子』を創る能力《ちから》など残っていなかった」


(もう何もかも打ち明けて、楽になってしまいたい)

 苦しげに微《わ》笑《ら》うサルシェンの顔は、そうささやいているようにも見えた。


「だが、わらわはお前にも本当に幸せになってほしかった。わらわのわがままで、『見せかけの御子』になってしまったお前にも……だから、お前に真《まこと》の妹を与えたかった……」


 イエスの後をついてきて、すぐそばにいたユダのほおを、神の手が愛おしそうに撫《な》ぜる。


 今は消えた赤い縄目の跡をなぞるよう、きれいな首すじに指を這わせる。『この時を逃したら、もう二度と撫でてはやれぬ』というように。


「本当にすまない、ユダ……イエス……お前たちを真の姉妹とするには……あんな悪夢のような方法しか、なかったのだ……」


『万能の神』は、今は嘘のように脆《もろ》くはかない乙女に見えた。悲痛に笑う瞳から、涙はひと粒もこぼれない。『泣く資格などないのだ』と、孤独な目つきが語っている。


「不完全なわらわの創造は、あまりにも出来が悪かった。ルシフェルの誕生、罪の実の原罪、原罪を清めるための手段……手を入れれば入れるほど、全てが、思いもよらないほどに歪んで……何をしても、ひ、ひどくなっていくばかりで……」


 洪水も。

 飢《き》饉《きん》も。

 疫《えき》病《びょう》も。

 戦争も。


「そんなこと、望んでいなかった……あらゆる悲劇も惨劇も、それを味わった者の泣き顔も……望んでなんか、いなかった……! つい今しがたの世界の終わりも、まさか、あんなに……あんなに……っ!」


 自分が創造した、全ての魂、全ての命。

 本当は、皆を愛していた。幸せになってほしかった。

 皆に、本当に、幸せになってほしかっただけなのに――。


 声にならない神の想いが、天界の生き物全ての胸に沁《し》みてゆく。顔を上げたサルシェンは、ほつれきった炎色《ほむら》の髪を彩りに。消え入りそうに微笑んだ。


「……それでも、わらわはルシフェルを神にしたかった。いくらかでもやり直しはきいたろうに、およそ最悪の道を選んで、無数の苦痛を引き起こした。わらわは、あやまたぬ邪神の王だ……」


 神の言葉にイエスの肩が小さく跳ねる。その肩を優しく撫ぜてやってから、サルシェンはミカエルの瞳をのぞき込む。


「ミカエル、お前にも本当にひどい思いをさせた。双子の兄……半身のルシフェルと、永い永い、ながい間、引き離して……淋《さみ》しい思いをさせてしまった……」


 ミカエルが何も答えられず、鼻をすすってくちびるを噛む。神はそんな息子に微《わ》笑《ら》いかけ、天使たちの顔をしみじみ見わたし……そして再び、深くふかく頭を下げる。


「本当に、ほんとうにすまないことをした。わらわこそ全ての悪の母……あらゆる痛みと、あらゆる哀しみを創り出した、唯一無二の『大罪人』だ」


 誇りも見栄も捨て去った神に、誰も何も言わなかった。

 かけられる言葉など何もなかった。


 神は白い手を、絶望の舞のようにゆっくりと振り……その右手に、一振りの輝く剣が現れた。いつか、ミカエルがルシフェルを傷つけたあの剣と、そっくり同じ形をしていた。


 神はその剣を、おののくこ(・)の(・)手に握らせた。年老いて生んだ息子に甘える老婆のように、くたびれきった甘えるような声で告げる。


「ルシフェル、わらわを殺してくれ」


 その願いに、こちらの方が胸を突かれた気になった。剣を握る手にすがるように力を込めて、わななく声で問いかける。


「こ……ころす……?」

「そうだ、わらわをその剣で殺してくれ。出来損ないのこの魂、その手できれいに滅してくれ」

「……出来ません……あなたは、あなたは神ではないですか……! あなたを滅ぼすことなど、誰にも出来るはずはない……!」

「神になら、出来る」


 今のお前になら、出来る。

 確信に満ちた声でつぶやいて、すりきれたように母《は》神《は》は微笑う。


「まだ気づいてはおらぬのか? お前はもう新たな神となったのだ。わらわが放った白い光に灼かれた時、お前は神となったのだ」


 初代の神は、用済みだ。

 いっそ嬉しげに吐き捨てて、サルシェンがこちらの手を撫ぜる。


「わらわは唯一無二の大罪人だ。罪には、罰が必要だ」


 殺してくれ。

 わらわに一番に創られて、嘘をつかれてだまされて、振り回されたお前の手で。


「終わりに、してくれ……」

 神の願いが、全ての生き物の耳へと届く。


 出来ない。

 そんなことは、わたしには。


 なおもひたすら拒《こば》もうとして……ルシフェルが、のどを鳴らして押し黙る。大きく見開いた金の目に、最愛のユダの姿が映る。


 ユダ。

 そうだ、ユダ。

 お前はこの神様に、いったい何をされてきた?


 堕天使に犯され、誰の種とも分からぬ子を孕《はら》まされ、自分の手で、自分の口で、その子の命を絶たされて。


『予想もしていなかった』だと?

『思っていたよりもっとずっと、酷いことになった』だと?


