第十二話
目を開けると、無機質な天井とLED電灯、クリーム色のカーテンが見える。
全身に鈍い痛みはあるが、深々と呼吸する胸と腹がずきりとするわけでもなく、落ち着いてあたりを見渡せば、心拍数を測っているらしい規則正しい機械音と、酸素マスク越しの消毒液のにおいが鼻孔に流れ込んで、今、自分が病院にいることを、絵麻は認識した。
どうやら、寝かされているベッドの周りには、誰も居ないようだった。
(……あの時、車に撥ねられた、ってことだよね……)
ぼうっとする頭の中で、横断歩道での出来事を思い出し、その後の自分の身体の状態が知りたくて、ナースコールを押そうにも手は届かず、上半身も起こせず、何もかもがまだ自由に動かない。
(やだ、もしも寝たきりになったら、映画撮るどころじゃ……!)
思い浮かんだ可能性に、冷や汗がどっと吹き出し、心拍数が上がる。
それを聞きつけてか、はたまた別のことでだろうか、不意に壁とカーテンの向こうがにわかに喧騒を帯び、幾人かの足音に囲まれ、絵麻は看護師に名を呼ばれる。
それに答えを返しながら、やっと四肢が感覚を取り戻したことに心底安堵し――ふと目を遣った点滴のパックの色味と、看護師の服の色と肌の色が、何か灰色がかったり、黄色味を帯びていたり、しかしピンクにもオレンジにも見え、絵麻はその違和感に混乱した。
(あれ……?)
これまで見えていた景色と違う、重なり合ったその不思議な色味の世界に、絵麻の脳裏を、目覚める前の夢――夢というにはあまりにもリアルで、そして間違いなくそこにあった『世界』での、喬との会話が思い起こされる。
「俺はいつも、君の中にいる」――
金色の麦畑と、グレーと白の雲、高すぎる青空に、黄色い日差し。
あの『世界』は、喬の目から見たのだろう“色彩”で描かれていた。
しかしそれでは、レンガの道の脇に植わっていた、桃の木のピンクの実と緑色の葉、何より七色の虹の説明がつかない気がして、絵麻はまばたきを繰り返す。
そうするうちに、
「あ……」
かすれた声で、思わず驚嘆しながら、絵麻は左目を瞑って、部屋の中を眺めた。
(ああ、……これが、喬くんの見ていた、世界の色……)
明暗の際立つ豊かなグレーと、輝くような黄色と、混じりけのない深い青。
右目だけで見る『世界』は、喬が話してくれた通りの、そして自分が“見たい”と願った景色の、まさにその色をしていた。
(……そうか、身体も“半分こ”したっていうことは、……)
そこまで考えたとき、ひとつの可能性に、絵麻は泣きたいほど嬉しくなる。
(私も喬くんに、ずっと見たがっていた、私の目に映る世界を……『フルカラーの景色』を、あげられたかもしれないんだ)
今ごろ、彼はあの『世界』で、何を見ているのだろうか。
真っ赤な夕日か、暮れなずむ菫色の空か、消えゆく虹の七色か、熟れた桃の実のその名の通りの色か、あるいは西日に照らされた濃い緑の艶々した葉か――
分かたれてしまった『世界』の向こう側で、何が起こっているのかはわからない。
何も為せないまま死んでしまった彼へのただの同情と、彼を愛した自分の勝手な思い込みと、いささか自己満足が過ぎる、都合の良い慰めだと言われてしまうかもしれない。
しかし、そのくらいの『奇蹟』と『救い』を願うことは、クリスマスなのだから許されてもいいのではないか、と心の中で絵麻はつぶやいてから、『赤と緑のある世界』の風景に興奮し、はしゃぎすぎて涙ぐんでいるであろう喬の姿を思い描き、小さく笑い声を立てると、両目を伏せ、その暗闇の中に意識を置く。
(嬉しい。あなたは本当に、私の中にいてくれるんだね)
これも彼が口にしていた『呪い』のひとつなのだろうか。
