【前編】白鈴山結願院跡地-第八十九番の納経帳
男は山門の前で、自分の名前を忘れた。
頭が働かない。
最初は、ただの疲れだと思った。
七月の四国は暑い。
海から上がる湿った風が山肌にぶつかり、石段の熱を逃がさない。
男は白い山門の前で足を止め、額の汗を手の甲で拭った。
スマートフォンが震えた。
画面には、巡礼アプリの通知が出ている。
第八十九番、結願おめでとうございます。
あなたの願いは、当院に納められました。
「……第八十九番?」
男は眉をひそめた。
四国の札所は八十八箇所だ。
第八十九番など、少なくとも正式には存在しない。
彼は巡礼者ではなかった。
ノクティス・グローバル不動産の現地調整担当として、この旧白鈴山結願院跡地の再開発状況を確認しに来ただけだ。
宿坊ホテル。
遍路資料館。
カフェ。
土産物店。
巡礼体験ツアー。
仕事だった。
仕事のはずだった。
なのに、スマートフォンの画面には、見覚えのない達成通知が浮かんでいる。
男は通知を閉じようとして、指を止めた。
自分の名前が出てこなかった。
「……え?」
冗談みたいな声が漏れた。
名前を忘れるなど、あるはずがない。
毎日メールの署名に書いている。
名刺にもある。
出張申請にも、経費精算にも、会社のチャットにも、自分の名前は嫌になるほど残っている。
男は胸元の社員証を持ち上げた。
名前欄が白くなっていた。
印刷が剥がれたわけではない。
会社名も、顔写真も、部署名も残っている。
ただ、氏名欄だけが、最初から何も書かれていなかったように白い。
「いや、違う。そんなわけ……」
次に、会社名を忘れた。
胸元のカードには英字のロゴがある。
毎朝見ている。
嫌でも見ている。
なのに、それが何という会社なのか分からなくなった。
ただの黒い模様に見える。
男は山門の柱に手をついた。
白い木でできた古い門だった。
塗装は剥げ、柱の根元には苔がついている。
上部には、小さな鈴が吊るされていた。
風もないのに、それが鳴った。
ちりん。
男の膝から力が抜けた。
また一つ、何かを忘れた。
母の顔だった。
いや、母だったのか。
祖母だったのか。
妻だったのか。
誰かのために、この仕事を引き受けた気がする。
地方の古い町を、何とか残したい。
誰かがそう言っていた。
自分も、それに頷いたはずだった。
なのに、その理由が抜け落ちていく。
ちりん。
二度目の鈴が鳴った。
男は、どうしてここへ来たのかを忘れた。
暑い。
山門。
蝉の声。
白い石段。
乾いた土の匂い。
納経所の閉じた窓。
その奥に、誰もいないはずなのに、朱肉の匂いがした。
ちりん。
三度目の鈴が鳴った。
男は、自分が人間だったことを忘れた。
白い紙が、足元から立ち上がる。
薄い札のようなものだった。
それが男の足首にまとわりつき、膝を覆い、胸を包む。
悲鳴を上げようとした。
だが、何を怖がっているのか分からなかった。
山門の奥で、古い納経所の戸がひとりでに開いた。
とん。
朱印を押す音がした。
とん。
もう一度。
とん。
男の姿は、白い納札のように薄くなった。
最後に残ったスマートフォンが、石段の上に落ちる。
画面には、達成通知だけが残っていた。
第八十九番、結願おめでとうございます。
あなたの願いは、当院に納められました。
◇
「旧白鈴山結願院跡地。四国某県の遍路道沿いにある旧宿坊兼休憩施設だ」
谷本課長が資料をめくった。
東京都港区。
ノクティス・グローバル不動産、日本支社。
第三資産管理部の定例会議。
画面には、白い山門と閉ざされた納経所が映っている。
黒瀬透は会議室の端で、紙コップのコーヒーを持ったまま写真を見ていた。
海外ではない。
深夜便でもない。
パスポートも要らない。
それだけで、会議室の数人は少しだけ気を抜いている。
ただし、画面の中の山門は、安心できる種類のものではなかった。
