第十一話
夢中になって駅まで走り、さっき通ったばかりの改札をくぐって、真っ赤に腫れたうえに青あざになった感触のある左頬を、髪の毛とマフラーで隠してごまかしながら、絵麻はそこに停まっていた電車に飛び乗った。
(ひどい、ひどいよ、……なんで、こんなことに……)
泣くまいと思っても、あとからあとから涙はあふれ、とめどなく頬を伝い、鼻も耳も熱くなり、壁と床に強打し、踏みつけにされた頭もずきずきと痛みを増す。
とにかくすぐに【星降キネマ】に戻らなければいけない――そのことだけが脳内でぐるぐると回り、嗚咽を飲み込もうにも、次第に堪えきれなくなっていく。
(喬くん、あたしを使って、復讐するためだけに、「愛してる」なんて言ったの? あなたは……あなたは、本当は、いったい何なの? これは夢? あたしはずっと、夢を見ていたの?)
父と対峙した時、確かに自分の中にあった喬の意識は、今は何も応えない。
(お願い、教えてよ。あたしの頭の中、いったいどうなっちゃったの? あなたは、……)
同じところを堂々巡りするだけの思考は、いつもの四つ先の駅名を告げるアナウンスが、それを途切れさせるまで続いた。
階段を駆けあがって地上に出ると、朝日を浴びて、まるで刀のように鋭く光って快晴の空を刺すビルが目に入る。
その手前の、まだ出勤のピーク前で人通りの少ない歩道を、喬の認識票を手のひらに握りしめた絵麻は一心不乱に駆け、【星降キネマ】を目指した。
(あんな話、嘘だ。だって、毎日あたしは、あそこに通って、たくさん映画を観て、喬くんと話をして、いっぱい笑って、一緒にご飯だって食べて……あれが全部、無かったなんて思えない!)
自分の中で確かに過ぎていった一か月半の『現実』を『幻』だとはどうしても思えなくて、絵麻はひたすらに、いつもの道を走る。
(誰もいなくってもいい、部品屋さんから帰ってくるまで、入口で待ってれば……)
おそらくはシャッターが閉まっているはずの入り口を探して、銀杏並木を抜ける。
しかし、
「えっ……」
プラタナスの並木道に入る手前、いつもならそこで曲がれるはずの道が――
「……ない……」
銀杏並木まで引き返し、その端から端までを確かめるように、一歩ずつ歩く。
ほどなく、クリスマスの飾りつけを正月のものに変えている雑貨屋の店員と目が合い、絵麻は迷わずその店のドアを叩いて、
「すみません!」
大声で叫び、通りの人々の注目を浴びるのにも構わず、その人物を戸口の外に呼び出した。
「何か、御用ですか?」
絵麻の剣幕に戸惑いつつ、店員が尋ねると、
「ここ、一方通行の道路、無かったですか!? お、お水の店とか、風俗のお店の雑居ビルとか、銭湯とか、そういうのの中に、古い映画館が一軒ある……」
絵麻は早口で矢継ぎ早にそう言ってから、痛む頭を押さえて、血の味の唾を飲み込んだ。
「映画館? それなら、駅の反対側ですよ?」
「こっちにもあるんです、【星降キネマ】っていう、昔の映画をたくさん上映してる、すごく素敵な……」
「……」
店員は首を傾げ、次に難しい顔をして顔を横に振る。
「聞いたこともないですね。何かの間違いじゃないですか?」
「そんな……」
ショックで言葉を失った絵麻の身体を、冷たい痺れが通り抜けていく。
「ごめんなさい、開店準備があるから、この辺で失礼しますね。駅前に交番があるんで、そこで聞いてみてください」
店員はそう言い残して店の中に引っ込み、店の入り口に鍵をかけると、そこからまだ動かない絵麻をいぶかしみながら、レジの奥に入ってしまった。
言葉なくうつむいて、雑貨屋の前を離れた後、絵麻はもう一度だけ銀杏並木の間を、ゆっくりと歩いて確かめる。
(……じゃあ、あれは何? いったい、あたしは一月半、どこにいたの? だって、あたしは、確かに記憶がある。一緒に観た映画の内容も、飾られてたポスターも、ポップコーンの味も、喬くんの声も顔も、匂いも、手のあったかさも、全部覚えてる……)
眼鏡の奥ではにかみ笑いを浮かべ、こちらを見つめる、まつ毛の濃い奥二重の真ん中で煌く、黒い瞳――
それにもう、二度と逢えないのだと思った途端、心の中でずっと鳴りを潜めていたもの――『絶望』が、鎌首をもたげ、こちらを蛇のように睨んだ。
(……死んじゃったんだ……喬くんは、最初から、この世には、いなかったんだ……あれは、あたしが一人で見てた、幻だったんだ……)
絵麻の足は、ふらふらと覚束ないまま、何もかもを見失い、歩道を進む。
(それでもいい。逢いたい……逢いたいよ、喬くん……二人で、映画撮るんだって、約束したじゃない……嘘つき……)
持ち上がった蛇の頭は無数に増え、赤く血塗られた手のひらに変わり、おいでおいでをする。
(あたしも、……あたしも、死んだら、あなたに逢える……?)
