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第一話

 定期券の行き先に辿り着く前に降りた駅のトイレで、スカートを短くした制服の上から、ネイビーのセーターを羽織り、ドアフックにかけていたグレーのコートを着直し、校則違反の白いマフラーを巻いて、絵麻(えま)は自分が中学生であることをできるだけ隠すと、ドアを開ける。

 学校指定のリュックサックは、最後に登校した日の朝に、教科書ごと体育館の倉庫の角に置いてきた。

 毎朝、娘がそれを背負っていないことを気に留める風でもない両親に、愛想はすでに尽きている。

 毎朝家を出てしまいさえすれば、そこから先は帰宅するまで何も言われない――この一週間でそうだったのだから、おそらく自分が卒業するまでそれは変わらないだろう、という確信は、彼女をますます家からも学校からも遠ざけ、行き先を失わせるには充分すぎる事実だった。


 改札を通り、初めて一人きりで訪れた駅の朝の人波に飲まれるままに歩いて、登ったことのない階段を登り、エスカレーターを経て地上に出たときには、晩秋の暗い小雨模様の中、ぎらりと鈍く鉛色の刃物のようにそびえるビルと、その下を無表情で歩いているサラリーマンや、歩きスマホをしながらイヤフォンを耳に突っ込んだ大学生風の若者、はたまた夜の仕事を終えたような空気をまとった、少し派手な髪色に黒い羽織りものをした男女が家路を急ぐ、自宅の周りと明らかに違う風景が広がった。

 通りに沿ってほぐれていく人間の塊からぱらりと離れ、半分ほど葉の残った銀杏の木の根元に寄り添うと、絵麻は中学校に入学したときに持たされた、GPS機能付きの子供向けスマートフォンの電源が入っていないことを確認して、ほっと息を吐く。

 学校にいる間は電源を切れ、という校則のおかげで、自分がこうして自由を謳歌できることだけはありがたいと思いながら、彼女は高校生のふりをするために買った、真新しい紺の肩掛けカバンの中にそれを放り込み、何の目的もなく、ありふれたレンガ色とクリーム色のモザイクが彩る濡れた歩道を、うつむき加減で誰にもぶつからないように歩き始める。


 無言で信号を二回渡り、銀杏の先のプラタナス並木が見えると、その枝には薄っぺらいイルミネーションのコードが、黄色くなり始めた葉とすがれた実がしがみつく隙間にうねうねと這い、この間まで紫の背景にカボチャやコウモリを飾っていた街並みは、すっかり手のひらを返したように、赤白緑に金が混ざった、年で一番けたたましく白々しいイベントの彩りに変わっていた。

 視界の隅に入ってくるそれらから目を逸らしつつ、サンタクロースを信じていた自分は本当に馬鹿だな、と冷めた気持ちで、絵麻はもう一年以上話をしていない父親の、十二月二十五日の朝の冷たい視線を思い出し、それなりにいい子にしていたというのに、頼んだものを一度もくれなかった、けち臭い『サンタクロース』を小さく鼻で笑って、忌々しさに奥歯を噛み締める。

 そうして、もう何年も前にわかりきっていたことだというのに、高校受験の時期が近くなった今だからこそ、嫌になるほど身に染みる結果――父の意向で中学受験をしたものの、他の子ほど勉強ができるわけではないせいで、二年生の半ばという中途半端な時期に『成績不良』で退学させられ、仕方無しに休み明けから通い始めた公立の中学校――それも、「学区内だとご近所さんに色々訊かれて恥ずかしい」という両親の世間体のためだけに越境入学した、余所者にとってはひどく肩身の狭い、最初から居場所のない空間に身を置かざるを得なくなった、この絶望の原因を呪った。


 さすがに月曜日は緊張したが、電車に乗る前に母の振りをして「頭痛が酷いそうなので休ませます」と電話口で嘘をつくのも水曜日には完全に慣れ、金曜日の今日には、ただのルーチンワークとなった。

