第三話
次の日も、部活動に行くふりをして、眠っている両親に挨拶もせず家を出た後、絵麻は平日よりは空いている電車に乗り、【星降キネマ】のある街の駅に降り立つ。
駅の階段を上り、地上に出ると、銀杏の木の下を通り過ぎ、三つ目の信号の手前――プラタナスの並木道のその前、左手側の一方通行の道路の奥を覗けば、白い壁に青く丸い屋根が目立つ【星降キネマ】のエントランスがある。
それを見つけると、家にいる時よりも安心するような想いが湧くのを禁じ得ないまま、絵麻は昨日と変わらない、バターポップコーンの香りが漂うその道路に足を踏み入れた。
昨夜、誰もいない家に帰った後、駅の反対側のシネコンでいったい何を上映しているのか、絵麻はふと気になって調べてみた。
しかし、どうにも見る前に興味を削がれる筋書きであったり、子供の自分にさえも、何か恣意的なものが感じられて白けてしまうキャスティングだったりするものが多く、彼女は肩透かしを食らってしまったような心持ちで、上映スケジュールを眺めたのだった。
【オズの魔法使】ほど普遍的でわかりやすそうなものもなければ、二本目に観た【第三の男】のように、腹の底を抉られる、スリリングではらはらする展開と、ぎらついて生々しい役者の演技、そして全てが白黒であるからこその“凄み”があり、画角の隅の暗闇に誰か潜んでいるのでは、と思わされるほどの想像力を掻き立てるような作品も見当たらない。
まして、【街の灯】――それは絵麻が生まれて初めて観た『サイレント映画』だったのだが――サイレントだからこそ感情を激しく揺さぶる、浮浪者と花売り娘の恋の行方を固唾を飲んで見守らせ、「もう一度観たい」と言わしめるような予感がするタイトルがなく、どれもが【星降キネマ】の倍額の値段を払って、わざわざ観に行きたいと思える雰囲気ではなかった。
(ほんと、観たいって思うのが一本もない。なんか説明見ただけでお腹いっぱいだよ……なんであっちのシネコンに、喬くんちが負けてるんだろう……いや、まあ、昔の映画って、面白いのがたくさんある、って知らなかったのは、あたしの勉強不足なんだけどさ……シネコンのは、なんかどれも、あたしは心が惹かれない。どう頑張っても、あたしみたいなバカには敷居も高くて、楽しい気分で観られそうな感じのものがない……)
心の中でそう独り言ちながら、今日は昨日と違い、車がない代わりに、隣のビルに吐瀉物がかかっていることに顔をしかめつつ、絵麻は【星降キネマ】のエントランスに辿り着いた。
先に受け取っていた一万円札を彼の祖母に出し、九千円――一瞬、偽札かと思ってしまったが、以前テレビで見た新札発行のニュースを思い出して動揺を隠し、絵麻は新渡戸稲造と夏目漱石のそれと一緒に渡された、今日の日付の入った青い半券をコートのポケットに入れる。
(すっご、お札までレトロだ。樋口一葉の前のお札なんて初めて見たよ。こだわってるなあ。なんでこんなステキな映画館に、誰も来ないんだろ……)
喬の祖母の細部までの気遣いに感心してから、存外気に入ってしまったピンクの缶ジュースを自販機で買い、今日はきっかり三百円、ポップコーン代だけでも自腹を切ろうと決め、絵麻は自分の財布から硬貨を出して、喬の祖父に渡し、昨日と同じ中身のビニール袋を貰う。
週替わりの境目はわからないが、今日はまだ昨日と同じポスターを眺めつつ、絵麻は紺色の絨毯の上を進み、手すりを伝いながら階段を降りる。
その間も、彼女は昨日観た三本の映画を代わる代わる思い出しては、想像以上の明暗の違いと、明らかにこれまでとは密度の違う時間の過ぎ方をした、『新しい世界』の感触に浸った。
(スクリーンで見ただけで、映画ってこんなに心に残るんだ。……こんな気持ち、幼稚園の頃に観たアニメの映画以来だよ)
幼い頃に観たからこそ今でも脳裏に焼き付いている、どんな強い敵に対してもくじけず、誇り高く、決して引くことなく、何度ピンチに陥っても毅然と立ち向かうキャラクターたちの姿は、時折、出来が悪いゆえに愛されない虚しさと、不愉快な感情を思い出して崩れそうな自分の心を立て直すための、大事な思い出のひとつになっている。
