第七話
いよいよ明後日から冬休み、というその日、絵麻の年間の欠席日数は四十日を超えていた。
ここまで来ると連絡も面倒になり、先週の月曜日に「本人が行きたいと言うまで様子を見ながら、冬休み明けまで休ませます」と作り声で話したそれを、電話口の教員は不審がることも心配することもなく受け入れ、絵麻は自分がいよいよ『親の決めた進路』と『形通りにしか生きられない未来』から切り離されたことを感じ、風の中に放たれた羽毛のように心細く、寂しくなりつつ、どこかで安心もしていた。
(大丈夫。とにかく高卒の資格さえ取れば、そこから先はやり方はいくらでもある。通信制だったらお父さんやお母さんに頼らないで、平日にバイトして、お金貯めて、卒業した後に、映像の専門学校に行くことだってできるし、頑張れば奨学金で大学に行くこともできる……『ルールなんて守ってたら成功しない』って、マリリンも本の中で言ってたじゃない。みんなと同じじゃなくてもいい。ううん、違っていいんだ。あたしはあたしのやり方で、喬くんと一緒に『未来』に進むんだ)
駅の改札で、あと四ヶ月と少しで期限の切れる定期券をタッチし、いつもの道を辿り、絵麻は【星降キネマ】へと向かう。
(あたしも映画の撮り方、ちゃんと勉強しなくちゃ。二人で監督になるんだ。あたしも、喬くんとまではいかなくても、シナリオ考えたり、構図とか考えられるようにならないと。バイトのない日は、喬くんと一緒に映画をスクリーンで観て、レンタルや配信も観て、駅の向こうのシネコンにも敵情視察に行こう。古いものだけじゃダメ。新しいものも敬遠しないで観て、研究するんだ。きっと、どこかにあたしたちの作る映画を観てくれる人がいる。その人に届くように、もっといろんなものを知りたい。知らなくちゃいけない。それには、高校で大学行くための勉強するだけじゃ、全然足りない! もっといろんな『世界』を、勉強して、経験して、自分のものにするんだ!)
これまであやふやで、平凡で、両親が引いてきたレール――私立校を退学した時点で、だいぶ外れてはいたが、危うく元通りの道のりにさせられそうだった『未来』をついに自身の力で探し出し、掴み取り、しっかりと定めた手応えに、絵麻の足取りは初めてこの街に降り立ったときのそれより、遥かに力強かった。
「……そっか。じゃあ、もう、本当に後戻りはできなくなっちゃったね」
午前中に、フェリーニの【道】を観たあと、絵麻からいよいよ背水の陣となったことを聞いた喬は、自分も覚悟を決めたように呟いた。
「うん。冬休み明けたら、親と担任に話、する。……いいよ、あたし、喬くんと出逢ってから、よくわかった。もともとあたし、みんなと同じことなんて出来ないんだ。何やっても中途半端だし、クラスの子がキャーキャー言ってるアイドルやドラマも、全然興味が持てなくって、そういう子達に嫌われて、ハブられないように、適当なこと言って、いつも人の顔色ばっかり伺って……気がついたら、自分がいる『世界』に、楽しいことなんて何もなかった。でも、今の世の中だったら、……この、【星降キネマ】に来てから、そういうあたしの生き方だって、認めてくれる『世界』はあるんじゃないか、って思えたの。考えてみたら、あたしにセクハラした担任と戦えたのだって、ちっちゃい頃に観た映画のヒロインが、悪いやつに負けちゃダメだって教えてくれたからだもん。映画はあたしに、“生き方”を教えてくれた。だからあたしも、その映画のヒロインと同じ、“自分を大事にする”っていう言葉をくれた喬くんと、一緒にいたいし、同じ『道』を進みたい。……うん、進むんだ」
駅の直ぐ側にあるとんかつ屋で買った、分厚いカツの挟まったサンドイッチの箱を開けながら、絵麻は自分の選択を全く後悔していないことを確かめるように頷く。
「いい加減、お父さんやお母さんたちの時代と一緒にしないでほしいな。いい大学行って、いい会社入って、生活するために起きてる時間はずーっと仕事ばっかりなんていうの、あたしがやりたいことじゃない。人生は一度きりなんだもの、うまくいくかはわかんないけど、やりたいことは思い切り、納得するまでやりきってから死にたいよ。喬くんと一緒なら、あたし、それが出来る」
