第八話
三本立ての今日、【小さな恋のメロディ】と【十二人の怒れる男】、そして【スタンド・バイ・ミー】の上映が終わり、「帰れ」という喬を押し切って客席の掃除を手伝い、クリスマス仕様の夕食を買いに行った絵麻が【星降キネマ】に戻って来たのは「必ず自宅に居るように」と言われていた時刻を、一時間半ほど過ぎた頃だった。
「ねえ、あたし、お家の人に挨拶とか、しなくてもいいの?」
ロビーの奥の灰色の扉の中に初めて招き入れられ、そこに広がる殺風景な打ちっぱなしのコンクリートの壁に、青い塗料が剥げた鉄の螺旋階段が伸びる空間を、手すりにつかまって慎重に上りながら、絵麻は先を歩く喬に問う。
「いいよ。クリスマスって言っても、今日は平日だしさ。それに、いつも仕事の後はみんな、ばらばらに適当なもの食べて終わりだから、これが普段通り。お客がいなくっても、仕事の邪魔したら叱られるしね。絵麻ちゃんの話はもうしてあるから、遠慮しないで。みんな夜通しの仕事になるから、何も言う必要もないよ。……でも、本当にちゃんと約束守って、家に帰ってね」
「わかってるよ、大丈夫」
「……怪しいなあ」
笑い声を立てながらケーキを持った絵麻の代わりに彼女のバッグを肩に担いだ喬は、その螺旋階段の途中に現れた、やはり灰色の扉を開けた。
「ついてきて」
先に入って、絵麻をその中に招き入れると、喬はその背を抱くようにしながら後ろ手に扉を閉め、
「へえ……映画館の上って、こんな感じなんだね」
初めて見る景色に夢中になっている絵麻の言葉に、
「……うちがちょっと変わってるだけだよ。上はレストランや売店にして、他に家でも建てればよかったのに、曾祖父さんがフィルムの蒐集家でさ。保管と泥棒避けの方が大事だから、ってここに住み始めたんだって、じいちゃん言ってたから」
ふう、と小さなため息を吐いて答えると、暗いグレーの冷たい廊下で絵麻の手を取り、前に立って、ぐいぐいと引くように歩き始めた。
「ねえ、お風呂屋さん、行くの?」
「……絵麻ちゃんが帰ったあとでね」
「……」
それ以上の答えを拒むような口ぶりに、絵麻は何も言えず、
(で、出来れば、一緒に連れてってもらいたいんだけどなあ……)
何かが起きることを期待してここまで来た自分が少しだけ、申し訳ない気分になった。
建物の奥がこんなに続いていたのか、と思うほど長い廊下と、その先に静かにたたずむ、黒くすすけたモルタルの壁に張り付いた鉄扉の『保管庫』の前を、半分走るような速度で通り過ぎ、それを下階の映写室に下ろすために使っているらしい、人が乗れないサイズの小さなエレベーターの前を通って、ほの白く寂しく冷えた明かりの突き当たりに待っていた、青く塗られたベニヤの端がめくれ上がる扉の前で、喬は足を止めた。
「ここが俺の部屋。……頑張って掃除したけど、あんまりきれいじゃないかも」
そこでようやく、彼は絵麻の方を向き、いつもの困り笑顔を浮かべた。
「客席の掃除、あんなに丁寧にするのに?」
「あれは仕事だから。プライベートは、俺、めちゃくちゃだらしないよ」
くすくすと笑って訊いた絵麻に、肩をすくめてそう言うと、喬は部屋の扉を開ける。
「どうぞ」
途端に鼻孔に流れ込んできた、むせかえるような彼の身体の匂い――映画館の座席と甘い花の香りに、既に腕の中に抱かれているような心持ちで、絵麻はまるで古いアパートの一室のようなその中に足を踏み入れた。
ドアを閉めた喬が、すぐ脇の電灯のスイッチを入れると、天井から釣り下がった四角いペンダントライトの中で、ちかちかっ、と二、三度、柔らかさのある白い光が瞬いてから灯り、靴を脱ぐためのビニールの土間の向こうに、彼らしい色選びの空間が見える。
暗い黄土色の板の間の上に、深い紺のラグが敷かれ、その上には浅葱色の寝具で整えられた畳ベッドが据わっている。