(考えてみれば、あの映画を見てたから、悪い奴の言いなりになんかならない、って思えたし、あんな汚いおっさんに負けちゃだめだって思えて、めちゃくちゃだったけど、全力で戦えたんだ。……女の子だからって、やられっぱなしになんかならない。戦う手段がないわけじゃないんだ。あたしの身体を触らせる相手は、あたしが決める。あたしは、何も間違ってない)
自分の心と身体を守れ、という喬の言葉もそこに添えて、まだ治り切っていない傷跡に蓋をしながら、絵麻は扉の前に降り立ち、【本日の上映】の掲示板の中を観る。
【天国と地獄】【ショウほど素敵な商売はない】
「うちの映画館は、フィルムだけは無駄にたくさん保管されてるんだ」と笑いつつ、それでもどこか誇らしげだった喬曰く、上映する作品は日替わりなのだという。
黒地に黄色の文字で、真ん中に堂々と筆書きのタイトルが記された【天国と地獄】は、社会の授業で話だけ聞きはしたものの、実物を見た事がない黒電話の受話器を持っている男性――昨日、喬が上階のポスターを丁寧に解説してくれたおかげで、それが『三船敏郎』という、外国人も知っているほどの日本が誇る大スターであり、その反対側に描かれた鋭く大きな目の男性が、世界で今もなお愛され、尊敬を集めている映画監督『黒澤明』の作品の常連である、名優の『仲代達矢』だと判った絵麻は、間違いなくその映画が面白いことを確信し、既に心が弾み始める。
その隣、真っ赤な口紅を引いた唇を大きく開け、腕を広げて豊かな胸を張り、歌っているであろうポーズが目を惹くポスターの女優にも、絵麻は言うまでもなく見覚えがあった。
「マリリン・モンローだ」
思わずその名が口から飛び出す。
そしてすぐさま、彼女がその豊満な肢体に纏う、明らかにエロチシズムを煽るような、素肌と見紛うベビーピンクの際どいドレスに、どっと恥ずかしさが湧く。
(やだ、裸かと思ったじゃない! しかも、胸のとこ、変な模様の付け方して……これ、いやらしい映画なのかな……)
まさかそんな映画を、喬と――彼の中ではすでに恋人扱いされてしまっているものの、まだそこまで怖くて踏み込めないでいるだけに、一緒に観ることになったと考えただけで、彼に何かを迫られたりするのではないかという不安は強くなるが、
(だ、大丈夫。……嫌なら嫌って言って、って、喬くん、言ってるじゃん)
どんなに彼が積極的だといっても、自分が拒めば素直にやめてくれるという確信はある。それに、
(ダメダメ。観てもいないうちから判断しない。騙されるな)
ポスター通りの情報が映画の中で与えられるわけではないということは、【第三の男】のそれで、既に絵麻は心得ていた。
そうして、改めて『世界一有名な女優』の一人であるマリリンの歌う姿を、絵麻は何とも言えない気分で見つめる。
(……なんか、大変だったんだな。こんな露骨な衣装着て、世界中の人からそういう目で見られて。確か、スカートが風ですっごいめくれた画像もあったなあ……顔は笑ってたけど、きっとあれ、後ろ側とか下着丸見えだったろうし、みんなに見られて恥ずかしかっただろうな……)
自分だったら耐えられない状況に、女優という仕事も決して楽ではないのだな、と、自身の親さえもまだこの世に影も形もない時代に輝いて消えていった、可憐で麗しいその人の心を、絵麻はあくまで“令和の子供の視点”のみで思いやった。
その時、後ろから、
「おはよ」
極めて嬉しそうな響きを隠さない、優しい声を掛けられ、絵麻はそちらを振り返る。
昨日の制服姿ではなく、白いスウェットシャツと青いデニムに、丈の短い黒いコートと、同じ色のスニーカーの痩せたシルエット。
「来てくれたんだね、すっごく嬉しいよ」
自分より頭半分高い位置に、眼鏡の奥で穏やかに笑う黒い瞳――喬が、いつの間にかそこに立っていた。
「……おはよ」
今しがた考えていたことが考えていたことだけに、ますます恥ずかしくなって、絵麻は真っ赤になってうつむく。
「ん? どした?」
当然だが、そんな絵麻の考えなど知る由もない喬は、完全に恋人の距離で彼女の顔を覗き込む。
「……」
