第五話
その日の夜、九時過ぎ。
全く家事に手を付けない父に押し付けられ、仕方なしに料理を引き受けている母が、土日に米を炊く習慣がないことを心得ていた絵麻は、残業からの飲み会と接待で真夜中まで帰ってこない父と、やはり残業の後、どこかで誰かと食事でもしているのだろうか、週末はことさら帰りが遅い母がいないことを見計らい、貯金をありったけ下ろしてスーパーで買い物をし、不慣れながらもキッチンに立っていた。
(なんか、スパイみたいな気分……よーし、ミッション開始だ)
二本目に見た【007・危機一髪】の気分を引きずったまま、彼女は出来る限り、段取りよく手順を考えた通りに仕事を始める。
もっとも重要な米を研ぐのは後回しにして、まずはパックから取り出した鶏のもも肉をまな板に載せ、調理バサミで大きめに切っていく。
(ジッパーバッグにこれを入れたら、お酒とお醤油とみりんとお塩……それから、ニンニクとショウガ、あとは鶏ガラスープとお水に、隠し味でカレー粉入れて、一晩漬ける。まな板を洗ったら、玉ねぎみじん切りにして水にさらして、ジャガイモの皮むいて、小さく切ってレンチン。その間に、きゅうりをスライサーで薄切りにしたら塩もみして、卵をお酢入れた水に入れて十二分茹でて……)
とにかく、明日の朝、両親が起き出してくるまでに全ての行程を終えて【星降キネマ】に向かうため、頭と身体をフル回転させながら、絵麻は非常に手際よく作業を終えていく。
一時間ほど後、下ごしらえと調理が済み、明日の朝に仕上げるだけになった食材を冷蔵庫へ仕舞い、米を研ぎながら、
(問題は、勝手に食べられる可能性があることなんだよね……何か紙に書いて貼っとこうかな。なんて言おう……)
無神経な父と無遠慮な母が、決して手を出さないようにする方法はないものか、絵麻は妙案がないものかと考える。
(……部活で使う、って書いとけば、手は出さないかな。でも、これをバドミントン部で、しかも引退した後だっていうのに、いったい何に使うって言えば……)
理由としては一番効果的な気がしつつも、そこから先の方便が浮かばず、絵麻が首をひねったその時、玄関の鍵が開く音がする。
「うわ、やば」
どちらかはわからないが、顔を合わせたくない人間が帰ってきたことだけは確定事項なだけに、せめて父ではないことだけを願いながら、絵麻はちょうど洗い終えた米をボウルいっぱいのとぎ汁から引き上げ、笊の中でよく水を切ってから、側に置いておいた内釜に流し込み、新しい水を張る。
(大丈夫、何とかなる!)
どうにか無事に炊飯ジャーの中に内釜を入れ、明日の朝六時にタイマーをセットした時、
「……」
キッチンから繋がったリビングに入ってきたのが母の方だったことに、最悪の展開ではなかった、それだけで安堵の気持ちが込み上げ、絵麻はほっと小さくため息を吐いた。
そして、
「……何してたの」
少なくとも二か月以上はこちらに話しかけてこなかった母が、硬い表情でそう訊いてきたが、不意にそこで先週観た【ゴッドファーザー】の冒頭のパーティーシーンが蘇り、絵麻の脳裏に稲妻が走った。
「……明日の、部活で、……部員で、食事、持ち寄って、パーティーするから。その準備」
「……そう」
「冷蔵庫の中のもの、全部持ってくやつだから、食べないでね。お米も使うから」
「……」
嘘を見抜かれた感触はないが、こちらの言うことを信じている様子もない母に警戒心を解くことなく、絵麻は背中を向けてキッチンに残った洗い物を片付け始める。
と、その背中の方から、
「……志望校、お父さんの通ってた高校に願書書くから、それでいいわね。部活も引退したんでしょう? いい加減、顔出すのやめなさいね。月末には入試説明会に行かなきゃならないし、新しい塾も探さないといけないから、こっちは忙しいのよ」
