第23話 効いたけど、場所が悪かった
ランプの灯りが届く範囲の先で、通路はさらに奥へ続いている。
壁のところどころに、光ゴケが点々と見えた。淡い光を頼りに一つずつ確かめながら進む。
床には例の引きずったような跡が、途切れずに続いていた。壁にも、体をこすったらしい擦れがところどころ残っている。
土の質も、さっきより湿り気を帯びている気がした。
「この跡、まだ続いてますね」
「同じ個体の巣が近いのかもしれない」
「深追いはしませんよ。依頼分が揃ったら戻ります」
「分かっている」
面白そうだから追いかけているわけじゃない。あくまで、依頼のついでだ。
少し広くなった場所で、最後の光ゴケを摘み取る。指先で丁寧に扱いながら、数を数え直すと、必要数を超えていた。
「……よし。これで依頼分は揃った」
「なら、戻るか」
「そうですね」
採取袋をインベントリへしまう。これで、もし何かあっても光ゴケが潰れる心配はない。
空いた手には短槍を取り出しておく。帰り道だからといって、何も出ないとは限らない。
踵を返そうとした、その時だった。
「……いた」
ミグレナの足が止まる。
視線の先、少し離れた岩陰に、体高こそ低いが横幅のある爬虫類型の魔物がいた。
暗緑色の鱗に覆われた胴は地面すれすれまで低く、四本の脚は短いわりに太い。身体と同じくらい長い尾を、ずるりと地面へ引きずっている。
「ドラグリザードだ」
「……あれが、さっきの跡の?」
「おそらくな。尾を引きずる。壁に体をこすりつける。痕跡とも合う」
鼻先から漏れる荒い息が、低く長く洞窟に響いている。
幸い、向こうはこちらに気づいていないらしい。
ミグレナが声を落とした。
「依頼分は揃った。戦う必要はない」
「ですよね」
「静かに戻るぞ」
俺は小さく頷く。
わざわざ危険を増やす理由はない。相手がこちらへ気づく前に、来た道を戻ればいい。
一歩。
できるだけ音を立てないよう、ゆっくりと足を引く。
もう一歩。
その時、踵が足元の小石を弾いた。
からん。
やけに澄んだ音が、静かな洞窟の奥まで響いた。
「……あ」
ドラグリザードの頭が、こちらを向く。
細長い頭の奥で、黄色い目だけがじっとこちらを睨んでいた。
ミグレナが即座に剣を抜いた。
「来るぞ」
低い唸り声。
次の瞬間、ドラグリザードが岩陰から飛び出した。
ミグレナが俺の前へ出る。
「下がれ」
「はい!」
剣が一閃する。
最初の一撃で片が付きそうに見えた。だが、ドラグリザードは姿勢を低く保ったまま急に向きを変える。
尾が横薙ぎに払われ、ミグレナが跳んで避けた。
ずるり、と太い尾が岩を擦る音が、狭い通路に響く。
地面には凹凸があり、壁際には岩が張り出している。ミグレナの方が明らかに速い。それでも、この狭さでは剣を振れる角度が限られていた。
何度か斬り込んだところで、ドラグリザードが岩陰へ半身を滑り込ませる。
ミグレナの剣が届きにくい位置だ。
俺には次にどう動けばいいのか分からなかったが、ミグレナは迷わなかった。
「――ナオキ! 右から牽制しろ!」
「え、俺!?」
急に名指しされ、頭の中が一気に忙しくなる。短槍は手にしたままだが、これで牽制できる距離じゃない。魔物とミグレナの間合いは、思っていたより狭く、割り込む隙も限られている。
(投擲石で気を逸らすか? いや、槍を片手で支えながらじゃ、今の俺には狙いにくい)
(臭い玉なら、追い払えるかもしれない)
(まず槍をしまうか? いや、石が先か――)
候補が次々浮かぶのに、どれも決め切れない。分かっているのに、選べない。
視界の端で、見慣れない一文がちらついた。
《未解放機能の解放条件を一部満たしました》
通知の意味を考えている暇はない。
「――今それどころじゃない!」
短槍を一度インベントリへ戻し、一覧の中から投擲石を探す。焦るとかえって目が滑る。ようやく選び出し、投げつける。狙いは甘かったが、注意を引くには十分だった。
ドラグリザードの意識が一瞬こちらへ逸れる。だが、それだけだ。岩陰から出てくる気配はない。
石だけでは、状況は十分に変わらない。今度は臭い玉を選び出す。
(獣型には効いた。こいつにも鼻があるなら、効くかもしれない)
狙いをつけて投げる。狙いは少し外れたが、ドラグリザードのすぐ脇の岩へぶつかった。
パキッ、と乾いた音がして、直後に鼻を刺す臭いが一気に広がった。
「効いた……!」
ドラグリザードが露骨に鼻先を振って後退した。数歩下がった隙に、ミグレナが体勢を立て直す。
だが、数秒後。
「……くっさ!?」
狭い洞窟の中、臭いの逃げ場がどこにもない。目に染みる刺激臭が、自分たちの方へも容赦なく充満していく。反射的に手で鼻と口を覆うが、ほとんど意味がなかった。
「ナオキ」
「い、いや、効いてはいるんですよ!」
「私にもな」
ミグレナの声が、露骨に不機嫌だった。咳き込みながら後退する。閉じた空間で使えば、どうなるかは考えるまでもなかった。
(……そりゃそうだ。洞窟なんだから、臭いだって逃げる場所がない)
(開けた場所では使えても、閉所では自分たちまで巻き込むのか……!)
