最後の祈り
地上での最後の夜が来た。
弟子たちは全員、深い眠りについている。イエスは神へ『祈り』を捧げるため、ひとり岩山へ登り始めた。やがて頂上についたので、ふうっと大きく息をつく。
よし。ここならどれだけ声を出しても、弟子たちには聞こえなかろう。
軽くくちびるを噛んだイエスは、天を仰いでつぶやいた。
「母なる神よ。……自分はあなたを怨みます」
明けゆく空を睨みつける瞳には、暗い炎が燃えている。イエスは血を吐くような思いで『祈り』の言葉を吐いてゆく。
「神よ。自分は以前、『妹がほしい』と望みました。ルシファーとミカエルは自分の兄です……しかし双子の兄たちは、自分を愛してはくれません」
ぐるぐるぐるぐる、体じゅうを熱が奔る。抑えきれない怒りが燃えて、己の舌が灼けるよう……、
「……自分は妹が欲しかった。兄たちや他の天使からは得られぬ確かな愛を、そこから得ようと思ったのです。そうしてあなたは、自分にユダをくださいました……『大罪人』のユダをです!」
のどから言葉が噴き出して、ずるずるだくだくほとばしる。止められない、止める気もない、神を責めずにいられない。
「あなたはユダを人として創り『永い試練の末に神の子としよう』と! 真の妹でなくて良いと言ったのに! それならそれで、なぜ初めから神の子とせぬ!」
のどが灼けつく、目の裏が爆ぜるほど熱くなる、塩辛いものが目から噴き出す。弔いの香油の香りが、なお燃えるように鼻につく。
「あなたはあまりに酷すぎる! ユダへの仕打ちも、ローマ帝国に抑圧されたこの地の民の現状も! あまりな現実にがんじがらめ、この自分には磔刑になって死ぬ道しかない!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、激しい言葉を吐き散らかす。
雨よ降れ、雷よくだれ。この自分がこれだけ神を罵っている、いくらでも天候よ荒れるが良い!
だが雨は降らない、稲光も走らない、まるで天候は変わらない。『今の話はかけらも神に届いていない』とでも言いたげに。
苦しい、苦しくてたまらない。
死など何だと思っていた。自分が死んでも誰も何も感じない、そう心から信じていたから。
自分は誰にも愛されていないと知っていた。知っていると思っていた。思っていたから、生贄、磔刑……、
この自分を愛してくれるひとたちは、その時どんなに辛い想いを――!
「ああ、自分は分かっている! あなたはイエスを愛していない! でもきっと、他に愛してくれた天使は……それさえ知ったら、妹なんて望まなかった! ユダはあんな、あんな想いを……!」
でももう遅い、何もかも。ユダはもう自分を『裏切った』、歯車は回ってまわって止まらない。
なぜ、どうして、神はこんな、こんな仕打ちを――、
「――ああ! あなたはご自分の創る『お芝居』を、面白くしたいだけなのだ! 神の子どもたち、末の子ユダ、あなたの『役者』が血の涙を流して『演技』するのを、薄ら笑いしてご覧になりたいだけなのだ!」
夜がしらしらと明けてゆく。空は赤く美しく、その雄大さはちっぽけな自分を嘲笑っているようだった。イエスはむせび泣きながら朝日へ指を突きつける。
「神は呪われよ、その栄光は地に堕ちよ! 偽りの『全知の神』は邪神の王だ! 自らが創りしものの生き血にまみれた、呪われるべき忌むべき王だ!」
初めてだった。地上から天界までの距離のへだたりがあるにせよ……己の母に、思いのたけをぶちまけたのは、真実これが初めてだった。
「……どうして、何も言わぬのだ……『お前の妹を救ってやろう』と、『ユダへの試練をやめにしよう』と、どうして言ってくれぬのだ……!」
涙でぐちゃぐちゃの視界の中、がっくり岩場にくずおれる。突きつけた指をしなだれるように引っ込めて、胸の前で手を組んだ。
……嘘のように、体から熱が引いてゆく。溜め続けた想いをありったけ吐き出した今、身の内に残っているのは、はかり知れない悲しみだった。
芯からの怒りは、全て天へと訴えた。けれど運命は変わらない。変える気がないのが、神の意志なら――、
祈るしかない。あとはもう祈るしか。それしか知らなかった、愛しいユダと出逢うまで……だから祈る。ひしと手を握り、ひたすら祈る。
「……どうか、どうかユダが、試練に耐えてくれますよう……最後の審判の来る時まで、魂まですりきれて消えてしまいませんよう……」
彼女は地獄で、さぞ重い『罰』を受けるだろう。その清らな魂さえ、さんざんに責め立てられて痛めつけられてしまうだろう。
――それでも、どうか。
「どうか、彼女が『神の子』となるその時まで、魂そのものが滅してしまいませんように……」
絞り出すような言の葉が、桃色のくちびるを伝う。
ユダ、ベタニアのマリア、聖母マリア……。
「――おかあさん……」
悲しみに疼く胸の内に、マリアの笑顔がいっぱいに咲く。お母さん、自分は死にます、あなたより先に、天であなたを待っています……。
後はもう言葉にもならず、命をかけた祈りを終えて……神の御子は別人のように穏やかなしぐさで涙を拭い、白くすらりと岩山の頂上に立ち上がる。
「――時が来た」
ひとりつぶやくその声から、もう怒りも絶望も、哀しさも淋しさも消えていて。ただ悟りきった静かな微笑が、その口もとに浮いていた。




