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【後編】旧サパーン・クレット・ナイトマーケット跡地-閉店後の出店者名簿

「副業申請、まだ出してないので」


黒瀬のいつもの軽口。

市場は、笑わなかった。


代わりに、すべての屋台が一斉に息を吸うような音を立てた。

破れた布屋根が膨らみ、電飾が赤く明滅し、ガラスケースの中のスマートフォンが一台ずつ画面を点ける。


『店を開けて』


今度は、日本語ではなかった。

タイ語。

英語。

中国語。

古い方言のような、アピチャートにも聞き取れない言葉。

それらが市場中から重なって、黒瀬の耳にだけ意味を押し込んでくる。


店を開けて。

並べて。

売って。

残さないで。


「黒瀬さん」


アピチャートの声が、少し掠れていた。


「最後の言葉は、“残すな”です」


「残すな」


黒瀬はB-13の屋台を見た。

空のガラスケース。

区画番号札。

顔のない店主。

そして、黒瀬の靴に貼りついた値札シール。


臨時出店者、黒瀬透。

営業状態、開店準備中。


「売れ、じゃなくて、残すな」


黒瀬は小さく呟いた。

その瞬間、場内放送が鳴った。


『営業終了確認まで、あと一分です』


アピチャートが腕時計を見る。

午前三時五十九分。

秒針だけが、やけに大きく動いて見えた。


黒瀬はB-13の屋台に近づいた。

区画番号札を受け取らない距離で止まる。

屋台の奥に立つ顔のない店主が、ゆっくり首を傾けた。


黒瀬は言った。


「この店、何を売るんですか」


「黒瀬さん」


アピチャートが鋭く呼んだ。

返事をするな、と言った本人が質問したからだ。


だが、黒瀬は屋台ではなく、アピチャートを見た。


「今のは、商談じゃありません。確認です」


「違いがあるんですか」


「こっちから条件を確定しにいく分には、まだましです。向こうの呼び込みに乗る方が危ない」


「かなり細い線ですね」


「はい。労務管理より細いです」


顔のない店主が、ガラスケースの中を指さした。

空だったはずのケースの中に、ひとつずつ物が現れる。


黒瀬の名刺入れ。

黒瀬のボールペン。

成田空港の搭乗案内メールを表示したスマートフォン。

黒瀬の社員証のコピー。


すべてに、白い値札が貼られていた。


名刺入れ。

取引先情報込み。

十三バーツ。


ボールペン。

報告書作成履歴込み。

十三バーツ。


社員証。

所属部署込み。

十三バーツ。


アピチャートが息を呑んだ。


「あなたの物です」


「ですね」


「いつ取られたんですか」


「まだ取られてません」


黒瀬は自分の胸ポケットを軽く叩いた。

名刺入れは、そこにある。

ボールペンもある。

スマートフォンも、社員証もある。


だがガラスケースの中にも、それらは並んでいた。


「先に商品棚を作って、後から現物を合わせるタイプですね」


「そんな店がありますか」


「会社の資料には、たまにあります」


黒瀬はケースの奥を見た。

そこに、ニラン・チャイワットの警備員証がある。

白い値札。

巡回記録込み。

十三バーツ。


その隣に置かれていたスマートフォンの画面が、また光った。


助けて。


文字はすぐに消えた。

代わりに、別の通知が浮かび上がる。


売上処理中。


「ニランさんは、まだ在庫扱いですか」


黒瀬は言った。


顔のない店主は答えない。

ただ、区画番号札を差し出し続けている。


B-13。


受け取れば、たぶん開店する。

開店すれば、閉店確認が来る。

閉店確認に間に合わなければ、残ったものは処分される。


黒瀬は市場の通路を振り返った。

左右の屋台には、商品が並んでいる。


古着の山。

スマートフォン。

腕時計。

サングラス。

靴。

古いバッグ。

子ども用の玩具。

割れた食器。

プラスチック椅子。


どれも、ただの中古品に見える。

だが、よく見ると値札の書き方がおかしかった。


着用履歴込み。

勤務先込み。

家族写真込み。

暗証番号込み。

右足の疲労込み。

最後の通話込み。


物ではない。

持ち主の生活ごと、値段がついている。


「アピチャートさん」


「はい」


「この市場の管理事務所は?」


「中央通路の奥です。昔の出店者管理室が残っています」


「行きましょう」


「B-13は?」


「開店前に、仕入れ元を確認します」


