ロザリオ
「子犬!」
「おい、子犬!」
弟子たちの間で、新入りのユダはそう呼ばれた。可愛い響きでごまかした、馬鹿にしきったあだ名である。
それを聞くたび、イエスの胸はじくじく痛んだ。ある時ついにたまりかね、弟子たちを叱りつけようとした。口を開いた瞬間に、ユダはこちらの袖をそっと引き、にっこり微笑って首をふる。いいんですよと言うように。
その笑顔に、叱る言葉はひとかけ残らずのどに閊えて……結局それきりになってしまった。
「子犬!」
「おい、子犬!」
イエスとユダのやりとりにも、イエスの胸の痛みにも、弟子たちは全く気づいていない。いつまでたってもユダを子犬呼ばわりしている。
「はあい! 今すぐまいります!」
「はあい! 子犬、今まいりまーす!」
ユダはちっとも気にしていない。侮蔑の意思を分かっていても、呼んでもらえること自体が嬉しくてたまらないように見える。
殴らないから、蹴らないから……犯さないから『良い人たち』と、思い込むような人生を送ってきたユダだった。
そうして事実、子犬と呼ばれてもしかたないような面もある。ユダは簡単な計算しか出来ないし、コインの種類もよく知らない。礼儀作法もなっていないし、何もないところでよく転ぶ。
そんなのはまだ可愛い方だ。狙ったように足がつっかえ、お盆にのせたぶどう酒をイエスの頭にぶちまけたことも多々あった。
「イエス様! あそこに可愛い鳥が飛んでます!」
「イエス様! あなた様のお好きないちじくの木が生えてます!」
「イエス様! あなたのユダは何でもします! 出来ることなら何でもします!」
新入りが何を、我らが主になれなれしい!
何ひとつちゃんと出来ないのに、べたべた甘えてじゃれかかることだけは得意なやつ……そんな蔑みの意を込めて、弟子たちはユダを『子犬』と呼び捨てた。
自分のせいだと、イエスは思う。
自分があんまり、ユダを特別扱いしてしまうから。でも駄目なんだ、どうしても態度に出てしまう。ユダを一番大事にしなくばいられない……、
だって、彼女だけなのだ。こんな自分をちゃんと愛してくれるのは。
『神の子』でありながら人の子で、その上に救世主。そんなややこしい自分のことを、肩書きだけを崇めるでもなく、そっくりそのまま愛してくれる。
「ユダは、お前たちとは違う」
他の弟子に向かい、イエスは何度かつぶやいてしまったことがある。
(それはそうだろう。あいつは何にも出来ないものな)
(そうよ、真実イエス様のお役に立ってる、私たちとは違うのよ……!)
そう言いたげに微笑されて、イエスも苦い微笑で応えるしかなかった。
違う。
確かに、イエスの死後、お前たちは善い方に変わる。拷問の末の処刑も恐れず、イエスの教えを広める使徒に……。だが今のお前たちは、死後の名声と、魂の安楽に焦がれているだけだ。
事実、お前たちの死にざまがいかに悲惨であろうとも、魂はすぐさま報われる。今お前たちの望んでいる、死後の名声もじきに得られる。
(――でも)
でもユダは違う。生まれてからイエスの弟子になるまで、酷い思いをし続けて。そしてこれから、死んだ後まで、もっとずっと辛い目に遭い続けねばならぬのだ。
……他ならぬこの『救世主』の、甘えたわがままのために……。
そう言いたくて、言えなくて。
イエスの浮かべる微笑には、段々と、どんどんと、ほろ苦い憂いが混じるようになっていった。
* * *
そうして数年が過ぎた。
もうじき、肉体の滅びが来る。ユダとの永い別離がやって来る。まだ誰にも何も言えないけれど、イエスはどうしようもなく己の死を予感していた。
そんなある日の夕方に、イエスたち一行はある村で夕食に招かれた。
夕食に招いてくれた一家の内には、マリアという女がいた。彼女はおっとりした人柄で、時おり訪れるイエスの話に、時を忘れて聞き入るのが好きだった。どことなくユダに似たところがあった。
そのマリアがきっかけで、その日の晩餐、ちょっとした騒ぎが持ち上がった。
原因は香油である。『ナルドの香油』と呼ばれる高価極まりない油を、マリアがイエスの頭から惜しげもなくそそいだのだ。
白石の瓶はその時初めて封を切られ、一滴あまさずイエスの黒髪をつやつや濡らし……何とも言えぬ、強いくせのある甘い香りが、部屋いっぱいに満ちみちる。
(ああ、嬉しいことだ……)
このごろ妙にすねてしまった心でも、すっと素直にそう思えた。
おそらくマリアは、針仕事や何やかや、少しずつこつこつと、何年もかけてお金を貯め続けてきたのだろう。そうしてやっと手に入れた極上の香油を、もてなしのために全て注いでくれたのだろう。
……その気持ちが、いつになくしみじみ嬉しかった。
「やあ、すげえな、この香りナルドだろ? この量を買うには、銀貨が三百枚は要るぜ……!」
弟子の誰かのつぶやきが、耳に忌まわしい。
(お前たちは銀のかけらの数でしか、物の価値が分からないのか?)