歩行者用信号の、鳥のさえずりを真似た音が、絵麻の耳に「そうだよ」と言った気がした。
そのまま、よろよろと横断歩道を渡り始めたところで、どん、という音と共に、鈍く大きな衝撃を受けて身体が宙に浮いた感覚があり、今日はよく吹っ飛ぶなあ、と明後日なことを考えた絵麻の意識は、ぶつん、と途切れた。
「……」
絵麻が目を開けると、身体は誰かの腕の中にあり、甘い花の香りが鼻腔をくすぐって、深い口づけの後の柔らかい感触が口中に残っていた。
「絵麻」
目の前にいるのは、
「……喬くん……」
腕に抱いてくれていたのが彼だとわかり、絵麻は慌てて身を起こそうとするが、
「だめだよ、まだ寝てて。……もう一度」
再び唇を奪われ、ふっと意識が軽くなり、全身の痛みが引いたのを感じる。
「……ごめんね」
額を合わせると、自分と同じ体温で吐息が頬にかかり、腫れていた箇所が癒えていくのがわかる。
そうして、キスする間も、優しく労わるように撫でられている頭から痛みは引いていき、やがて逆光の中で唇を離して見つめ合った先、彼の背中には、吸い込まれそうな濃い青空の下に一面の黄金色の麦畑が見えた。
喬は涙ぐみながら、痩せた胸に絵麻を強く抱き込む。
「絵麻、ごめん。本当のことをずっと黙ってた上に、辛いことをさせて。君をすごく傷つけるのはわかってたけど、俺、どうしてもあいつに、ひとこと言ってやりたかったんだ。……女の子なのに、酷いこと言わせちゃったね。おまけに、こんな大怪我までさせて……本当にごめん……」
絵麻が腕の中から言葉もなく喬を見つめると、彼は眼鏡の下で涙を流しながら、打たれた方の頬を撫でた。
「でも、だめだよ。死にたいなんて思っちゃ。そんなこと考えたから、あそこの横断歩道で“呼ばれた”んだから。……俺が助けなかったら、今ごろ君は、あの世行きだった」
「え……」
「帰る時に言っただろ。『渡るときに気を付けろ』って。あそこ、生きてる人間の絶望が集まりやすい区画だから、そういう生霊の怨念に引っ張られた人が、時々撥ねられて死ぬんだ。次、あそこ渡るようなことがあったら、信号無視の車が来ないか、ちゃんと見るんだよ。ね?」
「……」
逢いたくてたまらなかった優しい眼差しに、絵麻は全てを許して、素直にうなずいてしまう。
話の合間に、さわさわと心地良く肌を撫でていく風の中に、喬の身体から香る映画館の匂いと、濃くて甘い花の芳しい香りがして、彼女はやっと心を落ち着けることが出来た。
「あの、……ここ、どこ?」
まるでゴッホの絵の中にいるような――黒澤明の【夢】の一幕のように、どこかに画家本人がいるのではないかと思うほど、コントラストの激しい世界が地平線の彼方まで続いている、この場所の居心地の良さに、絵麻は飲まれそうになりながら喬に問う。
「そうだな、……“あの世でもこの世でもない場所”かな。俺たちが、ずっと、一緒にいた『世界』。本当は、俺の部屋の扉の向こうは、こんな景色なんだ」
「……」
にわかには信じがたいが、確かに慣れた雰囲気が感じられ、絵麻は喬の隣に座り直しながら、空に漂う白とグレーの雲を眺める。
そうして、
「……さっき、」
喬が、風の音にかき消されてしまいそうな声で、寄り添った絵麻に語り始めた。
「君の家で、話をした通りだ……1996年の大晦日、俺は、家族と一緒に、火事に巻き込まれて死んだ。生きてたら、君のお父さんと同じくらいの年頃になる。……でも、あの日から俺のすべては、十七歳のままで止まってる。大人にもなれないし、いまはもう、跡形もなくつぶされて、ショッピングセンターになってるけど、俺は、自分の家から……【星降キネマ】のあった場所から、一歩も出ることは出来なかった。『地縛霊』ってやつなんだ」
彼の話を疑う余地もなく、絵麻がうなずくと、喬は先を静かに続けた。
「あの日、一緒に死んだのは、父さんと母さんと、じいちゃんとばあちゃんと、住み込みで看板描きとして働いてた、従兄の兄ちゃんだった。コンクリとはいえ、木造部分が多かったし、大正時代の建物だったからね。焦げ臭いなって思った時には、もう、下の階は手遅れだった。消防車のサイレンが聞こえて、救急車も来てる気配がして、ああ、助かるかも、って思ったけど、……俺、さっさと逃げればよかったのに、自分が描いた絵コンテとスケッチブックだけは、全部持って逃げようってもたもたしてて……部屋出たときは、階段、もう下りれなくなってた。それで、……素直に窓から助けでも呼べばいいのに、もう一個、余計なこと考えちゃったんだよ」
「……余計なこと……?」
「うん。……フィルムの保管庫、あったでしょ。あそこで、俺は死んだの」
その部屋が開かなかった理由がわかって、絵麻の中のパズルのピースがまたひとつ、ぱちりとはまるが、不思議と怖いとは思わなかった。
