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神へ

 扉が開いた。

 ミカエルは矢のように部屋を飛び出した。こすれて血を噴いた両手もかまわず、すいせいのごとく空を駆る。天界で一番美しい花園に据えられた、神の玉座を目ざして駆ける。


 花園に辿り着いたミカエルは、こんじきの目を見開いた。


 ――兄さんがいる。祈っている。

 兄さんと猛り狂う悪魔に向かって、神がその手を伸ばしている!


 瞬時に状況を理解して、がむしゃらに天使の群れに暴れ込む。


 駄目だよ、兄さん! あんなにも、あんなにも辛く苦しい思いをしたあげく、罪人として死ぬなんて!


「にぃさああああああん!!」


 絶叫しながら、あらん限り手を伸ばしたミカエルの目の前で――。

 神の手から放つ光が、兄の姿を白くしろく、灼ききった。







 ああ。

 兄さんはもういないのか。

 光に灼かれたこの目を、もう一度開いても、もう兄さんは、どこを探してもいないのか。


 じゃあもう、全てがどうでもいいや。今度はぼくが悪しき神を裏切って、魂までも潰してもらおう。

 ルシフェル兄さんと、おんなじように――。


 絶望になかば放心しつつ、うつろにくらむ目を開ける。その瞳に、愛しい兄の姿が映る。


 魔王ルシファーの姿ではない。背中に生えた十二枚の白い羽、頭上にいただく光の輪、長いながいがねの髪……。


 天界にいた頃と変わらない、その肌に傷ひとつない、美しく優しい『大天使ルシフェル』がそこにいた。


「……にぃ……さん……?」

 こぼれた言葉に、祈りの形に両手を組んでいたルシフェルが、()()と目を開く。


 ルシフェルは、弟の目に映る『己の姿』に目を見張る。自分のものとは信じられぬよう、白い手足を眺め回す。


 あっけにとられた様子の天使の群れに向かい、サルシェンが綺麗な声でこう告げる。


「皆々、よう聞くが良い。わらわは今、不浄なものを滅ぼし尽くす光を発した。悪魔どもはその光で皆死に絶えた。だがしかし、魔王ルシファーだけはこうして生き残っておる」


 神がその白い指先で、すっとルシフェルを指し示す。


「この事実、ルシファーの内に清いものが残っていたことを示している……何より光に灼かれた後のこの姿、彼の内に灯っていた美しい心根を証している」


 神は、獅子の王が猫の子を憐れむような声音で告げた。


「わらわはこの者をゆるそうぞ。わずかながらも清い魂、その姿……ルシファーには天界に住まう権利があると見なそうぞ!」


 思ってもみなかった展開に、ルシフェルが放心しきった顔をする。その周りで、天使たちは戸惑った顔を見合わせる……どうしてか、中にはどこか辛そうな、泣きそうなになっている者もいる。


 中でも一番切なげな顔をしているのは、黒肌の乙女ユダ。彼女はしろがねの髪を乱して、しきりに口を動かしている。けれどそのくちびるから、音はひとつも形にならない。


 術をかけられたらしい彼女は、声もなく泣いて泣いて泣きながら、動かない手を必死にルシフェルへ伸ばしている。


 ――ああ。兄さんは、今でもやっぱり『反逆者』のままなんだ。神様のお情けで赦された『大罪人』として、これからは天界のすみっこで、小さくなって生きていくんだ――……。


 そう思った時、ミカエルの中でかせが外れた。

 他ならぬ兄の口づけで、兄本人に科せられた『明かしてはならぬ』という枷が。


「――――違う!」


 泣きながら叫びを上げたのは、しかしミカエルではなかった。術をふり捨てた黒肌の乙女、ユダだった。


「違う、ちがう! ルシファーは、そのひとは何も悪くない! そのひとこそが、人間の幸せを本当に願って、その魂を地獄に堕として、おおきな『罰』をかぶってまで……っ!」


 激情に立っていられずに、ユダがその場に泣き崩れる。転生した乙女の狂乱に、天使たちがざわつき出す。


(どういうこと?)

(あの方は、ユダ様だよな……『裏切り者』の罪をかぶって、地獄で罰を受け続けて……)

(永い試練を受け終えて、たった今、イエス様のまことの妹になられたお方……)


 さやさやとささやく天使たちの声に、ミカエルは彼女のえんざいが全て明かされた事を知る。


(あの方は、何かを知っておられるのか?)

(永いながい地獄での生活の中で、私たちの知らない何かをじかにその目で見られたのか?)


