銀三十
ユダは動こうとしなかった。
イエスが何か言おうとすると、黙ってそばから離れてしまう。けれどまたすぐ、すぐとなりに寄ってきて、くちゃくちゃの表情でこちらを見上げるのだ。
迷っている。いつ動いていいものか。
そもそも、やりたい訳がない。『裏切る』と約束はしたけれど、愛するイエスの死のきっかけなど、その手で作りたいはずもない。
(まだ動かなくても良い)
何度もそう言いたくなって、イエスはそのたび口をつぐんだ。
(ユダよ、まだ動かなくても良い。天上の神が定めた『運命の日』に……もうじき訪れる『過越の祭り』の夕方になって、そこで動けばそれで良い)
そう告げるのはかえってずっと残酷で、ひと言も口に出来なかった。
来なくていい、来なければいい。祭りなんて永遠に開かれなければいい……だが大祭は当たり前の顔をして、木曜日にやって来た。
イエスは弟子たち十二人に囲まれて、『ゲッセマネの園』という場所で、ささやかな晩餐会を開いた。これが真実、地上での最後の食事となるのだろう。
――ああ。
ルシフェル兄様は、天上でのあの『最後の晩餐』を、どんな気持ちで迎えたのだろう。どんな思いで、母なる神から与えられた、パンを口にしたのだろう……。
今になって、兄の気持ちが沁みるほど胸に迫ってくる。
「……はっきり言っておく。このテーブルにつく者のうち、ひとりがこれからイエスを裏切る」
弟子たちが見る間にざわついた。ユダが華奢な肩を跳ね上げ、となりの席からこちらを見つめる。その瞳に、自分はいったい、どのように映っているのだろう。
「イエス様、それは誰のことですか!?」
「俺ですか!?」
「この私のことですか!?」
弟子たちが口ぐちに尋ねる中で、己の身をちぎる思いで、種無しのパンを割ってゆく。
「……自分がこれから、その者の口へパンを与える。その者は、本当に哀れな者なのだ。本当に、その者は……」
(良くぞ、生まれてきてくれた)
いつかの言葉が胸の内に蘇る。
嘘じゃない。
あの時のあの言葉も、本当に本心から口にしたものだけど。
けれど、ああ、今のお前は『あの時の不幸』よりずっと……!
ユダが金の目を見開いて、じっとこちらを見つめている。逃れられずに視線を合わせて、見つめ返したその顔は、初めて出逢った時の顔より、もっとずっと痛々しくて。
お前にそんな辛い顔をさせるなら。
これから先、今までとは比べものにならないくらい、苦しい思いをさせてしまうくらいなら。
「――生まれてこなかった方が、良かった……!」
ユダの金の瞳から、涙がどっとこぼれ出た。
自分が泣くより辛い想いで、ユダの口へパンを与える。ユダは噛みしめ、噛みしめて、のどを鳴らして吞み込んだ。
「…………っ!」
呑み込むなりぐっと歯を食いしばって立ち上がり、泣きながらめちゃくちゃに駆け出した。
弟子たちはぽかんとしてその背中を見送った。そうしてじきに祭りの昂奮に気をとられ、彼女のことを忘れてしまった。元々が、他の弟子たちはユダなどどうでも良かったし、
(ケンカかな……)
イエスの言葉をそう受けとってしまうほど、イエスとユダは仲が良かった。
(裏切りなんてするはずもない)
ユダを侮りきっている弟子たちさえ、その点に関してだけは彼女を信じきっていた。
ユダが、本当にイエスを『裏切る』ことを。
ひそかに彼女にそう命じたイエスだけが知っていた。
「お前たち、よく聞くが良い。この白いパンはイエスの体。この赤い酒はイエスの血。これから先、これらを口にする時は、自分のことを思い出すよう……」
そう言えと神に『仕込まれていた』台詞を、そっくりそのまま口に出す。グラスをかたむけ、舌を濡らしたぶどう酒は、本当に生臭い血の味がした。
それがいったい誰の血なのか、イエスにはまるで分からなかった。
* * *
ユダは駆けた。ただがむしゃらに、司祭たちの元へと駆けた。自らの主イエスに言われて、愛する彼女を『裏切る』ために。
ユダは駆けた。転びながらまろびながら、怪我をしながらそれでも走り続けられるのを、自身不思議に思いながら。
(……のどが、渇く)
膝から血を流し走りながら、とても場違いなことを思った。