あまりに絵麻の意向を無視した文言が飛んできて、彼女は怒りで手を止め、母を睨みつけながら振り返った。
「誰が、その学校なんか受けるって言ったの? 新しい塾ってなに?」
娘の噛みつくような声に、母が怯む。
「あたし、『失敗作』なんでしょ。『金と時間の無駄』で、『親に似ずバカ』で、『社会に出てもやっていけない役立たず』にしかならない人間に、今さら何させようっていうの? まだあたしのこと使って、見栄張るつもり?」
「……」
「自分の娘のこと、あんなに口汚く罵ったの、あんたの旦那だよ。それを一言も庇いもしないで、ずっと黙って座ってたの、あたしが忘れたとでも思った? あたし、そこまで馬鹿じゃない。……お父さんが行かせようとしてる学校なんて、絶対受けないから。勝手にあたしの人生の道筋を決めないで。あたしの人生はあたしのものなの。あんたたちの思い通りに行くと思ったら、大間違いだからね」
見た事もないほど愕然とし、口紅の剥げた口を金魚のようにぱくぱくと動かす、くたびれて傷んだ毛先がLEDに透ける長い髪の中年女に向けて、絵麻は去年の夏休み以来、初めて自分の方から口をきいてやるとともに、正面切って罵倒した。
「塾だって、あんたたちが勝手に入れて勝手にやめさせたんだから、通う気なんかない。放課後何するかくらい、好きにさせなさいっての。……説明会なんて絶対行かない。あと、さっきも言ったけど、冷蔵庫の中のものに手出したら、タダじゃおかないから」
再び背中を向けつつ、絵麻は洗い物に戻り、それきり母の存在を無視する。
それゆえに、絵麻は母がリビングから出て行くときに、目頭を押さえて声を殺し、泣いていたことには気が付かなかった。
(うーん、思いっきり、マフィアのボス気分でしゃべっちゃったなあ……頭の中で完全に、自分の姿がヴィトー・コルレオーネになってた……)
ベッドの上で、さすがに母親を『あんた』呼ばわりはきつすぎたか、とやや反省しながら、絵麻は目覚ましをいつもより一時間早くセットし、冬掛けの中に潜る。
間違いなく学校からその話は聞こえているはずだというのに、気遣いすらしないその人を優しく思いやろうという気には到底なれなかった。
(いやいや、あれくらい……娘がセクハラされても、何も言わない人間なんだもん。ほんっと、夫婦そろってあったまくる。……お父さん、帰ってこないといいな。そっちの方が安心して眠れる……)
あと一時間もすれば日付が変わる頃だが、家の前にタクシーが止まる気配もなければ、玄関が開く音もまだ聞こえない。
このままいけば今日は“午前様コース”だろう、その『まだ帰ってこない男』が、間違いなく先ほどの母の発言の出どころなのだと思うと、なおのこと絵麻はその意向に従ってやる気など起きなくなるのだった。
(ったく、自分で言わないで、自分の奥さん伝書鳩扱いとか、マジでふざけんな。サイアク。誰がお前の言うことなんか聞くかってゆーの。……でも、進路……もう、学校行かなくなって、ひと月くらいか……テストも受けてないし、内申点はパーだな……)
前に通っていた私立校が、二年生の半ばになると、難関校の受験対策にシフトするため、それまでの間に公立で学ぶ三年間の授業をほぼ全て終えてしまう学校だったことが幸いし――それが災いでもあり、絵麻が赤点を取るほどにパンクした原因でもあるのだが――勉強の遅れはないものの、このまま冬休みに入るまで欠席が続けば、公立私立関係なく、どこの全日制の高校も受験はおろか、出願も出来ないだろう。しかもこの時期にそんな状態だというのに、学校からも一切、絵麻を気遣う連絡があった様子もなく、彼女の中の教師不信にはますます拍車がかかっていた。
(喬くんの通ってる通信制、どこなんだろう。行けそうならそこに行きたいな。二年生だし、そしたら最低一年間は、学校でも一緒だもんね。よーし、明日聞いてみよう)