「……建物がどんどん燃えててさ、このままじゃ、せっかく何千本も集めたフィルムも全部燃えちゃう、って思ったら、居てもたってもいられなくて、せめて何本か持ち出せないかって……フィルムなんて何キロあると思ってるんだか、その時の俺に言ってやりたいよ。完全にパニックになってた。……火事場のクソ力で、何とかできるんじゃないかって、本気で思っちゃったんだよなあ。……チャップリンと黒澤映画を全部、って思ったけどさ、そんな大荷物抱えて逃げられるわけがない。じゃあせめて一本だけでも、って、電気もつかない中で、本当に本当の、必死になって探した。でも、いざとなると、どこに置いてあったかなんてわからなくなる。探して探して、そのうちに、ドアの外に火が来て、やばいな、窓から抱えて飛び降りるしかないな、とか思ってたとき、やっと【生きる】のフィルムを見つけて……その途端に、ドアが熱で爆発して、倉庫の中に一気に火が回った。……ナイトレート・フィルムなんて劇物みたいなもんだし、新しいものもスチールじゃなくて、プラスチックの容器で保管してるのが多かったからさ、みんな熱で溶けて、黒い煙を出しながら燃え始めて……それでも、なんとか逃げようと思って、フィルム担いで一気に走り抜けるぞって、その場で四、五回、深呼吸して、……それっきり。あっという間に息が止まって、床が崩れて……フィルムと瓦礫の中で、俺の身体は骨まで全部、燃えちゃった。……生きてた証に遺せたのは、眼鏡のフレームと、あのドッグタグだけ」
乾いた口調の横顔は長い年月を経て、傍観者の目をしていた。
「……死んでから焼かれたからね、熱くはなかった。でもさ、我ながら、皮肉だよなって思った。自分の命捨ててまで、【生きる】なんていうタイトルの映画、守ろうとして、何やってるんだろうって、……何もかも燃えて、崩れて、灰と炭になってく家の中で、俺はただ、【風と共に去りぬ】みたいだなあ、なんて、とぼけたこと考えながら、ぼうっとしてた。……全部諦めて、欲張らないで逃げてれば、命くらいは助かったかもしれないのにさ、あれもこれも、って必死になってるうちに、後からどうやって足掻いても、二度と手に入らない、どうにもならないものを無くしちゃった。……馬鹿だよな、俺……」
言葉尻に深い悔恨を滲ませ、喬は絵麻に寄り掛かり、鼻を鳴らす。
「一緒に死んだ家族から、誰がこんなことをしたのかを全部聞いた。みんな、絶対に許さない、って怒り狂ってた。……俺たちだけじゃない、【星降キネマ】を愛してくれた人たちの、大事な思い出も、全部、燃えて無くなった。……悔しいなんてもんじゃなかった。あの日、映画監督になりたかった俺の夢も、そうなれなくても、真面目に働いて、少しは贅沢が出来たかもしれない未来も、二十一世紀まで、……三十年後まであったかもしれない人生も、全部、全部、顔を見たこともない他人に……あいつに奪われた……」
その男の子供だと思うと、絵麻は自分が喬の隣にいることなど出来ない気がして、離れようとして身じろいだ。
しかし、彼は逆に、絵麻の肩を抱き寄せ、逃がさないように、という風に力を込め、
「だからね、……いちばん最初に君を見かけたときは、殺してやろうと思ったんだ」
耳元から、ぞっとする響きでそう告げ、昏い眼で微笑んだ。
「!」
息を呑んだ絵麻の顔を、喬は両手で抱えて覗き込む。
笑顔の中の黒い瞳は、闇そのものの色で彼女を光なく見つめた。
「死んでからさ、不思議なことが起こった。鼻がすごく利くようになったんだ。あいつは放火した後、何度もあのライターを探しに来たから、しっかりと“におい”は覚えてる。……その、あいつと同じ“におい”が、君からしたんだよ。……腹が立ったなあ……こっちは、どれだけの時間が経ったかわからなくなるくらい、長い長い間、何も出来ずに、未練だらけで、街を行く人を羨んだり悔やんだりしながら、ただ眺めてるだけでさ……しかも、何年かしたら、花を手向けられたり、命日に手を合わせてくれる人たちのおかげで、勝手に満足して、俺を置いてけぼりにして、先にどっかに消えちゃった家族のせいで、俺だけずうっと、ひとりぼっちであそこにいたのに、あの野郎、何食わぬ顔して結婚して、子供までいるのかって。……どうやってこの恨みを晴らしてやるか、すぐに思いついた。簡単だ、人の親を苦しめるには、その子供の命を奪えばいい。それも、出来るだけ理不尽に、むごたらしく、一生その記憶で眠れなくなるほどの悲惨な死に方でね。それが一番、効果がある復讐になる……」
囁くようにそう言いながら、喬の手指は絵麻の耳から、首筋を辿る。
「じゃあ、なんで、……なんで、殺さなかったの……?」
【吸血鬼ドラキュラ】のように、このまま喉笛に噛みつかれ、血を吸われはしまいかと思いながら、絵麻は身をすくめた。そして、
「……出来なかった。君が、あいつのせいで、苦しんでるのがわかったから」
その言葉とともに、頬にそっと口づけがなされ、踏みつけにされた頭と、打たれた頬を再び慰めるように、温かい手のひらは優しく丁寧にそこを撫でた。