黒瀬が歩き出すと、B-13の屋台の奥で、顔のない店主が首をゆっくり回した。

紙のような顔面に、初めて切れ目が入る。


口だった。


『閉店確認をお願いします』


場内放送と同じ声で、店主が言った。


黒瀬は振り返らなかった。


「まだ開けてません」



旧管理事務所は、市場の中央通路の突き当たりにあった。


小さなプレハブの建物だった。

外壁は煤け、窓ガラスには古いポスターが貼りついている。

ポスターには、閉鎖前の夜市の写真が印刷されていた。


人で埋まった通路。

派手な看板。

笑う観光客。

串焼きを焼く店主。

プラスチック椅子に座る若者たち。

腕時計を並べた老人。

山積みの古着。


写真の中だけ、市場はまだ生きていた。


黒瀬はドアノブに触れず、まずガラス越しに中を覗いた。

机。

棚。

古い扇風機。

錆びたロッカー。

壁に貼られた区画図。

そして、机の上に置かれた分厚い名簿。


電気は通っていないはずだった。

だが、天井の蛍光灯が一本だけ点いている。

白い光が、ジジ、と不規則に揺れていた。


「開けます」


アピチャートが鍵を出そうとした。


その前に、内側から鍵が回った。


かちゃり。


二人とも動かなかった。

ドアが、少しだけ開く。


中から、冷えた空気が流れてきた。

外の湿った熱気とは違う。

古い紙とカビと、消えた火の匂い。


黒瀬は小さく息を吐いた。


「歓迎されてますね」


「そういう言い方は、やめた方がいいと思います」


「俺もそう思います」


二人は中に入った。


管理事務所の壁には、古い区画番号がびっしり貼られていた。

A-01からD-42まで。

赤い丸がついた区画。

黒い線で消された区画。

空欄の区画。


黒瀬は壁の区画図を見た。


B-13。


そこだけ、紙が何重にも貼り重ねられている。

古い番号札の上に、新しい番号札。

その上に、退去済みの判子。

さらにその上に、未退去の赤い印。

どれが最新なのか分からない。


「B-13は、何の店だったんですか」


アピチャートは棚から古いファイルを取り出した。


「最初は時計店です。チャルーン時計店。古い腕時計やラジオを扱っていました。その後、息子が中古スマートフォンの店に変えた、と資料にはあります」


「資料には」


「実際には、さらに又貸しされていた可能性があります。閉鎖時の出店者は、名簿上の人物とは別だったかもしれません」


黒瀬は机の上の名簿を開いた。


表紙には、タイ語と英語でこう書かれている。


出店者名簿。

営業許可および退去確認台帳。


ページをめくる。

手書きの名前。

区画番号。

品目。

支払状況。

営業許可日。

退去予定日。


古いインク。

新しいボールペン。

修正液。

判子。

付箋。

誰かが何年も使い続けた、面倒な書類の匂いがした。


「きれいじゃないですね」


黒瀬は言った。


「はい」


アピチャートは頷いた。


「でも、これが本来の市場です。実際の市場は、きれいな一覧表にはなりません」


黒瀬はページをめくった。

B-13のページで、手が止まる。


チャルーン時計店。

取扱品目、時計、ラジオ、中古機器。

営業許可、更新未了。

退去確認、未確認。


その下に、別の筆跡がある。


退去済み。


さらにその下。

別紙へ移行。


別紙を探すと、そこには別の名前が並んでいた。

三人。

四人。

五人。

だが、どの名前にも写真がない。

署名欄は空白。

代わりに、退去確認済みの判子だけが押されている。


「本人署名がない」


黒瀬が言った。


「閉鎖作業が急がれていました。補償金の支払い確認と退去確認を、後からまとめた資料もあります」


「まとめた」


「はい」


「便利な言葉ですね」


黒瀬はさらに別紙をめくった。

最後のページに、残置物処分リストがあった。


B-13。

残置物。

ガラスケース一台。

折りたたみ椅子二脚。

腕時計四十七点。

中古スマートフォン十二台。

小型扇風機一台。

身元未確認品一式。


その下に、細い文字で追記がある。


人影一名。


黒瀬の目が細くなった。


「これ、誰が書いたんですか」


「分かりません。正式なリストにはありません」


「でも原本にはある」


アピチャートは言葉に詰まった。


その時、彼のスマートフォンが震えた。


画面に通知が出ている。


QR決済受領。

支払先、APICHART TRANSLATION SERVICE。