谷本が続ける。
「弊社が取得し、宿坊ホテルと遍路資料館を含む観光施設として再開発予定だった。だが、現地調整担当とアプリ開発会社の社員が一名ずつ行方不明になっている」
会議室の空気が沈む。
「最後に確認されたのは、山門前の監視映像ですか」
黒瀬が聞くと、谷本は頷いた。
「山門をくぐった直後、映像が白く飛ぶ。紙吹雪みたいなノイズだ。その後、二人は映っていない」
画面が切り替わる。
巡礼アプリの通知だった。
第八十九番、結願おめでとうございます。
あなたの願いは、当院に納められました。
「第八十九番って、正式な札所じゃないですよね」
「観光上の呼び名だ。地元でも昔はそんな呼び方はしていなかったらしい」
「アプリの仕様ですか」
「開発会社は否定している。そもそも、そのチェックポイントは未実装だったそうだ」
誰かが小さく息を吐いた。
「またアプリですか」
「また、というほど弊社の案件で正常なアプリを見た覚えがないですね」
黒瀬がそう言うと、隣の社員が疲れた顔で笑った。
谷本は笑わなかった。
次の画面には、古い納経帳の写真が映る。
黄ばんだ紙。
墨の跡。
かすれた朱印。
その最後のページにだけ、異様に濃い朱が押されていた。
白鈴山結願院。
第八十九番。
画面越しなのに、まだ乾いていないように見える。
黒瀬の首筋に、冷たい刃が触れた。
見えない。
触れられない。
それでも、そこにある。
皮膚一枚の上に添えられた、いつもの処刑刃。
黒瀬は紙コップを机に置いた。
「俺が行きます」
谷本がこちらを見る。
「休ませたばかりなんだがな」
「四国なら時差がないので」
「そこを基準にするな」
「あと、領収書が日本語です」
「それも基準にするな」
谷本は短く息を吐き、資料を黒瀬の前へ滑らせた。
「現地の真鍋さんと合流しろ。まずは資料確認だ。無理に山へ入るな」
「了解です」
「妙なものを見たら、先に連絡しろ」
「妙な資料の場合は?」
「それも連絡しろ」
「資料に負けそうになったら電話します」
「茶化すな」
会議はそこで終わった。
黒瀬は資料を手に取る。
旧白鈴山結願院跡地。
幻の第八十九番。
納経帳。
結願証明書。
巡礼アプリ。
資料のどこにも、黒瀬透の名前はない。
それでも首筋の刃は、静かに冷えていた。
「終わってないものを終わったことにされるの、仕事だけで十分なんですけどね」
誰に言うでもなく呟き、黒瀬は会議室を出た。
◇
四国の空は、東京より近く見えた。
空港から車で一時間半。
市街地を抜け、海沿いの道を走り、それから山へ入る。
窓の外には、青い海と低い山が交互に現れた。
道端には、白衣を着た遍路の姿が時折見える。
杖をつき、笠をかぶり、ゆっくりと歩いている。
黒瀬は後部座席で資料を読みながら、車窓に目を向けた。
アスファルトの脇に古い石仏がある。
小さな花が供えられている。
その隣に、真新しい観光案内板。
白鈴山結願院跡地。
幻の第八十九番。
あなたの旅が、ここで満ちる。
「満ちる、ですか」
黒瀬が呟くと、運転席の男がバックミラー越しにこちらを見た。
「気になりますか」
迎えに来たのは、現地担当の真鍋宗一郎だった。
四十代後半。
日に焼けた顔に、皺の深い目元。
薄いグレーの作業シャツを着て、首から入館証を下げている。
観光協会出身と聞いていたが、口調は営業マンというより、地元の世話役に近かった。
「いい言葉ではありますね」
黒瀬は案内板を見送る。
「でも、不動産の宣伝文句で“旅が満ちる”って書かれると、少し怖いです」
真鍋は苦笑した。
「私も、最初は反対しました」
「最初は?」
「町に金が必要でした。遍路道沿いの宿も、土産物屋も、年々閉まっていく。若い人は戻らない。外から人を呼ぶには、分かりやすい看板が必要だった」
「それで、第八十九番」
「ええ」
真鍋はハンドルを握る指に力を込めた。
