第22話 地図は、勝手には埋まらないらしい
入口をくぐった瞬間、空気が変わった。
ランプの灯りに照らされた通路は、思っていたよりも広い。岩肌がなだらかに続き、足元には細かい凹凸がある。冷えた空気の奥から、かすかに水の流れる音が響いていた。壁を這う影が、ランプの揺れに合わせて伸び縮みする。
「……本物だ」
ゲームの中で何度も歩いた景色とは、当然違う。演出も効果音もない、ただの岩と土の匂い。だが、ダンジョンという響きだけで、腹の底が浮つくのを止められなかった。
「随分嬉しそうだな」
「分かってますよ、ゲームと同じにはいかないってことくらい。それはそれとして、テンションは別物なんです」
「ゲームのことはよく分からんが、良かったな」
言いながら、頭の隅で依頼内容を思い出す。ハルム東ダンジョン浅層での素材採取、Dランク。討伐が主目的じゃない以上、変に張り切って奥へ突っ込む理由はない。
ミグレナはすでに一歩前へ出て、壁際へ視線を這わせている。俺が景色に浮かれている間も、彼女の目はまるで違う方向を見ていた。
「……これは」
「何かあります?」
「爪痕だ。それほど大きくない。新しくはない」
「魔物の種類は?」
「分からない。ここだけでは判断できない」
ミグレナが見ているものは、俺にはただの傷にしか見えない。
通路を進むと、壁の隙間に淡く光る苔が見えた。
依頼票にあった採取対象、光ゴケだ。記されていた特徴と見比べる。淡く光る色と、岩の隙間に張りつくような生え方。間違いなさそうだ。
数株摘み取り、採取袋へしまう。指先に触れると、ひんやりとした感触とともに淡い光が揺れた。
「これで一つ、依頼分は確保ですね」
「まだ数が要る」
ゲームなら光る採取ポイントに近づくだけで済みそうなものだが、実際には目を凝らして、壁の隙間を一つ一つ確認する必要があった。
最初の分岐に差しかかる。
「まず右、と」
頭の中で記憶しておく。この程度なら、わざわざ目印を残すほどでもないだろう。
二つ、三つと分岐を抜けたあたりで、様子がおかしくなってきた。似たような岩壁。似たような幅の通路。天井の高さも、足元の砂利の量も、さっきの分岐とほとんど区別がつかない。
「……あれ?」
「どうした」
「いや、この曲がり角、さっき通った気がして……いや、違うか?」
頭の中で来た道を巻き戻そうとするが、うまく像が結ばれなかった。右に曲がったのが二回前だったか三回前だったか、自信を持って答えられない。
ゲームなら画面の端に自動でマップが浮かぶ。今どこにいるか、どこを通ったか、常に見えていた。あの安心感を、今まで意識したこともなかった。この世界には、そんな親切機能はどこにもない。
(マーキング杭……そうだ、持ってきてるのにテンションが上がりすぎて、すっかり忘れてた……)
インベントリを開く。
(マーキング杭……どれだ)
インベントリから目当てのものを探す。道具は増えたはずなのに、こういう時に限って迷う。
一本取り出し、分岐の手前へ持っていく。ちょうど土が積もった場所があったので、先端を地面へ突き立てる。狙った通りにすんなり刺さってくれたことに、少しほっとした。
「これで、ここを通ったことは分かるだろ」
自分で自分に言い聞かせるような口調だった。
来た道を少し引き返し、迷い始めた場所を確認してから、改めて奥へ進み直す。杭が示す通り、確かにさっき通った分岐だった。
だが、次の分岐でも同じように置いてみて、すぐに気づいた。
「……これ、ただ置いただけじゃ、どっちから来てどっちへ進んだか分からないですね」
地面に刺さった杭は、通った証拠にはなる。しかし、進む方向までは教えてくれない。分岐は一つじゃない。どちらの通路を選んだのかまでは、杭の姿だけでは判別できなかった。
「置き方に、ルールがいるのか」
「そういうことです」
単に目印を置くだけでは足りない。置き方そのものに意味を持たせる必要がある。