「長いこと地縛霊やってればさ、心は人間から離れて冷酷になる。だから、ほっといて、あの横断歩道で生霊に引っ張られていくのを、眺めていようと思った。でも、駅から歩いて来る君の心が、空っぽで、傷だらけで、今にも壊れそうなのが、手に取るように分かった。……この子、俺と変わらない年頃だっていうのに、なんでこんなにいっぱい傷付いて、絶望してるんだろうって。学校にも家にもいられないってことは、ひょっとしなくても、あいつが君を傷つけてるんじゃないか、それなら、この子が死んだら、あいつの思うつぼなんじゃないか……そう思ったら、生霊たちにくれてやる気はなくなった。だから、俺の中の十七年分の“記憶”と、【星降キネマ】のことを、今でも覚えてくれている人たちの想いと、俺の家族が遺していった、ここでの暮らしの思い出のかけら……そういうのを全部かき集めて、全力で願ったんだ。『こっちにおいで』って。そうしたら、『この世界』が出来て、入り口が開いて、……君は気が付いて、振り向いてくれた」
いつの間にか向かい合い、喬は絵麻の頬を両手で包むと、ちゅ、と優しく唇同士を重ね、また先を続ける。
「……『この世界』は、俺自身の“記憶”だけじゃなくて、“願い”も合わさって出来てる。映画館の建物も、俺の“願望”の一部だ。だから、ところどころ、本当に昔あった【星降キネマ】とは違う。椅子はもっと座り心地が悪くてぼろぼろだったし、あんな立派なスクリーンもなかった。他の映画館に行ったとき、いちばん座りやすくて見やすかったのを使ったんだ。映画のポスターとフィルムもそう。俺の目から見たものじゃなくて、俺の家族や、うちに来てくれた人たちの記憶から、少しずつ借りて……君には俺の見てる色じゃない、君の見てる世界の色で、見せてあげたかったから」
喬はそのまま、絵麻の身体を抱き込みながら、真綿のようにふかふかと柔らかい麦わらの中に倒れ込み、切ない眼をして腕の中の彼女を見つめた。
「君を間近で見たとき、ずっと我慢してた寂しさが爆発して、堪えきれなくなった。一目惚れしちゃった。俺、生きてる間に、彼女出来たことなかったし、悔しいけど、すごく可愛いって……俺たちを殺した奴の娘なのに、とか、生きてたら俺はおっさんなんだぞ、って思っても、止められなかった。どうやって話しかけようって思って、制服の話をした。……ハズレでも、嘘つくつもりで。当たってよかった。嘘つくの下手だから、すぐバレて振られてたかも」
小さく笑って首を横に振った絵麻を腕枕し、喬は澄み切った白い日差しが燦々と降りそそぐ、どこまでも深い青色の空を見上げる。
「君の話を聞いて、ひどすぎて腹が立った。自分の娘が追い詰められてるのに、助けようともしないなんて、あんまりだと思った。俺がいじめられた時、父さんは学校に乗り込んでって先生とやり合ったし、じいちゃんや母さんは近所の悪ガキに拳骨する人だったから、余計にね。……そう、自分が悪いことして、それで叱られたからって、逆恨みして放火するような奴だ。家族なんて大事にするわけない、って気が付いた」
「……」
「あいつが一番嫌がるのは、自分のわがままが通らないことだ。頭がいいってだけで特別扱いされて、好き放題やってきたんだろう。だから絵麻ちゃんの気持ちを無視して、無茶させて、それが上手くいかなくて、心がぼろぼろになっても、思い通りにならないからって放置してる。……それどころじゃなかったんだろうな、俺たちを殺したことがバレないように隠して、怯えて、普通に生きてるふりしながら、世間体を取り繕うことに必死になってたんだから。……それで思いついたんだ。絵麻ちゃんが、自分らしく、絶対にあいつの思い通りにならない人生を、最高に幸せに生きてくれたら、それだけで充分復讐になる、って。だから、もっと一緒に、いろんな映画を観ようって決めた。絵麻ちゃんが、自分の生き方や心の在処を見つけるための、ヒントになるといいな、なんて思って」
「……喬くん……」
本当は殺してしまいたいはずの相手に、そんなことを考えてしまう、喬の優しすぎる言葉が、あまりにも残酷に心を抉り、絵麻は喬の胸に縋って涙を溢れさせる。
それを丁寧に抱きとめながら、喬は彼女の額に口づけ、
「……だから、ごめんね。君を『この世界』に繋ぎとめておくために、……俺は君に、ゆっくり、気が付かれないように、『呪い』をかけた」
そう呟いて、やっと手の内を明かし始めた。
「絵麻ちゃん、ポップコーン、食べたよね。自販機の缶ジュースも飲んだでしょ。あれで、君の“魂”は、俺たちが今いる『この世界』と繋がった」
「え……」
「日本神話にあるんだよ。『黄泉の国で煮炊きした食べ物を口にすると、そこから帰れなくなる』……」
「……」
あの日、匂いにつられて【星降キネマ】にやってきた時点で、自分がすでに『喬たちの世界』に引きずられていたのだということを悟り、絵麻は恐怖もなく、ただ納得し、それでいいと思いながら腕の中で丸まると、喬はもっと深く抱き込んでくれる。
「あれを毎日食べてたから、君は【星降キネマ】に、迷うことなく来れた。他の人には見えない『世界』の入り口が、君にだけ見えてたんだよ。君が学校を一か月休んでも、君のお母さんや学校の先生たちが、誰も探しに来なかったのも、『人の世』との縁が薄くなって、君の存在が希薄になってたからだ。……ほんとはね、君があんまり可愛いから、そのまま『この世界』に連れてきちゃおうかなって思った。でも……俺、欲張りだからさ、君と話をしてるうちに、俺が生きて見られなかった世界を……『未来』を見てみたい、って、思っちゃったんだよ」