かさかさの種無しのパンの感触が、ずっとのどにつかえている。のどが渇く。のどにつかえたパンの欠片が、首の中でかさかさ鳴っている音がする。
ユダはそれでも、一滴の水も口にはしなかった。走って転んでぼろぼろになりながら駆け通して、集っていた司祭たちの前に、倒れるように膝をついた。
「申し上げます。……あなた方のお探しの、『ナザレのイエス』は、ゲッセマネの園にいます。周りには熱狂した人々もおりません。今ごろは十一人の弟子たちと、夕食を終えて休んでおられることでしょう……」
息を切らしてきれぎれに明かすと、司祭らは顔を見合わせて深くふかくうなずき合う。親しげにユダに手を伸べて、その内のひとりが言いかけた。
「――そうか、お前は十二人の弟子のひとりか。その異様な見た目、お前はイスカリオテのユダだろう。良くやった。よく決断した。お前は本当に善いことをした」
目の前の司祭が、どうしてもそんなに『悪いひと』には見えなくて。のどを鳴らしてただ見つめると、司祭はしみじみ言葉を重ねる。
「いいかユダ、お前にも分かっていることだろうが……民衆に『ユダヤ人の王』とまで呼ばれるあの女を、ローマ帝国がこのまま見過ごすはずがない。いずれ大きな戦が起きる、この地は我ら砂漠の民の血にまみれる……」
じゃあ、それじゃあ、イエス様は……、ただのどを鳴らすしか出来ないユダに、司祭はかすかに微笑みかける。
「お前はそれを、その『裏切り』で防いだのだ。お前の功績は、きっと後世に伝えられることだろう……」
――死ななきゃいけない? イエス様は死ななきゃいけない? 天上でも、地上でもそう思われている?
頭がぐちゃぐちゃの泥の塊になったよう、何も言えない、何も出来ない。ああ、血の味がする、くちびるを噛みしめすぎて切れたんだ……、
目を閉じてうなだれるひたいにふいに、ひたと何かが押し当てられた。汗みずくの肌に伝わる、かさつく布の感触と、布に包まれた固いもの。
(……何?)
顔を上げて目の前にあるのは、小さな麻の袋だった。
「密告の礼だ、受け取ってくれ……銀貨でちょうど三十枚だ」
(銀三十)
頭を金槌でぶん殴られた想いがした。
――どこかで聞いたことがある。『奴隷がひとり買える価』だ。この前マリアがイエス様に注いだ香油を買うには、『銀貨が三百枚は要る』……!
(銀三十)
イエス様は、他ならぬこのおれの救い主。『お前は悪魔の子じゃない』って言って、おれの全部をまるごと受け入れてくれた方。その方の価値は、お体に注がれた香油の十分の一? 奴隷ひとりと同じ価しかつかないって?
何だそれ、何だそれ、なんだそれ――、
目から涙が噴きあがる、はらわたが煮え、それが目から噴き出すような涙があふれる。麻袋を力の限り払いのける、床にぶつかる袋ごしの銀貨の響き、じゃりんじゃりんと耳を突く。
「――おれは、おれは金が欲しくてあの方を『裏切った』訳じゃない!」
司祭たちが戸惑ったように、お互いの顔を見合わせる。その中のひとりが落ちた袋を拾い上げ、すっと目の前にさし出した。
「受け取ってくれ、ユダ……その外見で以前は『悪魔の子』と呼ばれ、『パン屑しか貰えぬ娼婦』のように辱しめられたと聞いている。銀三十、そんなお前へせめてもの礼だ、受け取るがいい……」
いらない。そんな汚れた金はいらない。
金も銀も百万の花も、唯一の神の祝福も、このおれを救って下さった、あの方の笑顔に比べたら。
だけど、受け取らなけりゃいけない。『芝居が進まないのだ』と、『受け取らなければ芝居は進まないのだ』と、誰かの声が頭いっぱいじんじん響く。
涙でほとんど前が見えない、やっとさし出した両の手のひら、ずしりと重い銀貨の入った布の感触……。
ああ。ああ。のどが渇く。のどに詰まったパンの欠片が、かさかさかさかさ鳴っている。でも、おれはもう何も飲まない、何にも食べない。たとえ飢えきって干からびてくたばっても、もう何ひとつ口に入れない――。
自分もじきに死ぬつもりで、銀三十を呪うそぶりで押しいただく。
――でも、本当は知っているんだ。
そんな生ぬるい死に方、出来るはずないんだってこと……、
灼けつく胸の内でつぶやき、ユダは自分自身でも、理由の分からぬ笑みを浮かべた。涙に濡れた視界の向こう、司祭たちがその表情に、一瞬ひるんだようだった。