売上、十三バーツ。


「……何ですか、これ」


アピチャートの声が低く震えた。

スマートフォンを持つ手首に、白いシールが貼りついている。


通訳料込み。

十三バーツ。


黒瀬がすぐに言った。


「剥がさないでください」


「剥がしたいです」


「気持ちは分かります。でも、たぶん剥がすと確定します」


アピチャートは唇を噛んだ。


スマートフォンに、次の通知が出る。


共同出店者登録中。

区画、B-13。

役割、通訳。

営業状態、開店準備中。


管理事務所の外で、屋台の灯りが一段明るくなった。

市場の喧騒が近づいてくる。


『売って』

『並べて』

『残すな』

『閉めろ』

『閉めるな』


相反する言葉が混ざっている。

市場は営業したがっているのか。

閉店したがっているのか。


黒瀬は名簿を閉じなかった。

B-13のページ、残置物処分リスト、退去確認書。

三つを机の上に並べる。


「見えてきました」


アピチャートが手首の値札を見つめたまま、顔を上げる。


「何がですか」


「この市場は、客を呼んでるんじゃない」


蛍光灯が一度、強く瞬いた。


「店を増やしてるんでもない。いや、結果としては増やしてますけど」


黒瀬はB-13の退去確認欄を指した。


「本来、閉店するには出店者本人の退去確認が必要だった。区画を返して、残置物を確認して、営業許可を終了する。普通の手続きです」


「はい」


「でも、実際には本人がいない区画があった。名簿上の出店者と実際の店主が違ったり、又貸しだったり、署名が取れなかったり、そもそも誰が使っているか分からなかったり」


黒瀬は残置物リストの追記を指で叩いた。


人影一名。


「それを、まとめて退去済みにした」


アピチャートは何も言わなかった。


外の屋台から、値札を貼る音がした。


かちり。

かちり。

かちり。


「退去していない人間を、退去済みにした。残っている人間を、残置物にした。未確認のまま処分した」


黒瀬の声は、いつもより少しだけ低かった。


「だから、この市場は終われない」


場内放送が鳴った。


『営業終了確認まで、あと三十秒です』


アピチャートのスマートフォンに、また通知が出る。


閉店確認をお願いします。

はい。

いいえ。


彼の指が、画面へ引き寄せられた。

黒瀬がスマートフォンを押さえる。


「押さない」


「手が、勝手に」


「こういう確認ボタン、会社でも押したくなりますからね」


「今、その話をしますか」


「はい。たぶん、かなり近いです」


黒瀬はスマートフォンを机に伏せた。

画面が下になっても、通知音だけは鳴り続ける。


ぴん。

ぴん。

ぴん。


閉店確認をお願いします。

閉店確認をお願いします。

閉店確認をお願いします。


「黒瀬さん」


アピチャートの声が震えた。


「このままだと、私は」


「共同出店者ですね」


「冗談に聞こえません」


「冗談じゃないです」


黒瀬は名簿を持ち上げた。


「戻ります。B-13へ」


「危険では」


「危険です。でも、向こうが閉店確認を始めるなら、こっちも確認しないと」


「何を」


「この店が、本当に開いているのか」



B-13の屋台は、さっきより完成していた。


空だったガラスケースには、黒瀬の名刺入れとボールペンが並んでいる。

アピチャートのIDカードのコピーもあった。

黒瀬の社員証コピーの隣には、ニランの警備員証。

さらに奥には、見知らぬ腕時計が何十本も並んでいた。

古いものから新しいものまで、針が全部、午前三時五十九分で止まっている。


屋台の看板は、変わっていた。


KUROSE TORU SHOP

APICHART TRANSLATION SERVICE


「共同経営になってますね」


黒瀬が言った。


「まったく嬉しくありません」


「俺もです。会社以外で共同経営は荷が重い」


顔のない店主は、もう屋台の外に出ていた。

店主は区画番号札を両手で差し出している。

まるで、引き継ぎを待っているようだった。


場内放送が鳴る。


『営業終了確認を開始します』


市場中の屋台から、声が上がった。


閉店します。

残っていません。

退去しました。

処分してください。

まだいます。

ここにいます。

残っています。


声は、何層にも重なっていた。

閉店を急ぐ声と、閉じ込められた声。

片づける側と、片づけられる側。


黒瀬はB-13の屋台の前に立った。