いっそ、【星降キネマ】の倉庫かどこかに住まわせてもらって、喬のようにアルバイトをしながら学費を出し、勉強をして、毎日映画を見て、彼の手助けができれば――
(そう、……あたしは、喬くんの力になりたい……)
今日の帰り、泣き止んだ彼が話してくれたことを、絵麻は目を閉じて思い返した。
「本当はさ、絵を描くのは好きなんだ。色はうまくつけられないけど」
三本目の【誰がために鐘は鳴る】の終映後、ロビーのベンチで絵麻を五分ほど待たせた喬が手にしていたのは、一冊のスケッチブックと、二冊の大学ノートだった。
「すご……そっくりじゃん、これ……」
スケッチブックの一ページ目に現れた、鎧を着て雄叫びを上げる三船敏郎を描いたデッサンの緻密さと迫力に、絵麻は思わず息を呑む。
次のページには、ドタ靴を履き、ちょび髭に帽子とステッキという、『リトル・トランプ』スタイルのチャップリン、その次には、細い眉毛を持ち上げて、こちらを妖艶な上目遣いで見つめるマレーネ・ディートリッヒ、またその次には、肉食獣のような鋭い目で、頭上にヌンチャクを構えたブルース・リー――といった具合に、まるで映画のフィルムをそのまま切り出したような素描の数々に、絵麻はただただ感服するばかりだった。
「美術の授業、デッサンとクロッキーだけは褒められるんだ。でも、それだけ。色を付け始めるとすっごいダメ出し食らうの。……保育園の時は、俺も家族も気が付かなくって、空を水色じゃなくてピンクで塗ったり、バッタをオレンジで描いてたらしくてさ、ちょっと変わった子、ぐらいで済んでたんだけど、小学一年の時に『赤い』チューリップの花を、全部茶色のクレヨンで塗っちゃったとき、先生からすっごい怒られたの。『真面目にやれ』って。……まあ、俺が『色盲』だってわかってからは、何も言わなくなったけど、色の名前がラベルにない画材や、絵の具を混ぜて色を作るのは、すごく苦手。たまに頓珍漢な色、塗ったりするみたいで、色つけるのは本当に憂鬱なんだ。自分が作った色が他の人から見たらどんな色になってるのかわかんないから、いつもそれで、クラスの子だけじゃなくて、先生からもからかわれる」
「えー、ひどっ……先生まで一緒とかマジでドン引きなんだけど。……でもさ、これ、色付けなくっても充分すごいよ、SNSなんかに載せたら絶対バズるよ。こういうモノクロでイラスト描いてる人、いっぱいいるもん。あたし、ハッシュタグで見たことある」
「え……」
きょとんとしている喬を置いてけぼりにし、絵麻は興奮で目を輝かせながら、スケッチブックのページをめくり続ける。
「うん、いける、絶対いける。才能あるよ、喬くん。これ描いてるところ、手元も入れて動画撮ってさ、タイムラプスにしたら、トレスやAIじゃないってわかるし、もし学校で許可取れたら、動画サイトで顔出しして、描き方講座とか……」
「あ、ちょ、ちょっと待って、絵麻ちゃん」
絵麻の言葉を、喬は完全に面食らった様子で遮った。
「……そういうのは、いい。いいんだ。俺、パソコンはよくわかんないから。それは詳しくないからいい。ただの趣味だし、『色盲』だってバレたら嫌だし……」
「そう?……そっか。喬くんが、そう言うなら……でも、すごくステキな趣味だね」
人前に出さないのは惜しい才能ではあるが、本人が不要だと言っているのを無理強いする気もなく、この特技をひけらかそうとしないその謙虚さもまた喬らしいか、と納得し、絵麻は次に大学ノートを手に取る。
「これは?」
「そっちは絵コンテ。映画作るときに描く、画面構成とか、カメラワークとか、そういうの。映画の設計図、って言えばいいかな」
「へええ……」
