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第六話


「……やばい、すっげー美味い。お店のとぜんぜん違う……」

午前中、【アパートの鍵貸します】を観終えた後、さすがに客席ではなくロビーで昼食を広げ、絵麻の作った唐揚げを一つ丸ごと食べてから、喬は下手な映画を見たときよりも感動したような声を上げた。

「そ、そうかな? ていうか、調理実習以外で作ったの初めてだから、一応自分でも確認したけど、中、生揚げになってないよね……?」

「全然。絵麻ちゃん、料理上手だったんだね。ホントにすごく美味しいよ」

 次いで卵焼きに箸を伸ばし、ふと喬はその手を止め、

「うわー、俺、幸せ者だ……こんな可愛い彼女に、ご飯作ってもらえて、最高だよ……」

 まるで初めてそれを食べたかのような、天真爛漫な笑顔とともに頬を染める。

「やだなあ、大げさ。料理動画とかは時々見るからさ、それでなんとなく覚えてて、真似しただけだから。ホントにそれだけ……ていうか、ちゃんと野菜も食べてね?」

「大丈夫、食べるよ、後で」

「ほんとにぃー?」

 冗談を交わしながら、絵麻も自分の弁当箱を広げ、「いただきます」と手を合わせてから、いんげんの胡麻和えに手を付ける。

「喬くんのお母さん、お料理こだわってるみたいだし、上手なんでしょ?」

「んー、まあ、それなりに、かな。ていうか、親の作ったものと、好きな子が作ってくれたものは全然別だよ。同列にはできない。……でも、正直、絵麻ちゃんのほうが上手」

「えー、あ、あはは……な、何か、そう言われると、申し訳なくなっちゃうな……」

 そのうち顔を合わせるかもしれない相手に今から気まずい感情を抱いて絵麻が苦笑いすると、それを察した顔で喬は小さく吹き出し、彼女の肩をぽんぽん、と叩く。

「いいって。実際、メニューが炒め物と煮物だけでさ、レパートリー少ないんだよ。金もないから材料も限られちゃって、もやしとか玉ねぎとか、ちくわとか、ツナ缶とかそんなんばっかで。卵焼きもこんなに厚くないし、唐揚げなんて家じゃ絶対作らないから、給食でしか食べたことなかったなあ……」

 ひどくしみじみした様子で、手皿の上に浮いている、箸でつまんだ卵焼きを眺めてそう言うと、喬はそれも大口を開けてぱくりと頬張り、じっくりと味わってから飲み込む。

「……嬉しいなあ、玉子焼き、出汁入ってて甘いほうが好きなんだ。母さんが作ると『砂糖は頭がバカになる』なんて言ってさ、おせちの伊達巻作るときしか使わなかったんだよ。そのくせ、塩っ辛いのには無頓着で、父さんとじいちゃんの好みに合わせて、醤油だけドバドバ入れてさ、出汁も何も使わないから味気なくってパサパサなの。しかも、ついでに野菜食え、なんて言って、ミックスベジタブルとかネギとかも入れてくるから、形もこんなきれいじゃなくってぼっこぼこで、ホント、味も何も滅茶苦茶で、玉子焼きなんだか、何食べてるんだか、全然わかんないんだよ……ああ、でも、……それもまあ、悪くはないんだけどさ」

「……やっぱ好きなんじゃん、お母さんの味」

「へへ、まあね。それで育ってきたから。こういうご馳走が出てきたことはあんまりなかったけどさ、気取らないで食べられるものが多かったな……」

「……」

 その言い回しが、まるで過去を思い返すようなものだったことが気にかかり、

「喬くん、……お母さん、お家に、もういない……とかじゃ、無いよね?」

 できるだけ失礼にならないように気をつけたつもりのニュアンスで、そっと顔色をうかがうように絵麻が訊くと、喬はぎくりと身をすくませ、

「う、ううん、そうじゃないよ。今もバリバリに仕事してる。……最近、それで忙しくて、作んなくなっちゃったからさ。昼もほら、こうやって別々に取ってるじゃん?」

 完全に困り笑顔でそう返して、

「あ、じゃあ次これ、ポテトサラダー」

 若干わざとらしいはしゃぎ方をしつつ、タッパーの中身に向き直る。

「……そっか。なんか、大変だね」

 同じワーキングマザーを持つ身として、毎日食事を作るだけ己の母よりはまだましだと結論付け、それ以上追求する理由もなく、絵麻は彼の発言に含まれていたような気がしたわずかな違和感を捨て置き、自分の弁当箱の隅に入れた卵焼きを箸で挟む。

