第四話
絵麻が喬の住む【星降キネマ】に毎日通い始めて、既に二週間が経っていた。
その間も、両親は自分を気にかけることなく仕事に行き、欠席続きだというのに学校から特にリアクションもなく、体育倉庫に捨て置いた荷物に気付いた者もいないようだった。
毎朝、満員のピークの少し前の電車に乗り込み、四つ目の駅で降りてから、冬の匂いの濃くなった街角を進んでいくと、プラタナスの並木道の手前から、いつもポップコーンのバターの香りは「こっちにおいで」と、絵麻を呼んでくれる。
もう、その通りに大抵停まっている、雰囲気のいかつい車に怯えることも、ゴミや汚物が散乱し、ハトやカラスがそれをつついている風景にも慣れ、むしろその通りの中で、唯一清らかで安心できる場所とさえ思える【星降キネマ】を、絵麻はこちらこそが自分の家であるかのように感じ始めていた。
通い始めた日付から集め始めた青い半券を、絵麻は百円ショップで買った青いチケットファイルに一枚ずつ入れて、いつも大事に持ち歩いている。
その半券の裏には、喬が「こんな汚い字で良ければ」と言いつつ書き添えてくれた、二人で観た映画のタイトルが残されていた。
【カサブランカ】【プロジェクトA】【レインマン】【幸せの黄色いハンカチ】【ブルース・ブラザーズ】――などなど、月曜から木曜までと土曜は昼間に二本立て、金曜と日曜は朝早くから夜遅くまでの三本立てでの興行で、絵麻の日常はすっかり映画漬けになっていた。
中でも、「これはさすがに長丁場だから、一本立てでしか映写が出来ないんだ」と喬が苦笑していた【クレオパトラ】と【ゴッドファーザー】、そして【戦争と平和】は、それぞれ一時間半の休憩をはさんでも、登場人物の多さやその関係を把握することに難儀し、古き良きハリウッドらしく、情報量の多い演出と演技に胸焼けして、見終えた後の壮大な疲労感と達成感は有り余るものがあった。
その感覚に二人して参りながら、ずいぶん長い時間、椅子に座ったまま劇場の中で話し込んでいたのを思い出し、その何ともこそばゆく愛おしい時間の甘酸っぱさに、絵麻の唇からは小さな笑いがこぼれる。
二人で観た映画の数だけ、両親や周囲の人間にないがしろにされていた心が温かさを取り戻し、これまでどこか白けて見えた世界の見え方を、確かに変えてくれている。
そうして、自分に寄り添ってくれる喬の人となりも、おおよその部分がつかめ、彼の好みや言動の癖も、“彼女”らしく理解できるようになってきていた。
カラーフィルムよりも、白黒映画の方が「趣があるから」と言って、好んでいる様子であること。
日本人の監督は黒澤明、外国人の監督はチャップリンが一番好きだということ。
ヒマワリとタンポポの花が好きで、伊丹十三の映画では【タンポポ】が好きなこと。
『ミスター・チルドレン』のアルバムをジャケット買いしたのがきっかけで大ハマりし、弾けもしないのに中古のアコースティックギターを、貯金をはたいて買ってしまったこと。
数学と現代文が得意だが、美術は「絵が下手だから苦手」だということ。
自分の名前を、『志村喬』から祖父が豪胆にも頂戴したことを、ひどく恐れ多く思っていること――
(食べ物の好みも、少しわかってきた。お肉は好きだけど、焼肉は自分で焼くのが面倒だから食べないって言ってた。甘いものもほとんどOKだけど、桃はアレルギーがあるからダメ……あと、お寿司も好きなんだっけ。そうだなあ、最近脂っこいものばっかり食べてるし、今日はお勧めしてみようかな……)
痩せの大食いなのか、初日にチーズとパティがしこたま挟まったハンバーガーとLサイズのフライドポテトにナゲット、さらにバニラシェイクという取り合わせを皮切りに、翌日は追加でイカやフグも乗った海老天丼の大盛りを平らげ、それからも、フライドチキンとポテトにメロンソーダ、ピザを一枚丸ごとにコーラ、また別の日はドーナツとラージサイズのフローズンコーヒーをお共に、「ここまで甘いものを食べたのは初めて」と感激しながら、その甘さを塩気で中和するかのようにチリドッグをほおばる――などと凄まじく高カロリーで偏った昼食を摂り続けていても、これといって喬が体調を崩す様子は一ミリもない。