 天使たちの目が、変わってゆく。『赦されてしまった反逆者』を見る目でなく、『何か深遠な秘密を抱える者』として、ルシフェルのことを見つめ出す。


 流れが変わった。

 他ならぬユダが口を開いたことで、天使たちの心に大きな疑問が生じている。初めに口を開いたのが、天界にい続けたミカエルならば、こうまでみなの心は動かなかったろう。


(ありがとう、ユダ……)

 腹の底から感謝しながら、ミカエルがその場に立ち上がる。に戻った髪を揺らし、兄をかばうそぶりで左の手を広げ、げんをまとって口を開く。


「そうだ。魔王ルシファーは人間の魂を救った者だ。今かつての人間たちが、こうして天使の高みへ至れたのは、全て彼の善なる行為によるものだ」


 天使たちがざわめき出す。

 天使長がいったい何を仰っているのか、まるきり訳が分からない。


 ざわめきを手で制しておいて、ミカエルは改めて言葉を継いだ。


「……人間は『神様の失敗作』だ」

 ()()とざわめきがせり上がる。神へのぼうとくとしか取れない言葉に、天使たちが白い翼をわななかせる。ただならぬ雰囲気をしずめたのは、御子のイエス・クリス・テだった。


「聞け。天使長ミカエルの言葉、最後の声のひとかけまで、全てあまさずに聞くが良い……」


 御子に優しくいさめられ、天使たちがゆるゆると羽をおろしてゆく。妹のイエスに穏やかな顔で微笑まれ、ミカエルはひどく意外に思いながらも、再び言葉をつないでいく。


 ――母が幼子に語って聞かせる、優しい昔話のように。


「創られた時、人間はとても綺麗だった。綺麗すぎた。清すぎた。……その魂は何も疑問を持たず、ひたすら神に従うだけの『飼い慣らされた家畜』だった」


 羽の生えたアダムとイブが、かすかに顔をしかめてみせる。あえてふたりの目を見つめて、ミカエルは言葉を重ねてゆく。


「人間の始祖は……アダムとイブは、そのままでは天使の高みに至れなかった。ふたりが、ふたりの子孫の魂が、いずれ天使に転生するには……罪の実を、知恵の木のりんを食べなくてはいけなかった」


 今までの価値観を引っくり返され、天使たちがどよめいた。なだめるようなイエスの静かな微笑を見て、波の引くように口をつぐむ。


「人間は一度罪を知り、けがれなくてはいけなかった。思いきり魂を汚し、きたないものを理解してから、再び清くならなくては……天使にはなれないままだった」


 ミカエルはふっと黙り込み、金色の瞳でじっと見つめた。


 天使たちを。

 天使たちに転生した、清い魂の人間たちを。


「神に秘密を明かされて、大天使ルシフェルはひとりでその役を引き受けた。それだけじゃない。罪を知って、穢れすぎた人間の魂の受け皿の……地獄の魔王の任務すら、その肩に全て負おうとした」


 ユダが無理やりに涙を拭い、つっかえつっかえ語り出す。


「し、しかも……『神様の不万能を、皆に明かす訳にはいかない』って……自分が全部悪いみたいに、お芝居して……神様に『逆らって』、自分に味方した天使たちを引き連れて……っ」

「そうして、地獄に堕ちたのだ」


 イエスが穏やかな口ぶりで、兄と妹の言葉を継いだ。優しい笑みをほおに浮かべて、ミカエルの顔を見つめてうなずいた。


「だから、兄さんは悪くない。魔王ルシファーこそ……いいや、大天使ルシフェルこそが、唯一無二の『』なんだ……」


 ミカエルがそう言って言葉をしめる。感情を押さえつけて淡々と語り終えた金の瞳から、透けるしずくがひとすじ落ちた。


 ……天界に沈黙が訪れた。その沈黙が、かすかな歌へと生まれ変わる。


 目を潤ませた天使たちの口からこぼれる、賛美の歌。その歌に歌われる英雄は、他ならぬ大天使ルシフェルだった。


 二転三転の番狂わせに、ルシフェルが呆然と賛美に耳をかたむける。


 その光景に微笑みながら、イエスが神の右の座をおりた。ちょうけいルシフェルの元まで歩んでゆき、うやうやしげにひざをつく。右の座をそっと手で示し、ルシフェルに甘えるように言いかけた。


「どうぞあそこへお座りください。神の御子ルシフェルお兄様、もうじきに次代の神となるお方」

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