そうだったとしても、絵麻にとってそれは全く意味をなさず、むしろ『祝福』であるとさえ思え、いよいよ彼女はサンタクロースの存在を信じずにはいられなかった。
両眼で見える景色の色の重なり方――新しく見えるようになった“もう一つの色彩”が、こうして自分に与えられたことは、喬と一緒に過ごした時間と、【星降キネマ】が『自分が在るべき世界』に、確かに存在したという何よりの証拠なのだと思うと、これを幸せと言わずに何を幸せと言ったらいいのかわからないほど、満ち足りた気持ちになる。
医学的見地から見れば、脳や神経が損傷した、と片づけられ、“事故の後遺症”というレッテルを張られてしまうだろう。だが、それは全く望んでいない。
(……お医者さんには黙ってよう。これは、私と喬くんの『命』の、大事な繫がり。……そうだよね)
暗闇の中、心の奥に問いかけると、優しく何かが煌めく気配がして、自分の『魂』の中に、確かに喬が存在するという確信に至り、絵麻は彼に背中から抱きとめられているような気分で、
(愛してる。私、あなたと死ぬまで一緒だよ)
肩越しに口づけを交わしてから、色合いを変えた『世界』を生きるため、瞼を開けた。
冬休みいっぱいの入院と検査、そして軽いリハビリを経て、新学期に入る前。
絵麻の両親は離婚し、彼女の姓は母方の『虹川』に変わった。
これまで高圧的な夫に怯え、付き従うだけだった母は、夫が娘に暴力を振るったことと、絵麻の口から喬が語って聞かせた話に、彼に花を手向けた記憶と本来の気性が思い起こされたらしく、積年の態度を詫びて、娘の世話を甲斐甲斐しく焼くようになった。
入院中も、そして退院してからも、母は何かと絵麻を事細かに気遣うようになり、忙しい仕事の合間を縫ってあれこれと話をするようにもなって、改めて親子としての関係を再構築し始めた。
その時、母が語ったことで知ったのだが、父は結婚後に彼女への態度を豹変させたらしく、さらには絵麻が自分の望んだ男児ではなかったことで妊娠中から辛く当たり、「命令に従わなければ絵麻を殺す」と脅していたと聞いて、彼女は心底その狂気に怖気だったものだった。
父方の祖父母にその話を土産に単身怒鳴り込んでから、母は父だけでなく、一色家の親類と一切合切の縁を切り、退院した絵麻を連れ、四つ先の駅――喬が自身の古い記憶だけを頼りに「もうすぐ新しい映画館が出来る」と言っていた、今年で創業三十周年を迎えた大きなシネコンのある、かつて【星降キネマ】が存在した街の、少し広めのマンションへと引っ越した。
片や父は、長年秘匿していた『罪』が、まさか娘から詳細に、しかも証拠物品付きで突きつけられると思っていなかったのだろう、元々その『罪』のせいでバランスが危うく他害的だった精神の均衡に致命的な異常を来たしたらしく、離婚と同時に家を売りに出し、祖父母の元にしばらく身を寄せたようだったが、ほどなく仕事を辞め、意味不明な書置きを残して行方が分からなくなったという噂を最後に、全く関わりが無くなった。
口さがない同級生がちらちらと自分を伺いながら、その話をみっともなく言いふらしているのを横目で見つつ、もしもどこかで野垂れ死んでいるのであれば、せめて人に迷惑を掛けずに死んでくれ、などと薄情なことを真っ先に思い、心配の念が湧かないことに驚きはしたが、元々六人も罪のない人を殺しているのだから全く同情の余地などないのだ、とすぐに納得し、「人としてああはなるまい」と、絵麻は父に対しても同級生に対しても反面教師としたうえで、それ以上、人生のリソースを割くのをやめた。
新学期を迎えてすぐに、改めて母を交えて三者面談が行われ、絵麻は喬の通っていた通信制高校に出願した。