なけなしの乙女心を発揮して、同じ店で買う自分の昼食を小盛りやミニサイズ、あるいはサイドメニューを無しにし、ポップコーンのカロリーと相殺できるように調整しつつ、家での食事も控えめにしている絵麻としては、ある意味羨ましくもあり、またそれ以上に、彼の健康や普段の食生活がとてつもなく心配でもあった。
(お母さんが厳しいみたいだし、ちゃんとご飯作ってもらってると思うけど、もっとこう、身体にいいもの食べて欲しい。ヨーグルトとか、焼き魚とか、野菜のお浸しとか、サラダとか……せめて野菜炒め……)
毎週月曜日に貼り変えられることが分かった、廊下のポスター――今週は【エレキの若大将】から始まるギャラリーを眺めながら、絵麻はふとそんなことを思い、そして、
「……そうだ」
【秋刀魚の味】のポスターの前で、あることをひらめいた。
「桃の他に食べられないもの?……特にないよ、何でそんなこと聞くの?」
午前中、【クレイマー・クレイマー】を鑑賞し終え、絵麻が近所のスーパーで買ってきた鉄火丼と、手巻き寿司五本セットを平らげてから、上寿司のパックを開けた喬は、彼女の質問に対して不思議そうに答える。
「うふふ、ないしょ」
隣でミニサイズのネギトロ丼を、出来るだけ彼の食べる量とスピードに合わせて、ゆっくりとつついていたが、結局先に食べ終えてしまった絵麻は、箸を置いて悪戯っぽく笑ってみせる。
「なんだよ、教えてよー」
「だからないしょなの。映画と一緒だよ、ネタバレしたらつまんないでしょ?」
じゃれ合うために箸を置いた、ほんのりと冷たい指先で頬をつつかれるが、絵麻は喬の誘惑に乗らなかった。
「えー、なんだろ。……そういうの、考えちゃだめ?」
「だーめ。すべては見てのお楽しみ」
「ふうん……」
首をかしげつつ、喬は再び箸を取り、
「あ、嬉しいな。これ、カズノコ入ってるんだ。じゃ、最後のお楽しみにしとこ」
パックの中に見つけたそれに大喜びし、いくらの軍艦巻きから口に運ぶ。
「……うん、最近脂っこいのばっかだったから、身体が喜んでる感じがする。すげー美味い」
口の中のものを咀嚼しているうちに感動でこぼれてしまった言葉を、彼は手で口元を隠して、出来るだけ品よく述べる。
「ほんと、あれだけ食べて、よく太らないね。羨ましいよ」
「あはは……羨ましがられると、ちょっと困っちゃうなあ。太りたくても太れないの、俺」
喬は次いで、醤油のかかったイカを箸でつまみ、ぽいと口の中に放り込む。
「あ……そっか、ごめん。そういう体質なら、しょうがないよね」
「ううん」
もぐもぐと口を動かし、喉奥だけで返事をしてから、中のものを飲み込んで喬は先を続けた。
「俺、チビの頃から貧弱だからさ、ホントどうにもなんないの。背も低いでしょ。もっとこう、シュワちゃんやスタローンみたいに、筋肉ムキムキになりたかったんだけどね」
「え、やだ、なんか想像できない」
ボディビルダーのように、ごつい身体つきになった喬の姿がおぼろげに思い浮かび、絵麻は思わず吹き出す。
「変かな?」
「変っていうか……今のままでいいよ、太ってても痩せてても、喬くんは喬くんだもん。あたしは、今の喬くんがいい。ものの見方も、考え方も、すごく素敵だと思う」
「……」
その一言に、喬はさっと顔色を変え、不意に箸を止めて口をつぐんでしまった。
「……どうしたの?……あの、なんか悪いこと言っちゃったかな、ごめんね」
急に黙りこくってしまった喬に焦った絵麻は、大慌てて彼に謝りつつ向き直り、右手で彼の左肩を撫でる。