「……“人生は一度きり”、か……」
先程観た話の、なんとも重く物悲しく、無情な結末を引きずるような口調で喬はつぶやくと、
「そうだね、その通りだ。やりたいことは納得するまでやりきってから、だよな」
そう言いながら、絵麻の頭を撫でて微笑む。
「……ふふっ」
その優しい感触と、自分が愛されている嬉しさで笑い声をこぼしたあと、
「そういえば、喬くん、冷え性治った?」
この頃、彼が寄せてくる頰や身体が温かく心地良くなり、初めて触れ合ったときのように、固く冷たく、どこかこわばった感触がなくなったことを喜び、大好きな彼の匂い――映画館の座席の匂いと、数日前から感じるようになった濃厚で甘い花の香りを吸い込み、ため息を付く。
「ん、おかげさまでね。絵麻ちゃんといると、すっごく調子いいんだ」
彼は絵麻の髪にも唇を寄せ、肩を抱いて寄りかかる。
「……ねえ、何か、コロンとかつけてる? 最近、すごくいい匂いもするけど……」
「そう?……そっかな。シャンプー、変えたせいかな」
その答えに、絵麻は思わず彼の方を向こうとして軽く身を捩る。
「え、こんないい匂いのあるの? あたしも使いたいな」
「ダメ。俺、絵麻ちゃんのシャンプーの匂い好きだから、変えちゃったら困る。それに、これは俺んちにはないの。近所の銭湯にしか置いてないんだ」
「銭湯? この辺にあるんだ?」
「ああ、うん。ほんとにすぐそこにあるよ。俺んち、風呂ないからさ、家族みんなでそこに通ってるんだ。フィルムの保管するのに、湿気があっちゃ困るからって、俺の曾祖父さんがここ建てる時に風呂は作んなかったんだ、ってじいちゃんは自慢するけどさ、今どき内風呂がないなんて、学校中で俺だけだったから、すげー恥ずかしくって……」
「え、すごい! この令和の世に銭湯なんて、めっちゃエモ……あたしも、冬休みに行ってみようかなあ」
映画黎明期の明治から大正、昭和と平成初期までに制作された作品に触れるうち、すっかりその時代の文化に心が惹かれ、昨今のレトロブームも相まって、そういった言葉に敏感になり、喬の話にぱっと目を輝かせた絵麻に、
「……」
何を想像したのか、喬は顔を真っ赤に染めると、彼女からそっぽを向いてしまった。
「あ……喬くん、なんかいけないこと考えたでしょ」
「か、考えてない、考えてないよ!……ほんと、やめて、そういうの……」
映画から得るものはやはり多いのだろう、普段は発言がひどく大人びているのに、こういった場面では、年相応に純で正直な反応を見せる喬が、絵麻はここ数日、ことさら愛おしくて仕方がない。
「うそ。顔真っ赤だよ。……あたし、いいのにな。喬くんなら」
「馬鹿。女の子がそういうこと言っちゃだめ」
「んもう、素直じゃないなあ……」
顔をそらしたままの彼に、蓋を開けたカツサンドを手渡しつつ、絵麻は自分も恥ずかしくなって、首から上が熱くなるのを感じた。
無言のまま、喬が二箱目のカツサンドを食べ終えたとき、
「絵麻ちゃん」
彼女が入り口で買ってきたピンクの缶ジュースを一気に飲んだ彼は、それを足元に置くと、ひどく思い詰めた声音で、膝の上に身をかがめて絵麻の名を呼んだ。
「なあに?」
「……絶対に、駄目だからね」
「え……」
「今の話。……何かあっても、俺は責任とれないから」
「……」
喬はなにかに怯えるかのように、言葉尻を震わせ、一度、唾を飲んで先を続ける。
「……俺、怖いんだ。本当に、取り返しのつかないことになるからさ。だから、夢ばっか見てないで、もっと冷静に考えたほうがいい」
もう慣れてしまった、極めて大事なことを話すときの、彼の重い気配と喋り方の癖を、絵麻は何も言わずに受け止める。
「その時の勢いだけで物事を決めると、冗談抜きで、一生後悔するよ。だから、そういうのは絶対、ナシね」
そこでようやく、わずかに絵麻の方に顔を向け、喬のくせ毛の下の黒い瞳は、じっと彼女の紅茶色の――彼の目には、彼だけの知り得る色に映っているであろう虹彩のそれを、優しく諭すように見つめた。
