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【後編】白鈴山結願院跡地-第八十九番の納経帳

黒瀬は、納経帳を閉じたまま、しばらく動かなかった。


納経所の中は、急に静かになっている。

床に散らばっていた納札も、さっきまでのようには動かない。

ただ、古い紙の匂いと、湿った朱肉の匂いだけが濃く残っていた。


真鍋宗一郎は、カウンターに片手をついたまま、荒く息をしている。


「……妻の名前が」


声が掠れていた。


「思い出せません」


黒瀬は彼を見た。

同情するような顔ではない。

かといって、無関心でもない。

ただ、症状を確認する医者のように、あるいは不具合箇所を見ている設備担当者のように、静かに観察していた。


「名前以外は」


「顔は、少し。声も、たぶん。でも、何を願っていたのかが……」


真鍋は自分の胸元を押さえた。


「ここに、穴が空いたみたいです」


「名前より先に、願いの方が抜かれてますね」


黒瀬は納経帳に視線を戻した。


「記憶を消しているというより、目的を抜いている」


「目的……」


「ここへ来た理由。歩いた理由。祈った理由。そこを取られると、人はだいぶ動けなくなります」


納経所の奥で、何かが小さく笑った気がした。


ひとの声ではない。

紙をめくる音に似ていた。


黒瀬は振り返らず、木箱の中から古い資料を取り出した。

宿坊台帳。

納札箱の控え。

結願証明書。

そして、古い観光パンフレットの束。


「真鍋さん。これ、年代順に並べられますか」


「はい。たぶん」


「無理そうなら座っていてください」


「いえ、できます」


真鍋はそう言って、震える手でパンフレットを並べ始めた。


古いものは、粗い紙に墨一色で刷られていた。


白鈴山休み場。

遍路道中の休憩所。

足を痛めた方、病の方、宿をお探しの方はお立ち寄りください。


次の年代になると、写真が入る。


白鈴山結願院。

旅の途中に、心を休める宿。

また歩くための一夜を。


さらに新しいもの。


白鈴山結願院。

幻の結願所。

あなたの巡礼を満たす場所。


最新のパンフレットは、光沢紙だった。

海を見下ろす山門。

白衣姿のモデル。

宿坊ホテル完成予想図。

カフェの内装イメージ。

巡礼アプリの画面。


そして、中央に大きく文字がある。


第八十九番。

あなたの旅は、ここで完成する。


黒瀬はそれを見て、目を細めた。


「だいぶ変わってますね」


真鍋は唇を噛んだ。


「私たちが変えました。正確には、広告会社と相談して、町が承認した。ノクティスも、それで企画を通した」


「昔の資料には、第八十九番とは書いていない」


「ありません」


「結願とも、書いていない」


「はい」


「本来は、終わらせる場所じゃなかった」


真鍋は答えなかった。

答えられないのではない。

もう、その答えを知っていた。


納経所の窓の外で、山門の鈴が揺れる。


ちりん。


真鍋が肩を震わせた。


黒瀬は短く言う。


「願い事を考えないでください」


「考えないようにしても、勝手に」


「では、今日の帰りの経路を考えてください。駅までの道順。レンタカーの返却時間。事務的なやつです」


「……分かりました」


「祈りに逃げると、取られます」


真鍋は目を閉じ、深く息を吸った。


黒瀬は宿坊台帳の古いページをめくる。


昭和のはじめ。

大正。

明治。


紙は古く、ところどころ虫食いがある。

それでも、記録は残っていた。


遍路、足痛める。一泊。翌朝、南へ。

老女、熱あり。二泊。息子迎えに来る。

男、道中にて倒れる。名不明。納札を預かる。

娘、母の病を願う。雨のため一泊。翌朝発つ。


黒瀬はページを止めた。


「昔の台帳には、帰路不要も、納入済もない」


「はい」


「代わりに、発つ、戻る、迎えに来る」


「……送り出していたんです」


真鍋の声は低かった。


「ここは、そういう場所だった。終わらせる場所じゃない。歩けない人を泊めて、戻れる人は戻す。進める人は進ませる。亡くなった人は、納札だけ預かって弔う」


「納札だけ」


黒瀬は床に落ちた白い札を見る。


「人間ごと預かる場所じゃなかった」


その瞬間、納経帳の表紙が震えた。


どん。