さりとて、ストレートにどんな映画か訊くことはためらわれ、絵麻は気まずさをごまかすために咳払いをひとつしてから、
「……なんでもない」
そう言って、彼の顔を見る余裕もなく、扉の引手に手を伸ばした。
「あはは、そっかあ、まあわかる。俺も最初はあれ、裸にスパンコール着けてるのかって思っちゃったもん。でも大丈夫。ちょっとネタバレになっちゃうけど、【ショウほど素敵な商売はない】は家族愛がテーマの映画だから、キスシーンはあっても、“その手の映画”みたいな変なシーンは一切ないよ。安心して」
座席に座っても彼を見ず、もじもじしている自分をしつこく突き、「何か気に入らないなら、今からでも上映タイトルを父に頼んで変えてもらう」とまで言われてしまったからには、そこまでさせるわけにはいかないと思い、絵麻は仕方なく、自分が二本目の映画に抱いている懸念点を、喬に洗いざらい話してしまった。
その上で、彼はあっけらかんと笑い飛ばした後、
「絵麻ちゃんは想像力があって、優しいね。そうだなあ、俺が調べた限りじゃ、マリリン・モンローは、確かに内気で心根の弱いところがあった人だったみたいだから、もしかしなくても、そう思うこともあったかもしれないね」
そう言って彼女の意見に賛同し、深々とうなずいて、静かに話し始めた。
「中学んときに図書館の本で読んだんだけど、マリリンはもともとすごく繊細な人だったらしくてさ、もっと純粋に芝居で評価してほしかったのに、見た目ばっかり注目されて、『ブロンドでセクシーだけど無知な女性』っていう見方ばっかりされて、そういう役柄しか来なくなったことで、すごく悩んでたんだって。【ショウほど素敵な商売はない】もさ、【七年目の浮気】っていう映画……ほら、あの有名なシーンの映画ね、スカートが地下道の風でめくれてるやつ。その主役になる、っていう契約の上で出たみたいなんだ。でも、そのスカートのシーンが原因で、当時結婚してた野球選手と離婚することになって……そうやって、私生活を犠牲にしながら仕事をするのは、辛かったと思うよ。だから、型通りの役柄ばっかり来ないように、自分のプロダクションを作って、本もたくさん読んで、演技スクールに通って、演技を基礎から勉強し直したりもして……でも結局、【七年目の浮気】の前後から薬物依存だったせいで、身体と心が持たなくなって、最期は薬物中毒で亡くなってるってあった。……長生きしてたら、どんな演技をしたんだろうね」
喬はそこで、わずかな間を取り言葉を切ると、首を横に振って話を続ける。
「女優や俳優っていう仕事はさ、基本的に強かでないとできないと思うよ。でも、『世間が求めてる姿や夢』を見せ続けるためとはいえ、割り切れないことはあったかもしれない。この映画も、1920年代から戦前のショウ・ビジネスの世界の話だから、当時のショウ・マンの文化としては、主役欲しさにプロデューサーの愛人になるとか、色気を武器にしてのし上がるなんてよくある話だったんだろうけど、マリリンがそういう役やると、現実味がキツイんだよね。家族の絆に主軸置いた話自体は好きだけど、マリリンだけじゃなくって、妹役のミッツィー・ゲイナーの衣装やダンスも、ちょっと目のやり場に困るなあって思うよ。……っていうか俺さ、マリリンの話が出てくるたびに【七年目の浮気】の、あの写真が使われるの、女子のスカートめくりして喜んでる男みたいでさ、あんまりいい気分じゃないんだよねえ、実のところ」
「ふうん……なんか、そう思うきっかけ、あったの?」
ポップコーンのカップをホルダーに挿し、カバンの中から、昨日彼が食べたがっていたチョコレートの箱を取り出しながら、そのマリリンの画が再び脳裏に浮かんだ絵麻が尋ねると、喬は苦い顔をして背中を丸め、首を垂れて話を続けた。
「んー、まあ……小学校でさ、五年の時かな。色気づいたクラスの悪ガキグループが、女子にスカートめくりとか胸タッチとか、男子のズボン下ろしとか、よくやってたの。しかもさ、休み時間のトイレの中とか、先生が気付かないようなとこでやるんだよね。で、そいつらが気の弱い子ばっかり狙うからさ、ある日、いちばん気が強い女子がブチギレて、一人で全員ぼこぼこにして大問題になって。でもさ、『子ども同士のふざけ合いなんだから、そのくらい我慢しろ』って、先生たちはその女の子を責めて。……結局、その子、転校しちゃった。いじめはなくなったけど、後味悪かったな、あれは」