温かく心地良い風が抱き合った身体を包み、絵麻の胸は潰されるように痛んだ。
「君の話を聞けば聞くほど、何でこんなに心の優しい繊細な子が、あいつの血を引いてるんだろう、どうしてここまで傷つけられてるんだって、たまらなくなった。それにさ、君の口から知らない言葉がたくさん聞けて、新しいものの考え方や、変わった世の中が見えて……もっと君の『世界』に近付いて、守りたいと思った。手を繋いで、抱き寄せて、慰めたいって……でも、所詮、俺は死人だ。心臓は止まってるし体温もない。そんな身体で側にいたら、遅かれ早かれ、俺が『地縛霊』だってバレて、君はここに来なくなるかもしれない。だから、ポップコーンの逆もしかりじゃないかって、とっさに考えついた。運がいいのか悪いのか、俺たちの家族の他にも、八十年以上、ここに映画を観に来てくれた人たちの思いが詰まった【星降キネマ】があったおかげで、俺は“実体”を持てた。影もあったし、鏡にも映れば、ものに触れることも出来た。だったら、何か“食べる”ことも出来るはずだって……」
「……じゃあ、お昼、買って来てって言ったのは……」
絵麻が顔を上げると、喬は小さくうなずき、温かい唇で額にキスをしてから、手品の種明かしをする子供のような目で微笑み、言葉を紡いだ。
「そう。『生きてる人間の世界で作られたものを食べれば、死者の世界との結びつきが弱くなる』……そんな気がして。その考え自体は外れてなかったけど、やっぱり、お店で作ったものじゃ難しかった。機械や工場で作られたものもあって、ほとんど味も匂いもしなくってさ……それでも少しずつ、自分が生きてた頃の感覚に近くなった。ちょっとだけ体温が戻って、転んだら痛いとか、眠くて欠伸が出るとか……だけど……」
喬はそこで、とびきり嬉しそうな笑顔で絵麻を見つめ、ほう、と柔らかいため息を吐いた。
「絵麻ちゃんが、俺のためだけに、ご飯作ってくれたでしょ? あれ、渡されたときから、身体がふわって温かくなって……作ってくれただけでも、泣きたいくらい嬉しいのに、初めていい匂いがして、お腹が空いたんだ。それに、ちゃんと食べ物の味がして、しかもめちゃくちゃ美味しくって、食べたら食べただけ、身体に力が湧いて、もしかして、本当に俺、生き返ったんじゃないかって思った……でも、それと一緒に、君のこと、ずっと、ひとり占めしたいって……すごく、わがままな気持ちが出てきた……」
「わがままなんて、……」
喬はその先の言葉を止めるように、目を伏せて首を横に振ると、絵麻の頬を撫で、
「ごめんね、絵麻」
これから話すことが、とても大事だということを告げた。
「俺が君にずっと、唇にキスしないように、釘を刺してたのは……」
喬は一拍置いて、何もかもを諦めた様子で告げる。
「……キスしたら、俺と“魂”が混ざってしまって、人の身体ではなくなるからなんだ」
「……魂が、混ざる?……」
「うん。口は魂の出入り口だ、っていう伝承がある。キスは魂の繋がってしまう行為なんだ。だから、俺は君に乗り移って、あいつに話が出来たんだ。……油断して眠らないように、頑張ってたんだけどなあ……絵麻ちゃんの手があったかいから、すごく幸せで、一瞬だけ寝たところに……だから、ああ、もう引き返せなくなった、って、その場で腹くくった。それで、あのライターを、君に手渡したんだ」
あの時、彼は返答に困っていたのではなく、覚悟を決めていたのだということが今更わかり、絵麻はそれを強いてしまった自分の行動を申し訳なく思った。
その心の動きさえ彼は感じるのか、
「いいんだ、ちゃんと言わなかった俺が悪い。恋人なら、キスしたいって思うのは当たり前だ。……すごく嬉しかった。それは本当にそうだよ。あんなに嬉しいなんて思ったこと、生きてる間もなかったよ。俺、バカみたいに幸せだって思った。やっと絵麻ちゃんを独り占めできる、なんて思ったりもしてさ……」
偽りのない言葉でそう言ってから、しかし口惜しそうに続ける。
「でも、あの時から、君と俺の魂は、混じり合ってしまって、もう離れられなくなってしまった。……そうだよ、映写機が壊れた、なんて嘘だよ。君を家に帰す口実を作って……家族の恨みを、俺の怒りをぶつけて、晴らしたかった……」
亡者の気配を纏った喬の身体が、一瞬だけひやりとするが、絵麻はそれに共鳴するように自分の身体の芯が同じ温度に冷えたのを感じ、彼の言うことが嘘ではないことを察した。
「俺は君と魂が混ざってしまったことで、人間に近づきすぎて、【星降キネマ】の形と、この世界への入り口を保てなくなってしまった。君が交差点で生霊たちに引きずられたのも、そのせいなんだ。そこにあいつらは付け込んできたんだよ。ドッグタグが俺の“魂”と繋がってくれてたから、君をあいつらに奪われる前に奪い返せた。だから、俺は自分の“この世にとどまり続ける理由”の何もかもを、さっきのキスで君の中に注ぎ込んだ。代わりに、君が受けた傷と怪我を、俺が引き受けてしまえば、君は五体満足で元居た世界に戻れる。ただ……」
喬は申し訳なさそうに、ひととき視線を逸らしてから、詫びの表情で再び絵麻を見た。
