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ロザリオ

『仔犬』――。


 弟子たちの間で、新入りのユダはそう呼ばれた。可愛い響きでごまかした、あなどりきった()()()である。


 そう呼ばれるのも無理はない。ユダは簡単な計算しか出来ないし、コインの種類もよく知らない。礼儀作法もなっていないし、何もないところでよく転ぶ。狙ったように足がつっかえ、お盆にのせたぶどう酒をイエスの頭にぶちまけたことも多々あった。


「イエス様! ほら、あそこに可愛い鳥が飛んでます!」

「イエス様! あなた様のお好きないちじくの木が生えてます!」


 何ひとつちゃんと出来ないのに、イエス様に甘えてじゃれかかることだけは一人前。いや、一人前どころではない、そのなれなれしさ、最初の弟子すら顔をしかめるほどに濃厚……。


 そんなさげすみの意を込めて、他の弟子たちはユダを『仔犬』と呼び捨てた。


(自分のせいかもしれないな。自分が、明らかにユダを特別扱いしてしまうから)


 イエスは時おり、そう考えて自分を責めた。それでもイエスは、ユダを誰よりも深く愛した。


 だって、彼女だけなのだ。こんな自分をちゃんと愛してくれるのは。

『神の子』でありながら人の子で、その上に。そんなややこしい自分のことを、肩書きだけを崇めるでもなく、そっくりそのまま愛してくれる。


「ユダは、お前たちとは違う」

 他の弟子に向かい、イエスはいくかつぶやいてしまったことがある。


(それはそうだろう。あいつは何にも出来ないものな)

(そうよ、真実イエス様のお役に立ってる、私たちとは違うのよ……!)


 そう言いたげに微笑されて、イエスも苦い微笑で応えるしかなかった。


 違う。

 確かに、イエスの死後、お前たちはい方に変わる。拷問の末の処刑も恐れず、イエスの教えを広める使徒に――。だが()()お前たちは、死後の名声と、魂の安楽に焦がれているだけだ。


 事実、お前たちの死にざまがいかに悲惨であろうとも、魂はすぐさま報われる。今お前たちの望んでいる、死後の名声もじきに得られる。


(――でも)


 でもユダは違う。生まれてからイエスの弟子になるまで、酷い思いをし続けて。そしてこれから、死んだ後まで、もっとずっと辛い目に遭い続けねばならぬのだ。


 ……他ならぬこの『』の、甘えたわがままのために……。


 そう言いたくて、言えなくて。

 イエスの浮かべる微笑には、段々と、どんどんと、ほろ苦い憂いが混じるようになっていった。


* * *


 そうして数年が過ぎた。


 もうじき、肉体の滅びが来る。ユダとの永い別離わかれがやって来る。まだ誰にも何も言えないけれど、イエスはどうしようもなく己の死を予感していた。


 そんなある日の夕方に、イエスたち一行はある村で夕食に招かれた。


 夕食に招いてくれた一家の内には、マリアという女がいた。彼女はおっとりした人柄で、時おり訪れるイエスの話に、時を忘れて聞き入るのが好きだった。どことなくユダに似たところがあった。


 そのマリアがきっかけで、その日のばんさん、ちょっとした騒ぎが持ち上がった。


 原因はこうである。『ナルドの香油』と呼ばれる高価極まりない油を、マリアがイエスの頭から惜しげもなくそそいだのだ。


 白石のびんはその時初めて封を切られ、一滴あまさずイエスの黒髪をつやつや濡らし……何とも言えぬ、強いくせのある甘い香りが、部屋いっぱいに満ちみちる。


(ああ、嬉しいことだ……)

 このごろ妙にすねてしまった心でも、すっと素直にそう思えた。


 おそらくマリアは、針仕事や何やかや、少しずつこつこつと、何年もかけてお金を貯め続けてきたのだろう。そうしてやっと手に入れた極上の香油を、もてなしのために全て注いでくれたのだろう。


 ……その気持ちが、いつになくしみじみ嬉しかった。


「やあ、すげえな、この香りナルドだろ? この量を買うには、銀貨が三百枚は要るぜ……!」


 弟子の誰かのつぶやきが、耳に忌まわしい。


(お前たちは銀の欠片の数でしか、物の価値が分からないのか――?)