「……いや、……うん。そう言われると、ちょっと困るな。……」
いつも映画の話をするときのように、自信満々で楽し気な様相は消え、彼は何か考えるように、まつ毛の長い目を伏せる。
そして、ややあってから、
「……ものの見方、か。……絵麻ちゃん、本当にそう思う?」
目を伏せたまま――何かに怯えるような、そして、それは彼の中で、とても重要なことを決心したような口ぶりで――自分の腕を、縋るように撫でる絵麻に問うた。
「あ、……ごめん。何か気に障ったなら、もう言わないから。ごめんね、よくわかんないけど、次からは気を付けるから……」
彼の問いに思ったまま答えてから、今度は逆に、絵麻が質問を返す。
その言葉を受け止めた様子で、
「いいんだ。気にしないで。君は何も悪くない」
喬は首を横に振りながらそう答えると、長いこと閉じていたまぶたを開け、唐突に、
「……ねえ、絵麻ちゃん。これ、何色?」
再び手にした箸の先で、マグロの赤身をつついた。
「何色って……赤、かな。赤身だし……」
「そうだよな。……『赤』だよな」
その言葉の意図がつかめず首をかしげる絵麻に、喬はパックに蓋をして、これ以上食べる気がないという素振りをしながら、海の底のような哀しい目で、にこりと微笑み、
「俺に見えてる『赤』は、絵麻ちゃんが見てる『赤』と同じ色じゃない。赤だけじゃない、緑もピンクも、オレンジと黄緑も、俺は君と『同じ色』に見えないんだ」
まるで、自身が呪われているような――その表情とちぐはぐなだけに、余計にそれを感じさせる、明るくからっとした口調でそう告げた。
「え……」
「青と紫も区別がつかない。“俺の目に映る世界”は、青と黄色とモノクロで出来てる。『赤』と『緑』が、俺の世界からは抜け落ちてるんだ」
「……」
「小学校の時さ、やらなかった? 一人一人先生に呼ばれて、いっぱい粒々の描いてある絵本見せられて、この中に描いてある数字を読んで、っていうの。あれさ、色が『正常』に見えるか見えないかの検査なんだ。……俺は、その検査で引っかかった。『色盲』なんだ。信号の赤と青も、区別が難しいくらいのね」
経験のない出来事と、聞き慣れない単語を無理矢理に理解しようとしたせいで、言葉が出てこない絵麻の紅茶色の瞳を、喬の黒い瞳は何かを見据えるように、真っ直ぐに射貫く。
「絵麻ちゃんの、目とか頬っぺたも、唇もそう。肌の色も、どこが赤なのか、ピンクなのか、……『赤』や『ピンク』が、本当はどんな色なのか、想像できないし、わからないんだよ……」
そこまで話して、喬はこれまで、心の奥深くにしまい込んでいた苦しみを抑えきれなくなったのか、大きく嗚咽を上げ、まるで最初に会った日のように、ぽろぽろと涙を流しながら、言葉を吐き出し始めた。
「……カラーの映画観てるとさ、俺、悔しいんだ。『この監督が伝えたかったものが、俺には半分も伝わってこないんだ』って。だって、世界はもっと、たくさんの色があって、もっときらきらして、輝いて、虹だって紅葉だって芝生だって、俺が思うよりも綺麗なはずなんだ。でも、俺にはそれが、見えないんだ。……クレヨンだって絵の具だって、十二色あるのに、俺には、みんなと同じ色に見えなくて……色の名前のとこ、塗りつぶされて、目の前出されて、どれがどの色かクイズだ、当ててみせろって、みんなにからかわれて、馬鹿にされて……!」
彼の慟哭を聞くうち、絵麻の脳裏には、初めて自分に声をかけてきたときの、自信なさげな言葉が蘇る。
――「黒地に三本線と、……タイは赤だね?」――
おそらく、彼は彼にしかわからない『違い』だけで、何色なのかを見分けていたのだ。
(……もしも、あの時、喬くんがタイの色を間違えてたら、あたしと喬くんは、恋人どころか、友達にもなれなかったかもしれないんだ……)
声をかけるのに、どれだけの勇気が要ったか――そう考えただけで、胸を刺すような痛みが全身に広がり、鳥肌が止まらなくなるほどのショックで、絵麻は呼吸が無意識に浅くなった。
