第九話
お互いに部屋着になる間は着替えを覗かないようにしよう、と言って、廊下に出てしまった喬の背中がドアの外に消えたのち、絵麻は身体をボディシートで拭きながら、明日の朝にでも一緒に銭湯に行くのだと考えつつ、彼の曾祖父という人に少々の恨みを感じる。
(お風呂くらい作ってもいいと思うんだけどなあ。そんなにフィルムが大事なのかな……)
ものを集めるという趣味からおおよそ遠い感覚では、なかなか図れないその心情がわからず、彼女は終始首を傾げたまま着替えを済ませる。
(でも、いつごろからのフィルムがあるんだろう。昭和のはじめとか? 百年前の映画って、何があるんだろう……やっぱり白黒?)
ここに来る途中の古ぼけた鉄扉の向こう側に興味の沸いた絵麻は、入れ替わりで喬が着替えている最中にその中を覗いてみようと思い立ち、それがきっかけでまた新たに話が弾むことを期待しつつ、部屋着のボタンを留めた。
「ごめん、お待たせ」
「いいよ、大丈夫」
着替えを終えて荷物をまとめる間、廊下で待っていた喬の顔は、寒さのせいか生白い。
「じゃあ、すぐ終わるから、そこで待ってて」
「うん」
言葉と共に部屋の中に引っ込んだ喬を見送ると、絵麻は扉の前を離れ、保管庫までの長い廊下をこっそりと歩き始めた。
(喬くんだったら、どこにいるかわかるはずだよね)
中に何が入っているのか、素直に彼に教えてくれと頼めばいいのだろうが、先ほどの速足加減からして、どうもその願いを聞いてはくれそうにない――映画に関係があるのだろうから、真っ先に案内しそうなものだというのに、一切見向きもしなかったこともあり、それをわざわざ申し出るのも気が引ける。
(中に入ったら最後、家のお手伝いさせられて、パーティーどころじゃなくなる、とかかな……)
自分ほどではないが、家族に虐げられている気配のある彼のことだ。逃げ出したい気持ちは、誰よりも理解できる。
であれば、彼の客人が自らそう仕向けたほうが気兼ねはないし、言い訳もたつのではないか、と、絵麻は自分の好奇心に言い訳をしてから、『保管庫』『火気厳禁』という味気ないプラスチックの白い看板が貼られた、分厚い鉄の扉の前に立った。
(鍵、開いてるかな)
鍵穴らしきものは見当たらない扉のノブに手をかけ、ゆっくりと音を立てずに回すが、
「……あれ?」
まるでノブ自体が固着しているかのように、そこは動かない。
「開かない……」
独り言ちてからもう一度、今度はもっと力を入れるが、やはりドアは開かない。
意地になって両手で動かそうと試みるが、手の関節が白くなるほどひねっても、ドアノブはうんともすんとも言わなかった。
「……」
不可解さに手指が震え、頭の天辺から爪先まで、じん、と嫌な痺れが走る。
(……なんで? 何でこんなに、胸騒ぎがするんだろう)
ざわざわとした不穏な感覚は、吐く息の白ささえ濁らせるような――
そんなことを思った時。
「絵麻」
足音もなく背中に立っている気配に、彼女は思わず息を呑んで振り返った。
「喬くん……」
ラフなスウェット姿の彼にほっとするのと同時に、疑問ばかりが沸き上がって、
「ねえ、この中、何が入ってるの?」
その衝動に正直に従い、絵麻は彼に質問を投げかける。
喬は小さく息をついて、二、三秒ほど悩んだそぶりを見せた後、
「中には映画のフィルムがあるんだ。戦前の貴重な『ナイトレート・フィルム』なんかもあるからね、温度と湿度管理のために、ここは開けられないんだよ。鍵も事務所にあるから、今から取りに行ったら、仕事の邪魔すんなって母さんに怒られる」
そう答えて、困ったような笑顔を浮かべた。
「ふうん、そうなんだ……すごいなあ、戦争の前って言ったら、八十年以上前だよね」
「……そう、計算したら、そのくらいになるね」
「いいなあ、じゃあ、今度、見せてもらえる時に見せて」