彼に促されて見開きにしたページには、罫線で区切られ、秒数単位で縦書きになったコマの中、鉛筆で描きこまれた詳細な絵の横に、細かい指示や台詞、風景や役者の表情が事細かに記されている。
「すご……その場の思い付きで撮るんじゃないんだね、映画って。こんなに細かく決めてるんだ」
ぱらぱらとページをめくり、新たな知識に興味津々の絵麻に、少し照れくさそうに頬を掻いてから、喬は説明を始める。
「それは人によって違うかも。基本的に、ほとんどの人は絵コンテを重視するけど、その場で別のアイデアが浮かんで、ぱっと変えちゃう人もいるみたいだよ。でも、チャップリンは完璧主義で、【街の灯】のワンシーンに342回もNGテイクを出してギネス記録になってるし、黒澤監督も、自分の理想の空模様になるまで、何日も同じ場所で天気が変わるのを待ったっていうくらいだから、映画監督はみんな、自分が撮りたい“画”へのこだわりは尋常じゃないんだ。仲代さんが、通りすがりの浪人役で初めて黒澤映画に参加した時、たった二秒のシーンに何時間も『武士の歩き方じゃない』ってダメ出しされたっていう話は有名だね。チャップリンも黒澤監督も、それだけ自分の中に“見せたい世界”というものを持ってる人だったんだ。特に黒澤監督は徹底して細部までこだわって、役者さんに眉剃らせたり、鉄漿塗るなんてのは当然だし、【蜘蛛巣城】のクライマックスでは、あの三船敏郎相手に本物の矢を放ってるんだよ。それに、映画を作るにはフィルムが欠かせないけど、一回でも光に当てちゃうと再利用は出来ないからさ、NGが出たら、それだけでもロスなんだよ。その日その時に撮りたい“画”が取れないと制作費が上がっちゃうから、役者さんもスタッフも、ほぼ一発勝負、っていう緊張感がある。みんなプロ根性がすごくて、台本丸暗記とか当たり前の世界だ。監督も役者も、みんな一本撮るのに全身全霊で命懸けだよ。だから観てると惹き込まれるんだ」
「え、あ、そ、そうなの……」
話の途中から興奮しすぎて立ち上がり、目を輝かせながら早口で滔々と語って満足気に腕組みをして悦に入り、完全にただのチャップリンと黒澤明のファンになってしまっている喬を見上げ、今度は絵麻が戸惑う番だった。
しかし、すぐに喬はその勢いを無くし、組んだ腕を下ろして肩を落とす。
「……でもさ、やっぱ、俺がコンテ切るとさ、上手くイメージが出来ないんだ。『この世のものとは思えないほど美しい夕焼け』っていう言葉があるとするでしょ。俺に“見える”のは、人と違う色の“視界”だからさ、これ、“普通に色が見える”人が見たら、どんな色で言い表すんだろうなって思う。……昔っから、看板描きの従兄が持ってるペンキの色見本を見てもさ、俺には赤も緑も紫も違いがよくわかんないから、こんな番号ばっかり並んでる中から、ちゃんと合ってる色選んで、ポスターそっくりに綺麗な絵が描けるって、魔法みたいだなあって思ってた。……でも、絵麻ちゃんや従兄の兄ちゃんみたいに、“フルカラー”で見える人には、きっと俺には見えない色が見えて、迷わずに、描きたい絵に合った色が選べるんだろうね……」
やはり、どこまでもそれはコンプレックスになってしまうのだろう、絵麻の言葉でやや軟化した気配はあるものの、喬の言葉は悔しさを隠さない。
そして、先ほどの話で語彙の尽きた絵麻は言うに事欠き、だいぶ的外れな自分の悩みを吐露するだけになってしまう。
「ううん、見えればいいってもんじゃないかもしれない。色合わせとかって、ホント大変だよ。服買う時とかすごく悩むもん、ブルべとイエベで似合う色って違うし。好きだから着たい、っていう色着ると、顔色悪く見えるとか、可愛いと思って買ったリップやネイルだと、肌汚く見えるとか、そんなことばっかり考えちゃって、服買いに行くのもコスメ選ぶのも大変でさ。気がつくとクローゼットもポーチも、ぜーんぶおんなじ色のアイテムばっかになっちゃって。買い物するの、面倒臭くなるよ」