「……今はもう、完璧に俺たちの“魂”は、半分ずつ混じり合ってしまった。……それは、“身体”も同じだ。何もかも全部分けあったせいで、君も俺も、半分死人で半分生きてる、そんな中途半端な形になってる……ごめん……」
「……それって、何か良くないこと、あるの?」
謝罪を問い返した絵麻に、喬は懺悔の声音で、
「君の身体に、大きな影響が出てる。……君は子供を産めない。新しい命が宿るには、半分死者になった、君の身体は脆すぎる。寿命もだいぶ縮んだ。もう、もとに戻すことは出来ない。……だけど、君があの霊の仲間になるのは、絶対に嫌だったんだ、どうしても。どうしても、君に生きていてほしいと思ったんだ……俺のわがままのせいだ、ごめん」
そう言って唇を噛み、目を伏せてしまった。
「……」
絵麻からの柔らかな口づけに、喬の瞼が開く。
「そんなの、どうでもいい」
「……」
「あたしのお父さんは、喬くんたちを殺した。そんな人間の血筋なんて、残さなくていい。あたしで終わりにする。それが、あたしに出来る、最大の『復讐』だから」
「……絵麻……」
罪悪感をいともたやすく打ち消され、喬は彼女の名を呼ぶことしかできない。
「喬くんが自分のしたことを『呪い』だって言ってるなら、それは違う。あたしにとっては『呪い』なんかじゃない。喬くんの時代は違うかもだけど、今は子どもを産まない人や、結婚しない人なんて当たり前にいる。結婚して子供産んだからって、幸せになるかって言ったら、みんながそうじゃない。それは、うちの家族がそうでしょ?……大丈夫。喬くんは何も悪いことなんてしてない。家族と自分の仇を取っただけだよ。だからもう、謝らなくていい」
そう言い切った絵麻のわずかに寂しい、しかし清々しい微笑みは、何より強い実感となって、喬の心を救った。そうして、
「……でも、そっか。あたし、これから一生、ずうっと、身体も心もぜーんぶ、喬くんと混ぜこぜで、何もかも半分こなんだね。……ふふっ、嬉しい……」
絵麻は嘘偽りなくそう思いながら言葉をこぼし、喬の胸元に頭を擦りつける。
その仕草に、絵麻の素直な感情が喬の中に流れ込んでいったのだろう、彼は安堵の息を吐き、
「そうだよ。俺たちは、これからずっと、全部半分こ」
肩に頬を埋めながら、青と黄色の世界の狭間で、白い日差しを浴び、絵麻の身体にしがみつくように抱きしめた。
「でも、残念だなあ。君が人の世に戻っちゃったら、映画観て感想言い合う人、誰もいなくなっちゃうんだ……もっともっと、いろんな映画を、一緒に観たかった……」
「……喬くん……」
不安定な幸福感を埋めるように無邪気にじゃれ合ううち、絞り出された喬の本音に、絵麻はそれきり言葉を喉につまらせる。そして、
「二人で映画を観て、君が帰って行った後、本当に寂しくて、もう一度死んじゃうんじゃないかって思うくらい、苦しくて、寒くて……明日、来てくれないかもしれないって思うたびに、怖くて……もう、ひとりぼっちは嫌だって……話しかけることも触れることも出来ない、うるさくて冷たいコンクリートの建物の中で、自分の身体が燃えて無くなった場所から出ることも出来ない、あの『世界』に、戻りたくなかったんだ……だから、君を、……くそっ……なんであいつが、“あの子”と結婚したんだろうな……」
呻くように喬はそう言って、まじまじと絵麻の顔を見つめ、その輪郭をなぞり――
「……“あの子”?」
絵麻は彼の行為と、発した単語に、一つの確信めいたものを感じながら訊き返した。
喬はその先を少しためらうように息をして、少しだけ照れたような笑いと共に、絵麻の両頬を包む。
「君のお母さん。俺を小五の時に助けてくれた、あの女の子だって、さっき、顔見てわかった。……道理で惚れちゃうわけだよ、俺の初恋の人なんだもの」
「……」
言葉を無くしてしまった絵麻に、喬は何もかもを許した目で微笑んだ。
「気が強いけど、優しい子だったよ。人が良すぎるくらい、素直でいい子でさ。……あいつに逆らえなかったのも、転校騒ぎで傷付いて、自分の考えを言葉にするのを、やめてしまったからなんじゃないかな。母親になってからも、きっと君の知らないところで、あいつに傷付けられて、辛い目に遭ってたんだろう。君もあの子も、運が悪かったんだ……」
喬は絵麻の頬にかかる髪を耳にからげると、愛おしげに彼女を見つめた。
「君は、お母さんによく似てる。……許してあげてね、あの子のこと」
青い空の下で、ざあ、と風が鳴り、遠くに雨雲が見え、やがて虹がかかる。
金色に輝く眩い日差しの中、麦の穂は一斉に揺れ、その先の花畑からは、本当にこの世のものではない芳しい花の香りが一斉に巻き起こり、波のように打ち寄せた。
喬は身体を起こしてそちらを見遣り、「ああ」と声を出してため息を吐く。
「誰かが泣いてくれてる。俺のために。虹がかかるのなんて、久しぶりだ」
その横顔は嬉しそうでもあり、ひどく寂しげでもある。
「君のお母さんかな。……そうだといいな。あの子も、俺に花を手向けに来てくれたんだ。ずっと覚えてくれてたんだよ、俺のこと。その時の花、まだ大事にしてるんだ」
「……もしかして、あの花畑の花は……」