「父さんの許可が下りたらね。危ないからって、俺もあんまり中に入れてもらえないんだ」
肩をすくめて笑いながら、喬は絵麻に手を伸べる。
「行こう。俺の部屋に流し台あるでしょ、あそこで歯磨きしよう。もう子供は寝る時間だ」
自分もその“子供”だというのに、喬の物言いはいつかの様に、ごく大人びていた。
その手を取ったとき、ぱち、と静電気が走ったように、指先が冷たく痛む。
声に出せないほどの刹那ではあったが、強く握られたその手は氷点下まで冷えたようにさえ思われた。
瞬間、あまりにも馬鹿馬鹿しいひとつの可能性が、ふっと頭に浮かぶ。
喬は、人間ではないかもしれない――
手指の冷たさに、ただ本能的にそんなことを考え、先ほど彼に対して抱いた『天使』のイメージが拡大解釈でつながる。
(まさか。なんでそんなこと思うの? 足だってあるし、尻尾も変な耳もないし、牙も羽根も生えてないし……)
しかし、それこそ、【ゴースト・ニューヨークの幻】のサムでもあるまい、どこからどう見ても、向こう側が透けているわけでもなく、自分と変わらない人間の姿であることを確認してから、絵麻はそのつまらない考えを捨て、彼に導かれるままに部屋の中へと戻った。
ファンヒーターの風で乾いた空気の中、改めて、絵麻はレトロというよりはクラシックに近い、彼の部屋のインテリアを眺める。
(テレビがブラウン管なのは、純粋に驚きだなあ。VHSって初めて見るし、アナログ趣味なんだな。他には何があるんだろ……)
後で彼に調度品のことを教えてもらうか、と考えつつ、絵麻は時計を見遣る。
(警察に連絡……は、してないんだろうな。何よりも世間体が大事な人たちだから)
既に十一時を回った時刻に、さすがに一度くらいはスマートフォンの電源を入れようかという考えが脳裏をよぎったが、母と言い争った内容を鑑みるに、あの両親のことだ、友達の家に逃げたとでも思っているに違いない、と、すぐにそれを取りやめる。
(このまま、帰りたくないな……ずっと、喬くんと一緒にいたい……)
六畳ほどのこの空間――喬の部屋が、どこよりも堅牢で、何者にも手出しが出来ない『安全地帯』なのだという、根拠のない確信が、絵麻を再び扉の外に向かうことを拒ませる。
(……でも、進路のことは話をしないと、やっぱりダメだよね。ここにずっといるなら、こそっと荷物も取りに行きたいし、……一度は帰らないとダメかなあ……)
出来るだけ両親のいない時間帯を狙ってそれを決行しようと、絵麻は計略を練り始めた。
その時、
「絵麻」
背中から抱き着いた彼の声が、急に影を帯びて、彼女の名を呼んだ。
「……なに?」
「今日はさ、……西暦何年の、十二月二十四日?」
「え……に、2026年だよ。……なあに? ど忘れ?」
当たり前のことを訊かれ、戸惑いながら振り向いた絵麻が答えると、
「ううん。……そうか……」
喬は、彼女がこれまで聞いたこともない、ぞっとするほど冷たい声で、その『答え』を噛み潰した。
「……どうしたの?」
ただならない気配に、顔を上げることも怖くなって、絵麻はきゅっと喬の腕の中で身体を縮める。
その背を、ぽん、ぽん、と、寝かしつけるようなリズムで叩きながら、
「何でもないよ。……ただ、今年も、もうすぐ終わりなんだな、って、そう思っただけ」
そう答えた彼の声は、いつもの耳に心地よい穏やかさに戻り、新しい問いを投げかけてくる。
「ねえ、絵麻。いま、君は幸せかな?」
改めて訊かれるまでもない。
絵麻は彼を抱きしめる腕に、ぎゅっと力を籠め、
「うん。最高に幸せ。あたし、喬くんと出逢えて、好きになってもらえて、本当に良かった」
何の迷いもなくそう言い切ると、喬の肩口に頬を埋め、目を閉じた。
「そう。……なら、いいんだ。……俺も、絵麻に好きになってもらえて、最高に、幸せだよ……」