 そう叱りつけたくて、でもマリアの気持ちに水を差すのが嫌だから、ただ黙って微笑していた。その時、ユダがいきなり席を蹴って立ち上がった。つやのある黒い手でマリアを指さし、金切り声で非難する。


「マリア、何ともったいないことをする! その香油を買うのには、銀貨が三百枚は要るだろう! その香油を売り払い、貧しい人々へほどこしをすれば、どれだけ喜ばれることか!」


 その場にいた皆が、目を見張ってユダを見つめた。


 普段のユダなら、決して言わない言葉だった。銀貨の枚数や物の価値などに興味はないし、イエスの動向に意見もしない。ただイエスのそばにいるだけで幸せで、他には何も望まない。それがユダという生き物だった。


 今口にした香油の価値も、ユダが知っているはずはない。おそらく弟子の誰かのつぶやきを、受け売りしただけなのだろう。


「……ユダ……」


(どうしてそんなことを言う?)

 訊ねようとしたその瞬間、やっと気づいた。ユダは涙ぐんでいた。


 おれはどうしてこんなことを言ったんだろう?

 おれはどうして、こんなに心が乱れにみだれているんだろう?


 ――訳も分からなく動揺し、動揺している自分に気づいて動揺し、ユダは怯えてすくんでいた。


(……ああ、そうか。ユダは、イエスの死を予感したのだ)


 イエスはようやく思い至って、淋しい微笑をほおに浮かべた。


『香油を全身に塗る』。この行為は、死者に対する埋葬の前の儀式でもある。


 ……もちろんのこと、マリア本人にはそんな意識はなかったろう。ただ精いっぱいのもてなしの意をこめて、高価な香油を客人へとふるまっただけ。けれどユダは無意識に、その裏側の神の真意に気がついたのだ。


 そこまで考えて、イエスは()()と気がついた。目の前のマリアも、ちゃんと自分を愛してくれていたことに。


 死ぬ前に初めてそれを実感して、胸がしんしん甘く痛んだ。


(ああ、そうか)

 もしかしたら、天界にも、人間界にも、本当に自分を愛してくれていた人は――ユダの他にも、いたかもしれない。マリアのような人が、他にもいたのかもしれない。ただ自分がひねくれて、気づこうとしていなかっただけかも、しれない。


 ――ああ。今になって、やっと気づいた。

 聖母マリアの愛が、あれだけうとましかったのは。


 あれは母への甘えた気持ちの、ひねくれた表現だったのか。自分はちゃんとあの人の子どもだったのか。


 甘いあまい胸の痛みが、腹の底にまで広がってゆく。


 ――ああ、自分は死なねばならぬ。


 今この地は、ローマ帝国の支配下にある。ローマ皇帝をさしおいて、民衆に王と呼ばれるこの自分は、いずれいくさのきっかけとなる。


 そうなれば、砂漠の民はひとたまりもない。この自分にも、もはやあのいかずち能力ちからはない。


 だから目の前のマリアのためにも、地上の母のためにも……このイエスは、はりつけになって死なねばならぬ。


 目の裏が()()と熱くなり、塩辛いものがほおを伝う。香油にまぎれて気づかれぬことを願いつつ、ユダを手招き、夜色のほおへ慈しむように手を触れる。


「怯えることはない。ユダよ、何も怯えることはないのだ。全ては神の思し召し。お前がこの世に生まれる前から、定められていたことなのだから……」


 今のユダには、きっと何を言っているかも分からない。


 そう知っていて、あえてあいまいに言葉を濁した。白い手にまとわりつく香る油が、ユダのほおまで彩ってゆく。


 とむらいの香油は、涙のようにユダの黒い肌を濡らした。

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