しかし、それに首を横に振ってから、
「そんなの、誰だって同じでしょ? じゃあ、……喬くんは、あたしと何も起きないまま、離れ離れになっちゃっても、……平気なの?」
ここへ来るため、満員電車に乗るたびに、喬以外の男性に――たとえそれが仕方のないことだとしても――触れられることは、やはり不愉快でしか無いと痛感する絵麻は、こともなげに答えてから、逆に質問を返し、彼の言葉を待つ。
小さく低いため息とともに、ふわ、と彼の身体から立ち昇る、懐かしく甘い香りが、鼻先をくすぐった気がした。
「……平気なわけ、あるかよ……」
身体を起こし、絵麻の両頬を手で包んで、喬は額をくっつける。
「俺だって、他の誰にも、絵麻ちゃんの身体なんて触らせたくないよ。でも、それとこれとは違うんだ。……とてもじゃないけど、俺には……絵麻ちゃんの気持ちに、全部応えるなんて出来ない」
目を閉じて口づけを誘うには近すぎる距離で語る二人の間に、強い花の香りが漂う。
「喬くん……」
「ごめん。今の俺は、映画のこと以外考えられない。……ずっと我慢してたこと、ぜんぶ蓋開けて、ひっくり返して、形にし始めたばかりなんだ。諦めようと思ってたもの、何もかも残らずやってみたいって。……中途半端にしたくない。そんなことしたら、きっと、何十年も後悔して、自分が嫌いになると思うから」
「……」
「俺は絵麻ちゃんが好き。好きだから、絵麻ちゃんに後悔させたくない。こんな中途半端な俺を、絵麻ちゃんにやるわけにはいかない。だから、……だから、何も期待しないで。それに君は、まだ中学生だ。焦らなくていい。俺だって、高校生だし。俺たちが……大人になってからでいいんだ。自分で自分の面倒、見られるようになってからだよ」
彼はそう言って顔を離し、両手から彼女の頬を解放すると、人差し指で額をつついた。
「えー……」
「えー、じゃないって。次、そういう話をしたら、俺、帰るから」
小さな子供のように好奇心を隠さない絵麻に、喬はぴしゃりとそう言って、カツサンドを半分、大口でほおばる。
「……キスくらい、してくれたっていいじゃない」
恨めしそうに見遣る絵麻を、
「だめ。俺とそんなことしたら、呪われるよ」
口の中のものをうわばみのように飲み込んだ喬は、わざと絵麻から距離を取るように、ベンチの上で座り直す。
「呪われるなんて……自己評価低すぎだよ、喬くん」
「上等。増長するよりずっといい」
彼は残りのカツサンドをぽいと口に放り込んで、さっさと咀嚼し、嚥下してしまうと、
「……さて、次の上映まで、あと十分しかないね。【雨に唄えば】は、食べながらだと絶対笑ってむせちゃうから、残り、それまでに食べちゃおう」
そう言って、いつも通りに柔らかな笑みを浮かべ、三箱目に手を伸ばした。
その日もいつも通り、誰もいない家に帰った絵麻は、軽い食事を済ませた後に風呂を沸かして、湯船に浸かりながら喬の言葉を反芻し、余分にのぼせていた。
(呪われる……)
その後に続いた、不穏な響きの単語――『呪い』という言葉を口にしていたことを思い出して、大げさだな、と小さな笑い声を立てる。
(『呪い』なんていうなら、お父さんとお母さんの子どもだっていうことが一番の呪いだよ。なんであんな人達が、あたしの親なんだろう。……本当に、高校合格したら、喬くんと一緒に暮らせないかな、【星降キネマ】で。……住み込みで、お金なんかいらないから、お客さん呼ぶために、もっとなにか工夫して……)
ホームページも作っていないらしく、検索しても出てこない【星降キネマ】の営業と広報で、何か喬の家の力になれはしないだろうか――そんな事も考えるが、それと同時に、
(そうだ、……十八歳になれば、結婚もできるんだ)
以前、クラスメイトが話していたドラマか何かで、通信制高校に通う高校生が大学生と結婚しているという設定であることに、殊更きゃあきゃあとはしゃいでいたことを思い出して、絵麻は今頃になってその気持ちが少しだけわかるような気がしていた。