優しい声が耳元でそう囁くと、彼女は不安を解いて、彼の温かい胸に縋る。
そのまま彼女を抱きすくめながら、喬は再び部屋の明かりを消すと、ベッドの中に倒れ込んで、何もかもが満たされたように、大きなため息を吐く。
二人はそれきり口を噤んで抱き合い、薄い掛け布団にもぐりこむと、眠ってしまうまで、時計の秒針が刻む音と、窓の外の遥かな喧騒を、目を瞑って聞いていた。
眠りに落ちる前、指を絡ませて繋いでいた手がそのままだったことに、先に目を覚ました絵麻は驚く。
そうして、彼のまつ毛の長い瞼と、くしゃくしゃの柔らかな黒髪の下、静かな寝息が目の前にあることと、それを独り占めしているこの状況に、否応なしに心はときめいた。
(寝顔、可愛い)
眼鏡のない彼の素顔は端正で品があり、それでいてどこか幼く無邪気で、昭和の邦画スターのようにも、令和のアイドル俳優のようにも見える。
吐く息と布団の中だけが温かい部屋に差し込む、朝ぼらけの光の中、白い肌と黒い髪に映える薔薇色の彼の唇は、モノクロ映画のフィルムからそのまま抜け出してきたような艶めかしさがあった。
その唇に吸い寄せられるように、
(……ごめんね、喬くん、寝てるからノーカウント、ってことにして)
自分の中の気持ちに逆らえず、絵麻は唇をそこに重ねた。
「!」
キスの感触でぱっと開いた彼の瞳は、黒曜石のようにきらめき、一瞬だけ戸惑う色に染まったかと思うと、
「……絵麻」
極めて深刻な色に変わる。
「あ……起こしちゃった」
「……」
「ごめん、……でも、寝顔、すごく綺麗で……ガマンできなかったから、思わず……」
言い訳を重ねる絵麻に、
「……駄目だって言ったのに」
喬は完全に困惑し、繋いでいた手を解いて、自分の唇をなぞる。
「あの……ごめんなさい。嫌だった?」
「……違う。嫌とかじゃないんだ。そうじゃない……」
彼は必死に答えを探している風だったが、やがて、何か諦めた素振りで、
「……寝込みを襲うのは反則。絵麻、もう、こういうのはナシね」
つん、と彼女の苺色の唇をつついて、苦笑いを浮かべた。
「一応、俺、ファーストキスだったんだから」
「えっ、映写機、壊れちゃったの!?」
テーブルの上を片付けてから着替えを済ませた絵麻に、先に着替えて身支度を整え、怪しまれないように家族と顔を合わせてきたらしい喬は、困り果てた様子で肩を落とす。
「うん。いやあ、参ったよ。昨夜の上映の時にやられちゃったって。直そうにも、ちょうどパーツの予備が無くってさ。これからメーカーさんに、部品がないか聞いて回らなくちゃならないんだ。だから、今日は臨時休業」
「えー……せっかくのクリスマスなのに……お客さん来たら、がっかりしちゃうよね」
「……はは、元々、絵麻ちゃんしか来てないから、そっちはいいんだよ。……でも、ごめんな。今日はちょっと、そういうわけだから、俺もここにいない」
申し訳なさそうに頭を下げる喬に、絵麻は寂しい笑顔で首を横に振る。
「ううん、仕方ないよ。……どっちみちあたしも、家に帰って、荷物片づけて来なきゃだし……親に、進路の話とかも、しなくちゃいけないし……」
「そうだな。……」
喬はそこでふと言葉を止め、
「ねえ、絵麻ちゃん。身体、何ともない?」
そんな覚えのない彼女に、心配げに近づき、髪を辿って頬を撫でる。
「あ、……う、うん……なんでそんなこと聞くの?」
喬は自分で質問しておきながら首をひねると、大きなため息をつき、真剣な目で質問を重ねる。
「……他は? 頭痛いとか、気持ち悪いとか、めまいがするとか……」
「ぜんぜん。そういうのはないよ。……喬くん、もしかしてそうなの?」
「いや、そんなことないよ。……そうか……」
何か思うところがあるのか、喬は数秒の沈黙の間、絵麻の両肩をぽん、と優しく叩いてから、学習机の方に向かい、引き出しから何かを取り出すと、