彼の身体から立ち上る『映画館の香り』――今思えば、それさえも、彼が『人間ではない』という自分の勘が間違っていなかった証拠のひとつだったのだが――それと一緒に、この『世界』に漂い、身体を満たす、清らかで甘い匂いも、
「そうだよ。この香りは、俺たちの魂を慰めるために、たくさんの人が手向けてくれた全ての花と、追悼の祈りが芽吹いて咲いた、花畑の香りだ。俺は、三十年間で受け取ったそれを、一本残らず『この世界』に飾って、毎日眺めてるんだよ。……絵麻ちゃんが来てくれてから、やっと俺はそのことに気が付けた。ありがとう」
そう答えが返ってきて、絵麻はまるで夢物語のような話を、素直に信じて受け止めるしかなくなった。
慈しみを込めた指先で髪を梳きながら、喬は罪の告白を続ける。
「……こんなことになるってわかってたら、俺、もっと勇気出して、あの子に何かしてあげればよかった……お礼も言えないままだったから……ほんと、俺って間抜けだよな……もっと早く気が付いてたら、君に『呪い』なんて、かけなかったかもしれないのに……」
深い後悔をはらんだ喬の言葉は絵麻の鼻先をかすめ、甘い花の香りをさせた。
「……喬くん……」
「本当は、君を元の世界に帰したくない。だけど、そんなことしたら、あの子は俺よりもずっと深く悲しむね……」
ぽつりとつぶやいてから、喬は遠く揺らいだ虹を再び見遣り、口をつぐむ。
初恋の相手を奪われたうえ、自分を殺した人間の娘であっても、離れがたいと思ってしまうほどの、いつ終わるとも知れない、長い孤独と共に強い怨嗟を抱えたまま、何も出来ずにいること――
それがどれだけ辛いだろうと思うと、絵麻は決して喬を責める気になれず、黙って先の言葉を待つ。
風がやみ、雨雲が黄色いレンガの道の上に陽炎のようにうねって、二重になった虹の橋が地平線の上にかかったとき、
「ねえ、絵麻、約束しよ。一個だけ、すごく大事な約束」
喬は涙を収め、絵麻に再び言葉を投げかけた。
「……どんなに辛いことがあっても、苦しいことがあっても、自殺だけはしないで。自殺した人は、俺と同じように、何年も、何十年も、同じところを彷徨うしかないんだ。君がそんなことをしたら、俺たちは二度と逢えなくなる。だから、ちゃんと最後まで、君の“人生”を生き切って欲しい。映画監督なんかなれなくってもいいんだ。お願いだから、この約束だけは守ってね」
傾き始めた陽の中で、差し出された喬の小指の先に、絵麻は自分の小指を絡め、かすかな笑い声を立てる。
「うん、わかった。……ねえ、あたしがおばあちゃんになっても、好きでいてくれる?」
「当たり前。俺、もうずっと、この姿のままでいるしかないからさ、年を取れるって羨ましいよ。だから、どんな素敵な年の取り方するか、楽しみにしてる」
「そっか。ありがと。出来るだけ綺麗なおばあちゃんになれるように、頑張ってみる」
絵麻の冗談に二人は幼子のように笑い、『ゆびきりげんまん』を歌った。
優しい花の香りと、懐かしい客席の匂いの風が吹く、不思議な麦畑の中を、青すぎるほどの青の中に千切れていく白い雲を眺めながら、二人は一本の樹――柔らかいピンク色の実をたわわに実らせた、大きな桃の木のすぐ近くまでやってきた。
「ここにしようか」
喬が差し出した手に、絵麻はポケットから出したライターを乗せる。
「それ、どうするの?」
「この樹にきれいにしてもらおう」
そう言いながらひざまずいて、桃の木の根元を手指で掘り始めた彼に追随し、彼女もそれを手伝う。
どれだけ掘っても手が汚れることはなく、やがて出来た小さな穴の中、喬がライターを置いて上から再び土をかけると、すぐさまじゅわじゅわという音がし始めて、灰色の煙が立ち上り始める。
「吸い込まないようにね」
喬に言われて口と鼻をふさいで後ろに下がり、絵麻はライターが――喬の怨念や怨恨といったものが、煙草の煙のそのように登っていくのを見る。
「これでよし、と」
果たして、本物のライターだったのだろうか、ものの十秒で煙は収まり、辺りは何事もなかったかのように静まり返って、澄んだ風が吹き渡り、喬の怨嗟の残滓は消え去った気配がした。
まるで葬式の後のような、厳かな雰囲気に沈黙は長く続いたが、どこからともなく教会の鐘の音のような音が聞こえ、
「ああ、もう時間だ、急がないと」
そう言って喬は立ち上がり、背中を向けたまま絵麻に呼び掛ける、
「ねえ、絵麻。帰ったら、【生きる】、絶対観てね」
「うん。……一緒に観ようね」
「そうだね。一緒に」
振り向いた喬は、悲しみを覆い隠すような満面の笑みで、絵麻と向かい合って見せる。
「それとさ、いつか二人でさ、すごい映画作って、パルム・ドール取ろうよ。俺がシナリオとコンテ描くから、撮影と編集は任せた。……俺、パソコンもスマホも、動画サイトも、絵麻の言ってること、何が何だかわかんないからさ、そっちの勉強いっぱいして、とにかく世界中の人に見てもらえる映画、作ろうよ」
「できるの? そんなこと……」
「できるよ。大丈夫。……嘘だと思うなら、スケッチブックに何か描いてみてよ。信じるか信じないかは、絵麻次第だ」
「……うん」
「頼むよ、相棒。俺が背中を任せられるのは、君だけだ」