少し考えて、決める。
「進む時は、分岐を通るたびに進行方向から見て左側へ杭を置きます。それ以外でも、前の杭が見えなくなりそうなら次を置く。帰りは右側に杭が続く道を辿ればいい。それを拾いながら戻りましょう」
「なるほど」
評価に近い声だった。だが、素直に嬉しかった。
それからは、分岐では必ず、一本道でも前の杭が見えなくなりそうなところで左側へ杭を置いていった。
土がある場所では地面へ突き立て、硬い岩床では割れ目へ差し込んだり、壁際へ立て掛けたりする。
魔法のように岩へ刺さってくれるわけではないので、その都度、置ける場所を探す必要があった。刺さらない場所では、隙間に挟んで倒れないよう角度を調整する。
振り返ってランプを向けると、辛うじて杭が見える。右側に杭が続く道を辿れば、少なくとも来た道は戻れそうだった。
四つ目、五つ目と分岐を越えても、自分が今どの辺りにいるのかまでは分からない。それでも、左側に杭を残していけば、帰る時に選ぶ道だけは迷わずに済みそうだった。
「これ、なかなかいいのでは?」
「お前が言い出したことだ」
「褒めてくれてもいいのに」
「いいんじゃないか」
普通ならそっけなく感じるのだろうが、ミグレナなりの評価らしいことは、もう分かってきている。
道中、光ゴケを見つけるたびに採取袋へ足していく。壁の隙間、岩の裏、天井近く。生えている場所は毎回微妙に違い、目を慣らしておかないと見落としそうになる。依頼分にはまだ足りないが、着実に数は増えていた。
杭を八本目ほど置いたところで、通路の先に小さな影が動いた。
「構えろ」
ミグレナが短く言うと同時に、コウモリに似た小型の魔物が三匹、天井の隙間から飛び出してきた。
「――えっ、あ、短槍、短槍……!」
両手は採取袋とランプでふさがっていた。慌ててランプを足元へ置き、インベントリを開く。並んだ項目の中から目当てのものを探す指が、いつもよりずっと焦っていた。
「洞窟コウモリか。大した相手じゃない」
言い終える前に、剣が一閃する。羽音が二つ、同時に途切れた。二匹が地へ落ちる。残った一匹が、甲高い声を上げながら俺の方へ向かってくる。暗がりで見る影は、思ったより大きく見えた。
「うおっ」
ようやく短槍を引き出し、柄を握る。きちんと構える余裕はない。とっさに柄を横へ振った。鈍い手応えとともに軌道が逸れる。倒すというより、追い払う形になった。逸れた先で、ミグレナの剣がそれを片付ける。
「……手伝えてないですね、俺」
「牽制にはなった」
慰めとも本気ともつかない返事だった。
だが、短槍を取り出して反応するまでの動きは、最初にタスクボアと向き合った時よりわずかに早くなっている気がした。
しばらく進んだところで、ミグレナがふと足を止めた。
「どうしました?」
「……この跡、少し変だ」
示された先には、これまでとは違う形の痕跡があった。引きずったような跡と、崩れた土。壁には、何かが体をこすりつけたような跡も残っている。これまで見てきたどの魔物のものとも、雰囲気が違った。
「グレイファングとも、タスクボアとも違う」
「もっと大きい、とかですか?」
「大きさは近い。だが動き方が違う。引きずっている」
「……何だと思います?」
「分からない。だが、用心はしておいた方がいいだろう」
ミグレナの目に、いつもとは違う真剣さが混じっていた。魔物への興味だけではない、もう少し警戒の混じった目つきだった。
依頼分の光ゴケは、まだ足りていない。しかも、今のところ危険度が跳ね上がったと判断できる材料もない。
杭は、まだいくつも残っている。少なくとも、ここまでの道には目印を残してある。
だとすれば――もう少しだけ、この先へ進んでみる価値はある。
ランプの灯りが届く範囲の先で、通路はさらに奥へ続いている。暗闇の向こうに何があるのか、まだ何も分からなかった。