「え……ありえないんですけど。何それ。意味わかんない。普通、叱られたり転校すんのはいじめっ子の方でしょ?」
自分が通っていた小学校なら、双方の両親が呼び出され、その上で間違いなく責められるのは加害児童のグループだろう出来事の顛末に、全く納得がいかない気分で絵麻は憤る。
「うん、俺もそう思った。でも、誰も先生たちに逆らえなかったんだ。親が呼び出されたのも、やり返した子だけだったしね。……俺も、やられた側だからさ。助けてくれた恩もあるから、今でも、あの子どうしてるかなあ、って、心配になるよ。……ずいぶん昔の話だけどね。……」
差し出されたチョコレートの箱から、喬は一粒つまむと、「ありがと」と短く礼を言ってからそれを口に入れ、しばらく舐め溶かすようにそれを味わってから、再び口を開く。
「それからだな、俺が自分の中で、意識して考え方、変えようと思ったのは。『嫌なことは嫌、駄目なことは駄目、許せないことは許せない』って、ちゃんと自分で直接言おう、誰かが言ってくれるの、待ってちゃだめだって。それと一緒に、俺も相手が『嫌だ』とか『駄目』って言ったら、自分の気持ちはいったん置いといて、相手の言うことをちゃんと受け止めよう、って。『嫌よ嫌よも好きのうち』っていう言葉があるけど、『嫌なものは嫌』でしかないって。……馬鹿だよなあ……あいつらにやられても、周りが笑ってるから、俺が我慢すればいいや、なんて思ってたから、余計な犠牲者が出ちゃった……俺、卑怯者だったな……まだ、後悔してる。今からでもいいから、ひとこと謝りたいよ……」
「……そんな……」
深い悔恨のにじむ話に、絵麻は慰めの気持ちが湧いて、わずかに喬に身を寄せる。
そうして、
「……大丈夫だよ。きっとその子、今ごろ超リア充だと思う。気が強いってことはさ、絶対クラスのカースト上位にいるわけじゃん? 転校した先でさ、きっと、いっぱい友達が出来て、いい先生が担任になって、中学入ったら勉強とか部活も充実してさ、超イケてるカレシなんかできたりして、絶対、何もかもうまくいってるよ。だから、もう心配しなくっても大丈夫」
口から出放題に任せ、喬の心に浅からず残っている傷跡に、少しでも効き目があればと、思いつく限りの“ハッピーな結末”をべらべらと喋った後、
「……喬くんが責任感じる必要もないよ。だって、悪いのは、いじめてた子たちなんだからさ。……てか、あたしよりひどい目に遭ってるんじゃん、喬くん。最悪だよね。あのさ、だから……」
そこから先の言葉が思いつかず、それきり口をつぐむほかなかった。
「……ありがと」
こちらを向いた喬の気配に絵麻が顔を上げると、彼の黒い瞳が、確かに潤んでいる。
「そう言ってもらえたの、初めてだ。父さんもじいちゃんも、『男なんだから、ちんこ見られたくらいで泣くな』とか言うし、母さんもばあちゃんも、『女に助けてもらうなんて情けない』とか、『泣いてばっかりいないで同じことやり返せ』って言うから、すごく嫌だったんだ。……だって、自分がやられて嫌なこと、人にしたくないもん、俺」
あまりに柔い心のこもった言葉に、絵麻はくらりと目の前が揺れ、まるで深く青い海の中に、とぷん、と身体が飲み込まれたような、底知れない、生まれて初めての感情に震える。
高い天井のあちこちから照らすライトが幾重にも作る影と、彼の奥二重の目をひときわ美しく見せる長い睫毛が、そこまできつくはない度の入ったレンズの向こうで瞬いて、彼もまた、銀幕の向こう側の人なのではないかという錯覚にさえ陥り、絵麻は呼吸も忘れて喬に見惚れた。
しかしすぐに、そんなおとぎ話のようなこともあるまい、と彼女は思い直して、その前に並んだ、とても令和とは思えない彼の家族の言葉の数々に、力いっぱい引いた。
「……てか、そんなキツイこと言うの、喬くんの家族って」