「え、ぶ、ぶるべといえべ……何? それ?」
「ああ、男子はあんまり気にしないか……喬くん、メイク男子、ってわけでもないし」
耳慣れない言葉だったのか、またもやぽかんとしている喬に、絵麻は絵コンテを置き、立ち上がって歩み寄ると、手首を取ってその内側を見る。
「んー……喬くん、たぶん、ブルべの冬」
「え?」
「ほら、ここ。この手首の内側の血管。喬くんはこれが真っ青だし、顔も色白で、目が大きくて、まつ毛が濃くて、……」
そうして、会話と共に冷たい手首を指でなぞっては、喬の顔立ちの特徴を語るうちに、ふと見たその端麗さに改めてどきりとし、かあ、と耳まで自分の顔が赤くなるのを感じて、絵麻は徐々に照れくささでいたたまれなくなってくる。
「……瞳の色が黒くって、……眉がしっかりしてて、唇は、ローズピンク。……髪も真っ黒だし……」
眼鏡越しにこちらを見ている奥二重の目と、首を傾げて戸惑っている彼の唇に吸い寄せられそうになったのを慌てて堪え、
「う、うん、絶対そう。……あはは、いいなあ、珍しいんだよ、ブルべ冬の人」
そうして絵麻は、縮めすぎてしまった距離を笑いでごまかしてから、冬の寒さで冷やされた彼の手首を放した。
「……」
わずかに眉根を寄せて泣きそうな気配を見せ、潤んだ瞳で自分を見つめる喬に、絵麻はひどく申し訳ない気分になり、言い訳をするように先を続ける。
「あ、あたしは、夏タイプだからさ、ブルーベースなとこだけは一緒だね。……喬くんは、ぱきっとした原色とか、モノトーンとかの服着ると、すごく決まってカッコいいと思うよ。でも、あたしは喬くんほど顔がはっきりしてないし、髪と目が茶色っぽいから、寒色系のパステルカラーの方が……」
気まずさを打ち消そうと必死に自分を取り繕いながらそこまで言葉をつなげたとき、
「……絵麻ちゃん……」
肩に頬を埋めるように喬から抱きすくめられて、絵麻は言葉を止める。
「……どうしたの?」
自分も喬の背中に腕を回し、そこを撫でながら、絵麻は彼の肩口に頭をもたせて目を閉じる。
「うん……絵麻ちゃん、俺の知らない世界の話、いっぱいしてくれるから、……なんか、すごく嬉しくて。でも、……すごく、寂しい……」
腕に力がこもり、再び涙の気配がにじんだ言葉尻に、絵麻は自分の言動を取り繕おうとする。
「あ、……ごめんね、あたしまた、無神経なこと言ったよね……」
「違う、そんなんじゃない。……」
喬はそこで、溢れそうだったものを全てのみ込み、また先ほどとは別の覚悟を決めた口調で、絵麻の耳に言葉を流し込む。
「絵麻ちゃん、これからも、今みたいな話、いっぱいしてよ。……俺が見たかった世界を、絵麻ちゃんはいっぱい知ってる。俺、もっと君の話が聞きたい。映画の感想だけじゃなくて、もっともっと、色んなことを、俺に教えて欲しいんだ」
「……?……そんな、たいしたこと、話してないと思うんだけど……」
「それでいい。それでいいんだ、俺が聞きたいのはそういう話。……俺、貧乏人だから、パソコン持ってないし、新聞もとってないし、テレビもそんなに見ないからさ、聞くだけ聞いて、あんまりいい返事とか、出来ないかもしれないけど、これからも聞かせて。……君の見ている『世界』を、俺も一緒に見てみたいんだ……」
まるで、他愛のない話にひどく心動かされたような、不思議な言葉ではあったが、
「……いいよ、喬くんが喜んでくれることなら、あたし、何でもしてあげる」
いっそ、家族と縁を切って、彼と共に暮らせたなら――そんなことも思いながら、絵麻は目の前にあった、彼の首筋に頬を寄せる。
しかし、そこにまだくちづける勇気は出なくて、絵麻は彼の優しい抱擁と身体の匂いに、わずかに燻った劣情の火を消した。
「!」