喬の言葉は、流れ出した大河のように、どうどうと音を立てて、絵麻の耳と心を貫いていく。
「検査受けるまで、他の人も俺と同じように、世界の色が見えてるんだって思ってた。大人になったら、映画監督や、従兄みたいな看板描きや、警察官、宇宙飛行士……いろんな夢があった。なりたいものがあった。俺もなれると思ってた。……でも、パイロットも、船乗りも、バスの運転手も……絵描きやデザイナーなんて論外だ。せめて映画に関わりたいって思ったのに、映写技師も、父さんの代で終わりにするからって言って、何も教えてもらえなかった。それでも、どうしても映画監督だけは諦められなくて、勉強したし、いっぱい本も読んだ。駄目なことが多すぎて、悔しくって、自分で映写機の動かし方も覚えた。コンテだってたくさん描いた。でも、……やっぱり、駄目なものは、駄目だ……」
悔しさが限界を超えたのか、彼は一度、ぎゅっと唇をかみしめて、吠えるように声を上げた。
「勝てるわけないんだよ!! フルカラーで世界の見えてる人間に、俺みたいな出来損ないが!! 夕焼けの色も、海や山の色も、桜の花の色も……! エメラルドの都も、赤いファミリアも、ヘリオトロープ色のドレスも!! 俺には何一つわかんないんだ!!! ちくしょう!!! 何で、何で俺、こんな身体に生まれちゃったんだよ!!! 世界の色がまともにわからない奴の作った滅茶苦茶な色彩の映画なんて、誰も見に来るわけないじゃんか!!!」
激しい爆発のような叫びの後、
「……俺みたいな奴がどんなに努力したって、才能に恵まれて、何ひとつ困ったことなんてなくて、頭も良くって、抜群にセンスある人間と……同じ土俵で、戦えるわけなんてない……」
絞り出すが如くそう言って、彼は肩を震わせ、鼻をすすって泣き続けた。
喬の深すぎる絶望を慰めるための言葉を、絵麻は持ち合わせていなかった。
小学校の『福祉体験』で、車いすに乗ったり、イヤーマフやアイマスクをしたりという企画の中、『色覚異常』の疑似体験ができるゴーグルをかけたことはあったが、結局、それはあくまでただの“体験”でしかなく、実際にそれを生まれながらに持ち、苦痛に感じながら生きている人が身近にいるとは、考えたこともなかった。
そのとき習ったように、軽々しく「障害は個性だ」「みんなちがってみんないい」と声をかけてしまえば、自分は「いいことをした」と思えて、楽になれるかもしれない。
しかしその実、冷たくて残酷な、「自分が世の中の基準よりも劣るという現実を受け入れて、身の程を弁えろ」という、『多数派』からの目線で語られる致死性の猛毒を含んだ言葉は、それを望まない彼の心にさらに深手を負わせ、もう二度と【星降キネマ】に来られなくなるような――喬がいなくなってしまうような、そんな不安に絵麻を陥らせる。
喬の夢を阻んだ『持って生まれた世界の色』は、あくまで彼にとっては『障害』でしかなく、それを抱えて苦しんでいるという“事実”がある限り、それ以上のものになり得ることはないのだ。
その考えに至った絵麻は、“個性”などという、耳触りがいいだけの、無責任で安っぽい、薄っぺらで空っぽな言葉では、彼の心を動かすことも、慰めることも、到底できるとは思えなかった。
それでも、喬の心に寄り添い、手を伸べたい――
それだけは確かに変わらない、絵麻の中の真実だった。
絵麻は喬の髪に、右手を伸ばす。
黒々と太く豊かで、しなやかな、毛先が跳ねる癖のあるそれを、愛おしい気持ちで撫でた後、ひんやりとした耳を指先でなぞりながら、痩せてくっきりと浮き出た顎を辿って、涙が幾筋も光る頬を、親指の先で拭う。
そうしてから、彼女は自分に思い出すことを禁じていた、エアコンの効いた真夏の教室の外の、怖いほど青い空に浮かぶ真っ白な入道雲の絵から、記憶を紐解いた。