「うん。お客さんの手前ニコニコしてるけど、職人は職人だからね。昔気質で結構頑固だし、口も悪いよ。特にじいちゃんとばあちゃん。二人とも、ここで夜中にピンク映画の上映してる時なんかは、質の悪いおっさん相手に喧嘩もするくらいだし……」
「『ピンク映画』?」
聞き覚えのない単語が現れ、それに絵麻が引っかかると、喬は顔を反らして盛大に吹き出し、ごほごほとむせながら、大げさな身振りで何かをごまかすように、口早に喋り始めた。
「ああ、いや、あのね、……あの、それは知らなくていい。あれは絵麻ちゃんが見るもんじゃない。あー、今のはナシ。聞かなかったことにして」
「えー?……あ、もしかしてそれが、さっき言ってた『その手の映画』なの? てか、観たことあるっぽい言い方したよね、今?」
「ばっ!……あっ、えっと、……じゅ、十八歳未満は、駄目なやつだからさ、俺の口からは、とても言えないっていうか……」
「喬くんだって十七歳でしょ!」
「事故! あれは事故だったの! 夜中に従兄に起こされて、完全にイタズラで見せられたんだよ! 保育園の時! 大きくなってから、あとから思い出してうわーってなっちゃったんだよ! 信じて!」
「やだ! やっぱ見たんじゃん、えっち! スケベ! ヘンタイ! もうチョコあげない!」
「だから見たくて見たんじゃないんだってば! 意地悪言わないでよ!」
「やだー!」
二人は他に客がいないのをいいことに、しばらくの間、誰にも憚ることなく、大声できゃあきゃあとはしゃいだ。
「て、てか、……た、喬くんも、やっぱ、そういうの、……あるんだ?」
「そりゃまあ、男だから……ない、って言ったら、嘘になるよ……」
息切れするほど喚き合った後、絵麻に気を遣ってか、彼は反対側の手すりに身を寄せ、純情にも頬を染めたまま顔を逸らし、眼鏡のブリッジを押さえる。しかし、
「でも、さっき言ったでしょ。……絵麻ちゃんが嫌なら、俺はそういうこと、絶対しない。ほんとに。……その気持ちも嘘じゃないよ。神様に誓ったっていい」
途轍もなく重く、暗い響きの声と、極めて真摯な眼差しと共に、喬は絵麻に向き直る。
そうして、
「そんなことしなくていい。俺は絵麻ちゃんと、こうやって話ができるだけで、充分幸せだから」
まるで絵麻のことを、女神でも前にしたかのように、確かな万感の想いを込めて見つめ――心から、その文言通りに思っていることがわかる眼差しで微笑んだ。
喬の笑顔に、絵麻は引き裂かれそうなほど胸の芯が痛くなり、涙がうっすらと目の端に滲む。
その言葉に込められた感情の根源が、手の届かないような闇の奥に続いているような、深い『孤独』に根差していることを、どういうわけか、絵麻は真正面から理解し、受け止めてしまったのだった。
「……こっち、おいでよ」
絵麻が小さく声をかけると、喬はわずかに身じろぎし、伺いをたてるように彼女を見る。
「いいの?」
「離れてるのも、変でしょ?」
その呼びかけに誘われた喬は、こわごわと手すりに肘を乗せ、
「……いい?」
自分が尋ねたことに絵麻がうなずいたのを見て、実に安堵したように、腕をくっつけ、ぼさぼさのくせ毛が揺れる頭を、彼女の肩にそっと持たせた。
チョコレートとポップコーンの匂いに混じって、昨日よりも強く、映画館の香りが立ち上る。
「……ねえ、俺がこうするの、ほんとに嫌じゃない?」
問いかけてくる言葉の優しい言い回しや言葉尻と、それを引き立てる穏やかなテナーの声。
頬をくすぐる、想像していたよりも柔らかい髪と、眼鏡の蔓の感触、そして肩に乗った頭の重さは、決して不快ではなく、むしろ心地いいとさえ感じる。
「ぜんぜん。……いい匂いするし、ほっとする」
絵麻がほおずりしてから素直な感想を述べると、喬はその言葉に安心したように、ますます深く身体を預けてきた。
「そっか。……ふふ、絵麻ちゃん、あったかいなあ……」
「え、……そ、そんなに、寒い?」
決して暑くもなく、かといって凍えるわけでもない客席の気温にそぐわない発言に、絵麻は不思議な感覚を覚えつつ、ぐんと近くなった喬との距離に比例して速度を上げた心臓の、その甘く痛い鼓動に、ああ、自分は彼に“恋”をしているのだ、と、認めざるを得なくなる。