 電話口の教頭か教務か学年主任か、それとも別のクラスの担任か、とにかくよくわからない相手は、絵麻の言うことを疑いもせずに相槌を打ち、「はい解りました」と朝の忙しい業務を邪魔された苛立ちを殺した返事をして、すぐに通話を終える。

 中途半端な時期に転校してきた自分を心配する教師もいないのだと思えば、ますます空虚な彩りを帯びる毎日は、ただ無軌道に、自宅の最寄り駅から最低三つは離れた駅のいくつかを毎日こうして探索させ、警官を見るたびに身を隠すだけの毎日を生み出している。


 これまで、学校をさぼったことがないわけではなかった。

 二年生の春先、春休みが近い頃、急に桜が見たくなって、どこかに咲いていないものかと、丸一日誰にも連絡せずに、定期券と反対側の街に飛び出したこともあった。

だが、三年生になってからのサボタージュは、そんなお気楽な理由ではない。少なくとも、彼女にとっては命と自尊心に関わる、逼迫したものだった。

というのも、新しい担任の中年男性教師がやけに距離が近く、それが生理的に気持ち悪く感じられていたのだが、ある日ついに自分の髪に触ってきたときに怖気だって悲鳴を上げ、絵麻はクラス全員の前でかつてないほど暴れながら泣いたのだ。

その翌日から、やはり自分と同じように感じていた女子生徒たちが、都合のいいように自分のしたことを使うだろうか、と投げやりになり、とにかく同じ空間にいることが嫌でたまらない一心で、駅に向かった後に線路の向こう側に足を延ばし、古い団地の側にある図書館に三日ほど籠ったのである。

 余罪があったのか、担任が依願退職した――というのは建前なのだろう――という連絡は、絵麻がずっと伸ばしていた髪を、自分の手で短く切り落とした週末には自宅に来たが、両親は明らかに様子がおかしい娘が何をされたのかを聞こうともせず、ただ母親が事務的に、その情報を伝えてくるのみだった。

 なんだ、この人たちは娘の心配もしないのか――

 諦観の中で両親との関わりを避けるようになった絵麻は、今年の夏休み明け、三者面談の通知もごみ箱に捨て、当日は「仕事の都合で来ませんでした」と新しく担任になった若い女の教師を困らせて二者面談で済ませたのち、受験する高校も決めないまま、秋の終わりに入ったのだった。


 三たびの信号待ちの間に見上げた鼠色の空は、ぐるぐると渦を巻く雲を切り立ったビルの上に描く。

 顔に降りそそぐ霧雨は、行ったことのないロンドンを想像させる。

 今の手持ちの金額で気軽に食べられるもので、やはりロンドンといえば、料理動画で見たフィッシュ・アンド・チップスか、ならばフライドポテト繫がりでハンバーガーだな、などと、今ごろ一時間目の真っ最中だという時刻に、もう昼食のことを考え始めたとき、

「……?」

 ふわ、と鼻先を、何とも香ばしい匂いがかすめ、絵麻は思わずその匂いの漂ってきた方を振り向いた。


 一方通行の停止線が手前に引かれた道路には、両脇とも決して子供向けではない店ばかりの雑居ビルがみっしりと詰まり、そのいくつかの前には、黒い高そうな車と黄色いタクシーが二、三台、歩道に乗り上げながら、ハザードランプを出して停まっている。

 その幅広な路の左側の建物から、鼻をくすぐる匂い――バターの香りは漂ってくる。

 親と顔を合わせるのも嫌で、朝食を抜いてきた絵麻にとって、それは充分に食欲を刺激して有り余るものだった。

 この雰囲気では、カフェというより昭和レトロな『喫茶店』でもあるのか、などと思いつつ、そこにモーニングがあれば食べてみようと決めて、大通りの脇の歩道を進む人々から離れ、今度こそ一人になった絵麻は、磁石に引き寄せられる砂鉄のように迷いなく、魅惑的な匂いを辿って、別の色の敷石の上に汚れたスニーカーの脚を進ませる。