「まあね。……あ、嬉しいな、ハムとゆで卵も入ってるんだ。ゴージャスだなあ」

 その言葉をさらりと流しながら、彼はポテトサラダを口に入れると、忙しなくおにぎりにも手を伸ばし、実に幸せそうに、夢中になって絵麻の手料理を堪能し始めた。


 よほど嬉しかったのか、喬は二十分もしないうち、絵麻が作ってきた三人前か四人前に近い量の唐揚げと玉子焼きに、ポテトサラダにいんげんの胡麻和え、茄子とピーマンと豚肉の味噌炒め、そしてマヨネーズと和えた鮭や塩昆布とチーズを入れた少々不格好な三角のおにぎりを、ぺろりと八割方平らげてしまった。

 相変わらず気持ちの良い食べっぷりと、これまで彼にどの昼食を買ってきたときより、何倍も喜びでいっぱいのリアクションを素直に交え、時折その手を止めては「美味しいよ」と「ありがとね」を繰り返す喬に、腹よりも心がはち切れんばかりに満たされた絵麻も、自分が食べ終えた弁当箱を片付け、いつもの缶ジュースを飲み干し、ポケットからリップクリームを出して塗りつつ、一息つく。

 そして、

「あのさ、さっきの話……お家の手伝い、あたしに出来ることあったら言ってね」

 喬の話を思い出し、本心からの――今日からでも、すぐにそうしてしまいたい気持ちでいっぱいの言葉で、彼にそう言った。

「……ありがと。でも、中学生にバイトさせるわけにはいかないから。それに絵麻ちゃん、受験だろ? ちゃんと勉強しなよ、知識はあればあるだけ、強力な武器になるからさ」

 まだ止まらない口元を見せないように覆いながら喬が返した、『受験』という単語に、

「あ! そうだ! それ!」

 絵麻は大事なことを思い出して、彼の方にずい、と身を乗り出した。

「喬くんの学校! どこ!?」

「え?」

「喬くんが通ってる通信制高校だよ、どこにあるの!? なんて名前!? あたし、そこ受験する!」

「えっ……」

 満面の笑顔でそう言った絵麻に、喬は困惑を隠さない表情を返す。

「だって、喬くん、いま二年生なんでしょ? そしたら一年間は同じ学校にいられるじゃない!」

「……」

 その提案を聞いた彼の唇が「そうだね」と微笑むことを期待していたが、一向にその気配がないことに、

「……」

 絵麻は自分の心が深く傷つくのと同時に、喬が心に秘めていた、見えない何かを刺してしまった手応えを感じ、言葉に詰まって、会話は途切れる。

 二人の間に、軽く押せば、脆くも壊れてしまいそうな、危うい亀裂のようなものが初めて走った、居心地の悪い沈黙が訪れた。


 ややあって、喬は缶入りの烏龍茶の中身を飲み干し、口元を手の甲で乱暴に拭ってから、

「……何か、やりたいことがあるの? 通信制でさ」

 その亀裂の修復を試みようとしたのか、先に話を切り出して、虚を突かれた表情で顔を上げた絵麻を見ずに言葉を続けた。

「俺みたいに、経済的に仕方ないとか、のっぴきならない事情があるならわかるけど、俺が居るから来る、っていうのは、絶対にやっちゃだめだよ」

「……」

「絵麻ちゃんには、俺が選べなかった“未来”がある。私立の学校なんて受験できるんだから、金に困ってもないだろ? じゃあ、勉強するなら、将来なりたいもののために、自分に合った学校、選ばないと」

