第二話
「そっか、『一色絵麻』ちゃんね」
勢いに押されるまま、関わるまいと決めたはずの境界線をぐいぐいと乗り越えてきた喬に、正直に本名を教えてしまった絵麻は、警戒はしつつもどこか身体の奥をぎゅっと掴まれるような気持ちで、その落ち着いた声に頷いた。そして、
「……この時間に、ここにいるってことはさ、学校、サボり?」
自明の理である問いを投げられ、観念して頭を抱える。
「はは、やるじゃん。何年生? 俺は高二」
「……三年です」
ここまできたら何を隠しても無駄であることを悟り、絵麻は喬に素直に答えると、これで学校に通報されても致し方なしだ、と無理矢理に開き直った。
「なんか、いじめられてるとか?」
「そういうんじゃ……」
「だよね。だったら外出ないで、家にいるよな。……てことは、家族とも、仲悪い感じ?」
歯に衣着せない尋ね方に若干閉口しつつ、どうせ学校も学年も違うのだから何をぶちまけても構わないと思い、絵麻は心の元栓を思い切りひねった。
「……家にいたくないんです。あたし、親がふたりとも、頭の良い大学出て、共働きでバリバリ仕事してて、どっちもすごくプライド高くて。……小学校、上がる前から、英会話とか、そういうのやらされてて、小四の春から、ここの最寄りから六つ先の、地下鉄の駅のとこの、私立の女子校、受けるために勉強させられて。……合格はしたんですけど、周りが頭のいい子ばっかりだから、あたしみたいなバカは、あっという間に、勉強についていけなくなって、どんどんビリの方になって、……それで、中二の最初の中間テスト、全部赤点で……」
喬が黙って聞いてくれている気配に、胸の奥で閊えていたものは全く抑えが効かなくなり、ぼろぼろと制服のプリーツスカートと、その下の黒いタイツの上にこぼれ落ちる。
「夏休み前の面談で、退学してください、って、担任と学年主任と、他の偉い先生に……お父さんもお母さんも、それで、あたしのこと、見放したっていうか……家の近くの中学は、顔見知りの子がいるし、周りの人に何言われるかわかんないから、って、今の学校に越境入学して。でも、変な時期に転校してきたから、陰でいろいろ言われて、ハブられて……しかも、三年のときの最初の担任が、超キモいおっさんで、あたしのこと下の名前で呼んだり、『タイの結び方がおかしい』って、胸触ろうとしてきたり、そのうち、髪触られて、それでキレて、泣いて暴れて、……それで、担任はクビになったけど、もう、思い出したくもないし、親はなんにも心配してくれなくって、嫌になっちゃって……先週の土曜日、体育倉庫に、生徒手帳以外、全部、荷物隠して、……月曜からは、お母さんのフリして、病欠の電話して、そこからはずっと、この辺の駅で適当に降りて、おまわりさんとか、同じ学校の子に、見つからないように……」
「ふうん……そうだったんだ」
彼が寄越した返事に深い同情の響きがあることに、絵麻は言葉以上に涙が溢れて、やっと、自分がされてきたことで心が深く傷付き、そのためにこれまでの生活がとても苦しくて辛かったのだということを受け入れ、認めることができた。
そのまま嗚咽を上げ始めた絵麻に、
「ひどい話だ。……君、一人で、ずっと気を張って、無理して、周りの人たちの期待に応えようとしてたんだね。……いいよ。逆らえよ、そんな親。自分の子供、何だと思ってるんだよ。大事な娘が、気持ち悪いおっさんの毒牙に掛かりそうだったっていうのに、何も言わないで放置なんて、最悪じゃねーか。常識を疑うよ」
喬はまるで、自分まで同じに粗雑な扱いを受けたかのような声で慰め、同時に沸いたらしいその怒りを、今ここにいない絵麻の両親にぶつけた。
「……っ、うん……」
涙でポップコーンが湿気ってしまわないように、鼻水をすすりながら、絵麻はそれをカップホルダーに入れ、さっき使ったおしぼりで鼻の下を拭く。
それを見て、ふふっ、と小さく吹き出した喬は、