「絵麻ちゃん。……これを、君に渡しておくよ」
そう言って、黒ずんでひやりと冷たい、角の丸い長方形の金属の塊――ぽこぽこと気泡の浮かぶ十字架の中央に髑髏がある、不気味な装飾のそれを、絵麻の手のひらに握らせた。
「……なに? これ……」
「そうだな……」
顔をこわばらせた絵麻の前、彼はしばし考えた後、ひどく昏い、まるでここにいない誰かを見据えるような眼で、
「……『お守り』、ってことにしておこうか」
言葉とは真逆の、禍々しいものでも渡したかのような口ぶりでそう言って、眼鏡のブリッジを押さえた。
「『お守り』……?」
「そう。もしも、今日、これから家に帰って、……ないとは思いたいけど、お父さんから暴力を振るわれたり、何かピンチになったときには、それに触って。持ってることを思い出すだけでもいい。必ず助かるはずだ。……だから、『お守り』。こんな趣味悪い物の例えにしちゃいけないけどさ、『アウリン』みたいなものだと思って」
「……」
【ネバーエンディング・ストーリー】に出てきた魔法のメダリオンの名を使って、少しでも絵麻の警戒心を解こうとしたのか、とりわけ父から害されることを気にかけるように、喬は彼の癖である困り笑いを浮かべながら、それを絵麻に握らせた後、また真剣な表情に戻る。
「外泊したのが知れたら、すごく怒られるだろうから、本当は俺もついて行って、側にいて守ってあげたいんだけど、今日だけはどうしても駄目なんだ。ごめん。……でも、きっとそれは、君を助けてくれるから。だから、絶対に、親の理不尽に屈しちゃだめだ。自分を貫き通して」
そこまで話すと、彼はまるで、それ以上何かを問われるのを拒むかのように、狐につままれた表情をした絵麻を抱きとめ、
「……それから、この先の並木道でさ、銀杏とプラタナスが切り替わるとこの信号、あるでしょ。あそこの横断歩道、危ないから、渡るときは気を付けてね」
【星降キネマ】のある通りに入る道の先にある、その場所の注意を無意味に――しかし、特別大事なことのように告げ、絵麻の髪を撫でた。
「あ、うん……でも、大丈夫だよ。あそこの道、渡る前にいつも曲がるし」
「そうだね。……そうだったね」
彼の言葉の意味を測りかね、首を傾げ続ける絵麻を、喬は愛おしげに眺め、
「絵麻、これからも、俺たちはずっと一緒だよ。……愛してる」
そう呟いて、これまでで一番、彼女の身体をきつく抱きしめた。
部屋の扉を開け、フィルムの保管庫の前の灰色の廊下を足早に通り過ぎ、灰色の螺旋階段を降りて、ロビーに出ると、今日はポップコーンの香りがしなかった。
「まだどこのメーカーも開いてないから、たっぷり時間はある」という喬に、ひとつひとつ、今週貼られていたポスターの作品の、丁寧な、しかしネタバレにならない程度の、実に良い塩梅のレクチャーを受けながら、絵麻は彼と連れ立って言葉を交わしつつ、紺色の絨毯の階段をゆっくりと登って行く。
【東京キッド】【若者のすべて】【砂の器】【2001年宇宙の旅】――
まだ観たことのない作品ばかりが並ぶギャラリーに、きっと、この映画たちのフィルムも先ほどの保管庫に眠っているのだろうと思うと、それがいつか喬と二人で観られる日が、絵麻は待ち遠しくて仕方なくなる。
それは喬も同じなのだろう、絵麻がそう思うと繋いだ手は優しく強く握り返され、とくん、と甘い音で心臓が跳ねた。
やがて、いつもならば彼の祖父が立っているエントランスの、かすかにバターの香りが残る、空っぽのポップコーンマシンの前に貼られた、長い年月を経てセピアに退色しつつある一枚のポスターの前に立ち、
「ほら、この人。黒澤映画で何度も見たことあるでしょ。この俳優さんが、俺が名前を貰った、『志村喬』さん。……ほんと、恐れ多いことしたよな、じいちゃんは」