「もちろん、正式な札所ではありません。地元でも、昔はそんな呼び方はしていなかった。ただの休み場です。歩けなくなった人が一晩泊まって、また次へ行くための場所だった」
「終点じゃないんですね」
「はい。終点ではありません」
その声には、後悔が混じっていた。
車は山道へ入った。
カーブが増える。
蝉の声が窓越しにも聞こえる。
木々の間から、時々海が光った。
「失踪した方とは?」
黒瀬が尋ねると、真鍋は少し黙った。
「一人は、ノクティスの現地調整担当です。若いが、よく動く人でした。もう一人は巡礼アプリの開発会社の社員。二人とも、山門前で消えた」
「その前に、様子は変わっていましたか」
「変でした」
「どう変でした?」
「忘れていくんです」
黒瀬は資料から顔を上げた。
「名前を?」
「名前もです。会社名も、泊まっている宿も、今日の予定も。でも、一番変だったのは……」
真鍋は言葉を探すように、前方を見つめた。
「願いを忘れていました」
「願い」
「なぜこの仕事をしているのか。なぜここへ来たのか。何を大事にしていたのか。そういうものです」
車内に、エアコンの低い音だけが残った。
真鍋は続ける。
「アプリ会社の彼は、母親の病気平癒を願って、休日に少しずつ札所を回っていたそうです。全部ではありません。仕事の合間に、本当に少しずつ」
「その人が、忘れた」
「ええ。消える前に、私に聞いたんです」
真鍋の声が、少し掠れた。
「俺、何のために歩いてたんでしたっけ、と」
黒瀬は黙った。
名前を忘れる。
会社を忘れる。
仕事を忘れる。
願いを忘れる。
ただ消えるより、たちが悪い。
外側ではなく、内側から剥がしている。
車が止まった。
「着きました」
真鍋がそう言った。
旧白鈴山結願院跡地は、山の斜面にあった。
白い石段。
苔むした石垣。
閉じた土産物屋。
板で塞がれた宿坊。
その奥に、白い山門が立っている。
山門は古かった。
白い塗装は剥げ、ところどころ地の木が見えている。
上部には、小さな鈴が吊るされていた。
銀ではなく、白く濁った陶器のような鈴。
風はない。
なのに、鈴が鳴った。
ちりん。
真鍋の肩が震えた。
黒瀬は山門を見上げたまま、言った。
「真鍋さん」
「はい」
「今、何を考えましたか」
真鍋はすぐに答えようとして、口を閉じた。
数秒の沈黙。
顔色が変わる。
「……家内の」
そこまで言って、止まった。
「家内の、何だったか」
黒瀬はゆっくりと視線を山門へ戻した。
白い鈴が、また揺れた。
ちりん。
黒瀬の首筋で、見えない刃が冷たくなる。
彼はスーツの襟元を軽く押さえた。
「なるほど」
真鍋が青ざめた顔でこちらを見る。
「何が、なるほどなんですか」
「これは、人を終わらせてるんじゃないですね」
黒瀬は山門の奥を見た。
閉じられた納経所。
その窓の内側で、何かが動いた気がした。
人影ではない。
赤い朱肉が、ゆっくりと水面のように揺れている。
「先に、歩いてきた理由を取ってる」
その時、誰もいない納経所から音がした。
とん。
朱印を押す音だった。
とん。
もう一度。
とん。
白い山門の内側に、薄い紙のような人影が二つ、並んで座っていた。
片方はスーツ姿の男。
もう片方は作業着の若い男。
顔はぼやけ、名前も、表情も、ほとんど残っていない。
ただ、胸のあたりにだけ、赤い文字が滲んでいた。
納。
真鍋が息を呑む。
「彼らです」
黒瀬は頷いた。
「まだ、完全には納まってないみたいですね」
「戻せますか」
「分かりません。生存確認も、まだ取れていません」
真鍋の喉が鳴った。
黒瀬は納経所を見た。
「ただ、完全に“納まった”後よりは、今の方がましです」
誰もいない納経所から、また音がした。
とん。
朱印を押す音。
黒瀬はスーツの袖口を直し、静かに言った。
「調べます。止められる手続きかどうかを」
◇
山門の内側は、外よりも涼しかった。
木陰のせいだけではない。