そう叱りつけたくて、でもマリアの気持ちに水を差すのが嫌だから、ただ黙って微笑していた。その時ユダが席を蹴って立ち上がり、言葉できつく噛みついた。
「――ああマリア、何ともったいない! その香油は銀貨三百枚の価値だろう! それを売って、貧しい人々へほどこしをすれば、どれだけ喜ばれることか!」
弟子もイエスも、名指しされたマリアも皆、目を見張ってユダを見つめた。
おかしい、いつものユダじゃない。
銀貨や金貨はどうでも良い、イエス様のおそばにいれば幸せ、あとは何にもいりません……それがいつものユダなのだ。今口にした香油の価値も、おそらく弟子のつぶやきの受け売りだろう。
「……ユダ……」
(どうしてそんなことを言う?)
訊ねようとしたその瞬間、やっと気づいた。ユダは涙ぐんでいる。
おれはどうしてこんなことを言ったんだろう?
おれはどうして、こんなに心が乱れにみだれているんだろう?
訳も分からなく動揺し、動揺している自分に気づいて動揺し、ユダは目に見えて怯えていた。
(……ああ、そうか。ユダは、イエスの死を予感したのだ)
そこでようやく思い至って、イエスは淋しく微笑んだ。
『香油を全身に塗る』……この行為は、死者に対する埋葬の前の儀式でもある。
もちろんマリア本人には、そんな気はまるでなかったろう。ただ熱いもてなしの想いを込め、高価な香油を客人へとふるまっただけ。けれどユダは無意識に、その裏側の神の真意に気がついたのだ。
そこまで考えて、イエスはふっと気がついた。目の前のマリアも、ちゃんと自分を愛してくれていたことに。
……ああ、そうか。
天にも地にも、本当に自分を愛してくれていたひとは……ユダの他にも、マリアの他にも、いたのかもしれない。ただ自分がひねくれて、気づこうとしていなかっただけかもしれない……。
ああ。今になって、やっと気づいた。
聖母マリアの愛が、あれだけ疎ましかったのは。
あれは母への甘えた気持ちの、ひねくれた表現だったのか。自分はちゃんとあの人の子どもだったのか。
甘いあまい胸の痛みが、腹の底にまで広がってゆく。
……そうか、死ぬしかないんだ、自分は。
今この地は、ローマ帝国の支配下にある。ローマ皇帝をさしおいて、民衆に王と呼ばれる女など、あちらには目ざわり極まりない。
この自分は、いずれ戦のきっかけとなる。そうなれば、砂漠の民はひとたまりもない。今の『人の子』の自分にも、勝利するだけの能力はない。
だから目の前のマリアのためにも、地上の母のためにも……死ぬしかないんだ。イエスはもはや、磔刑になって死ぬしかない。
なんで今、どうして今。
愛されていることにやっと気づけた、今になって死ななくては――。
目の裏がぼっと熱くなり、塩辛いものがあふれ出す。香油にまぎれて気づかれぬことを願いつつ、ユダを手招き、夜色のほおへ慈しむように手を触れる。
「怯えることはない、ユダよ、何もおびえることはない。全ては神の意志なのだ。お前がこの世に生まれる前から、定められていたことなのだから……」
今のユダには、きっと何を言っているかも分からない。
そう知っていて、あえてあいまいに言葉を濁した。白い手にまとわりつく香る油が、ユダのほおまで彩ってゆく。
弔いの香油は、涙のようにユダの黒い肌を濡らした。