「……全然、関係ない話かも、だけどさ」
しゃくりあげてうつむいている喬の頬を、濡れた指先で包んで、絵麻は苦しみを飲み込みながら言葉を繋いていく。
「中学校、退学になった話、したでしょ。テスト全部赤点で、……ほんとは、赤点どころじゃなくって、5教科全部、ビリだったんだけどね。……あたし、その時の、先生たちがあたしを見てた、すごく冷たい目が、今でも忘れられなくて、まだ、思い出して、そのたびに傷付いてさ。……それと一緒に、帰りの車の中で、お父さんに言われたことが、どうしても、……苦しくって……」
その日以来、父の顔を見ることをやめた、骨まで砕かれるような痛さが喉奥の言葉を引きつらせるが、絵麻はいっそ、そこを自分の心と身体から切り落としてしまう気持ちで、深々と刃を差し込み、力いっぱいに抉った。
「……『子育て大失敗』……『どうしてこんなバカのために、時間と金かけたんだろう』……『子供なんて作ったのは時間の無駄』『俺の子供なのに、全然似てなくてがっかり』『あのレベルの学校でやっていけないんなら、人生お先真っ暗』……そっから先は、もう覚えてない……聞きたくなくって、ずっと耳塞いでたから。……家に帰ってから……あの日から、お父さんとは一回も、口きいてない。お父さんの隣で聞いてたくせに止めてくれなかった、お母さんのことも、ずっと無視してる……」
きっ、と眼鏡の奥からこちらを睨んだ黒い目に、絵麻は言いたいことが上手く伝わらなかった焦りで、早口になりながら先を述べる。
「ううん、違うよ! あたしの方が辛かった、って言いたいんじゃないの! そうじゃなくってね、……あたしも、その時、思っちゃったの。自分を『出来損ない』だって。確かにそうなんだ、勉強ダメだし、運動も得意じゃないし、可愛くないし背も低いし、食べればすぐ太るし、コミュ障で友達もいなくて、服だってセンスない。もう、ダメの塊みたいだって、ずっとそう思ってた。……ここに来て、喬くんと、会うまでは……」
その言葉を聞いた喬の表情が凪いだことに安心して、絵麻は少しだけ話のスピードを緩める。
「喬くんと一緒に映画観て、話して、ご飯食べて、毎日一緒にいて、……あたし、それだけで、『幸せ』って思ったの。お父さんたちに、『時間の無駄』とか、『失敗作』みたいなこと言われたけどね、それでも、……それでも、喬くんは優しいし、話すことは知らないことばっかりで面白いし、映画は楽しくて、二人で食べるご飯は美味しいから……それに、喬くんがあたしのこと、可愛いって、ずっと褒めてくれるの、すごく嬉しくって……あたしは、喬くんがそうやって受け入れてくれたから、少しだけ自分のことを見直せた。もしかしたら、自分のいた場所が、見ていたものが、あたしには合ってなかっただけなんだ、あたしにもできることはある、って……」
絵麻は一度、胸の奥で言葉を整頓し、そこから先は、喬に嫌われてしまう覚悟で話し始める。
「……あたしは、喬くんの見てる“視界”と同じものは見えてないから、喬くんの辛さとか、苦しさとか、ちゃんとわかってあげられないと思う。だけど、『世界』はそうじゃない。……“出来損ない”の人が、他の誰かを“幸せ”になんて、出来っこないよ。喬くんは出来損ないなんかじゃない。本当の、本物の出来損ないの人は、『自分がされて嫌なことは人にしない』なんて言わないし、女の子の身体に触るのに、『触ってもいい?』なんて訊かない。誰かのしてくれたことに『ありがとう』も言わないし、自分が悪くても反省なんかしないし、『ごめんなさい』だって言わない。喬くんはそれが出来る人だよ。だから、絶対に違う。あたしに言ってくれたでしょ、『自分のことを卑下しないで』って。だから喬くんも、そんな風に自分のこと思っちゃだめだよ……こんなに素敵な喬くんが……すごく優しくて、いいとこがいっぱいある喬くんが見てる『世界』が、フルカラーの視界と違うからって、そのことだけに気持ちを向けて、“出来損ない”なんて、自分を人よりも下に見て、苦しめて、傷つける必要はないって、あたしは思うよ」