そのベッドと反対側にある古い学習机の脇の本棚には、ぎっしりと映画関連の本が詰められ、机の上のブックエンドには、何冊かの辞書や教科書を押し潰すように、書き込まれたページが膨らんだ分、厚みのある大学ノート――この間、見せてくれた絵コンテの数々であろう、それが並んでいる。
そうして、
「うわっ、すっごい! こんなテレビ、画像でしか見たことない!」
その学習机とベッドの間にある、青いカーテンの下にずっしりと鎮座した、灰色のブラウン管テレビに、絵麻は思わず声を上げた。
「こだわってるね、インテリア。電気もこれ、なんか違う。LEDじゃないんだ」
和風のペンダントライトの中で円を描く、蛍光灯の放つまろやかな明かりをじっくりと肌に受け、ぱきっとした明度のLEDとの、その感覚の違いにも絵麻は驚き、さらに、
「ねえ、喬くん、その四角いやつ、なあに?」
「え?」
テレビの周りに散乱し、積み重なり、地層を成している、三センチ程の厚さを持つ同じ規格で作られているらしい長方形の黒い物体を眺め、首をかしげた。
「何って……ああ、うん、VHSだけど?」
「ぶいえいちえす? 何それ?」
「……また後で説明するよ」
絵麻の質問に、喬は何か言おうとしてそれを言いよどみ、
「ね、先に晩飯食べよ。俺、お腹ペコペコだよ」
彼女が手に持っていたフライドチキンとケーキの箱を見て、胃の辺りを押さえた。
机と本棚の間に挟まっていた折り畳みの小さなテーブルを出し、その上にチキンの入った大きな箱とワンホールのケーキを広げてから、先ずは互いに、ささやかなクリスマスプレゼント――絵麻が映画の感想を書きつけるための分厚い『観賞用ノート』を差し出すと、喬からは、自身の名入りの認識票が渡される。
「ごめんね、どうしても買い物に行く時間がとれなくって、こんなのしかあげられなくって。今のとこ、俺が持ってる中で唯一の高級品なんだ」
「ううん、【トップガン】で見てから、いつかペアで作りたいなーって思ってたから、すごく嬉しいよ。……すご、これ、ダメージ加工してあるんだ。カッコいいね」
ステンレスの一部が変色し、味わいのあるそれを眺め、絵麻はチェーンも入っていない空っぽの穴に、何を通して首にかけようかと考えながら、
「あたしも自分の名前入りの作って、喬くんにあげるからね。待ってて」
まるで彼の分身のようにも感じられる、大切なものを託された想いでそう答えると、喬は少しだけ寂しい眼で微笑み、「うん」と小さな声と共にうなずいた。
ペットボトルのリンゴジュースで乾杯してからすぐ、喬はVHSの山の中を探り始め、
「何か観よっか。【ホワイト・クリスマス】か、【素晴らしき哉、人生!】か……やっぱり、【ホーム・アローン】かな?【戦場のメリークリスマス】もあるよ、どれにする?」
絵麻にとっては見慣れない、その物体の使い道が何であるかを教えてくれた。
「ああ、それ、ブルーレイみたいなものなんだ。ふうん……」
「……うん、そう。何度も観たやつは、テープが伸びちゃって、映りが悪いんだけどね。何年か前には、まだベータデッキもあったから、そっちで父さんや母さんが録画したの貰って、全部移し替えたら、それも画質がだいぶ劣化しちゃって。ほんとはレーザーディスクも欲しかったんだけど、あれはさすがにうちじゃ買えないや」
喬は絵麻のただの感想に、言い訳めいた、そして意味のつかめない単語の並ぶ答えを返すと、やがて一本のVHSを手にする。
「これ観よう。【三十四丁目の奇蹟】。テレビでやったのだから、吹替で観やすいよ」
彼はブラウン管の下にあるテレビ台の扉を開け、それを再生するためのデッキと思しき機械の電源を入れた。
「……」
間違いなく、ブラウン管テレビでは動画サイトが見られないだろうということと、彼の家にパソコンがないということは、インターネット回線がそもそもないのだと把握した絵麻は、もうすぐ通信制限に引っかかるうえ、GPSで居場所が知られれば、怒り狂った父がここにやってくるかもしれないという恐ろしさの方が勝り、スマートフォンの電源を入れるという考えを捨てて、喬の勧めに従った。