 至極もっともな意見に反論できずにいると、喬はひときわ暗い眼差しで、絵麻から顔を逸らす。

「……それにさ、俺だって、いつまで一緒にいられるかわからない。高校出たら就職しないといけないから、一人暮らしで、どっか遠くにいかなきゃいけない可能性だってあるんだよ。……ていうかさ、絵麻ちゃん、可愛いからさ、きっとすごくモテるだろうし、もしかしたら、俺よりずっとかっこよくって、背が高くて、頭も良くって、ほんとに、スターみたいな人が目の前に現れて、……その人のことを、俺より好きになるかもしれないだろ?……そしたら、同じ学校でさ、スクーリングのときに俺の顔見んの、やっぱ嫌じゃん。……だから、俺を基準にしないで、自分が高校で、何がしたいのか、ちゃんと考えて」

 そう言って、あからさまに自分でもその言葉に傷ついた喬は、目を瞑って――まるで、絵麻の手が届かない世界に行ってしまいそうな――そんな居ずまいを見せた。


 絵麻は立ち上がり、喬の前にしゃがむ。

「喬くん」

 呼びかけに応じず、目を瞑ったままの彼の前に、絵麻は人生最大の勇気を出して、黒いタイツの膝を付く。

 そうして、思い切って彼の両頬に手を伸ばし、これまで二人で観てきたいくつもの映画の中のシーンのように、息を止め、目を伏せ、不器用に頭を傾けながら、彼の唇に自分の唇を、音も立てずに触れ合わせようとした。


 ところが、むに、と両頬が優しくつねられ、

「だめ」

 雰囲気を壊された絵麻が目を開けると、喬は喜びよりも、なぜか深い悲しみの方が勝った笑顔を浮かべ、彼女の口づけを阻止してしまう。

「……」

「だめだよ、絵麻ちゃん。そういうのはしない」

「え……」

 これまでだって何度も抱きしめ合ってきたのだし、付き合っているのだから当然だ、と思っていた行為に、彼の方からノーを突き付けられ、絵麻は困惑した。

 喬はまるで父親が子供に言い聞かせるような眼で、

「俺にそうやって甘えて、何か解決する?」

「……」

 絵麻の一番痛いところを突く。

「……お父さんが嫌なら、お母さんとだけでも話をしてみたらいいじゃないか。わかってくれるよ、真剣に相談すれば」

そう言って苦笑いした喬の手が離れた頬を、ぷっと絵麻は膨らませる。

「やだ。絶対に嫌。あんな人たちと口きくなら、死んだほうがまし」

「……」

 神妙な顔をしてこちらを見つめる喬に、絵麻はなおも言葉を続ける。

「お母さんもお母さんだよ。なんであんなひどいお父さんの言うこと、素直に聞いてばっかりなの? あれで仕事では課長だっていうんだよ。まるでお母さん、お父さんの部下みたい。自分のパートナーに何も意見しないで、あたしに何か言ったって、全然説得力ないよ」

「……何か、理由があるんじゃないの」

「理由があったら許すの?」

「それは……」

 劣勢に立たされた喬が反論する前に、

「じゃあ逆に聞くけど、喬くん、あたしと同じ立場だったら、話し合いしたいと思う?」

 絵麻は一気に論破するつもりで切り返す。

と、彼は「負けた」という顔をして、

「いや、……いや、思わないな。君の言うとおりだ。それに、俺もあんまり、君に偉そうなこと言えない。本当のこと言えば、映画研究会がある全日制に通いたかったけど、結局はバイトして家計を助けろって押し切られて、逆らえなかったもんな。父さんもじいちゃんも中卒なんだから、高校に行けるだけでもありがたく思いなさい、って、ばあちゃんと母さんに言われちゃったし……」