内側から叩かれたような音だった。


真鍋が後ずさる。


「今のは」


「苦情ですね」


「誰の?」


「帳簿側の」


黒瀬は納経帳を開いた。


最後のページの朱印は、さらに濃くなっていた。

朱の中に、細い線が何本も渦巻いている。

血管のようにも、遍路道の地図のようにも見えた。


欄外に、新しい文字が浮かんでいる。


願意二件、納入待ち。


一件は真鍋。

もう一件は、おそらく黒瀬だ。


黒瀬は少しだけ口元を歪めた。


「待たれても困るんですが」


すると、納経所の奥から声がした。


『納めよ』


老人の声だった。

女の声にも聞こえた。

子どもの声にも、複数の巡礼者の声にも聞こえた。


『願いを納めよ』

『ここで終わる』

『ここで満ちる』

『ここで、もう歩かなくてよい』


真鍋が耳を塞ぎかける。

黒瀬がそれを制した。


「耳を塞ぐより、聞き流してください。抵抗した反応も、たぶん拾われます」


「無茶を言いますね」


「はい。現場対応なので」


『納めよ』


声がさらに近づく。


納経所の壁に、朱色の文字が浮かび始めた。

観光パンフレットと同じ文言だ。


あなたの旅は、ここで完成する。

あなたの願いは、当院に納められました。

第八十九番、結願おめでとうございます。


文字が壁から剥がれ、細い紙片になって空中を舞う。

白い紙吹雪。

監視映像に映っていたノイズと同じものだった。


紙片は、山門の内側へ流れていく。


黒瀬は納経所の外を見た。


薄い人影が二つ、山門の内側に座っている。

消えた二人だ。

胸元の赤い文字は、前より濃くなっていた。


納。


そして、その横にもう一つ。

新しい白い影が、形を作りかけている。


真鍋だった。


本人はここにいる。

納経所の中で、立っている。

だが、山門の内側では、彼の願いだけが先に座らされていた。


「真鍋さん。今、何か見えますか」


「……見えます」


「自分ですか」


「たぶん」


「近づかないでください。あれは、あなた本人じゃない」


「じゃあ、何ですか」


「あなたから抜かれた、歩く理由です」


真鍋の喉が鳴る。


「私の、理由」


「ええ。まだ本体と切り離されていない。だから戻せる可能性はあります」


「可能性」


「断言すると、ここに利用されそうなので」


黒瀬は納経帳を閉じ、古いパンフレットの一番古いものを広げた。


白鈴山休み場。

また歩くための一夜を。


それを、濡れた朱印の上に置く。


途端に、紙が焦げるような音を立てた。


じゅう。


古いパンフレットの文字が黒く焼け、代わりに朱色の文字が浮かぶ。


第八十九番。

終点。

満了。

納入。


「上書きしてるな」


黒瀬は呟いた。


「昔の記録を消しているんじゃない。意味を塗り替えている」


納経帳が震える。

床の納札が一斉に立ち上がった。

白い札が、蝶の群れのように舞い、黒瀬と真鍋の周囲を取り囲む。


『納めよ』

『歩かなくてよい』

『苦しまなくてよい』

『願いは、ここで預かる』


真鍋が、ふらりと一歩前へ出た。


黒瀬が肩を掴む。


「歩かない」


「でも」


「でも、じゃないです」


黒瀬の声が珍しく硬くなった。


「この声は、あなたを楽にしているように聞こえるだけです。決裁前の甘い見積書みたいなものです」


「たとえが」


「あとで直します」


白い札が、真鍋の首筋に貼りつこうとする。

黒瀬は手袋越しにそれを払い落とした。


札には、文字が浮かんでいた。


妻の病が――。


その先は、消えている。


真鍋が息を詰めた。


「病……」


欠けていた言葉が、少しだけ戻る。


「そうだ。妻は、病気で」


納経帳の朱印が、ぎち、と鳴った。


黒瀬はそれを見逃さなかった。


「戻りかけると、嫌がる」


「黒瀬さん」


「話してください。祈りじゃなく、事実として」


「事実」


「はい。願い事にしないでください。記録として言う」


真鍋は唇を震わせながら、言葉を探した。


「妻は、三年前に亡くなりました」


白い札の動きが止まる。


「病気でした。私は、何もできなかった。だから、仕事でこの場所に関わった時、せめてここを残したかった。妻との最初の出会いは、この巡礼地だっんたんです。歩けなくなった人が休む場所を、次の形で残せるなら、と」


