最後の審判
――そしてそれから、気の遠くなるほどの時が流れた。
天上で、イエスは『御子』の役目を演じ続けた。ミカエルもまた彼女のそばで、大天使長を演じ続けた。
地獄では、魔王ルシファーは絶望に身も心もすりきれて、それでもユダを愛し続けた。ユダは、あれからずっとおかしくなったままだった。
そんな『日常』が連なるある日、ミカエルは異常な眠気に襲われた。
(眠っちゃ駄目だ)
はるか昔、神に術をかけられたあの日を思い出す。あの時の眠気とまるで同じ、この感覚。
(眠ったらきっと、大変なことが起きるんだ……目をつぶったらおしまいだ……)
「にぃ……さん……」
自分でもなぜか分からぬまま、ミカエルは地の底の兄に呼びかけた。そしてそのまま、赤いアネモネの花にまみれて倒れ込み、病のような眠りについた。
――酷い夢を見た。
地球が滅びる夢だった。
月も星も地に落ちて、太陽は闇色の光をふりまいた。その光を浴びた川も海も、血まみれた薔薇さながらに赤くなり。
血の水を吸った穀物は毒になり、毒を食らったいなごはおぞましい怪物へと変化した。ぞろぞろ群れて人を襲い、飢えと渇きでのたうち回る人々を食いちぎっては殺していった。
そんな、凄まじい夢だった。
「……ゆめ?」
深い眠りから目覚めた天使は、ほおに伝う涙を拭うこともせず、ただ呆然とつぶやいた。
(夢、なのか?)
この奇妙な現実感。
救いがたい絶望感。
本当に――ただの夢なのか?
ミカエルは金色の瞳に怯えを染ませて立ち上がる。六枚の翼を六枚とも全て広げて、御子のイエスの元へと急ぐ。
……イエスは下界の様子をうかがえる泉のほとりに、静かに佇んでいた。周りには上級の天使たちがつどっている。天使らは目に涙をためて、泉の水面を見つめている。
「どけ。……どかないか!」
ミカエルは珍しく荒い手つきで天使たちを押しのけた。ぐっと顔をせり出し、泉の水をのぞき込む。下界を映す水面には、見たばかりの悪夢そのままの光景が――
「……どういうことだ……」
「終末だ。世界の終わりがやって来たのだ」
イエスの穏やかすぎる声に、体じゅうが火を噴くように熱くなる。相手の胸ぐらをひっつかみ、獣のように吼え立てる。
「終わるのか、世界が今まさに!? 認めないぞ、こんな、こんな……!」
天使らがおろおろうろたえて、必死でミカエルをなだめにかかる。ふいにはっとして、ひっつかんだ妹の衣から手を離す。
(――兄さんは?)
終末が来たなら『最後の審判』も訪れる。全ての魂はそこで裁かれ……清い魂は天界に住まい、悪しき魂は地獄で永遠に罰される。
(じゃあ魔王の兄さんは? 今までずっと『最大の悪役』を演じ続けた、誰よりも清い兄さんは、いったいどうなっちゃうんだよ……!)
ミカエルがまるでがむしゃらな動きで飛び立った。青空を断ち切るように駆け、まっさかさまに地に下りる。花を踏みつけ自室に飛び込む。
「兄さん! 返事して兄さん! 終末が、最後の審判が……!」
壁に駆けより、叩き割る勢いで鏡にすがる。どれだけ叫んですがっても、鏡には兄の姿は浮かばない。
ピシッ……ッ!
わずかに小さく硬い音、鏡に映る自分の姿がふたつに割れる。みるみるぱちぱちひび割れて、ぴぃんと弾けまるでばらばらに砕け散る。ガラスの破片が床いっぱいにひやひや光る。
割れた。
兄さんが堕天したあの日から、どんなにしてもひび割れひとつ浮かなかった、鏡が割れた。
「……まさか、兄さんの身に何か?」
つぶやいた瞬間に羽がけば立つ。恐ろしい予感が確信に変わってゆく前に、床を鳴らして立ち上がる。
(問い正さなきゃ。イエスに、神に……兄さんが無事なのか、無事ならこれから兄さんの身に、いったい何が起きるのか……!)
扉を開けようとした左手がその場で凍りつく。
取っ手がない。
内と外とを結ぶ取っ手が、綺麗に消えている。
「――――っっ!」
もうまるっきり狂ったみたいにがんがん扉をぶち叩く。開かない。開かない! 何をどうしても、扉はびくとも動かない!