その席で、不登校に陥っていた理由を、喬と過ごした時間のことを伏せつつ告げると、年度最後のスクールカウンセラーの来校時に有無を言わさず招かれ、多少遅すぎはしたものの、絵麻は心に抱えていた不満を吐き出すべき相手に吐露し、彼女を蔑ろにしていた教員たちからも謝罪を受け、ようやく卒業間近になってから、二倍という下手な私立よりも高い倍率を突破して志望校に合格したことも併せ含め、中学生活すべての留飲を下げたのだった。
幾度か検査のための通院を交えつつ、卒業式も無事終わり、慌ただしく過ぎた日々が落ち着いてから、絵麻は喬との約束通り【生きる】のディスクを買い、視聴した。
そうして、オープニングの筆書きのタイトルを背景に、喬が自分を見送りながら唄ってくれた歌と同じメロディが聴こえ、驚きで心臓が止まってしまうのではないかと思うほど、大きく息を呑む。
言葉もないまま、絵麻は画面の中で、志村喬が演じる『渡辺勘治』が、生き、死にゆく様を祈るような気持ちで見つめ、しかしその後に遺したもの――雪が降りしきる公園のブランコで、確かにあの時、喬が唄っていた歌を唄いながら、満ち足りた表情で天を見上げるシーンに、そして夕日を見つめて一言つぶやいたシルエットに、あらゆる感情が交錯して収拾がつかなくなり、ぼたぼたと涙と鼻水が溢れ、ただただ全ての口惜しさに身体を震わせる。
命の“猶予と期限”が与えられ、小さくはあっても目的を成し得たことで、ひとつだけでも救いを得て死んでいった渡辺が唄う歌――『ゴンドラの唄』を、何かを成すことも出来ず、大事なものも何ひとつ守れず、大人になることさえも叶わず、何の予告も無しに、ある日突然に命を奪われた喬は、いったい如何ばかりの気持ちでそれを唄いながら、絵麻を見送ったのか――
彼の無念が手に取るようにわかり、苦しすぎる胸の中から激しい慟哭が沸き上がって、絵麻はしばらくそれに身を任せ、彼の『心』とそれを分かち合った後、いたたまれなくなったその衝動に従い、スケッチブックを開いて、芯の柔らかい鉛筆を手にする。
(ねえ、あなたは今、何を描きたい?)
目を閉じて胸の中に問い、息を吸って瞼を開け、鉛筆を紙の上に載せると、絵麻はそれまで習ったことのない描き方で人物の素描を始めた。
事故で頭部を強打したことで、絵麻は脳機能に少々変化があったと思われている。
これまで特に目立つところのない子供だったが、最後の定期考査では目覚しい成績を叩き出し、眠る間を惜しんで貪るように本を読み、足しげく図書館に通っては、映画史や映像技術の書物を紐解き、古い映画の映像媒体を片端から閲覧し始めた。
さらに驚くべきことに、往年の映画俳優や古い街並みを鉛筆一本で精密に模写してみせるようになり、卒業間近になってからこんな作品を提出するなんて、と美術の教師を大いに唸らせ、残念がらせた。
そんな彼女は、まるで画角を決めるかのように、指をフレームにして覗くことが癖になり、さらに大学ノートに子細な絵コンテを切っては、スマートフォンで何やら撮影し、パソコンで編集してひと繋ぎの短い話を創り上げ、次々と動画サイトにアップロードしている。
手始めかつ実験段階なのだろう、カラーとモノクロの狭間で揺れながら、ひとつひとつ紡がれるショートムービーは、まだまだ未熟なそれに辿り着く人々も数は少ないが、かといってその反応の少なさにめげる様子もなく、今日も理想の『画』を探し、絵麻は勝手知ったる街の中を、文字通り忙しく駆け回っていた。
そうして、人が変わったように映画と映像制作にのめり込んでいく姪っ子の話を聞いたのだろう、十年前、アニメ映画を観せに連れて行ってくれた叔母――母の妹から、絵麻のもとに一つの誘いが来た。
趣味が高じ、アニメーターを経て監督の仕事に就き、結婚もせず仕事に勤しんでいる彼女が、「本気で映像の勉強をする気があるのなら」と、自身が暮らすアメリカのアートスクールへの留学を打診してきたのだ。