「なあ、絵麻ちゃん。……俺、割となれなれしい奴だって自覚あるからさ、人と付き合うときに、一番はじめに言うことがあるんだけど」
ブレザーのポケットから青いハンカチを出し、そっと手渡しながら優しく言葉を繋いだ。
「嫌なことがあったら、ちゃんと『嫌だ』って意思表示して。俺が年上だからって気を使わなくていい。絵麻ちゃんの“心と身体”を守るために、それはとても大事なことだから。……いい? 俺に対してだけじゃない、他の誰に対しても、そういう気持ちでいるんだよ」
「……」
「でもさ、偉かったね。そのセクハラ野郎には、ちゃんと『嫌だ』って意思表示できたんだから。相手が『先生』だから、『年上』だからって、変な遠慮して言いなりになって、もっと大きな傷を負う前に逃げ出せたし、他にも同じ目に遭ってたかもしれない子も、助けてあげられたんだからさ。心細かったと思うけど、すごいじゃん。絵麻ちゃん、今ごろは女子の間で勇者扱いだよ、きっと」
「……どう、かな……教室で、すごい声出して、泣き叫んで、手当り次第、モノ投げつけて……思い出したら、なんか、頭、おかしい子みたいで、恥ずかしくって……」
「いやあ、そういう手合い、まともに話なんかしても、通じなかったかもしれないよ?」
喬は首を横に振りながらそう言うと、缶コーヒーを開ける。
「……あの、……あんまり、肯定ばっかりしないで……」
「思ったとおり言ってるだけだよ、卑下しなくてもいいじゃん。間違ったことしてないんだし、自信持ちな。……ほんとに頑張ったね、偉いよ」
「……」
その一言と一緒に自分に向けられた笑顔に、ずきん、と胸の芯から身体中が痛くなる。
飲み込んでしまった息の吐き出し方がわからなくなり、頬から耳が、顎が赤くなる気配がする。
二つしか年が違わないというのに、ひどく大人っぽい喬の言葉は、絵麻の凍りついていた心を、ぬるま湯で溶かす速さで解し、同時に淡い桃色に染めていく。
しかし同時に、その感覚を言葉にすれば簡単に弾け飛んで、儚く消えてしまうような予感がして、絵麻はそれを決して口にすまいと、ハンカチで――『映画館』の匂いがした、喬の優しい心遣いで涙ごと拭い去ってから、薄い炭酸がしゅわしゅわと胸の奥で泡立つ、不思議な味の缶ジュースを手に取った。
半分ほどそれを飲んで、絵麻がようやく呼吸を取り戻したとき、ブザーが鳴り、緞帳が音もなく左右に開き、真綿のように白いスクリーンが顔を出すと同時に、ふっと座席の照明が落ちて、背中側から頭の上を通り、青い光が前方に向かって差し込んでくる。
空気の中に舞う埃さえその中に映し出す、これまで見たことのないノスタルジックな情景に絵麻が振り返ると、喬はそれを見て嬉しそうに、小さな声で囁く。
「いい反応をありがとう。うちは『名画座』だからね、上映するものは古い映画ばっかなんだ。父さんが映写技師でさ、母さんは経理とか、そういう事務周りの仕事。……」
そこから先に続くような気配を見せた言葉を留め、喬は前を向くと、
「この映画、うちの定番。じいちゃんが子供の頃に作られたんだよ」
また一つ、返答に窮する情報を絵麻に放り投げ、ライオンの吠えるスクリーンを見つめた。
ほのかにセピアを帯びたモノクロから始まり、目にも鮮やかというよりも痛いほど眩しいコントラストの激しい色彩で描かれた、めくるめく魔法と歌の世界は瞬く間に終わり、【オズの魔法使】は、いよいよラストシーンに近づく。
しかし、ドロシーが真っ赤な靴の踵を三回打ち合わせたあとのセリフに、絵麻はどうしても感情移入ができなかった。
(……あたしも、オズの国に行って、そのままそこで暮らせたらいいのに)
流行りのアニメやライトノベルのような浅い考えに、自分で自分が嫌になる。
何もかも元通りモノクロの世界に戻ったドロシーと同じ言葉は、きっと今日、家に帰っても、自分の口からは出て来はしないだろう。
(悪い魔女でもなんでもいいから、あのくらい、きれいで明るい世界にいられたら……)
やがてフィルムは途切れ、ゆっくりと客席に明かりが灯り、スクリーンは再び緞帳に覆われた。