「開けろ! 開けろおっ! イエス! サルシェン! 兄さんを、兄さんをいったいどうする気だよ! 開いてくれよおっ! 開いてくれええええっ!」
ミカエルの魂の叫びにも、扉は動いてくれなかった。鳥カゴの中の小鳥のごとく閉じ込められ、わめきながらおめきながら、ひたすら扉を叩き続けた。
* * *
ああ。
ああ、うるさい……。
心底うんざりした顔で、ルシファーは悪魔らを見つめている。
「魔王様、魔王ルシファー様! 聞いておられるのですか、魔王様!」
「聞いている。その音量で耳もとで騒ぎ立てられ、聞こえぬはずがなかろうに」
「ならば何故そのように落ち着いておられるのです、魔王様! 地獄じゅうの罪人が、一時にいなくなったというのに!」
同輩の叫びに呼応して、ベリアルが美しい声を張り上げる。
「魔王様、これは明らかに『最後の審判』の予兆です! 全ての罪人がその姿を消したのは、裁きに向けて天界に召し上げられたためでしょう!」
ベリアルの訴えに、地獄じゅうの悪魔が一気にざわめきどよめいた。
『審判が』
『恐るべき最後の審判が』
『終末が、世の終わりが訪れた!』
おののき騒ぐ堕天使たちが、あまりに愚かしく目に映る。
――何をそれほど恐れているのか。きっと何ひとつ変わらないのに。審判で悪とされた魂を、今度は永遠に罰するだけ。今までといったい何の違いがあるのか。
(……ただ、ユダのことだけが嬉しいな)
内心でしみじみつぶやいて、魔王は深く息を吐く。
ユダはきっと審判で『清い者』とされる。当然だ。偽りの罪と罰とに身をやつした、彼女ほど清い魂は、世界にふたつとないのだから。
彼女の血を吐く苦しみは、これでようやく報われる。壊れてしまった精神も、傷ついた魂も蘇り、天界に住まう者になれる。
(ユダ、どうか天界で、めいっぱい幸せになってくれ。転生したなら、ベリアルの呪いも消え去るだろう。誰かに愛され、愛する者の子を生んで……たくさん、幸せになってくれ……)
祈りのように想いつつ、淡い微笑がほおに浮かぶ。それを見とがめ、ベリアルがこちらに指を突きつける。
「何を笑うておられる、魔王ルシファー! あまりの恐怖にお気が狂うてしまわれたのか!」
「気が狂っているのは、お前たちの方だろう」
当然のように吐き捨てて、ルシファーがゴミを見る目で悪魔を眺める。
――その一瞬、ぞっとするほど深い沈黙。
臣下らは手に手にさまざまの武器をとり、魔王の玉座ににじり寄る。蟻の群れが巨大な獲物を狙うがごとく。
(見限ったのだ、おのれらの将を)
『魔王乱心』と見なし、全員で取り囲み殺そうと。千のかけらに引きちぎり、その血を金の器に注ぎ、鮮血を飲みほした者を次の魔王に据えようと……。
ルシファーの中で、何かが壊れた。
疲れきって、壊れきっていたと思い込んでいた精神が、ひび割れて崩れる音がした。
ああ。
ああ、もういい、もううんざりだ。
殺してやる。滅してやる。
神からの仰せも、秘めた使命も、どうでもいい。全てを、この手で潰してやる。
玉座からゆらりと立ち上がる……傷跡の浮いた己の手に、暗い炎をまとわせて。あらわな殺意に身を焦がし、右手をゆっくりさし伸ばす。刹那あまりにまばゆい光がルシファーの金の目を灼いた。
「っあっ! っいっ……っ」
光が痛い。盲目になったかと思うほど、視界が白く射抜かれる。ようやく視力が戻った時には、堕天使たちはあっけにとられて、ルシファーの方を見つめていた。
(……いったい、何が……)
いぶかしむ魔王が、ふっとあることに気がついた。悪魔らはこちらを見ている訳ではない。その向こうにある何かを、ただ呆然と見つめている。地獄にはありえぬ明るさの中で、ルシファーがそっと振り向いた。
神が、いた。
イエスもいた。神の右の座にいるイエスのかたわらに、羽と光輪のついたユダもいた。明らかにその数を増した天使の群れの中に、アダムとイブの顔もあった。
夢かと思った。
夢ではないと、自分を取り巻くなつかしい空気に、その時ようやく気がついた。ルシファーたちは、地獄じゅうの軍隊ぐるみ天界に戻ってきていたのだ。
「聞くが良い、魔王ルシファー、その配下の悪魔ども。『最後の審判』は終わりを告げた。これから、お前たちの審判に……いや、断罪に移る」
厳かに神が言い放ち、その白い手で魔王の鼻先を指し示す。
「審判で裁かれた魂は、すでに地獄へ送り返した。悪しき魂どもは互いに魅かれ、求め合い、やがて融け合ってひとつになる」
すらすらと言葉を連ねたサルシェンが、歌うように言葉を紡ぐ。
「ひとつになった悪しき魂は『魔王』となり、また『新たな罪人』ともなり、永遠に己でおのれを罰し続けるのだ。……つまり、」
サルシェンが耳に障るほど綺麗な声で、堕天使の群れに言い放つ。
「お前らは、もう必要ない」
悪魔らがあまりの言葉に息を呑む。悲痛なうめきを洩らす彼らに、神は冷ややかな口調で告げる。
「そのような醜く歪んだ魂、天界には住まわせられぬ。滅びよ、悪しき者たちよ。清い光に浄化され、魂までも失せるがよい」
神の宣言に、堕天使たちが悲痛にざわめく。絶望のおののきを背景に、魔王には神の言葉があまりに甘く耳に響いて。
(もう、終われる?)
この命を終わりに出来る? あの悲惨な毎日から、吐き気のするほど穢い己自身から、ようやく、ようやく、救われる――……。
ルシファーの目から涙があふれる。安らかな眠りにつく前の、祈りのような透ける涙が。
ユダが声もなく悲鳴を上げる。そばのイエスにさえぎるようにキスされて、そのままその場にへたり込む。目からぼろぼろ涙を流し、こちらを見つめて、苦しげに動くくちびるからは、ひとかけの言葉もこぼれてこない。
(ああ。イエスに術をかけられたんだ)
それでいい。
それでいいんだ、ユダ。わたしは魔王だ……滅びるのが当然だ。お前は何も言わなくていい。わたしのことも、わたしの抱いた秘密のことも、みんな忘れてくれていい。
ただ、ひとつだけ願わせてくれ。
どうか、どうか……本当に、幸せになってくれ……。
ルシファーは、満ちたりた思いでそっと目を閉じる。やぶれかぶれに牙を剥き、神に襲いかからんとする悪魔たちの怒号の中で。
――傷跡だらけの両の手を、祈りの形に組み合わせて。