(いいなあ、家族みんなで映画館経営しながら、あたしと喬くんは映画監督目指すのって。すごく楽しそう……)
無邪気な夢と同時に、喬が自分に手を出さない――こちらからモーションをかけても、キスの一つにも応じないことに、やはり不安と不満は募る。
(あたしだって、そういうこと、何も知らないわけじゃない。そこまで子どもじゃない。……あたしがいいって決めたんだから、いいの。喬くんの気持ちを、『呪い』だなんて思わない。もしもそれが、本当に『呪い』だったとしても、あたしはそれで構わない。でも、喬くんは、本当にあたしのこと、好きなのかな……ハグはしてくれるし、おでこもこつんってするけど、そこから先は無しなんて、なんかお預け食らってるみたい。好きなら、その証拠を見せてほしいんだけど、なんであんなに拒否るんだろ……)
彼の言動の端々に納得のいかない唇を指でなぞると、絵麻は湯船から上がった。
小遣いでこっそり買った化粧水を塗り、歯磨きをしながら洗濯機が乾燥を終えて止まった音を聞き、部屋着に袖を通したところで、廊下の向こう側から玄関の鍵が開く音がした。
(うわ、やだな、お父さんじゃないよね)
今月に入ってから一度も姿を見ていない父と、こんな無防備な状態で顔を合わせることにならないように短い祈りをささげると、玄関のタイルの上で革靴ではなくヒールの音がして、それが母だということがわかり、絵麻は少しだけ安心してから、とりあえず地肌だけでも乾かそうと、ドライヤーを手に取ってスイッチを入れる。
(顔合わせるの嫌だな、飲み物だけ持って、さっさと部屋に行こう)
熱い風に、短く切り落としただけの雑なボブから伸ばし始め、やっとセミロングと言える長さに届いた、ほんのり茶色がかった黒髪が鏡の中で乾かされていく。
(喬くんの目に、あたしの髪はきれいに見えるかな……)
喬の話を聞いてから、少しでも彼の見ているものを知りたくて、検索しているうちに『色覚多様性』という言葉を見つけ、いくつかの当事者の記事を読んでは、彼の目指す夢を諦める理由にならないことを知り、シミュレートされた画像やアプリケーションを介して、喬の見ている『視界』に少しでも近づきたいという純粋な思いで見つめた『世界』の彩りは、まるでゴッホの絵のようだと絵麻には感じられた。
それを素直に伝えたとき、『色盲』という言い回しよりも柔らかい単語に、泣きそうな程ほっとした様子を見せたあと、「そういう言い方と感じ方もあるんだね」と、積年の重荷が消えたような顔でひどく嬉しそうに彼が笑っていたことに、絵麻も胸をなでおろしたものだった。
(アプリでは、あたしが見る夜空よりも、喬くんの見る夜空は青が濃くて深い。街のオレンジや赤の光も白くなる。だから、ゴッホの【星月夜】みたいに、夜の明暗のコントラストがはっきりして、本当に綺麗だった……)
その夜空を“美しい”と感じた自分の心は、誰が何と言おうと胸を張って「これが自分の嘘偽りない本心だ」だと誇れる。
それは、絵麻の中に新たな感性が芽生えた、確かな手触りだった。
(あたしもあなたと同じ『世界』を、見たいと思ったよ。視界の色は違っても、あたしたちの生きてる『世界』は変わらない。あたしたちは、同じ『世界』にいるんだ)
乾かしすぎないうちにドライヤーを止め、手櫛で軽く整えた髪をつまんで、この髪の先までも、喬が大切に愛おしんでくれていることに、絵麻は満足して息を吐く。
孤独だった心の、一人では埋められなかった部分を満たしてくれた数々の映画を、共に笑い、泣き、時には息を詰め、憤りながら観ては楽しく語り合った、誰より愛しい喬の優しい声と話し方、穏やかな笑顔と甘い香り、黒い髪と瞳――そのすべてを、自分が受け止めたいと願うのは、彼の言うように年不相応のわがままなのだろうか。
(好きなのになあ。付き合おうって言ったのも喬くんなのに、なんでだろう……)
彼への疑念を胸の内でつぶやくと、絵麻は洗濯物を自分のバスケットに入れ、洗面所の明かりを消し、母と対峙するためにキッチンとリビングが繋がった空間に足を運んだ。