黒瀬は頷く。


「願いではなく、経緯ですね」


「でも、私は……第八十九番という言葉を止められなかった」


真鍋は納経所の壁を見る。


「町に金が必要だった。人を呼ぶには、強い名前がいる。幻の結願所。最後の朱印。全部、分かりやすかった。分かりやすくて、間違っていた」


山門の鈴が激しく揺れた。


ちりん。

ちりん。

ちりん。


三度目の音が重なる。


納経帳が勝手に開いた。


最後のページの朱印から、赤い手が伸びる。

人間の手ではない。

印肉で作られた、平たい手だった。

その手が、真鍋の胸元へ伸びる。


黒瀬が前へ出た。


赤い手は、黒瀬の胸元で止まった。


朱印の奥から、黒い文字が滲む。


未納一件。

処刑猶予中。


黒瀬は眉をひそめた。


「俺のは後払いも受け付けてないんですが」


赤い手が、首筋へ伸びる。

不可視の刃が震えた。

刃と朱印の手が触れかけた瞬間、納経所の空気が裂けた。


ぱん、と乾いた音。


赤い手が弾かれる。


黒瀬は首元を押さえた。

見えない刃が、いつもより深く食い込んでいる。


だが、まだ落ちない。


「……なるほど」


黒瀬は低く言った。


「お前が欲しいのは、願いそのものじゃない」


納経帳が震える。


「願いが積まれた道のりだ。どの札所で祈ったか。どこまで歩いたか。誰のために耐えたか。そこを最後にまとめて受け取ろうとしている」


朱印が脈打つ。


『結願』


「違う」


黒瀬は納経帳を見下ろした。


「結願は、歩いた人間のものです」


納経所の壁が軋む。

古い棚から納札があふれ出す。

白い札が、部屋全体を埋め尽くそうとする。


『当院に納む』

『当院に納む』

『当院に納む』


「だから、そこが駄目なんですよ」


黒瀬は静かに言った。


「ここは、寺でも札所でもない。正式な終点でもない。昔は、歩けなくなった人を一晩休ませて、次へ送り出す場所だった」


声が止まる。


「休み場が、終点を名乗った」


朱印が震える。


「それだけなら、観光地によくある誇張で済んだかもしれない。でも、お前はその看板に乗った。第八十九番を名乗り、結願印を作り、他の札所に向けられた祈りまで最後に自分へ集め始めた」