 肩を落として苦笑を浮かべつつ、愚痴交じりで絵麻の言い分を認めた。

 してやったり、とばかりに絵麻は身を乗り出し、喬の顔を下からのぞき込む。

「ほらね。親となんて話し合うだけ無駄だよ。……ね、いいでしょ?……レベル高すぎる私立でビリになる辛さは、もう二度と経験したくないよ」

「……そっか。それ言われると、まあ、俺に止める権利なんてないから……」

「ね? だから、どこの通信制に通ってるのか教えてよ。そしたらあたし、一人暮らしして、働きながら学校に通えるから」

 そこまで言ってから、絵麻は床の上に行儀悪く座り込み、膝を抱える。

「……嫌だな、家に帰りたくない。お父さんもお母さんも、いないほうが楽なのに、どうして毎日、顔を合わせなくちゃならないんだろ……」

「……」

「いいな、喬くんちは、なんだかんだで仲良さそうで。……家出しちゃおっかな、ここに」

「! え……!?」

 とんでもない提案にひどく焦った喬を置いてきぼりにして、絵麻は思いつくままに言葉を並べ始める。

「いいじゃん、住み込みでここで働きながら、学校に通うの。前からずっと思ってたんだ、こんなに素敵な映画館なのに、あたし以外のお客さん来ないなんて、すごくもったいないって。だからさ、あたしも手伝うから、この【星降キネマ】のこと、ネットとかSNSでもっと発信してさ、じゃんじゃんお客さん呼ぶの。そしたら、高校は通信でも、そこから大学に行くお金は出来そうじゃない?」

「……」

 名案に心躍った絵麻は立ち上がると、まるで授業のプレゼンテーションの時のように、必死になって喬の興味を引こうと話をし続ける。

「家族が反対してるの、お金がないからなんでしょ? じゃあ、もっと呼び込む工夫しようよ。駅側のシネコンなんかに負けないようにさ、『こっちは古くてもいい映画やってます』って宣伝して、もっといろんな人に、ここのこと知ってもらおうよ。だって、すごくエモいじゃない、この建物も上映してる映画も全部、昭和とか平成レトロって感じでさ。そしたらきっと、みんながここに来てくれる。それでたくさんお金が入って、大学に行ったら、喬くんがやりたい映画の仕事だって、きっと何か……」

 そこまで勢いだけで喋ってから、絵麻は喬の顔が先程よりも険しくなっていることに気が付き、先を飲み込んだ。


「……大学、か」

 ややあって、目を伏した喬は、ぽつりと口にする。

「無理だよ。行けたら良かったかもしれないけど、俺には無理だ」

「え? なんで……」

「何でもなにもない。……行けるもんなら行きたい。でも、無理なんだ」

「……」

 その声には、怒りや諦めよりも、絶望の方が色濃く残る。

「……あの、ごめん。怒らせるつもりじゃ……」

 絵麻は必死に取り繕おうとし、彼の頬に触れようとするが、その手は払われてしまう。

「わかってる。……でも、少し、一人にしてくれるかな」

 喬はそう言うと、絵麻を押しのけるようにしてベンチから立ち上がり、デニムのポケットに手を突っ込んで、ロビーの奥にある【関係者以外立入禁止】という札のついた、灰色の鉄の扉に向かってつかつかと歩いて行ってしまう。

 そうしてそこが開き、ばたん、と閉じたあとには、成すすべなく残された絵麻だけが、換気扇の音と古い白熱球の明かりの中、一人残されているだけになってしまった。


「……良くなかった、よね」

 思い当たる点が多すぎて、どこからどう処理すればいいか、絵麻は指折り数えようとするが、喬に嫌われたかもしれない、という思いの方が先行し、独り言と一緒に涙が滲み出してしまい、それを止めてぐしゃぐしゃと目元を手で拭ってから、つんと痛い鼻の奥で深々と溜息をつく。

(あたしのバカ。自分の都合ばっかり優先して、家の事情に踏み込んで、あれこれ偉そうなこと言って……)

 後悔がどっと胸に押し寄せて、泣くのも申し訳ないと思えば思うほど、それは喉奥から嗚咽になって零れようとする。

 二、三度、鼻を鳴らしてその気配を引っ込めると、

(……最悪だ。すごく悪い事しちゃったよ……どうしよう、このまま帰ってこなかったら……せめて、ちゃんと謝りたい……)