ふと隣を見ると、喬はその気配に気付き、にこりと笑みを浮かべて絵麻の顔を覗き込む。
「お疲れ様。どうだった?」
「……」
「感想、聞きたいからさ。ちょっとロビーで待ってて。俺、この辺掃除して行くから」
そう言われてあたりを見渡せば、客席には自分たちしか座っていないこと――後から入ってきた人間はいなかったのだということがわかって、
「……あの、こんなガラガラで、よく潰れないですね?」
さすがに経営のことが心配になり、思わず絵麻がそう口走ると、喬は吹き出し、
「痛いとこ突くなあ」
困ったように肩をすくめて笑いながら、椅子から立ち上がる。
「いいんだよ、そういうの。採算度外視。どっちみち、俺んちはじいちゃんも父さんも、中卒の映写技師だし、他に働くとこないからさ、ここを経営するしか無いんだ。……でも、言われたとおり、だいぶ貧乏だよ。だから、俺の通ってる高校も、金のかからない公立の通信制だし、卒業したら別の仕事に就いて、外で働けって言われてる。ゆくゆくは、じいちゃんが死んで、父さんが働けなくなったら、ここは無くなる。あと何年かしたら、駅の向こう側に、大きな映画館も出来るみたいだしね。……うちは時代遅れなんだ。どんなにいい映画やっても、お客さんも滅多に来ないし……もう、いいんだよ」
「……」
やはり同業者だからこそだろう、この街に――アニメ映画を観に訪れたときの記憶に間違いがなければ、それを上映していた大きなシネコンが一つあるというのに、また新しい映画館が出来るという、絵麻には初耳の情報を仕入れている辺りはさすがである。
そして、なぜ平日の真昼から『高校生』であるはずの彼がここにいるのかという謎が解けたのと同時に、その口ぶりから、なにか愛情のような、むしろそれは『映画』というものに抱く“情念”と言っても差し支えのないものを感じた絵麻は、彼の口からも是非に、今の映画の感想を聞いてみたくなった。
「……あの、」
「客席の掃除は、俺の仕事なんだ。ほら立って。五分もかかんないから」
そのまま話を聞こうとした絵麻を、喬は笑いながら追い立てる。
「……あたしたちしかいないのに、意味あります?」
仕方無しに絵麻が重い腰を上げると、喬は自分も荷物を抱え、ポケットから何かを取り出す。
「あるよ。君は大事なお客様なんだから、きれいな席で気持ちよく観てもらいたい」
「いいですよ、どうせ座る場所変わんないし……」
「だめ。これはうちの映画館としてのプライドなの。君がいいって言っても、俺がばあちゃんと母さんに叱られちゃうから」
手のひらの中で、スマートフォンではない何かの電源が入ったのを確認すると、喬は茶目っ気たっぷりにそう言って、荷物を抱えた絵麻を導くように、先に通路に躍り出る。
「おいで」
呼びかけてくれた声の柔らかさに、とくん、と心臓が跳ねたのを、絵麻は俯いてごまかした。
喬を待つ間、座面のところどころに穴の開いたベンチソファの上で、残りのポップコーンと缶ジュースを交互に腹に入れながら、絵麻は壁にかかった振り子時計の針を見る。
時間割で言えば、今ごろ三時間目が終わり、四時間目の準備をしているところだ。
多分に、自分のリュックサックは、まだ誰にも見つかっていないのだろう。
そのまま永遠に忘れ去られてくれはしまいか、と、絵麻は密かに祈りながら目を瞑る。
暗闇のはずの瞼の裏に、ちかちかするほど色の濃い映画の切れ端が浮かんでは消え、脳味噌のないカカシも、心の無いブリキの木こりも、勇気のないライオンも、彼女には他人のように思えず、幸せになった彼らや、心配してくれる人と帰る場所――自分にはないものを持っているドロシーもただただ羨ましくて、ハッピーエンドのはずなのに、心は明るくならない。
「お待たせ」
ほどなく喬は掃除を終えて姿を現し、絵麻の隣に腰掛けた。
その距離の近さを不快には思わないことに自分でも安堵しながら、絵麻は改めて喬の顔を、明るい光の下で見つめる。が、