 が、その匂いの最も濃い場所にあったのは、白壁にぽっかり空いた空間と、真っ直ぐな壁に張り付く半円の青い屋根、オレンジの明かりが中に灯る受付、その手前のイーゼルに乗せられた額縁の中の、凛とした面差しながら可憐で美しい外国人女性――それは確か、オードリー・ヘプバーンという人だったか、ずいぶんと昔の女優であることに思い至り、さすがに絵麻はそこが飲食店ではなく『映画館』だと理解する。

 匂いの根源は、受付の脇にひっそりとたたずむ一台の自動販売機の隣に開かれた、古い公共施設のようなガラスの扉の向こうに、背の低い、頭の禿げた、しかし人のよさそうな顔をした老人が座る椅子の脇にある、年季の入った一台のポップコーンマシンだった。


 意外な場所に辿り着いてしまったことに戸惑いながら、無意識に立ち止まった絵麻は、受付の上の白い板に彫り込まれた、暗い青の顔料がその溝をなぞる古いフォントの料金表を見る。

【大人1500円 学生1000円 小人500円 入替なし】

 そのすぐ下に、後から付け足しで黒く太いマジックが【レディースデーの水曜日は女性のかた1000円】と書き添え、それと同じ字で【障害者・60歳以上500円】という言葉の並んだ、黄ばんだセロハンテープで張られた紙が、枠の外を埋めている。

 高度経済成長期の建物らしい、磨かれた貝のような虹色の艶のある白いタイルで周りを囲まれた受付の中には、扉の中の老人よりも小さな、しかしこちらと目が合った途端に、優しい笑顔を浮かべた老婆が、ちょこんと座っていた。

 それは、学校で同級生が話しかけてくる時の、“異物”に対する愛想笑いであったり、ここ数年見ていない母親の曖昧なそれとも比較すること自体、ひどく失礼に思えるほどの感触で、絵麻の警戒心を解きほぐす。

なおかつ、視線が合ってしまったからには何もしないわけにもいかなくなり、絵麻は自分の財布の中身を思い出す。

 合計すれば、五千円弱はあったかもしれない。

 それは、ここで遊興費に千円使って、朝食がわりにジュースとポップコーンくらい買ってもいいか、などと、彼女の気を大きくするには充分な金額だった。

 そして、『入替なし』という言葉の意味が解らない彼女は小首をかしげつつ、出来るだけ平常心と無表情を作り上げ、穴あきのアクリル板越しに、受付の老婆に尋ねてみることにした。


「……あの」

 そこで、今日初めて声を出したということに気が付き、侘しい気持ちになったが、

「学生さん? 生徒手帳か、学生証持ってる?」

 老婆はふくふくとした笑みとは裏腹に、実にちゃきちゃきとした口調で、どう見ても中高生の絵麻が何故朝からここにいるのかを問うこともせずに、手元を何やら手早く動かし始める。

「今日は金曜だから三本立てで、全席自由だよ。一回ごと、上映後に座席の掃除があるから、その時間だけは外に出てちょうだい。半券持ってれば出入り自由。食べ物も持ち込みできるからね。上映開始時間の十分後からは入場できなくなるから、それまでには中に戻ってね」

 老婆の説明に、ああ、なるほどな、と“入替なし”のシステムをなんとなく理解し、絵麻はカバンから慌てて財布と生徒手帳――これさえあれば何をするのも『学割』が利くと思うと、どうしてもリュックサックと一緒に捨てることは出来なかった――それを取り出した。

(中学生だからって、ウザいこと何か言われたら、別のとこ行けばいいだけだし)