 扉の奥に行ってしまった喬の心情をおもんばかることも今の自分には許されない気がして、絵麻は早く謝りたい気持ちを引きずりながら、とりあえず彼が僅かに食べ残していったタッパーの中身を一つに詰め替えてしまおうと、ソファーに戻った。


 片付けを終え、食べ終えたポップコーンのカップをゴミ箱に捨てると、

「……」

 かちゃ、という音とともに灰色の扉が開いて、まるで自分が犯罪者であるかのような顔をした喬の頭が、隙間からこちらを覗いた。

「あ……」

「……」

 二人は数秒の間、それ以上の言葉を発さずに見つめ合うが、ひとまず彼が戻ってきてくれたことに安堵した絵麻は、

「……ごめん、なさい。怒ってるよね……」

 喬に頭を下げてから、その姿勢のまま、じっと彼の許しを請う。

 それに素直に応じて、

「ううん。……気を使ってくれたのに、俺こそ、ごめん」

絵麻が顔だけ上げると、彼もひどくばつの悪そうな顔をしながら、うつむき加減で扉の中から出てくる。

 目の前に喬の靴が見えた時、絵麻は体を起こし、眼鏡の奥の彼の瞳と視線をかわして、

「「あの、……」」

 互いに話をしようとしたタイミングが重なり、声がぶつかった。

「……た、喬くん、先、どうぞ」

「あ、……う、うん……」

 彼の方も、先程よりだいぶ冷静さを取り戻したのか、いつもどおりの穏やかさと柔らかい口調で返事が帰ってきて、絵麻はほっと息を吐いた。

「あの、さ。……あんまり、俺に気を使わないでよ。優しくされても、返せないこと、いっぱいあるしさ。……慣れてないんだ、そういうの。ホントのこと言うと、俺もあんまり、家族とはうまくやれてるわけじゃないし」

「……」

「それに、俺に甘えてもさ、何も絵麻ちゃんが期待してることなんてできないよ。俺にはそんな力はないし、資格もない。……君が自分の力で、何とかするしかないんだ。俺が手を出したら、二度と君は、自分一人の力で何もできなくなっちゃう……そんな気がして」

「……」

 大人びた言葉と裏腹に、喬は自身こそが甘えたいような口ぶりでそう言うが、

「いや、ごめん、……こんなこと言うつもりじゃなかった。俺は大丈夫だから、心配しないで。これで、この話は終わりにしよう。……卒業したら、どこか適当な工場とか、警備とか、そういうところに就職するよ。高卒の給料なんてたかが知れてるけど、独りでやってくぶんには、きっと困らないだろうからさ」

 まるで、その先の“未来”に絵麻がいないかのように、困ったように笑いながら、彼女の視線から逃れるように目をそらす。

その仕草に、彼女はついに涙をこぼして、いきおい彼の手を掴み、強く握った。


「やめてよ、そういう言い方」

「……」

「あの、……あたしの方こそ、ごめんね。……なんだか、喬くんが、どっか遠くに行っちゃいそうで、……もっと一緒にいたいって、そう思ったら、気持ちが止まらなくなっちゃったの。だから、そんな寂しいこと言わないで。『ひとりでやってく』なんて、悲しいこと言わないでよ、お願い……」

 ずっと黙ったままの喬に、絵麻は懸命に訴える。

「あのね、あたし、……こうやって毎日、映画見て、話をして、笑って、ご飯食べて、今でも充分楽しいけど……高校入ったら、ここだけじゃなくて、学校帰りに買い物したり、一緒に勉強したり、あたしも喬くんみたいに、バイトしてお金貯めて、遊園地とか、旅行とか一緒に行きたいって思って……だから、すごく悲しかったの。喬くんが、あたしが他の人に気持ちが移っちゃうみたいな言い方で、話をしたの。今だってそうだよ、あたしと一緒にいられないみたいな話し方して……そんなことないよ、やめてよ、あんな言い方するの……あたし、喬くんのこと、大好きなのに……喬くんと一緒だったら、きっと何でもできるって……喬くんのために、何でもしたいって、そう思ってるのに……っ」