そう苦笑しながら、右下で、まるで泣くのを堪えるかのような表情を浮かべた男性を、手のひらで指した。
「この映画さ……俺の『特別』なんだ」
【生きる】と、美しく力強い筆致で書かれた文字が座するそのポスターを、喬は楽し気に笑いながら、しかし悲し気にも、喜びとも怒りともつかないような――そのすべてがないまぜになった表情で見つめる。
「最初に観たとき、……確か、小六の時かな。台詞はあんまりよく聞き取れないし、なんだかよくわからなかったから、悔しくってさ。でも、ラストシーンだけは、ずっと頭の中に残ってて、それから何度も何度も、ここで上映するたんびに、客席に混じって、繰り返し観たよ。……俺の、いちばん大事な映画。いつの間にか、好きとか嫌いとか、それを超えちゃった。……」
静かに語りながら、追憶に浸るように長い睫毛の瞼を閉じた、綺麗な稜線を描く眼鏡の横顔の上、ドアの隙間から吹き込む年の瀬の風が、癖のある黒髪をふわりと撫でていく。
「絵麻ちゃんも、いつか観てみて。ね?」
白い肌に映える、赤みの強い唇がそう言ったことに、絵麻は一瞬、素直にうなずきかけたが、
「……うん。『二人で一緒』に観よ。楽しみにしてるから」
まるで、その時に彼が隣にいないような口ぶりが嫌で、寄り添いながらはっきりと返す。
「……そうだね。二人で、一緒に……」
その答えを、深々と噛み締めるように、静かにつぶやいて、彼は瞼を開けた。
シャッターの閉まった受付の前で、
「あ、そうだ、あたし忘れてた。チャット無理でも、番号は交換しようと思ってたんだ」
絵麻はそう言って、スマートフォンを取り出し、電源を入れようとする。
が、その動作は、喬が首を横に振ったことで止まった。
「いいじゃん、また会えるんだし」
「……そう?」
「うん。言ったでしょ、『ずっと一緒』だって。電話なんかしなくても、いつもこうやって話は出来るんだから」
その一言に、絵麻は「それもそうか」と思い直して、スマートフォンをカバンの中に戻した。
その時、ふと見た画面の日付表示で、彼女はあることを思い出す。
(……三連休?)
喬が昨日、口にしていた言葉に、今頃になって引っ掛かりを覚える。
(おかしいな、クリスマス頃に連休なんてないのに)
そう思い至って見遣った喬の笑顔は、どことなく晴れ晴れとしている。
(……通信制高校の、創立記念日かな?)
まったく羨ましい休日もあったものだ、と、絵麻はその疑問を頭の片隅に追いやって、自身も彼に穏やかな笑みを返した。
「……じゃあ、またね」
「うん。気を付けてね。……絶対に、負けちゃだめだよ」
「ありがと。頑張る。映写機、今日中に直るといいね。何も手伝えなくってごめんね、お家の人たちに、よろしく伝えて」
「うん、ありがと」
青い屋根と白いタイルのエントランスで、寂しそうに手を振る喬に同じ動作を返して、絵麻は【星降キネマ】に背を向ける。
スカートのポケットの中には、彼が託してくれた――何故だかそう思わずにはいられない、世界に一つだけの『星降喬』の名入りの認識票が、そして、コートのそれには先ほど渡された『お守り』が入っている。
(もう、何言われても大丈夫。……喬くんと、これからもずっと、一緒にいるんだ。二人で映画作って、世界中を旅してまわって、いつかは、レッドカーペットの上を、二人で一緒に歩きたい)
それがいつになるのかはわからないが、確かな手触りのある『宝物』が出来たことで、自分の中に決してぶれない『軸』が生まれた、絵麻の足取りは力強かった。
その背中を見送り、
「……ごめん、みんな。俺には、これが精いっぱいだ。……でも、これでいいよな?」
喬はそうつぶやいて、一筋の涙を、厚いまつ毛の下まぶたからこぼし、彼女が通りの角を駅に向かって曲がったのを見届けた後、胸に手を当て、冷たい早朝の風に、じっと吹かれていた。