気が付くと、部屋の中にはカーテン越しに朝日が差し込み、目覚まし時計が鳴っている。
どうやら考え事をしているうちに眠ってしまったようだ。
「あ、……起きないと。支度……」
目覚ましを止め、スマートフォンが充電されているのを確認してコードから抜くと、絵麻は急いでそれを肩掛けカバンに放り込み、冬の寒さが本格的になってきた部屋の空気に一度だけ身震いする。
「さむ……エアコンのタイマー入れるの、忘れちゃった……」
独り言をつぶやきつつ、音もなく部屋のドアを開け、そっと廊下に耳を澄ませると、夫婦で別になっている寝室の父の部屋からは、掃除機でゴム風船を吸い続けているようないびきが聞こえてくる。
(よっし、あれは昼まで起きないやーつ)
間違いなく、帰ったのは日付をだいぶ過ぎてからだろう。
念のため、母の部屋の気配もうかがうが、そこまで派手ではないものの、やはりアルコールをとった浅い眠りの時に聞こえるひどい歯ぎしりと唸り声がして、絵麻は二人を、似たもの夫婦で大変仲がよろしいな、と内心で馬鹿にしつつ呆れた。
部屋着のまま、二時間弱かけてすべての用意を整え、制服とコートに着替え、まだまだ夫婦で仲良く不協和音を奏でているいびきと歯ぎしりを聞いて安心しながら、絵麻は真新しいエコバッグ――昨日の帰りしな、閉店間際の雑貨屋に飛び込み、いちばん大きいサイズだと確信したそれの中に、喬への“サプライズ”をずっしりと詰め込んで、絶対に落としたり転んだりしないように天に願いをかけてから、朝まだ早い冬の下に飛び出す。
「重っ……ちょっと作り過ぎたかな……」
手のひらにずっしりと食い込む、大きなタッパーの四段重ねに苦笑いしつつ、しかし、この重さはきっと喬を喜ばせるに違いない、と確信して、絵麻は冷たい風に余計に痛みが増す指先をしっかりと握り、雲一つなく晴れ渡る空の元を、駅に向かって元気に歩き出した。
「おはよ……なに、その荷物?」
いつも通りに、ポップコーン片手にカバンだけ、という体ではない絵麻の姿に、黒いハイネックのセーターとデニムの喬は首をかしげる。
「えへへ、サプライズだよ」
「サプライズ?」
「うん。とりあえず、中入ったら見せたげるね」
絵麻はうきうきと客席の扉を開け、いつもの席に向かい、カバンとポップコーンをいつもの場所に置いてから、自分の隣にやってきた喬に、家から持ってきた大荷物を差し出す。
「じゃーん」
「?」
「今日は、お弁当作ってきちゃった」
「え?」
「いやあ、ほら、いつもジャンクフードばっかりで、すごく身体に悪いって思ったから。昨日、帰りにスーパー寄って、材料買って、下ごしらえしてから、今朝作ってきたの」
「……」
「口に合うかわかんないけど、レシピサイトのレシピ通り、アレンジしないで作ったから、安心してね。おにぎりも、海苔巻くとき以外は触ってないから。気にする人だったらごめんね。……あ、こういうの、駄目だった……? 嫌なら、持って帰るけど……」
説明の最中で目を見開いたままフリーズしてしまった喬に、絵麻はしまった、と顔をしかめるが、
「ち、違う、違う……嫌とかじゃない、……っ、あの、……」
言葉に詰まったまま、絵麻の手から喬はエコバッグを受け取ると、信じられないものを観るような目で、今しがた手にしたものと絵麻の顔を見比べ、首を横に振る。
「……よ、よかった、嫌じゃないなら。……あの、あたし、自分のは別に用意したから、それ全部、喬くんのだよ。野菜いっぱい入ってるけど、ちゃんと食べてね」
今だけは姉か母親のような気分でそう言ってから微笑むと、絵麻はコートの留め具を外し、しかし脱ぐまでには至らず、そこを両手で玩んだ。
喬がやたらと丁寧に、それを隣の座席に置いたのが見えた後、彼はもう断ることもなしに、当然のように絵麻を抱きしめる。
そうして、
「絵麻ちゃん」