「うん、可愛い。俺、ジュディ・ガーランドより、君の方が好みだな」
じっくり見ようとした矢先に先手を取られた上、即死級の誉め言葉を剛速球で投げ込まれ、絵麻は思わず手元からポップコーンのカップを取り落としそうになった。
「あ、……あ、え、あの、や、やめてください、お世辞なんて嬉しくないです!」
勢い余って持ち直したそれを握りつぶしてしまいそうになりながら、絵麻はストレートすぎる喬のアプローチに抵抗してみたものの、彼は自分でそう宣言したように馴れ馴れしく、全く距離を取らずに、絵麻の領域に踏み込んでくるのをやめない。
「お世辞じゃないよ。だって、何するのも表情くるくるしてさ、見てて楽しいし、笑うと目がきらきらして、すごく可愛いよ。俺、【オズの魔法使】なんて、もう二十回以上観てるからさ、ぶっちゃけスクリーン見るよりも、君を眺めてる方が楽しかった。ほんと、一緒に観れてよかった、初めて観る人の反応とか感想って、やっぱ興味があるから。……でも、最後の方、あんまり楽しそうじゃなかったね。なんで?」
聞いているだけで恥ずかしくなる口説き文句にくっついてきた、唐突で鋭い質問に、絵麻は“喬ならば何を話しても軽蔑しないだろう”という不思議な確信を得て、
「……だって、……ドロシーは、エムおばさんが、竜巻に巻き込まれる時だって、必死に名前呼んでくれて、心配してくれてたし、ミス・ガルチが『トトを殺処分しろ』って言った時も、ちゃんと味方してくれたのに、……あたし、担任にキレたときに、三日間学校に行かないで、図書館に、抗議のつもりで立てこもってたけど、親からスマホにチャットもメッセも来てなくて、帰ったら、電気もついてなくて。二人とも、普通に残業して帰ってきて、何も声かけないし、心配しないから、……もしも、オズの国に行っても、誰も心配しないんだろうな、カカシみたいに頭も良くないし、ブリキの木こりみたいに優しくもないし、ライオンみたいに強くもなれないから、……あたしがもしも、オズの国に居るなら、西の悪い魔女みたいになるしかないなって……だんだん、……嫌になっちゃって」
余すところなく自身の劣等感を述べた後、大きなため息を吐いた。
その言葉を全て受け止めた様子で喬も一つため息を吐き、しばし考えると、缶コーヒーの中身をひと口飲んでから、
「自虐しすぎ。頭の良くない人はそこまで考えて映画観ないし、優しくない人はこの話を観ても、こんなに悩むほど、心を動かされるなんてことはない。それに、勇気があるのは、もう証明済みだよ。だって、こうやって堂々と学校サボって、自分一人で行動してさ、自分の居場所、探そうとしてる。本当に勇気のない人間は、何も考えないことにして、何も感じないふりして、何が起こっても自分に関係ない、って知らんぷり決め込んで、黙ってみんなと同じことして、それで自分を偽ってるだけなんだ。……大丈夫。俺、本当にずっと、君の顔眺めてたけどさ、オズの国に着いてから、君はドロシーと一緒に、夢中になって旅をしてた。ただ、まだ絵麻ちゃんには、魔法の靴で帰れる場所が見つかってないだけだよ。絶対、西の悪い魔女みたいな奴にはならないから、安心しな」
滔々と言葉を返し、再び飲み口に赤い唇を添え、それを一気に飲み干した。
「……」
ここまで率直に慰めと励ましを貰ったことも久しく、何よりも異性に真正面から好意を向けられた経験が一切なかったせいで、絵麻の胸の中はぐちゃぐちゃと喬の言葉に優しくかき回され、リアクションさえ取れなくなり、ひたすら、激しい鼓動を続ける心臓から送られる血の熱さが、指先まで神経を煮溶かすような想いに、黙って身を任せていることしかできない。
それに、喬の見た目が――その、人の好さと正直さがにじむような綺麗な眼と、均整の取れた顔をしていることも、絵麻が必死に今の自分に言い聞かせている“勘違い”を加速させるのには、充分な要因だった。
身動きが取れなくなった絵麻の隣に、静かに喬が寄り添う、長い沈黙の後、