 覚悟を決めて、窓口のアクリル板の下にある、空気よりもひんやりとした大理石の板の上に、手帳と一緒に千円札を置く。

「はい、OK。ありがとね」

 老婆は表紙をちらと見ただけで、それ以上、絵麻が想像していたようなことを何も訊かずにうなずき、手元にあった長方形の紙の片端を折り、綺麗に千切る。

「どうぞ。ゆっくり楽しんでいってね」

 生徒手帳をカバンに突っ込んだタイミングで大理石のマーブル模様の上に差し出された、紺色のつやつやした手触りの紙には、【星降キネマ】という文字が白く浮かんでいた。


 入り口脇の青い自動販売機で飲み物を買おうと思い近づくと、そこにある飲み物が軒並み100円という破格の安さだったことに驚きつつ、絵麻はその中から、新商品と思しき猫の絵が描かれたピンク色の缶ジュースを一本買ってカバンに突っ込み、丸い引手が開け放たれたガラスの扉をくぐり、建物の内側に入る。

そうしてすぐ右手側、絵麻はポップコーンマシンのどこかに値段が書かれていないかと一瞥し、【300円 バタ味】の手書きの張り紙を見つけ、想像以上に安かったことにほっとする。

 途端に小さく腹が鳴り、矢も楯もたまらず、むしろこのためにここに来たのだ、という気持ちで、絵麻は手に持ったままだった財布に指を突っ込みながら、

「あの、ひとつください」

 老人にそう言って、五百円玉を差し出す。

 彼はそれを、受付にいた老婆と同じ丸さの笑顔で受け取り、先に釣銭を返してから、ビニールの手提げに入った、黄色と白のストライプの大きな紙カップを絵麻に渡した。

「どうぞ。ありがとね」

 ふわあ、とバターの香りが顔面にかかり、早くそれをもりもりと口に放り込んでしまいたい気持ちを押さえながら、

「ありがとう、ございます」

 絵麻は自分も礼を言って、頭を下げた。


 そこで、不意に視線を感じて、彼女は自身の背後を振り返る。

「!」

 真正面に貼られていたポスターの中の人物と目が合ってしまい、彼女は思わず身を竦めた。

 おそらく、何十年も前の映画だろう。【嵐を呼ぶ男】と、縦書きに荒っぽい真っ赤な文字で銘打たれたその中から、整った顔の若く凛々しい、そして野趣あふれる男が、ドラムのスティックを持ってこちらに流し目を送っている。

「石原裕次郎」

 今度は背中側から声がして、絵麻は再びぎくりとしながら、その主を振り返った。

「日活のスターだったんだよ。後ろにいるのは、あとで奥さんになる北原三枝ね。この前の年に【狂った果実】っていう、裕次郎の兄貴の慎太郎が書いた小説をもとにした映画で知り合って、それで結婚したんだ。あれもいい映画だけど、なかなか刺激が強かったなあ」

 楽しそうに語る老人に、絵麻はすっかりまごついて、「はあ」と中途半端な相槌を打つが、それさえも嬉しいというように彼は喋り続ける。

「はは、一緒に観に来たアベックが、映画館出た途端に『何て破廉恥なものを観せたの』なんて、女が男に平手打ちして、大喧嘩してたこともあったよ。懐かしいねえ」

 初対面だというのに、ひどく饒舌な老人の様子に戸惑い、絵麻は目を白黒させる。

「まだ、上映まで三十分あるからね。ここに貼るものは週変わりだから、せっかくなんで、僕のコレクション、眺めてってちょうだい」

「あ、……はい」

 これ以上ここにいると、また解説が始まりそうな気配がして、絵麻は慌てて背を向ける。

 そうして思わず、言われた通りにその隣のポスターに目をやって、老人の視線から少し身体をずらした。


 ぼさぼさの髷を結った髭面の男――先ほどの『石原裕次郎』よりも泥臭く、しかしその中に、ぞくっとするような色気のある侍が、残像と共に刀を振り下ろすその上で、眼光のひどく鋭い、威厳のある顔立ちの男が、それをまるで睨んでいるかのように不敵な笑みを浮かべて拳銃を構える構図の【用心棒】。