最初の十五分間のあいだに、あらかた喬が食べてしまう形でケーキとチキンは消え、残ったポテトをつまみながら、一時間半後に二人は『THE END』の文字を眺め、喬がデッキの再生を止める。
「……喬くん、サンタって信じてる?」
頑なにその存在を否定していたが、クリス・クリングル――『サンタクロース』の温かさと優しさ、大らかさに触れるうち、表情も心も和らいでその存在を信じるようになっていく、画面の中のドリスとスーザンの姿に、むしろ彼女とは逆で、幼い頃にそのことを無邪気に信じていたが故に、『サンタクロース』である父に裏切られてばかりの――人形が欲しいと願えば漢字と算数のドリルが、ゲームが欲しいと手紙に書けば分厚い英語の辞書が届き、これで最後なら諦めようと「お菓子が欲しい」とさりげなく口にした年からは何も枕元に置かれることが無くなった、赤も緑も金色も剥げ落ちたクリスマスの思い出が蘇り、絵麻は映画を見終えた後、幸せな結末と裏腹に言い表しようのない虚しさに襲われ、膝を抱えてうずくまった。そうして、
「サンタか。……うち、来たことないからな。何となく事情は分かってたから、親には何も言わなかったけど。だから、今までずっと、信じてなかった」
返ってきた答えが自分よりも悲惨だったことと、最後の言葉にはっとして顔を上げ、彼を見る。
「羨ましかったよ。他の子はおもちゃもゲームも貰ってさ、自慢しに保育園とか、学校に持ってきたりすんの。でも、俺には何もなくってさ。保育園の頃は、結構真剣に『俺、なんか悪いことしたかなあ』って悩んだよ。で、小学校上がった年に、父さんと母さんに、『サンタなんているわけない、自分たちが子供の頃だってそんなものなかった』って、端っから否定されちゃって。……今、冷静に考えると、ひどい親だなと思うよ。儲かってないのはわかってたけどさ、こういう映画、お客に観せといて、その発言はないよな、って」
彼はそこで、油でぎとぎとになった指先をウエットティッシュで拭き、肩をすくめる。
「クリスマスの飾りもさ、俺の目には、そんなに世間が言うほど楽しく見えないから、全然気分が盛り上がらないんだ。こうやって、モノクロ映画の中で見るのとほとんど変わらない。『赤と緑』は、色の濃淡と明度の違いが認識できるだけ。それが、どうしても引け目感じちゃって、嫌な気分でさ……クリスマスなんて、何が楽しいのか理解できなくて、本当に、映画の中の絵空事でしかなかった。……でも、今は違うよ」
喬の指がリモコンのボタンを押すと、デッキの中で、がちゃ、となにかが静止した後、低く唸るような不思議な音――テープを巻き戻す音が聞こえ始め、絵麻は初めて聴くそれに耳を少しだけ取られつつ、すぐに慣れて彼の次の言葉を待つ。
「今日、こうやってさ、絵麻ちゃんが、初めて俺の部屋に来てくれて、一緒にパーティーっぽいことして、映画観て……外は寒くて、星が綺麗で、ツリーもパレードもなければ、雪も降ってないけど、ここでこうして二人でいられるのが、これまでずっと、色んなことを我慢してた俺にくれた、サンタクロースからのクリスマスプレゼントなんだとしたら、……これからは、いるんだ、って信じてもいいかな、って思った。……本当に、今更だけどね」
「……」
「絵麻ちゃんは、どう? 信じる?」
毎年、会社の忘年会優先で帰りの遅い父を待つことなく、申し訳程度に買って来るチキンと安いケーキを並べた食卓で、英会話や通知表の成績や塾の冬期講習の話ばかりの母に相槌を打ち、空々しいお笑い芸人たちの、笑えないバラエティを見て、読んでもらえない手紙を枕元に置き、そして、欲しいものが何ひとつ貰えない朝を迎えるクリスマス――