「……ねえ、絵麻ちゃん」
喬の方から口を開いて、それは壊れる。
「ここ、魔法の靴で、帰って来る場所にしたら?」
「え……」
意味を捉え損ねて戸惑い、その言葉の方を振り向いた絵麻に、喬は愛おし気な笑みを浮かべて、先を続けた。
「絵麻ちゃんが、他に自分の“居場所”を見つけるまでの間さ、学校にも家にも居たくないなって思ったら、毎日でもいいから、ここ来なよ。それでさ、俺と一緒に映画観て、話、しよ」
「……」
その誘いに乗ること自体は、やぶさかではないが、
「でも、……お金、かかるでしょ?」
さすがに毎日千円の出費は厳しい、と、財布事情が真っ先に頭をよぎり、絵麻はそれを阻む。しかし、
「いいって。俺が奢る。俺、一応、家の手伝い以外にも、すぐそこのコンビニでバイトしてるしね。……って言っても、年ごまかして深夜で働いてるから、絶対に顔見に来ちゃだめだよ。この辺、お水や風俗の店ばっかで危ないし、酔っ払いやヤクザやおまわりさんもよく来るから」
この周辺が決して治安のいい場所ではないことに改めて釘をさしつつ、何のことはない、というように胸を張って、喬はその不安を一蹴してしまった。
「でも、それじゃなんか、悪いっていうか……」
「悪くない。俺がそうして欲しいの。……俺、一人っ子だし、学校のレポートも全部郵送で送って、月一でしか通学しないし、学校行っても、年の近い子はもうグループ出来ちゃってて、誰とも話なんてしなくて、友達いないんだ。……今日みたいに、お客さんも閑古鳥だし、ずっと一人ぼっちで映画観るの、つまんなかったから……」
眼鏡の奥の黒い瞳は、縋るように微かに潤む。
「だからさ、絵麻ちゃんが嫌じゃなかったら、俺と毎日、デートしてくれない?」
「でっ……!」
「いいでしょ? 嫌ならいいよ、断っても」
「……」
全く断る理由のない話に、全く落ち着かない心臓と戦いつつ、確かにこの距離の縮め方では友達づくりに苦労するだろうな、と深く納得しながら、一人っ子同士という共通項を得たうえで、完全に恋人同士の空気で提案されたことに、絵麻は絶句し、辟易し、思わず反射的にうなずいてしまった。
「じゃあ決まり。それと、もう一個。来てくれた時はさ、お昼、買い出しに行ってもらってもいい? もちろん、君の分もちゃんと奢るからさ。出来るだけ、こう、こってりしたやつが食べたい」
その仕草以上の返事がないのをいいことに、喬はどんどん話を進める。
「家族のことは気にしないで。本当に、二人分だけでいい。俺さ、ちっちゃい頃から、母さんが『身体に悪いからダメ』って言って、ファーストフードや市販のお菓子、ぜんぜん食べさせてくれなくって、ずーっと欲求不満なんだ。父さんやじいちゃんもそういう飯が嫌いで、カップラーメン食べたのバレたら殴られたことがあってさ、ばあちゃんは糖尿で余計なもん食えないの。だから、上映の間の休憩時間に、自分の分だけ買ってきたってフリして持ち込みして、俺にも届けて欲しいんだ。大丈夫、客席で食べれば絶対にバレない。ハンバーガーとか、ピザとか、フライドチキンとかさ、あとはカツ丼とかホットドッグとか、そういうの食べさせてよ。あ、あと甘いもの。クリームがいっぱい入ったドーナツと、ケーキとプリンとチョコと、アイスも食べたいな。……うわー、話してたら、めっちゃ食べたくなってきた……」
家庭の主義に逆らえないのは勿論のことだが、先ほどの話を聞く限り、勉強と家の手伝いに加え、深夜のアルバイトで、ほとんどそういった自由な時間は取れないのだろう。外食そのものに飢えている様子を隠さない喬は、話しているうちに渇望が過ぎてしまったらしく、力なく、ぺしゃんと身体を折り曲げてしまった。
(そっか、……この人も、あたしと同じ。さびしかったんだ)
決して人通りが少なくはないはずなのに、ポップコーンの匂いがしなければ気が付かなかったかもしれないような、間違いなく駅の反対側のシネコンに客を吸われている、辺鄙な場所にあるこの映画館の中で、たまにやってくる客だけを相手しながら、ほとんど毎日を一人で過ごす上映時間――