「絵麻」
飲み物を取りにキッチンに入ると、地続きになったリビングのソファから母が声をかけてきたが、絵麻は返事もせず、そちらを向くこともなしに冷蔵庫に向かい、コンビニで買ってきておいたペットボトルの水を手にする。
「……明日、お父さんが早く帰ってくるから、六時には家にいなさい」
「……」
その時間は、三本目の上映の真っ最中だろう。まずその時間に帰宅する気はさらさら無い、と絵麻は無視を続け、足元に荷物を置いてから、ぱき、と音をさせてペットボトルの蓋をひねる。そして、
「あなたの進路と塾のことで、お父さんが決めたことがあるから、ちゃんと話を聞くように……」
その一言で、瞬間湯沸かし器のように、怒りが沸点に達した。
「お父さんが決めた? まだそんなこと言うの。あたしの意思はガン無視?」
「……」
「この間も言ったよね? もうあんたたちの思い通りにはならないって。話聞いてた?」
「……」
「だいたいさ、自分が言いたいことあるなら、なんで自分で言いに来ないの。言いにきたとこで話す気もないけど。あたしのこと『出来損ない』だの『馬鹿』だの、さんざん文句つけて雑な扱いしておいて、あの人、なに今更、父親面してんの」
「絵麻、あのね……」
「あんたも同じ」
弁解か弁護か、何かを言おうとした母を、いよいよ絵麻は激しい憎悪を持った目で睨めつけた。
「あたしが三日間、駅向こうの図書館にいたとき、何も理由訊かなかったよね? なんで担任が変わったか、どうして自分で髪の毛切ったか、原因知らないの?」
「……」
「ねえ、知らなかったわけじゃないんでしょ? あたしがあのセクハラ野郎にブチギレて、ハサミ投げて大騒ぎになって、そっからあいつに着替え覗かれた子とか、パンツの色聞かれた子とか、ブラ透けてるって背中触られた子とか、あとからボロボロ出てきたんだよ? あたしが黙ってれば、もっとひどいことされた子もいたかもしれないんだよ? あんた、自分の娘があのおっさんに胸触られそうになったり、キモい手で髪の毛触られても、なんとも思わないの? 自分が同じこと、職場のキモいジジイにされたらどうなの!? それでも我慢しろって!? 黙って学校に行けって!? あんた馬鹿じゃないの!?」
「絵麻、……」
激昂した絵麻に、母はその名を呼ぶだけになり、それきり言葉を失う。
「娘の心配もしないで仕事に逃げて、何が親よ! 何度でも言う。あたしはもう、絶対にあんたたちの思い通りになんかならない。こんな家なんて出てってやる。あんたたちの力なんて借りない。自分で働いてお金稼いで、自分の行きたい学校に行く。……ていうか、そんなに命令したいなら、犬でも飼えば? どうせ、噛みつかれて大怪我するのがオチだけどさ。犬だって馬鹿じゃないから、従う相手は選ぶよ」
心底見下した感情を吐き捨てると、絵麻は母から顔を背ける。
いちばん最初に喬と二人で観た【オズの魔法使】のトトの演技に感心させられただけに、その言葉には強い真実味があった。
「そっちが勝手なこと言うなら、あたしもそうする。あたしの人生に、もうこれ以上口出ししないで」
力なく佇む母の逆光のシルエットに横顔からそう言い放ち、バスケットを手にすると、絵麻はキッチンを出ていく。
その背中にかすかなすすり泣きが届き、すぐにそれは激しい嗚咽に変わったが、彼女はもう振り返らなかった。
(もういい。もうわかった。あの人たちと同じ屋根の下で暮らしたくなんてない!)
部屋の内側から施錠すると、絵麻はスポーツバッグを出して、洗濯バスケットとタンスの中から何枚かの着替えを取り、乱雑にその中に詰めていく。
(家出してやる。卒業したら、なんて悠長なこと言ってられない。あたしは絶対に、親の思うとおりになんかならない!)
折しも、明日はクリスマス・イヴだ。外泊には――そして、喬との仲を深めるには、おあつらえ向きも過ぎる日付というものだろう。
(どうなったって知るもんか。喬くんがあたしに何しても構わない。もう嫌だ、あたしは今のあたしじゃない、別の人間になってやる!!)