聴いただけで胸が痛くなるような切ない響きの声で彼女を呼ぶと、すがるように腕に力を込めた。
「え、あ、あはは、そこまで感激されちゃうようなものじゃないよ……」
照れ隠しにそう言ってはみるが、彼は肩口で首を横に振り、しばし感動に浸ったように大きなため息をついて、そこにかかる伸びかけのボブヘアを震わせた。
「ひゃっ」
「……ありがとう。本当にありがとう、すっげー嬉しい。まさか、ここまでしてもらえるとは、思ってなかったから……」
絵麻がこそばゆい感触に身を縮めると、喬はどこか底の抜けたような寂しさを感じさせるような――しかし極めて幸せそうに囁き、顔をうずめてしまった。
「やだ……ほんとに大したもの、作ってないよ」
「ううん、絵麻ちゃんが作ってくれたってだけで、俺には何よりもごちそうだよ」
「食べてからそういうの言ってよ、もう」
「ふふ、それもそうか」
喬は猫のように絵麻の耳に頬ずりしたあと、やっと彼女を解放する。
「ごちそうさま。でも、こんなにたくさん……家の人に、何か言われなかった?」
「ううん。言われる前に言い返したっていうか……」
そこで、昨晩の母との会話が脳裏をよぎり、絵麻は口ごもった。
「……何か、嫌なことあった?」
「うん。……お父さんが、勝手にあたしの進学先、決めたみたいで。説明会に来い、って。それを自分で言わないで、お母さんに伝言役みたいなことさせて……」
「……」
「話しかけてきたところで、口なんてきく気ないし、言うとおりになんて絶対なるもんかって思ってるけど、……学校、休んでること、気が付いてないんだなって」
もはや親が親として機能していないことを思い、ならばこのまま家族が解けてばらばらになってしまえばいいのに、という本音が喉奥から漏れそうになったのを、絵麻はすんでのところで飲み込む。
しかし、喬の黒い瞳はその気配を逃さなかったようだった。
「……嫌かもしれないけど、学校にもたまには顔、出してみたら。説明会だって、行ったら気が変わるかもよ」
「……」
その問いに、絵麻は不愉快さを隠さずに、首を横に振る。
「絶対いや。だって、お父さんが通ってた高校なんだよ。あんな人の後輩とかなりたくもないし、それにこの辺で一番レベルの高いところだもん、あたしなんか受験したら落ちるよ。受かる以前に、もう内申なんて捨てたし。出席日数、もうすぐ足りなくなるから」
「……そっか。もったいないとか思わないんだな」
どこかほっとしたようなニュアンスがあったのは気のせいか――喬が自分の意見をそれでも否定せずに受け入れてくれたことに、絵麻は安堵の息をつく。が、
「俺みたいに貧乏で進学先が限られてるんじゃなくって、感情抜きにしたら、いい学校に通えるチャンスはもらえてるんだから、行くなら行けばいいのに」
今度は少しだけ羨ましげに、彼の言葉は続いた。
「後悔しないの?……人生って、思ったよりも短いよ。いつ終わりが来るかなんてわからない。俺は、それを映画でも学んだ。やらせてもらえることは、やらせてもらえるうちにやっておいた方がいいこともある」
今日に限って妙に感傷的なもの言いの喬に、絵麻は心の中で首をかしげるが、
「……後悔なんてしないよ。むしろ、下手に受かっちゃったら、その後苦労するのは目に見えてるから、これは地雷回避だよ」
自分にも問い直すようにそう言って、コートを脱ぐ。
そうしてから、
「でさ、喬くん。あの……」
彼が通う通信制高校についての質問をしようと口を開くが、そこで上映開始のブザーが鳴り響き、
「ああ、始まるよ。座って」
青いライトの映すシルエットの向こう、音もなく開く夜空色の緞帳の中でスクリーンにカウントダウンの数字が映し出され、絵麻は喬に促されるままに慌てて座席に身を埋め、寄り添ってきた彼の温い体温に、肩の力を抜いたのだった。