「んー、俺、身体ガリガリで弱いからさ、冷え性なの。だから人肌恋しくって」
その甘露で豊かな感情を絵麻に教えてくれた少年は、そう言って猫のように頭を擦りつけながら一通り甘えると、ふとそれを止め、姿勢を正す。
「……いや、俺の方が年上なんだから、しっかりしなくちゃだめだね。うん」
彼は自戒するようにつぶやくと、絵麻が持っていたチョコレートの容器を見て、
「あの、……もう一個、貰ってもいい?」
彼女がうなずいたのを見てから、また一粒をつまんで口に入れ、今度は目を瞑り、黙って味わう。
「いいよ、半分このつもりで買ってきたから、あと四個食べても」
絵麻の申し出に、喬は瞼を閉じたまま、ひどく嬉しそうに口元を緩めた。
気がつけば、十二個中の十個を喬が食べてしまった上で空になったチョコレートの箱を、半分食べ終えたポップコーンを入れていたビニール袋をごみ袋がわりにして片付け、二人はずっしりとした【天国と地獄】の余韻に浸り、ほとんど同時に大きなため息を吐く。
「……はー、なんていうか、こう……心臓、潰れるかと思った……怖かったあああ、子供が無事でよかったよー……天国と地獄って、そういう意味かあ……」
客席の明かりがついたおかげで、ようやく、徹頭徹尾続いた重圧から解放された絵麻は、前の座席に手をかけて、身体の力を抜く。
「お疲れ様。すごかったでしょ。法律に対する怒りから作って、実際に誘拐罪の量刑を変えることは出来たけど、影響力が強すぎて、模倣犯まで出た映画だからね。……何回観返しても、この作品は色々考えさせられるんだよな……やっぱり、ストーリーを通して訴えたいことがあると、後味が強いや」
その隣で肩と首を回しながら感想を漏らした後、昨日と同じように掃除をする雰囲気で、喬が立ち上がる。
「ね、絵麻ちゃん。今日、俺、天丼が食べたい」
仕事の後に食べたいもののリクエストを先にしてから、彼はダウンコートを羽織った。
「うん、わかった。何の天ぷら、乗ってるの欲しい?」
「そうだなあ、えびと、キスと、ナスとシシトウと、……待って、ちょっと考える」
そう言いつつ、彼はポケットから出した、絵麻には見慣れないアイテム――『ガラケー』の電源を入れ、また同じところに戻す。
「……珍しいね、喬くん。今どきスマホ、使ってないなんて」
「……スマホ?……スマホ、か。……ああ、うん、……ちょっとね」
何の気はない絵麻の問いかけに、喬はその単語を半端に言い淀み、困ったように笑うと、気まずい様子を隠さずに、スクリーンの方に向かって行ってしまった。
(ああ……なんか、スマホ絡みで、嫌なことあったのかな)
チャットアプリやSNSでのいじめが後を絶たない昨今、今の態度からして、彼も被害を被った経験があるのだろう。
自分の身の回りでも、知らないだけで確かに起こっているのが肌で感じられる、悪辣な出来事を想像し、絵麻は心優しく繊細な彼が、あえてその輪から距離を取っていることが容易く分かった。
(人にされて嫌なことはしたくない、って言ってたもんね。だったら、ガラケーで通せるうちは、通しちゃおうとか思ってるんだろうけど……チャット出来ないのは、なんだか寂しいな)
昨日、家に帰ってから、電話番号とメールアドレスの交換を忘れていたのを思い出し、せめてそれだけでも知っていれば、もっと彼とコミュニケーションする幸せに浸ることができるというのに、と目一杯に臍を噛んだだけに、今日こそは訊くのを忘れないようにしなければ、と、絵麻はしっかり頭の中にリマインドする。
そうして、スクリーンの脇にある小さな扉から、箒とちりとりを持って戻ってきた彼の姿に、
(……そっか、あたし、カレシが出来たんだ)
喬が自分を大切にしてくれていることと、二人で同じものを観て同じものを食べ、身を寄せ合って過ごす時間の満ち足りた感覚、そして自分も彼を思いやるだけで温かい気持ちになれる――その喜びを生まれて初めて手に入れた『現実』が、嘘ではないことを確かめるため、絵麻は手の甲を軽くつねり、まぎれもない痛さに笑ったのだった。