感情に任せるまま荷造りを終えた絵麻は、朝一番の電車で【星降キネマ】に向かうのだと心に決めて、目覚ましをかけ直すと、さっさと布団をかぶって眠ってしまった。
「それで家出してきた、ってわけか……いやいや、今日、よりによってクリスマス・イヴでしょ? 終業式だってあるんだろ、そんなことして大丈夫なの? きっと心配して、後からものすごく怒られるんじゃない?」
結局ほとんど眠ることができないまま家を抜け出し、まだ夜の気配が残る街並みを、まるで泥棒のように身をすくめながら歩いて始発に乗った絵麻は、お土産にと彼女がコンビニで買ってきた肉まんを片手にした喬にそう諫められるも、ロビーのベンチの上で心配そうにこちらを見やる彼に、つんとそっぽを向いて腕を組む。
「いいの。だって、どう考えたって悪いのは向こうだもん。見つかっても、怒鳴られたり暴力振るわれたら、警察駆け込むからいい。今はそういう世の中じゃん?」
「……そっか、そういう世の中なんだよな、うん」
帰ってきた答えに納得したように、深々と頷いて肉まんを頬張る喬の姿に、絵麻は小さなため息を吐く。
ここからなかなか外に出かけることもなく、碌にテレビもネットも見ないという普段の生活が生活だけに、少々世間からずれた――時折、父や祖父に殴られることもあるらしいが、どうもそれを当たり前のことだと思っているような節があったり、母や祖母の言うことに逆らえなかったりと、自分と同じかそれ以上に家族に振り回されている様子がある喬は、絵麻がこういった話をするたびに、自身の中の認知バイアスを懸命に塗り替えているらしかった。
「喬くんも、あんまりひどいことされるようなら、学校の先生とか、おまわりさんに相談したほうがいいよ」
「ありがと、心配してくれて。でも、大丈夫。……俺んちは、そういうので悪い評判立つと、客足に影響するからさ、なんかあっても黙ってないといけないんだ」
困り笑いを浮かべた喬の言葉で、絵麻は自分のいたらなさに気がつき、はっとして口元を抑える。
「……そう、なんだ。でも、おかしいと思うよ。ガマンなんてしなくたっていいのに……辛いな、そういうの……」
「大丈夫だよ、慣れっこだもん。それに、今は絵麻ちゃんが優しくしてくれるから、なんとも無い。今だってさ、そうやって心配してくれるんだもの。俺のこと、すごく気を遣ってくれてさ、すっげー癒やされてるよ。ありがとね」
彼の境遇と態度に今一つ得心は行かないものの、いつもの率直な笑顔と甘い褒め言葉が返ってきて、それがまた照れくさく、
「あ、あはは、そう……」
絵麻はふんわりと温かくなった胸元を押さえ、はにかんだ笑みを返した。
それを見て、喬もふっとかすかな笑いをこぼし、
「……びっくりした。始発で来るとは思わなかったよ」
ぽつりとつぶやいて、絵麻の瞳を眼鏡の奥からじっと見つめる。
「え、あ、……誰とも顔、会わせたくなかったから……家出って、そういうものじゃない?」
「それもそうか。……ここなら、誰も来ないと思うから、ゆっくりしていきなよ。でも、夕方にはちゃんと家に帰って、親と話し合うんだよ」
「……」
「約束。そうしないと、本当に取り返しのつかないことになるよ」
「約束……」
おうむ返しにつぶやいてみるが、もしも、喬とその家族の許しが得られるのであれば、いっそここに幾日か泊まってしまおうと思って――それをすんなり許してもらえると思い込んで、洗面用具と着替えまで用意してきてしまっている。
ここで逃げ出さなければ、冬休みいっぱい、父が支配し、母が助けてくれない家に閉じ込められると考えただけでも怖気が走るというのに、年が明けてからは、そんな恐ろしい家と、足を踏み入れるのも嫌になってしまった学校を往復するだけになるのだ。
そんな羽目に陥るくらいなら、このままここで喬たちと暮らし、卒業式もすっぽかして、どこかで働き口を探しておこうか、とさえ思う程度には、絵麻は自分のこれまでの生活に未練はなかった。
それだけに、
「……わかった」
「OK。じゃあ、ここで上映始まるまで、話してようか」
口ではそう答えつつ、まったくその気はない返事を返すと、薄々それに感づいているような言葉が返ってきて、絵麻はほっとしたものだった。
「ていうか、開いててよかった。開いてなくても、開くまで待つ気でいたけどさ」