息を呑んだ喬の眼を、これきりになるかもしれないという恐怖で疼くように痛くなる身体を無視し、絵麻は瞳を逸らさずに――自分も一緒になって泣きながら、ひとつでも多く、彼の心に届くように、想いの丈を丁寧に紡いだ。
「喬くんは、あたしの世界を……学校で落ちこぼれて、もうどこにも行く場所がなかったあたしの『世界』を、増やしてくれたよ。映画の中の『世界』は、モノクロでもフルカラーでも、全部が違って見えた。監督や脚本家や音楽家や、俳優さんたちの見ている、たくさんの『ものの見え方』が詰まってた。喬くんの見ている『世界』と、あたしの見てる『世界』も、きっと少し違うんだ。だけど、間違いなく『世界』は、ここに存在してる。見えてる色なんか関係ない、喬くんの心が『世界』の“映しかた”を変えるんだよ。……フルカラーだから何なの。そんな中で生きてたって、悪い奴や酷い奴や、意地悪で心の汚い嫌な人間なんていっぱいいるじゃない。……あたしは、親切で、素直で優しくて、いろんなことをたくさん教えてくれて、話してるだけで“幸せ”になれる、大好きな喬くんが見てる『世界』を……喬くんの『心』を通して見える『世界』を、あたしも一緒に見てみたい……だから、そんな風に、自分で自分をだめだって言って、自分の夢を諦めないでよ……あたし、あなたの力になりたい……」
喋り終えてから、まるで駄作映画の中の台詞のようですべてが白々しく感じられ、恥ずかしさと同時に、どうにもできないもどかしさが溢れて、絵麻は自分の無力に涙が止まらなくなる。
涙で冷え切った彼の頬に当てている手の指が、凍えるようにかじかんだ。
どのくらい、そうしていたのか、うつむいて目を閉じていた絵麻にはわからなかった。
しかし不意に、頬に当てたままだった手の甲に、彼の冷たい指先が触れ、そこから柔らかく剥がされる。
そのまま彼が立ち上がり、立ち去ってしまう――そんな予感が身体を巡り、ぎゅっと縮こまって、彼女は苦しみに耐えようとした。
絵麻の手の甲に、小さな音を立てて、柔らかで冷たいものが触れる。
「!……」
それが、喬の唇だと気が付くのに、半秒もかからなかった。
「……絵麻ちゃん」
切ない声で名を呼び、手を離した喬の腕は、絵麻の制服の背中に回され、彼女は彼の腕の中に、手すり越しで抱き竦められる。
「ごめん、……ごめんね、話、聴いてたら、我慢、出来なくなっちゃった……」
衝動を抑えることが出来なかったのだろう、何の断りもなく肌に触れてしまったことを詫びながら、喬はますます絵麻を抱く腕に力を込める。
「ねえ、今から俺が言うこと、笑わないで。本気だからさ。……」
血が上り過ぎて汗ばんできた額と頬を、彼の髪に擦りつけるようにうなずくと、喬は絵麻の耳に髪を絡げ、そこを露わにしてから唇を付け、息を吹き込むように囁いた。
「愛してる。……絵麻ちゃんも、“出来損ない”なんかじゃない。俺は、君を……」
そこから先が言葉にならない様子で、再び絵麻を抱きしめるだけになってしまった喬の腕の中で、ただ一言、彼がくれた言葉が、自分では繕えなくなってしまった心のほころびを、全て綺麗に直し、美しく刺繍まで施してくれたような幸福感に、絵麻は目を閉じて浸される。
喬の痩せた背中に腕を回すと、彼も自分に身を預けてくれたのがわかる。
「……君が、ここに、来てくれて、よかった……もっと早く、逢いたかった……」
肩口で泣きじゃくる喬の声は、涙と共に制服の襟に埋もれ、ほんのりとそこを温める。
全身を包む、むせかえるような映画館の香りの中で、自分の居場所は家でも学校でもなく、喬の傍――【星降キネマ】であることを、絵麻は迷うことなく確信していた。