そう言って喬は自分のこぶしにキスをし、絵麻に差し出した。
「……でも、いいの? あたし……」
いくら初恋の相手の子とはいえ、自分が父の娘であること、父の“におい”がしたこと、彼の家族を奪い、強い恨みを買って、長い間、彼を苦しめてきた男の、その血を継いだ身体であること――そのすべてを絵麻が問う前に、
「いいの。もう、君の身体からは、そんな“におい”がしない。きっと、もともと縁も薄かったんだね、一緒にご飯食べてるうちに、全然気にならなくなっちゃった。それに、君だけじゃない、あいつは君のお母さんにも、自分の親にも、俺たちを殺したってことを言ってない。君は何も知らなかったんだ。……あいつを許しはしない。でも、君自身に、何も罪はない。……そういうの、全部ひっくるめて好きなのを、『愛』っていうんだろ?」
少し格好つけた口調で答えが返ってきて、それが間違いなく彼の本心であることも手に取るようにわかり、絵麻は彼と自分が確かに深く“繋がった”ことを感じる。
絵麻は彼の真似をして、自分の右手で拳にキスをしてから、彼のそれを打ち返す。
「よっしゃ、頼むよ」
「うん、頑張る」
そこで会話が途切れ、二人はもう一度歩み寄り、深く長く、唇を重ねる。
「忘れないで。俺はいつも、君の中にいる」
口づけの後の喬の言葉は、別れの時が近いことを教えていた。
名残惜しい気持ちで、ゆっくりと歩きながら桃の木の下に降りると、辺りをぐるりと囲うように、【オズの魔法使】で見たそれと、寸分違わない色と質感の黄色いレンガが覆い、そこから地平線の果てまで続く、長い長い坂道が伸びていた。
「……俺が見送れるのは、ここまで。合図をしたら、あの虹に向かって、道から外れないように、真っ直ぐ歩いて。絶対に、後ろを振り返っちゃだめだよ」
喬が指さす方には、七色の濃い虹が、白い雲の根元から雄大なアーチを描いている。
「大丈夫だよ、絵麻。君はもう、自分で自分の帰る場所を創れるはずだ。俺も手伝う。だから、自信を持って。君は優しくて賢くて、勇気のある人だ」
彼はそう言って、絵麻の頬を撫で、髪を指に絡げると、
「……うん、やっぱり俺、ジュディ・ガーランドより、君の方が好みだな」
嬉しそうに微笑んで、唇にキスをした。
「さよならは、言わないよ」
「うん。……これからは、ずっと一緒だもんね。でも……」
「でも?」
「キスもハグも、出来なくなっちゃうのは、寂しいな」
「……うん」
突き動かされるように抱擁を交わす二人の両眼から、涙があふれて止まらなくなる。
「絵麻、愛してるよ。……君と、最後にこうやって、一緒に映画たくさん観て、恋が出来て、俺、本当に幸せだった。もう、思い残すことなんて、何もない。……最期まで、ちゃんと生きるんだよ。ずっと、この『世界』で待ってるからね。……ありがとう……」
「うん。……あたしも、ありがとう、……喬くんがいたから、あたしは、自分の生き方を決めることが出来た……怖いものから、逃げずに戦えた……あたしも、あなたを愛してる。これからも、ずっと一緒だよ。だから、最後なんて言わないで……」
お互いの言葉にうなずきながら、ひとしきり嗚咽を上げたとき、麦畑の向こうから、カラスの群れが鳴き声を上げながら飛んでくる気配がした。
「さあ、行って。もうすぐ日が暮れる。虹が消えないうちに、ちゃんと帰るんだよ」
喬は最後にもう一度、絵麻と唇を重ね、頬ずりをしてから、彼女を自分の前に立たせた。
「大丈夫。君があの根元に辿り着くまで、俺はここで見送ってるから」
優しい声が耳元で囁くと、肩に置かれた手が離れ、
「歩いて。立ち止まらないで。……また、ここで逢おうね」
ぽん、と絵麻の背中は押され、彼女は前へと歩き出した。
黄色いレンガの道の先、黄金色の麦畑の端は、山吹色の日暮れが迫り、空はにわかに青の深さを増す。
風があるというのに形を変えない、大きな白い雲は、虹の七色をその上に乗せ、絵麻を招き入れるように、静かに描かれている。
とうとうひとりぼっちになってしまった、と、絵麻が思ったその時、真後ろから、喬の穏やかで甘いテナーの声が、聴いたことのない旋律の歌――切なく寂しい歌詞を載せた、ワルツを唄い始めた。
足を止めるな、と言われた通り、前へ前へと進めば進むほど、喬の歌声は遠くなる。
しかし、確かに彼が、自分のことを見送ってくれていることがわかり、絵麻は悲しみと寂しさと喜びを一緒くたに感じながら、その想いを無駄にしないよう、ぼろぼろと涙をこぼして、何度も振り向きそうになる心を戒め、歯を食いしばって歩いた。
現実ならば、遠く揺らめいて消えてしまうはずの虹は、絵麻がその根元に辿り着いても、そこから動くこともはじけ飛んでしまうこともなく、細かい粒を伴って霧となり、髪に絡み、肌に当たり始め、さらさらと身体を包む。
遠くから、カラスの鳴き声が、甘い花と客席の匂いが、煽るように背中を撫でる。
「ずっと一緒だよ」
どちらがそう言ったのかはわからない。
しかし、確かに喬の声が、自分の心に重なって聴こえたのを絵麻が感じたとき、不意に右のまぶたに温かく、柔らかい何か――彼の唇の感触があって、閉じた視界は真っ白に染まった。