真鍋が顔を上げる。


黒瀬は続けた。


「これは救済じゃない。弔いでもない。巡礼者の祈りを、終点のふりをして横取りしているだけだ」


納経帳のページが、一斉にめくれた。


古い名。

かすれた願い。

途中で途切れた朱印。

雨に濡れた墨。

読めない祈り。


それらが、全部、最後の第八十九番へ吸い寄せられていく。


黒瀬は、そこで初めてはっきりと怪異の芯を見た。


白鈴山結願院。

第八十九番。

納経帳。

山門の鈴。

結願証明書。

巡礼アプリ。

観光パンフレット。


すべては一つの装置だった。


終点を偽装し、他者の祈りを一括回収するための、不正な納経所。


黒瀬の首筋から、冷たさが一瞬だけ消えた。


代わりに、納経所の床下から重い金属を引きずる音が響く。


ずるり。


ずるり。


古い木の床が、巨大な処刑台のように軋む。


真鍋が息を止めた。


黒瀬の背後に、何かが立ち上がる。


見えない。

だが、そこにある。


人間の背丈など軽く超える、不可視の処刑鉈。

その刃は、空気だけを押し分けている。

納札が、刃の形に沿って左右へ避けた。


納経帳の朱印が、初めて怯えたように揺れた。


黒瀬は告げた。


「罪状確定」


山門の白い鈴が、一斉に鳴った。

一つしかないはずの鈴が、いくつも重なって聞こえる。


ちりん。

ちりん。

ちりん。


「救済権限の詐称。納経の横領。祈願の着服。未完の道程を、終点名義で不正回収」


朱印の中から、赤い影が立ち上がった。


僧のようにも見えた。

白衣を着た遍路のようにも見えた。

だが顔はない。

顔のあるべき場所には、巨大な朱印が押されている。


白鈴山結願院。

第八十九番。


その影が、両手を広げた。


『ここで満ちる』

『ここで終わる』

『ここで苦しみは納まる』


黒瀬は見上げた。


「勝手に締めないでください」


彼の声は静かだった。


「旅の終わりは、歩いた人間が決めるものです」


背後の不可視の刃が、ゆっくりと持ち上がる。


「アラストル」


納札が悲鳴のような音を立てて舞い上がる。

結願証明書が破れ、巡礼アプリの通知音が連続して鳴る。

納経帳の朱印が赤黒く膨らみ、山門の鈴がひび割れる。


黒瀬は最後の一言を落とした。


「執行」


不可視の処刑鉈が振り下ろされた。


音はなかった。


ただ、納経所の中にあったすべての「終点」が断たれた。


まず、納経帳の第八十九番の朱印が縦に割れた。

朱が血のように飛び散る。

だが床には落ちない。

赤い粒は空中でほどけ、細い光の糸になって四方へ散っていく。


それは八十八の方向へ伸びた。


山へ。

海へ。

古い道へ。

石仏へ。

実在する札所へ。

かつて歩いた人々の足跡へ。


奪われていた祈りが、本来向けられた場所へ戻っていく。


結願証明書の束が、一斉に白紙になった。


第八十九番。

御結願之証。

願意、当院に納む。


その文字が剥がれ、黒い灰になって崩れる。


巡礼アプリの画面が、納経所の隅に置かれた端末で勝手に点いた。


第八十九番、結願おめでとうございます。


その通知に、見えない刃の亀裂が走る。


画面が白くなる。


次に表示されたのは、ただのエラーだった。


未登録チェックポイント。

該当する札所は存在しません。


朱印の顔を持つ赤い影が、両手で割れた顔を押さえる。


『納めた』

『願いは納めた』

『ここで、満ちた』


「満ちてません」


黒瀬は淡々と言った。


「預かったふりをして、盗んだだけです」


不可視の刃が、もう一度動いた。


今度は影ではなく、山門から納経帳へ伸びる赤い線を断った。

山門の鈴が砕ける。

陶器のような白い破片が落ちた。


ちりん、という最後の音が、途中で切れる。


床に座っていた薄い人影が揺れた。


一人目。

スーツ姿の男。

二人目。

作業着の若い男。


胸に滲んでいた「納」の文字が、赤い糸のようにほどけていく。


さらに、真鍋の形を作りかけていた白い影が崩れた。

それは紙吹雪になり、彼の胸元へ戻っていく。


真鍋が膝をついた。


「……美沙」


小さく、名前を呼んだ。


その瞬間、彼は両手で顔を覆った。


「思い出した」


黒瀬は何も言わなかった。


納経所の中に、古い風が吹いた。


閉ざされていた窓が、ひとりでに開く。

山の空気が入ってくる。

蝉の声。

潮の匂い。

乾いた土の匂い。


赤い影は、割れた朱印の顔を抱えたまま、納経帳の中へ沈んでいく。


最後に、かすれた声がした。


『では、歩けぬ者は』


黒瀬は納経帳を見下ろした。


「休ませればいい」


赤い影が震える。


「終わらせる必要はない」


その言葉を最後に、納経帳の最後のページが白く抜けた。


第八十九番の朱印は消えていた。

白鈴山結願院の名もない。

ただ、古い紙の繊維だけが残っている。


納経所の奥で、何かが深く息を吐いた気がした。



山門の内側に座っていた二人は、すぐには戻らなかった。


白い人影は薄く震え、しばらく石畳の上に残っていた。

やがて、風に吹かれるように輪郭が崩れ、山門の外側へ押し出される。


一人目のスーツ姿の男は、石段の下で見つかった。

意識は朦朧としていた。

自分の名前は言えたが、会社名を三度間違えた。


二人目の若い男は、納経所裏の木陰で倒れていた。

胸に抱えるようにして、白い納札を握っている。


そこには、震える字でこう書かれていた。


母の熱が下がりますように。


彼は目を覚ました時、その文字を見て泣いた。

どうして泣いているのか、本人にもすぐには分からないようだった。


真鍋は救急車を呼び、地元警察と役場に連絡した。

声はまだ震えていたが、言葉は戻っていた。


黒瀬は納経所のカウンターで、古い資料を整理していた。