 赤々と燃え上がる炎を背景に、この映画館にふさわしいだろう、昭和らしい言い回しでいうならば“ハンサム”をそのまま絵にしたような逞しい男の腕の中で、気を失っているのか、力なく横たわる、まさに女優になるために生まれてきたような美しい女性が、今にもくちづけを交わしそうな距離の横顔で向かい合って描かれた、【風と共に去りぬ】。

 白馬の四頭立て馬車を手前に、同じものがその奥を何台も疾走している【ベン・ハー】。

 観たことも聞いたこともない映画ばかりが並び、絵麻は都度足を留めて、それが写真ではなく手描きの絵であるらしいことに、いちいち驚いた。

 気がつけば、足元は硬い石から、さくさくとした踏み心地の絨毯に変わり、少しずつ空気の匂いも変わっていく。

 やがて、【クレージー大作戦】【理由なき反抗】【鞍馬天狗】とギャラリーが続いた後、右手側の階段の踊り場で塗装の剥げた手すりが折れ曲がり、絵麻をその下へと導く。

 その一番端に飾ってあった、アニメ映画のポスターのタイトルに大いに見覚えがあり、それに少し安心してから、彼女はオレンジの間接照明が照らす地下へと降りた。


 手すりの反対側に、三枚ほど地上にあったような額縁が飾られ、それを眺めながら降りた先は、足元から続く紺碧の絨毯の床と、ところどころに入ったひびに補修のモルタルが塗り込まれた白壁のロビーだった。

 換気扇がごうごうと空気を吸い上げる音の中、階段の前には、規則正しく鋲の打つ模様がますます古めかしい琥珀色の防音ドアが一つ待ち構えており、両脇の壁際には座面が劣化して、その破れた箇所に意味なく布ガムテープが張られた白いベンチソファが一脚ずつ置かれている。

 そのベンチと壁の間には、合わせ鏡のように、分厚くて濃い緑の葉を持つ観葉植物が二鉢、左右対称に鎮座し、ともすれば殺風景になってしまいそうな小ぢんまりとした空間に生き物の気配を添えている。

 扉の右脇には【本日の上映】という札が張られ、その下にはガラスの引戸がついた掲示板があり、中には三枚のポスターが張られていた。


【オズの魔法使】【第三の男】【街の灯】


 ぱきっとした緑と黄色に、少し色あせた赤文字が派手なタイトルが、登場人物を上下にサンドイッチする左側のポスターとは逆に、セピアがかった中に独特の重さがある力強いタッチで、含みのある表情の男女が描かれた真ん中の『画』は、既に観る前から、互いの作品の明度の違いを如実に表しているようにも見える。

 そして、一番右にある、青で描かれた夜景を背負い、薄紅色の花がこぼれる籠を携え、一人の不格好な男を見上げる女性を描いたポスターの、その男性こそが、銘打たれている『チャールズ・チャップリン』であることは、小学校の道徳の授業で触れた覚えがあった。

 しばしの間、ポスターを見比べ、古き良き時代を思わせるそれに、絵麻はため息を吐く。

(……これもさっきのと同じで、昔の映画なんだろうな、きっと……『オズの魔法使い』は知ってるけど、後の二つはわかんないや……)

 知っている、とは言っても、幼稚園の時から通わされた英語教室の読み聞かせで聞いたせいで、主人公の名前以外は何もかもがあやふやな概要しか持ち合わせていないことに、自分でも情けない気持ちになりながら、早くポップコーンを食べたいという欲を満たすため、絵麻はドアの引手に手をかけ、その金色の棒をぐい、と手前に引いた。


「……」

 もっと客が入っているかと思ったが、しんと静まったスクリーンを覆う夜空色の緞帳が構え、黄色味の強い明かりが濃い口の影を足元に作り出す座席には、人っ子一人座っていなかった。