「ふざけるな……」

 腹の底から響く言葉に、天界の空気が凍りつく。サルシェンがぴくっと身をこわばらせ、観念したように体の力を抜いてゆく。


 その姿を睨《にら》みつつ、ひとつ大きく息を吸う。母の胸へと狙いを定める。光り輝く銀の刃を、憎き相手の命へ突き入れようとして――、


 すがるまなざし、ユダの瞳と目が合った。

 その瞬間、忘れていた言葉ひとひらを思い出す。


(おれね、幸せ)

 そうだ。

 二度目に肌を重ねた後、確かにユダはそう言った。


(いろいろね、しんどい目にも遭ったけど。生まれてからイエス様に逢えて、死んだらルシファーに逢えたから。おれね、やっぱり幸せなんだ……)


 地獄に咲いた青い花は、

『生まれてきて良かった』のだと。

 あの時、確かにそう言った。


「――――――っ!!」


 ためらいの後《のち》気合一閃、神の胸から背までを深々と貫いた。赤い血がほとばしるのを恐れ、皆が思わず目をつむる。


 ……閉じたまぶたに優しい光が沁みわたり、天使らはこわごわ目を開けた。


 蝶《ちょう》が、飛んでいた。

 光り輝く無数のチョウが、はらはらと花開くように舞っていた。

 欠片だ。これは剣のかけら。

 神の身を刺し貫いた聖剣《つるぎ》が変じた、いまわの際の光る舞。


 目に沁みるほど美しいチョウの乱舞がかすれて消えて、後には無傷の古びた神が残された。サルシェンの目から、初めて涙がほとばしる。


「……どうして……どうして、どうして殺してくれぬのだ! どうしてこの大罪人を、死をもって罰してはくれぬのだ!」


 サルシェンがしゃくり上げながら、ルシフェルの広い胸を小さなこぶしで打ち叩く。


 神の初めて見せた、脆くて弱いその姿。

 万能のベールをまるきり捨てきったその姿。

 天使たちも、ユダも、イエスもミカエルも、目を見張って彼女を見つめた。


(ああ。彼女は、こんなに弱かったのか)

 こんなにか弱い本性で、その細腕で、たったひとりで『万能の神』を演じていたのか。混沌の闇から生まれ、甘えてすがる親もなく、誰にも明かせぬ秘密を抱え。今の今まで、たったひとりで――、


「殺してくれ……頼む、もうこの罪に堪えられぬ……殺してくれ、殺して……」


 みじめに泣きすがる母神に、ルシフェルは耳もとでささやいた。


「――あなたの罪は、『万能ではないこと』ですか? 万能でないあなた自身も、あなたがその手でお創りになられたものですか?」


 答えようとして答えられず、神がぐしゃぐしゃに濡れた口もとをわななかせる。そのほおに柔らかく手を触れて、新たな神は微笑って告げる。


「あなた自身は、あなたが創ったものではない。混沌から自然と生まれてきたものに、いささかの罪も罰もない……」

「でも……だって……っ!」


 お前は、確かにわらわを憎んでいたではないか。

 その手で、ちゃんと殺そうとしてくれたでないか。


 そう言いたげに見つめられ、ルシフェルが苦しげにまゆをひそめる。


 憎いけど。

 まだ色々な傷が痛むけど。

 それでも。

 ……それでも。


「もう良い、もう良いのです。もうこれ以上、誰も苦しまなくて良い……」


 サルシェンが、泣きながらめちゃくちゃに首を振り立てる。死をこいねがう古びた神に、新たな神がふっと微笑む。


「……それほどまでに望むのであれば、しかたない。初代の神よ、望み通りお前に罰を与えよう」


 つつむように母の手をとり、純白の翼を広げて立ち上がる。母神に向け、全ての生き物たちに向けて、声高らかに宣言する。


「サルシェン=サイビス、あらゆる者の悲しみを、そのあふれ出る愛のために創りし者! わたしはこの者に罰を与える! 『これから始まる終わることのない幸福を、永遠に見守り続ける』という罰を!」


 罰という名の福音に、サルシェンが紫水晶《アメシスト》の目を見開いた。ひとりぼっちの……ひとりぼっちだった神様とまっすぐ目を合わせ、ルシフェルが優しく微笑んだ。


「己の創りし者たちがようやく手にした幸福を、末《すえ》の末まで見届けること。それが創造主たるあなたへの当然の罰であり、使命です」


 だってあなたがいなければ、全ての苦痛は生まれなかった。

 そうして、全ての幸せも。


「この罰を、使命を、破ることなど……赦《ゆる》さない」


 そう告げて、ルシフェルは母のひたいへ口づけた。

 甘いあまい烙《らく》印《いん》のような、まぎれもない誓いの証。


「……っふっ……、」

 つかえるように息を吐いたサルシェンが、体じゅうで泣き出した。今まで一滴も流せなかった涙の海を、目から全て吐き出そうとでもするように。


 初代の神を抱きしめるルシフェルの目からも、涙が伝う。兄の大きな手を握りしめ、ミカエルが声を上げて泣き、イエスとユダとがひしと抱き合い、彼女たちも涙を流す。


 永いながい時間を越えて、今初めてそろった聖なる家族。


 その初めての『再会』を、天界の全ての生き物が賛美した。けれど、多くの天使のほおを伝う『喜びの涙』には、痛みも溶け込んでいるようで……、


 なあ、ラファエル、昔のあの少年《こども》のような笑顔はどうした? 今お前は、どうしてそんなに、涙を流してあまりに辛そうに微《わ》笑《ら》っている……?


 頭のどこかでつぶやいたけど、もうそれを思いやる余裕もなくて、ルシフェルはただただ泣き続けた。十二の羽が喜びにふわり広がって、背中を白く彩ってゆく。己の舌におのれの涙は、蜜《みつ》さながらに甘かった。


 ――この日、新たな『慈愛の神』が誕生した。


 長いながい黄《こ》金《がね》の髪、きらきらきらめく金《こん》色《じき》の瞳……その名は『神に祝福されし光』――ルシフェル。

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