納経帳。

宿坊台帳。

納札箱。

パンフレットの束。

結願証明書。


資料としては、どれも重要だ。

怪異としては、どれも燃やした方が早い。


ただ、燃やすと後で報告書が面倒になる。


「黒瀬さん」


真鍋が戻ってきた。


「二人とも、病院に運ばれます。命に別状はなさそうです」


「そうですか」


「完全に戻るでしょうか」


「分かりません」


黒瀬は即答した。


「忘れたものが全部戻るとは限りません。願いって、そういうものなので」


真鍋は黙った。


黒瀬は続ける。


「ただ、少なくとも、もうここに納められてはいません」


「それだけでも、十分です」


真鍋は納経所の外を見た。

割れた山門の鈴が、石畳の上に落ちている。


「この場所は、どうすればいいと思いますか」


「それは、俺が決めることじゃないです」


黒瀬は資料を封筒に入れた。


「調査員なので」


「不動産会社の人とは思えない言い方ですね」


「不動産会社の人間が、全部の土地の使い方を決め始めると、だいたいろくなことにならないので」


真鍋は少しだけ笑った。

疲れた、苦い笑いだった。


「第八十九番という呼び方は、やめます」


「それがいいと思います」


「ホテル化も、見直しでしょうね」


「報告書には、文化財および地域信仰資料の保全再検討、と書いておきます」


「かなり薄めますね」


「濃いままだと、会議で誰も飲めません」


真鍋は、今度は少しだけ自然に笑った。


その時、納経帳の白紙になった最後のページが、ひとりでにめくれた。


黒瀬は動きを止めた。


真鍋には見えていないようだった。

彼は外の救急隊員へ視線を向けている。


黒瀬だけが、そのページを見ていた。


白紙の中央に、黒い文字が滲み出す。


回収不能祈願:一件。

対象:処刑猶予中。

願意:■■■■の赦免。


黒瀬の首筋に、不可視の刃が戻った。


いつもの位置。

皮膚一枚の上。

少しでも深く入れば、首が落ちる場所。


ただ、今回は刃が冷たいだけではなかった。


静かだった。


まるで、何かを待っているように。


黒瀬は白紙の文字を見つめる。


「祈った覚え、ないんですけどね」


黒い文字の下に、もう一行が浮かんだ。


執行猶予:継続。


納経帳は、そこで閉じた。


ぱたん、と乾いた音がする。


真鍋が振り返った。


「どうかしましたか」


「いえ」


黒瀬は納経帳を封筒に入れた。


「資料が勝手に自己主張しただけです」


「それは、よくあるんですか」


「最近、少し多いですね」



翌朝。


旧白鈴山結願院跡地は、ただの古い休み場に戻っていた。


白い山門。

割れた鈴。

閉じた納経所。

板で塞がれた宿坊。

海を見下ろす石段。


そこに、幻の第八十九番はもうなかった。


巡礼アプリからは、該当チェックポイントが削除された。

というより、開発会社の記録上、最初から存在しなかったことになっていた。

ただし、ログには空白が残っている。


第八十九番。

達成。

願意納入済。


それらの文字があったはずの場所だけが、白く抜けていた。


再開発計画は一時凍結。

宿坊ホテル化は見直し。

遍路資料館として保存する案が、地元とノクティスの間で再協議されることになった。


黒瀬は空港へ向かう車の中で、報告書を書いていた。


原因欄には、こう入力する。


「巡礼関連資料の管理不備、観光導線上の案内表示不整合、および巡礼アプリ未登録チェックポイントによる異常通知」


少し考えてから、追記する。


「旧白鈴山結願院跡地については、宿坊台帳、納札箱、納経帳、結願証明書等の資料を専門家立会いのもと保全し、観光上の呼称および導線設計を再検討すること」


嘘ではない。


かなり薄めた本当だ。


助手席の真鍋が、海を見ていた。


「黒瀬さん」


「はい」


「私は、妻のためにこの場所を残したかったんだと思います」


「はい」


「でも、その願いを言い訳にして、違うものに変えようとしていた」


黒瀬はキーボードを打つ手を止めた。


「願いって、便利ですからね」


真鍋がこちらを見る。


黒瀬は続けた。


「だいたいの無茶は、誰かのためって言うと少し通りやすくなる」


「……手厳しいですね」


「自分にも言ってます」


真鍋は黙った。


車窓の外で、遍路道が遠ざかっていく。

白衣の巡礼者が、ゆっくりと坂道を歩いていた。

杖の音が、窓越しにかすかに聞こえた。


こつ。


こつ。


こつ。


その人は、終点へ向かっているのではない。

次の場所へ歩いている。


黒瀬は報告書を保存した。


スマートフォンが震える。


谷本課長からのメッセージだった。


『生きてるか』


黒瀬は少しだけ笑った。


返信する。


『今のところ。資料は少し生きがよかったです』


すぐに返事が来た。


『資料に生命力を求めるな。帰ったら報告だけして今日は帰れ』


黒瀬は画面を見て、小さく息を吐く。


『善処します』


送信しかけて、指を止めた。


少し考え、打ち直す。


『承知しました』


送信。


首筋の刃は、まだそこにある。

外れてはいない。

猶予は継続しただけだ。


それでも、ほんの少しだけ、重さが変わった気がした。


黒瀬は窓の外を見た。


海の向こうで、夏の光が白く揺れている。


車は山を下り、遍路道から離れていく。


旧白鈴山結願院の白い山門は、もう見えなかった。


ただ、どこか遠くで、割れた鈴ではない小さな音がした気がした。


―――ちりん。


それは終わりの音ではなかった。


また歩き始めるための、短い合図だった。

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