「貸し切りだ……」

 思わずそう呟いて、絵麻は紺色のふかふかした座り心地の良さそうな椅子の間を縫い、おそらくスクリーンから遠くもなく、近すぎもしないだろう席に陣取り、カバンを隣の座席に置いて、黒い手すりのホルダーにポップコーンを入れる。

そうしてから、まずは先ほどの缶ジュースをカバンから取り出してプルタブを開け、ひと口飲む。

新作なのだろうか、見かけたことのないそのジュースの、ほんのりとした炭酸の爽やかな口当たりと、いくつかの果実を混ぜたような不思議な甘さ、花のような香りという複雑な味わいに、これを選んで間違いはなかった、という安心感で小さく息を吐くと、反対側の手すりのホルダーに缶を入れる。

 建物自体は古いが、客席は最近になって改装工事を行ったのだろう。座面も汚れておらず、絵麻は安心して深く腰掛けてから、ゆったりした背もたれに身体を預けると、懐かしく心地良い、何とも言えない『映画館』の匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。


(最後に映画観たの、いつだったかな……)

 幼稚園の頃、まだ塾通いを始めるまでの間、年に一度か二度、母方のアニメ好きな叔母に連れられてアニメ映画を観に行ったような気がするが、勉強に時間を割くようになってから――特に、中学受験の準備が始まってからは、こういった『娯楽』に触れることはなかった気がして、ここ五年間の時間の使い方の面白くなさに、絵麻の心は虚しさを増す。

(映画どころか、ゲームもテレビも、音楽も何も……)

 何しろ、今年の年度初め、図書館に逃げ出した日になってから、小学二年の頃に読み始めたものの、受験勉強のなあなあで読むのをやめてしまっていたシリーズ物の児童文学の続きを最終巻までようやく読み直し、ついでに外伝まで読了して、積年の鬱憤を晴らしたくらいだったのだ。

 いかに自分のこれまでの人生を、父のわがままと母の無関心に振り回され、それに大人しく従うことですり減らしていたかと思うと、窮屈な家から離れた街の、初めて訪れた映画館で、知らなかった映画をこれから一人で観るという行為は、決して暗闇に飛び込むような恐ろしいことではなく、何かに向かって自分が確かに歩き始めた――そんな気がして、何か素晴らしいことが起こる予感に頬が熱くなる。

 が、それはまだ外していなかったマフラーとコートのせいだとすぐに気が付き、絵麻はその原因を脱いでしまうため、いったん座席から立ち上がった。


 そのとき、がぱ、と座席のなだらかな丘の上の扉が開いて、ひとりの人物が現れた。

「……」

 グレーのコートを羽織り、同じ色合いのタータンチェックのマフラーを首元にぐるぐる巻きにし、その下にはこの頃見かけなくなって久しい、黒い学生服――背格好からして、おそらくは高校生。

 使い込まれた肩掛けカバンは手をポケットに突っ込んだほうの腕に引っ掛け、反対側の手には、中身はコーヒーだとわかる小さな青い缶を持っている。

 低めの背丈に、黒縁のスクエア眼鏡の上で豊かな癖の強い髪が黒々と揺れ、とびぬけて良いというわけではないが、割と好感の持てる顔立ちをした――ここに来るまでに見たポスターの見目麗しい男性たちのせいで、少々感覚が麻痺していたのかもしれないが――その『少年』は、絵麻の姿を見るなり、一瞬だけ困ったような顔をして、何か言いたそうな素振りを見せつつも、すぐにそれを飲み込んだ様子で自身も前側へとやってくる。

(なっ……今こいつ、あたしにガン飛ばした!? 何なの、うっざ……)

 思わず引きつった頬のまま、気にしないふりをして絵麻はマフラーを外し、カバンの上に置いて、コートの留め具を外し始める。

 しかし、少年は絵麻のその反応を敢えて無視したのか、つかつかと通路を進んできたかと思うと、絵麻と同じ列に足を踏み入れ、無言で隣に立つと、そのままコートを脱いで手早くマフラーを外した。

「!……」

 思わず手が止まり、絵麻は目をむいたまま、自分より頭半分ほどの上背のある少年が、知らん顔で荷物を反対側の座席に置き、さっと座ってしまうのを見ていた。

 が、すぐに我に返り、

(やだ、こいつトナラー?)