 それ以上は声に出来なくなってしまった言葉が、目の縁から溢れ始めたとき、喬の腕が絵麻の身体を抱き寄せ、温かい胸に優しく抱き込んだ。


「……」

 ふわ、と全身を、いつもの映画館の香りと一緒に、別の匂い――花なのか、果物なのかはわからないが、甘く芳しい香りが包み込んだような気がし、絵麻の心臓は大きく跳ねた。

「ごめん。……ごめんね」

「……」

 絵麻の耳元で、喬は静かに呟いて、うなずいたまま頬を肩にうずめた。

「そうだよね……俺も、……俺も、そうしたい。君と一緒にいたい。ここだけじゃない、スクリーンの中だけじゃなくて、二人でもっと広い『世界』を観てみたい。行きたいところも、やりたいことも、……なりたいものだって、ある……」

 いつもそこはかとない虚しさを含み、悟ったような口ぶりだった喬が、強い決意を抱いた様子で、絵麻を抱く腕に力を込めた。

「……絵麻ちゃん、俺、……映画監督になる、っていう夢、諦めないで、目指してみるよ」

「!……喬くん……」

「俺の目から見た『世界』を、誰かに観て欲しい。カラーは難しいだろうから、モノクロの映画しか創れないかもしれない。でも、……色なんてなくていい。色だけじゃない、音のないサイレント映画にだって、素晴らしいものはたくさんある。字幕や活弁が付けば、それだって映像の一部になる。本当に伝えたいことは、何か一つでもその人に伝わる手段があったら、伝えられるはずなんだ。それを証明してくれている人は、先人にいくらでもいる。俺はそれを忘れてた。周りの大人や、“常識”に囚われて、全部取り上げられて、諦めてた。……でも、絵麻ちゃんがいてくれるなら、俺はきっと、それが出来る」

 絵麻がその言葉に頷き返すと、喬はわずかに顔を離し、絵麻の頬に唇を付けてから、

「君と一緒だったら、俺の観たかった『世界』を、いつか、見ることが、出来るかもしれない……」

 そう言ってもう一度同じ場所に頭をもたせ、

「ねえ、絵麻ちゃん。……俺のためなら、何でもしてくれる、って言ったの、……本当に、後悔しない?」

 絵麻の答えを待つように、沈黙でそれを誘った。


「後悔なんかしないよ。あたしは、喬くんの力になれない方が、よっぽど後悔する」

 抱き返した腕に最大の力を込め、絵麻は喬の痩せた背に指を食い込ませる。


「そっか」

 喬は幸せそうに、絵麻の肩にすりすりと頬を擦って甘えながら、

「……じゃあさ、俺と二人で、一緒に映画、作ってよ。俺がシナリオとコンテ書くからさ、絵麻ちゃんは俺が見えない色を見て、俺に教えて。それで、二人でロケハンしてさ、16ミリ持って、世界中、あちこち旅をして……チャップリンや黒澤監督みたいになれなくてもいいんだ。誰か一人、俺たちの作った映画を見て、笑ったり、泣いたりして、心を動かしてくれて……」

 そこで言葉を切り、小さく吹き出して、

「ああ、でもやっぱり、上は目指したいなあ。アカデミー賞もいいけどさ、俺、パルム・ドールとか、金熊賞が取りたいな」

 素直な欲望を吐き出した後、くつくつとそのまま笑い始める。

「ふふっ、野望丸出しだね」

「俺、欲張りだからね。それに、高いとこ目指さないと、いいもの作ろうって思えないだろ? 目標は大事だよ」

 絵麻に答える喬の言葉は、力強い響きに満ちている。

「……俺、絵麻ちゃんとなら、それが出来る。だから、ずっと俺と一緒にいてね。もう、絶対離れないから」

 そう言って彼が頭をもたせると、先ほどから漂い始めた爽やかで甘い花と、慣れた客席の匂いが、より一層強く香る。


 温かく心地よい腕の中で、彼と心の奥深くまで繋がったような感覚に、絵麻はこくりとうなずき、顔を上げて、喬と微笑みを交わした。


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