空気そのものが、一段低い。
乾いた土の匂いに、古い紙と朱肉の匂いが混ざっている。
黒瀬は山門をくぐる前に、立ち止まった。
「真鍋さん」
「はい」
「鈴の音が三回鳴るまで、願い事を考えないでください」
「考えないで、と言われると難しいですね」
「では、経費精算のことでも考えてください」
「それは願いでは?」
「通るかどうか怪しいので、祈りには近いです」
真鍋は、こんな状況なのに少しだけ笑いかけた。
すぐに顔を引き締める。
二人は山門をくぐった。
白い石畳の先に、納経所がある。
窓は閉ざされている。
古びた木札に、かすれた文字が残っていた。
納経受付。
結願証明。
御朱印。
その隣に、新しい看板が立っている。
第八十九番記念スタンプ受付。
巡礼アプリチェックポイント。
宿坊ホテル開業準備中。
「新旧の仲が悪そうですね」
黒瀬が言うと、真鍋は苦い顔をした。
「古いものを残しつつ、新しい客にも分かりやすくする。そういう説明でした」
「分かりやすさは、たまに余計なものまで連れてきます」
黒瀬は納経所の窓に近づきすぎない位置で止まった。
内側は暗い。
だが、カウンターの上に何かが置かれているのが見える。
大きな朱肉。
印判。
古い納経帳。
そして、白い札が積まれた箱。
「鍵は?」
「私が持っています」
真鍋が鍵を取り出す。
手が少し震えていた。
黒瀬はそれを見て言った。
「開ける前に確認です。ここで失踪した二人は、納経所に入りましたか」
「映像では、山門の前で通知を見た後、そのまま中へ。納経所の前で立ち止まりました。そこから先は、白いノイズで見えません」
「白い紙吹雪みたいな」
「はい」
「納札ですね」
「納札?」
「巡礼者が願いや名前を書いて納める札です。今回は、紙の方が人間に寄ってきている」
真鍋が息を呑む。
黒瀬は軽く首を回した。
首筋の刃が、薄く震える。
「開けましょう。ただし、中で何か聞かれても返事しないでください」
「名前を呼ばれても?」
「名前なら、まだましです」
「ましなんですか」
「今回は、名前より願いの方が危ない」
真鍋は一瞬だけ唇を噛み、鍵を差し込んだ。
がちゃり。
納経所の戸が開いた。
中は狭かった。
古い木のカウンター。
壁に並ぶ棚。
埃をかぶった帳面。
観光パンフレットの束。
スタンプ台。
そして、床に散らばった白い札。
黒瀬は足元の札を踏まないように中へ入る。
白い納札には、名前が書かれていなかった。
母の熱が下がりますように。
息子が戻ってきますように。
父に謝れますように。
もう一度、家に帰れますように。
歩ききれますように。
忘れられませんように。
願い事だけが、墨で書かれている。
真鍋が床に膝をついた。
「これは……」
「人の名前じゃないですね」
黒瀬は一枚を拾おうとして、やめた。
触れる前に、札の端がわずかに震えたからだ。
「触らない方がいいです」
「はい」
真鍋の声が震えている。
カウンターの上には、分厚い納経帳が開かれていた。
紙は黄ばみ、角は黒ずんでいる。
古い朱印がいくつも並んでいた。
ただ、最後のページだけが違う。
白鈴山結願院。
第八十九番。
朱印は、そこだけ生き物のように濡れていた。
朱の内側で、何かがゆっくりと脈打っている。
黒瀬は目を細める。
「この納経帳、ここに保管されていたものですか」
「はい。旧宿坊の資料として残っていました。再開発後は展示予定でした」
「展示」
「遍路文化資料として」
「人の願いを展示するの、なかなか際どいですね」
真鍋は言葉に詰まった。
黒瀬はページをめくった。
八十八箇所分の朱印が揃っているわけではない。
ところどころ空欄がある。
途中で途切れているものもある。
明らかに、歩ききれなかった巡礼者たちの納経帳だった。
「未完了の納経帳ですね」