 これだけ席が空いているというのに無遠慮に隣にやってきたことに腹が立ち、しかしここが間違いなくスクリーン全体を見渡せるベストポジションだということ、そこを易々と後から来た人間に渡すのも負けた気がして、

(……ま、まあ、おっさんじゃないから。臭くないし)

 彼女は仕方なくこの状況を許容することにし、コートを脱いで、隣の席の座面と背もたれの間に挟まっているカバンに被せた。


 再び椅子に腰かけると、待ちかねた気分でいっぱいになりながら、ホルダーから抜いて膝の上に乗せた、まだほんのりと温かいポップコーンを、絵麻はひと粒つまんで口に入れる。

 ごく普通の、何の飾り気もない塩味とバターの香りが口から鼻に拡がり、奥歯できゅっと噛み締めると、弾けて膨らんだ胚乳がくっつく感触と一緒に、薄い皮の焦げた歯ざわりがした。

(そっか。ポップコーン自体、食べるの久しぶりだ)

 空腹だということも手伝ってはいるだろうが、ここ最近食べたものの中でいちばん美味な気がして、さっきまで不愉快さに『への字』を描いていた口元が緩む。

 気付かれないように横目で隣の少年を見遣ると、彼は今まさに手の中のものの電源を落とすところで、こちらに一切意識を向けていないことがわかる。

 その様子に、まだスクリーンにも何も映っていないから大丈夫だと確信し、そこから先、絵麻は何も気にせず、数粒ずつ口に入れては咀嚼し、すきっ腹を炭水化物で満たしていく。

(おいしー。……そうだよね、出来たてなんて、そうそう食べるものじゃないもんね)

 冷静に考えてみれば、こういうものが路上販売されているような場所――祭りや遊園地や、地域の行事でさえも、受験勉強の間から一切訪れたことがない。

 その事実に、絵麻はふと思い当たって、

(……あたし、何のために、お父さんとお母さんに育てられてるんだろう)

 公立中に転入せざるを得なくなったときの、明らかに失望されたことがわかる両親の蔑んだ目が脳裏をよぎり、彼女の手と口は止まった。


(思い通りにならなかったら、簡単に捨てられるくらいの……あたしはそんな程度の人間でしかないのかな……きっと、あたしの存在を恥ずかしいって思ってるんだろうし、そうじゃなかったら、ご近所さんの目なんか気にして、電車で七つも離れた駅の中学なんかに転校させないよね。……あたし、こうやって生きてるだけで、邪魔で、何の価値もない人間なんだな。親の期待にも、先生の期待にも応えられないし、友達だって、受験が始まってからは、どんどんいなくなって……)

 遊びに行こうという誘いを、「塾があるから」と断り続けるうちに、誘われもしなくなったうえ、次第に遠巻きにされ、やがて腫れもの扱いになってしまったことを、今更ながら『寂しい』と思った途端、目と鼻の奥が一気に熱くなって、危うく泣きそうになる。

(バカ、何考えてんの。泣いたって何も変わんない。隣に人いるし)