入り口の自販機で買った缶ココアのプルタブを開け、そのぬくもりを一口飲みこんでから、絵麻はこんな早朝でも変わらずに開館していた【星降キネマ】に驚くが、
「ああ、うち、クリスマスから年末までは、オールナイト上映なんだ。従妹の兄ちゃんと父さんで交代しながらやるから、二人ともピリピリしてるよ。じいちゃんとばあちゃんも、仮眠しながら仕事してる。今はちょうどその時間かな、だから姿、見えなかったでしょ」
喬はすぐにその謎の答えを提示し、絵麻の疑問を解いた。しかし、
「オールナイトって、何やってるの?」
何の気ない絵麻のその質問に、ぐっと喉を詰まらせる。
「……それは言えない。俺の口からはとても」
喬のリアクションに、何となくその上映内容の察しがついた絵麻は、
「なんでよ。……あ、もしかして、『ピンク映画』でしょ」
そう言って彼をからかい、自分の朝食に買ってきたあんまんを手の中で二つに割る。
「いやいや、ちゃんと『ロマンポルノ』ってジャンルがあるんだから、そう言ってよ……あ、しまった」
言ってから慌てて口を抑えた喬に、絵麻は思わず吹き出す。
「あー、やっぱりそういうのなんだ」
疑惑の眼差しを送られた喬は、苦笑いしてそれを否定する。
「違う違う。さすがにクリスマスだし、三連休は別物。毎年この時期は、一人の映画監督の作品をクローズアップして、集中的に上映するんだよ。去年はチャップリン、一昨年は小津安二郎、その前はスタンリー・キューブリック。今年は黒澤明だよ。ついさっき、【羅生門】の上映が終わったところ」
「へえ、観たかったなあ。仮眠なんてしないで、こっちに来ればよかったかなあ」
「おまわりさんに捕まって家に帰されるのがオチだよ、やめて正解。前にも言ったでしょ、ここは治安が悪いから、女の子が暗い時間に一人で来るのは危険だよ。たまたま俺がバイトない日だったからよかったけど、もうこんなことしちゃだめだからね」
「はーい」
家族にされなくなった気遣いをしてくれる彼の言葉は、憎しみに凍てついていた絵麻の胸に、じわりと甘く優しいココアの温かさで染み込んでいった。
「……それにしても、本当に今日、うちに来てよかったの? 家でクリスマスとかやるんじゃない? これからお正月だって来るでしょ、本当に戻らないつもり?」
そうして続いた喬の問いに、絵麻は首を縦に振って答える。
「うん。そんなのどうでもいい。クリスマスなんて、もう何年もやってないし。年末年始も、おじいちゃんとおばあちゃんとこ、ちょこっと挨拶行って終わりだし、……それも、お父さんたちと一緒で、あたしが私立やめてから、ずっと当たりがキツイからさ……もう、いいや」
今年の正月、酒にしたたかに酔った父方の祖父母が、「一色家はみんな高学歴だというのに、中学校の勉強もできない孫なんて恥ずかしい」と、手洗いから戻るタイミングで吐き捨てたのを聞いてから、それまで優しくされていた記憶がすべて潰れて無くなった気がした、心に深く刺さった棘と膿んだ傷の痛さに、絵麻は思わず顔をしかめる。
そこからあふれ出していく、自身の人格そのものを否定し、支配しようとする大人の考え方に束縛され、精神と身体――『命』を削られながら、あらゆる形の暴力に屈し、従順に生きることしかできなかった絶望感を久しぶりに言語化したせいで、彼女の表情は濃く曇っていった。
「もう、誰もあたしのことを心配しないから……あたしが生きてても、死んでても、世の中はきっと何も変わらないで、お父さんとお母さんも、学校も、毎日が普通に過ぎてくんだよ。……あたしが生きてくのは、あの家でも学校でもない。ここ。……喬くんの、隣がいい」
「……そっか」
喬は手を紙おしぼりで丁寧に拭いながら、哀しみとも喜びともつかない笑顔を見せる。
「絵麻」
「うん?」
彼が自分を呼び捨てにするときは、特に伝えたいことがあるときなのだと、このごろ心得た彼女は、黙ってその言葉を待つ。
「……ごめんな」
「?……何が?」
彼の黒い瞳は、一瞬、何か言いたげに澱んだが、
「ううん、……何でもない。ありがと」
今しがたの謝罪と同様に、絵麻には意味の分からない感謝の言葉を述べると、不意に彼女の頭に手を乗せ、髪を二、三度撫でてから、ベンチに座り直し、二つ目の肉まんに噛り付いた。