分かった時にはもう遅い。目を擦りながら後ずさるミグレナの横で、俺も涙目のまま踏ん張っていた。
視界がにじむ中、足元への注意がおろそかになる。後退した拍子に、地面がわずかに沈んだ。何かが変わった感触があったのに、涙目のせいで気づくのが一拍遅れた。
「――え」
ぴしり、と嫌な音がした。崩れかけた地盤が、体重を支えきれず割れる。さっき見た、あの緩んだ土の続きだったのだと、後になって分かった。
「ナオキ!」
伸びてきたミグレナの手が、とっさに俺の腕を掴む。助けようとしてくれたのは分かる。だが、崩落は思ったより広い範囲に広がっていた。
「――くっ!」
踏ん張ろうとした足元から、次々に土くれが崩れていく。悲鳴を上げる余裕もなかった。支えたはずの地面ごと、二人揃って落ちていく。
土砂と一緒に、数メートルほど落下する。受け身らしい受け身も取れないまま、肩と腰を鈍く打った。
「……いった」
「大丈夫か」
問いかけながら、ミグレナが手を貸そうとする。身体を軽く動かしてみる。強烈な痛みや明らかな異常はない。骨までやった感じではなさそうだ。
「多分……」
声を絞り出す。埃っぽい空気を吸い込んで、軽くむせた。
ミグレナは比較的綺麗に着地していた。悔しいが、経験の差だろう。同じ高さから落ちたはずなのに、着地の衝撃の残り方がまるで違う。
インベントリから、瓶を一本取り出す。苦い味が口の中に広がる。それと一緒に、じんわりと痛みが和らいでいく。
動けないほどではない。一瞬で治るわけでもないが、さっきより痛みはましになっている。煎じ薬が、残り二本になった。
握っていたランプは、幸い落下の途中でも手放さずに済んでいた。火も消えていない。周囲を見回し、俺は言葉を失った。
自然の洞窟とは、明らかに違う。切り揃えられた石壁、妙に正確な角、埃を被った床。人の足跡はどこにもない。空気も、上の通路とは違って澱んでいた。
長い間、誰も足を踏み入れていない場所だという気配だけは、はっきり伝わってくる。
「……部屋?」
「静かに」
ミグレナが短く制し、周囲へ視線を巡らせる。見上げた先、落ちてきた穴は、簡単に登れそうな高さじゃなかった。
「戻り方は、また考えるしかなさそうですね」
縄はまだ残っている。だが今すぐどうにかできる高さじゃない。
(補強ロープはある。でも、上に固定できなきゃ意味がない)
投げても引っ掛ける場所がない。人の体重をどこまで支えられるかも、まだ試していない。少なくとも、今すぐどうにかできる高さじゃなかった。
帰り道そのものを見失ったわけじゃない。それだけは救いだった。
部屋の奥に目を向けると、ランプの灯りが届く先に、何かがある。
人工的な台座。その上に、片手で掴める程度の立方体が一つ。
表面には細い溝が走り、継ぎ目らしい継ぎ目が見当たらない。石にも金属にも見える、判断のつかない質感だった。
よく見ると、ごくかすかに、内側から淡い光が滲んでいるようにも見える。
「……何ですか、あれ」
「分からない」
「近づいてみますか」
「油断はするな」
二人でゆっくり近づく。足音を殺しながら、慎重に距離を詰めた。ランプの灯りが揺れるたび、立方体の表面の溝が、微妙に違う陰影を作る。
カチ、と低い音が、部屋のどこかから響いた。