 ぎゅっと目を瞑ってそれを堪え、起きてしまいそうだった感情の高波を、恥という名の防波堤でどうにか打ち砕いた時。


「……その制服、」

 隣から耳に優しい、穏やかな声がして、絵麻は思わずそちらを向いてしまった。

「黒地に三本線と、……タイは赤だね?」

 間近で見れば、思ったよりもまつ毛の長い奥二重の目はまじまじと絵麻の制服を見つめ、何かを確かめるような音色を隠さずに、綺麗な薔薇色の唇が尋ねた。

「え、……そうだけど、……」

 当たり前のことを訊かれて、思わず絵麻はカーディガンの胸元にのぞいていたタイを両手で隠しつつ、誤魔化すように首をかしげる。

 その答えに、少年は大きく安堵した様子で息を吐くと、

「ああ、やっぱり。ということは、俺の中学の後輩か。あはは、そんな風に隠さなくていいよ」

 先ほどの腹に一物あるような態度が嘘のように一気に砕けた笑みを見せつつ、その一言で急激に会話の間合いを詰めてきた。

「……」

 何も返せずにいる絵麻に警戒心を持たせまいとしたのか、少年は少し身を引いてから言葉を続ける。

「ほら、あそこでしょ? この街の駅から三つ先のさ、すぐ側に、でかい噴水のある公園の。当たり?」

 まさに言い当てられたことで余計に解けない心を持て余し、絵麻はうなずきつつも、視線を左右に忙しなく逸らして、真っ直ぐに自分を見ている黒い瞳から逃れようとする。そして、

「そっかあ、……じゃあ、仕方ないな。そこの席、譲ってやってもいいよ」

 急に吹かされた先輩風に思わずかちんときて、しっかりと目を合わせてしまった。

「は?……譲るって……」

「そこ、スクリーンがいちばん良く見える席だからさ、俺の指定席なの」

「……全席自由って、受付で言ってましたけど?」

「あはは、困ったなあ。いつもそこに俺が座ってるの、知らないわけじゃないのに」

「……」

 なんだ、こいつは迷惑な常連客か、と再び立腹した絵麻は、彼にわざと見せつけるように深々と背もたれに身を持たせて、つんとそっぽを向いてからポップコーンを一つまみする。

 しかし彼は潔く、

「まあいいよ。大差ないから。初めて来る人に、最高の席で観て欲しい気持ちはあるからね」

 そう微笑んで諦め、絵麻と全く同じ姿勢を取った。


(……なに、この人。変な奴……)

 馴れ馴れしさと態度の大きさが鼻を突き、実に釈然としない気分で、絵麻は少年とこれ以上関わらないことを決め、甘い炭酸飲料と三分の一ほど食べたポップコーンのお陰で、空腹感が少し和らいだことに安堵のため息を吐きながら、指先の汚れを拭こうとして、

「……あ」

 コンビニと同じ感覚でいたせいか、ビニールの中に手拭きが入っていないことに今さら気づき、ウエットティッシュを出そうにもコートの下の鞄の中だということに慌て、おたおたと自分の膝と右手と荷物を見比べた。

「うん? どしたの?」

 すぐさま、少年は絵麻の方を覗き込み、そして何かを察したように小さな笑いを漏らすと、

「待ってて」

 そう言ってさっと席を立ち、出入り口に駆けていく。

「え、……」

 呼び止める間もなく彼は扉の向こうに消え、それから一分も待たせずに再び同じ場所から姿を現すと、

「はい。これでしょ?」

 笑顔とともに、個包装の紙おしぼりを三本手渡してきた。

「じいちゃんが謝ってたよ、うっかり入れるの忘れちゃったって。この回にお客さんが来るの、久しぶりだから、ついついポスターの説明に夢中になっちゃったってさ」

「……」

 随分と親しげな呼び方に、絵麻が思わず眉根を寄せると、

「あ、そっか、自己紹介がまだだったね。いやー、中学の後輩だって思ったら、なんかもう知り合いになった気がしてさ。ごめんごめん」

 少年は肩をすくめ、よく見れば先程、受付とポップコーンマシンの脇にいた老人に――間違いなく夫婦なのだろう二人の面影がある、人好きのする笑顔で、


「はじめまして。俺、星降喬(ほしふりたかし)。よく、黒澤映画に出てる、『志村喬』と同じ字。じいちゃんがつけてくれた名前なんだ。この映画館、俺の家だからさ、どうぞくつろいでいって」


 返事もままならない情報量の自己紹介をした。


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