「ここは、そういう人たちが休んだ場所でした。病気の人、高齢の人、怪我をした人。歩けなくなった人が、ここで一晩休んで、戻るか、進むかを決めたそうです」
「終わらせる場所じゃない」
「ええ」
真鍋は頷いた。
「次へ行くための場所でした」
その時、納経所の奥で何かが鳴った。
ちりん。
山門の鈴ではない。
もっと近い。
棚の奥だ。
真鍋の顔がこわばる。
黒瀬は棚へライトを向けた。
古い木箱がある。
蓋には、墨でこう書かれていた。
納札箱。
「開けたことは?」
「再開発前の整理で、一度だけ。中身は古い納札と、巡礼者名簿でした」
「今もありますか」
「あるはずです」
「見ます」
真鍋が木箱をカウンターへ運んだ。
蓋を開ける。
中から、乾いた紙の匂いがあふれた。
納札。
古い名簿。
宿坊台帳。
結願証明書の束。
黒瀬は手袋をはめ、まず宿坊台帳を開いた。
日付。
人数。
宿泊者名。
行先。
備考。
途中までは普通の宿泊台帳だった。
だが、ある年代から備考欄の文字が変わっている。
帰路不要。
願意預かり。
結願扱い。
納入済。
「宿泊台帳に書く文言じゃないですね」
黒瀬が呟く。
真鍋が覗き込み、顔をしかめた。
「こんな欄、見たことがない」
「最近書き足された?」
「いえ、紙は古い。ですが……」
「文字だけ新しい」
黒瀬は台帳に指を近づけた。
インクの匂いがまだ残っている。
だが、文字の筆跡は古い。
時間の辻褄だけが合っていない。
次に、結願証明書の束を見る。
白鈴山結願院。
第八十九番。
御結願之証。
その下に、小さな文字がある。
願意、当院に納む。
黒瀬は眉を動かした。
「納める」
真鍋が反応する。
「どうかしましたか」
「普通、願いって納めるものですかね」
「札所に納札を納める、とは言います」
「ええ。でも、この文言は少し違う」
黒瀬は証明書を持ち上げた。
「願いを叶えるとも、祈るとも書いていない。“当院に納む”。つまり、受け取る側の処理です」
「処理……」
「祈りじゃなくて、入金確認に近い」
「入金」
「すみません。たとえが悪かったです」
「いえ、分かります。嫌なくらい」
納経所の空気が、さらに冷えた。
床に散らばった納札が、かさ、と音を立てる。
一枚。
また一枚。
風もないのに、札が少しずつ動いている。
黒瀬はその動きを見た。
札は、真鍋の足元へ集まっていた。
「真鍋さん。後ろへ」
真鍋が下がる。
だが、一枚の納札が彼の靴に貼りついた。
黒瀬は触れずに、ライトで照らす。
札には、墨で文字が浮かび始めていた。
家内の――。
そこで止まる。
真鍋の顔から血の気が引いた。
「黒瀬さん」
「何ですか」
「家内の名前が」
「言わなくていいです」
「違います」
真鍋は喉を押さえる。
「思い出せない」
納経帳の朱印が、ゆっくりと濃くなった。
赤い色が紙の奥から滲み出す。
まるで、どこかから吸い上げているようだった。
黒瀬は納経帳を閉じなかった。
じっと見ていた。
朱印の欄外に、小さな文字が浮かぶ。
願意一件、納入済。
誰もいない納経所の奥で、白い鈴が鳴った。
ちりん。
真鍋は納札を見下ろしたまま、掠れた声で言った。
「……私は、何のためにここへ残ろうとしたんでしょうね」
黒瀬は答えなかった。
答えれば、何かの確認になりかねない。
慰めも、励ましも、ここでは手続きに利用される。
代わりに、納経帳の最後のページを見た。
白鈴山結願院。
第八十九番。
濃くなった朱印の奥で、二つの薄い人影が揺れている。
消えた二人だ。
その胸に滲んでいた赤い文字が、少しだけ濃くなっていた。
納。
黒瀬の首筋に、見えない刃が触れる。
まだ動かない。
条件は見えてきた。
だが、足りない。
これは、結願ではない。
黒瀬は低く呟いた。
「祈りを、横から受け取ってるのか」
納経所の外で、山門の鈴が揺れた。
ちりん。
三度目の音が鳴る前に、黒瀬は納経帳を閉じた。
乾いた音が、狭い納経所に響いた。