無論、高校を卒業してから、という条件を母がつけたものの、絵麻はその話にすぐさま食いつき、英会話教室に再び通い始めた。
うちは揃いも揃って結婚しないで女が働く家系なのかしらね、と笑いつつ、母はこれまで母子共々抑圧されていたこともあってか、娘の進む道を止めることはしなかった。
【星降キネマ】の半券は、青いチケットファイルの中に、今でも大事に仕舞ってある。
ただ、そのどれもがひどく色あせ、しみだらけになり、まるでそこだけが急に何十年もの経年劣化を起こしたように、不思議な朽ち方をしていた。
それでも、取り出して裏返せば、喬と二人で観た映画のタイトルと、彼の優しい人柄がにじむ、角の丸い丁寧な字は、必ずそこにある。
【ひまわり】【椿三十郎】【女は女である】【バック・トゥ・ザ・フューチャー】【ドライビング・ミス・デイジー】【ベルリン・天使の詩】【ライムライト】――
『人生』の意味を見失っていた自分に、この『世界』を生きていくための力をくれたひとつひとつのタイトルが、それを観に【星降キネマ】にやってきた人たちの思い出のかけらと、喬とその家族が紡いできた“歴史”で出来ているのだと思うたび、絵麻はその力をくれた『映画』のために、自分も恩返しをしなければならない、と決意を新たにする。
いつか、かつての絵麻がそうであったように、生きることに迷い、疲れ果て、心が末枯れてしまった誰かが、偶然でもいい、辿り着いたときに、たった一つだけでも生きていくための『希望』を見出してくれるような、そんな『映画』を作ろう。
喬が果たせなかった夢を受け継ぎ、その想いと共に、間違いなく自分の意思で道を選び、人生のすべてを『映画』に捧げる――それは、絵麻がこれから先の時間を生きていくことの、大きな意味を成した。
絵コンテのない日々を、自分の中に確かにある、愛しい人の『命』と共に生きていく。
それはどんなシナリオで、どんな画角で、『人生』のフィルムに焼き付けられていくのか、まだ誰にもわからない。
【星降キネマ】に関わり、携わった人々の全ての想いに応えるため、強い意思を宿した彼女の目に映るのは、“決められた結末”ではなく“未知数の未来”だ。
まるで生き急ぐかのような絵麻の毎日は、彼女の中で生きる『命』の視界と重なって、鮮やかに深く、二人だけにしか見えない色彩の景色を描き、『未来』に続いていく。
夜更けの公園でブランコを漕ぎながら天を仰ぎ、『ゴンドラの唄』を歌う志村喬を描き終えると、絵麻は最近かけ始めた薄いレンズの眼鏡を外し、涙で熱っぽくなった目頭を押さえる。
そうしてふと、その素描の中に『星降喬』の笑顔を見出し、胸の中で彼がこちらを振り向いたような気がして、まぶたを閉じてそれに応えた後、もう一度そのページを眺め、満足気に微笑んでから、静かにスケッチブックを閉じた。
時計の針は既に深夜を指していたが、まだあと一時間は起きていようと決め、今度はパソコンを立ち上げ、絵コンテを描きつけた大学ノートを広げると、帰り道で撮影した、再来年の再開発で消えてしまう予定の古い街並みや、中学校の側の公園の噴水から湧き出でる水の流れや木々のざわめき、空を舞う鳥の羽ばたきを、独特の色彩に落とし込んで、絵コンテと重ねながら、脳裏のフィルムに描いたまま繋いでいく。
勉強の息抜きに、というには少しやり過ぎな気配もあったが、開花前の才能のつぼみは着実に膨らみ、その時を待っている。
胸元に古ぼけた安物の認識票を着けた小さな身体の奥に、三十年前に失われたひとつの『命』の温かさと、その『命』が果たせないままでいた情熱、そして、彼女の目を通して“見たかった未来の世界”を見つめている幸せを秘めていることは、絵麻が生涯、誰にも言うことのなかった『秘密』だった。