それが『普通』なのだと両親に思わされていたことに気付いたときの憤りと悲しさで、サンタクロースを『信じる』ことも、この日に誰かと共に『幸せ』や『奇蹟』を願うことも忘れていた自分の心は、【三十四丁目の奇蹟】を観るうち、嫌になるほどスーザンとドリスに重なった。
まるで、その自分の心を見抜くかのように、喬は絵麻に観せる映画を選んだのだ。
それは、凍えていた手に優しく、ホットチョコレートのカップを手渡されたような温かさで、この季節が訪れるたびに絵麻の柔い心を傷付け続けていた『寂しさ』を溶かしてくれた。
(喬くん、本物のサンタクロース……ううん、天使かもしれない)
物心ついてから初めて、クリスマスを『幸せ』だと感じさせてくれた少年の背中に、彼女は白い翼を見たような気がした。
膝を抱えて自分を見つめながら、にこりと微笑んだ喬に、
「……そう、だね。あたしも、『偽物のサンタ』の、あたしのお願いガン無視のプレゼントじゃない、『本当に欲しかったもの』がもらえたから、『本物のサンタ』は、信じてみよっかな」
絵麻はそう答えてから立ち上がり、テーブルの向かい側から、ベッドに寄り掛かっている彼の隣に移動して、腰を下ろすと、骨ばった肩に頭を寄せた。
テープの巻き戻る音が徐々にスピードダウンし、がち、という音を立てて、デッキは止まる。
ぽすん、と、喬の頬が絵麻の髪に乗り、温かい手のひらが手の甲に重なる。
「……喬、くん」
「なあに?」
ここに泊まりたい、とストレートに言うのも恥ずかしくなり、
「あたし、今日……着替えとか、持ってきちゃったから」
遠回しな――絵麻なりの遠慮をした言葉に、
「……うん」
彼は一言だけ返して、深いため息を吐く。
重なった指先は絡み合うように繋がれ、二人は身体を寄せ合う。
「……今から家に帰ったんじゃ、おまわりさんに捕まっちゃうな」
ぽつりとつぶやいた喬の声が絵麻の肩を滑り落ち、吐息が耳の上でふわりと温かく触れ、絵麻は喬が元からその気がなかったことに今さら気が付かされた。
黄土色の壁に打ち付けられた、かちかちと秒針の音を立てて時を刻む白いアナログ時計は、夜の十時を指そうとしている。
「……あ、あの、その……汗、かいたりとか、してるから……」
「いいよ、そういうの、全然する気ないから」
「え……」
期待していただけに肩透かしになってしまった絵麻は、きょとんとして彼の目を見る。
「前にも言った。だから、同じこと、二度は言わない」
確固たる意志を持って、喬の黒い瞳は絵麻を見つめ返す。
「そんなあ……」
がっくりとうなだれた絵麻の肩を、喬は笑いながら軽くたたいてなだめる。
「当たり前だろ。俺たちまだまだ、子供なんだから。変な雑誌の読みすぎ」
「読んでないもん」
「嘘だ」
誤解されてふくれっ面の絵麻に、喬はあはは、と笑いながら背を向ける。
しかし、
「……喬くん、なんとも思わないの?」
絵麻にそう言われて、
「……『はい』って言ったら、嘘になるよ」
喬は素直にそう返すと、ひどく真剣な面持ちで振り向いた。
「絵麻」
緊張感に満ちた声音で、彼は再び口を開く。
「俺が手を出さないのは、君を本当に好きだからだ。君には、俺なんかと違って、人並みに幸せな人生を歩んでほしいと思ってる。……映画監督になんてならなくてもいい。君が幸せにこの先を生きて行ってくれたら、それで十分だ。それには……」
と、彼はそこで言葉をとどめ、
「……やめよう。また君に『自虐しすぎ』って怒られるのは嫌だ」
そう言って、くすりと小さく自嘲のニュアンスで笑う。そして、
「……じゃあ、せめてさ、おんなじ布団で寝るくらいなら、いいでしょ?」
絵麻が提示した誘惑に、彼は存外素直に乗った。
「そうだね。……でも、約束。手を繋いで眠るだけ、ね。絶対にそれ以上はしないこと」
それがとても大事なことのように、喬は微笑んでみせる。
(ガマンできるかな……)
胸の奥でもやもやとした気分になるのを抑えられないまま、狐につままれた気分で、絵麻は彼の提案にうなずくほかなかった。