しかも、彼の口ぶりでは、何度も繰り返し観たものを観る生活は、刺激もなければ張り合いもないだろう。
『大人』なら、それも仕事と割り切って過ごせるだろうが、彼はまだ自分とさほど年の変わらない『少年』なのだ。それはひどく退屈に違いない。
何より、既に喬の方から絵麻を――どこまで本気なのかはわからないが、『恋人扱い』し始めたことで、彼女は自分が抱いている気持ちをある程度共有してしまった方が、楽になれることに気が付いた。
(彼女っていうのは、まあ冗談にしても、……友達、よりは、好きになってもいいんだよね)
貸してくれたハンカチや、上映中、彼の身体からふとした瞬間に匂い立った『映画館』の香りは、スクリーンの中の世界への没入感を手伝うだけではなく、家にいるよりも深い安心感を得られるものだということも、彼女の中で全く不本意な形で形成されてしまった“男性への嫌悪感”を取り去るための材料になり、意を決した絵麻はわずかに唾を飲んで、くずおれたままの喬の背に触れる。
「!……」
瞬間、跳ねた身体は、思った以上に冷えて痩せていたが、しっかりとした筋肉の感触が服の下にある。
初めて自分から触れた“男の子の身体”の手触りに、どきどきと鳴りやまない心臓につられ、得も言われぬ感情が沸き上がり始めた。
(嫌じゃない。この人ならあたし、触られても大丈夫な気がする)
ブレザー越しに手のひらに当たる背骨をなぞるように、絵麻は彼の身体に触れ続ける。
撫でるたびに、映画館の背もたれと同じ匂いがふっと鼻先をかすめ、彼女は喬に対する警戒心の一切を解いてしまった。
「ねえ、デート、するなら……もう、タメ口でもいい?」
ゼロ距離で自分の心に踏み込んできたのだから、今更他人行儀もないだろう。
久しぶりに対等に話ができる相手を見つけた嬉しさに任せ、思い切って絵麻も彼の心の中に飛び込んでみる。
「もちろんだよ。むしろ呼び捨てにして」
姿勢は変えずに首だけを絵麻に向けた喬は、こと親し気に微笑んで応えてくれた。
「それは……まあ、おいおい」
相手が高校生だと思うと、まだ少々レベルの高い要求に苦笑いしながら、絵麻は小学校からの慣習で一つ伺いを立てる。
「じゃあさ、呼ばれ方、『さん』付けと『くん』付け、どっちがいい?」
「え、何でそんなこと聞くの?『さん』付けなんてやだ。先生やバイトの上司じゃねーんだし。『くん』付けがいい」
そう即答した喬に、
「わかった。……たかし、くん」
絵麻が早速望み通りに言葉を発すると、彼は頬を真っ赤に染め、その黒い双眼をぱっと見開き、
「!……超嬉しい……そう呼ばれたの、何年ぶりだろう……」
なにか感極まるものがあったのか、声を詰まらせながらつぶやいて、再び顔を下に向けてしまう。
「……絵麻ちゃん、俺と、これからもずっと、仲良くしてね……俺、すごく寂しかったんだ……俺、どこにも行かないで、毎日ここにいるからさ。一緒に映画観て、いっぱい話、しようね。……夢だったんだ、……君みたいな女の子と、映画の話するの……」
まるでうわごとのように言葉をこぼし、涙で震えるブレザーの背中を、絵麻はうなずきながら、黙って撫で続ける。
やがて、喬の喉奥から、
「……絵麻ちゃんの手、あったかい……」
幼い子供が甘えるような、切ない響きの声が漏れた。
「そう、かな……」
換気扇のせいだろうか、少し指先が冷たいくらいの絵麻の手のひらに、喬は撫でられるままになりながら、こくりとうなずく。
「うん、すごくあったかいよ。……お願い。もうちょっとだけ、撫でてて……」
心底幸せそうな声色の答えに、絵麻は彼の気が済むまで望み通りにしてやろうと思いつつ、次の【第三の男】の上映時間までに、ひとまずの手始めとして、すぐ側の大通り沿いにあったファーストフードの店でハンバーガーのセットでも買って来るか、と、喬と一緒に食べるメニューを考え始めた。