「確認します」


顔のない店主が、動きを止めた。


黒瀬は名簿を開く。

B-13。

チャルーン時計店。

退去未確認。

残置物、人影一名。


次に、退去確認書を開く。

B-13。

退去済み。

本人署名、なし。


最後に、残置物処分リスト。

ガラスケース。

椅子。

腕時計。

中古スマートフォン。

身元未確認品一式。

人影一名。


「この市場は、閉店したいんじゃない」


黒瀬は言った。


「閉店したことにしたいだけです」


ネオンが揺れた。

顔のない店主の紙のような顔に、いくつもの裂け目が入る。

口。

目。

また口。

どれも別々の声で喋り始める。


『退去済み』

『確認済み』

『残置物』

『処分』

『営業終了』


「でも実際には、退去確認が取れていない区画が残っていた。誰が店主か分からない。誰が物を置いたか分からない。誰がまだ残っているか分からない」


黒瀬はB-13の区画札を見た。


「だから、新しい人間を登録する。出店者にして、商品を並べて、閉店時刻に残っていれば残置物として処分する」


アピチャートの手首の値札が、じわりと黒く染まる。


共同出店者。

退去未了。

処分予定。


アピチャートが顔を歪めた。


「黒瀬さん」


「大丈夫です」


「大丈夫に見えません」


「見えない時ほど、だいたい大丈夫じゃないです」


「それは安心できません」


黒瀬は少しだけ口元を緩めた。

そしてすぐ、顔を戻した。


「商売には、売る側の意思が要る」


場内放送が乱れた。


ざり。

ざり。


「出店には、申請が要る。区画の引き渡しが要る。営業許可が要る。少なくとも、値札を貼っただけで人間は店主になりません」


B-13のガラスケースが震えた。

中に並んだ名刺入れが、かたかたと音を立てる。


「そして退去確認には、退去した本人が要る。署名もない。本人確認もない。残っていた人間を、残っていないことにしている」


市場の奥で、無数のシャッターが一斉に下りる音がした。

がらん。

がらん。

がらん。


だが目の前の屋台は閉まらない。


「一番まずいのは」


黒瀬の声が、さらに静かになる。


「人間を、残置物にしていることです」


その瞬間、黒瀬の首筋に触れていた刃が、すっと離れた。


代わりに、市場の床下から重い金属を引きずる音が響いた。


ずるり。


濡れたアスファルトが、見えない重みに沈む。


ずるり。


屋台の電球が、一つずつ割れた。

だが暗くならない。

割れた光の奥から、もっと冷たいものが立ち上がる。


地獄の刑吏長。

アラストル。


不可視の巨大な処刑鉈が、市場の中央通路に構えられる。

見えない刃の輪郭だけが、ネオンの光を歪ませていた。


顔のない店主たちが、一斉に黒瀬を見る。

市場中の声が、恐怖と怒りと売り声を混ぜて叫んだ。


『閉店確認を』

『退去済み』

『残せない』

『売らないと』

『処分』

『処分』

『処分』


黒瀬は名簿を片手に持った。


「罪状確定」


B-13の区画札に、亀裂が入る。


「出店者登録の偽造。本人不在の退去確認。生者の残置物化」


アピチャートの手首の値札が、黒く燃えるように熱を持った。

彼は歯を食いしばる。


「アラストル」


市場全体の音が消えた。


油の跳ねる音も。

呼び込みも。

小銭も。

QR決済の通知音も。

電飾の唸りも。


黒瀬は最後の一言を落とした。


「執行」


不可視の処刑鉈が、振り下ろされた。


切ったのは、屋台ではなかった。

市場でもなかった。

顔のない店主たちでもなかった。


出店者名簿に勝手に名前を追記し、未退去区画に生者を登録し、閉店時刻に残ったものとして処分する、その手続きだった。


まず、B-13の区画札が真っ二つに割れた。

次に、黒瀬の靴に貼りついていた値札が裂ける。

アピチャートの手首のシールも、音もなく切れた。

スマートフォンに並んでいた通知が、一斉に消える。


閉店確認をお願いします。

その文字だけが、黒い煙になって剥がれた。


市場中の値札が舞い上がる。

古着に貼られた値札。

腕時計に貼られた値札。

スマートフォンに貼られた値札。

靴。

バッグ。

社員証。

警備員証。

名刺入れ。


白い値札は空中で裂け、ただの紙片になって降った。


顔のない店主たちが、屋台の奥で崩れていく。

だが、消える直前、いくつかの影には顔が戻った。


しわの深い老人。

若い男。

疲れた顔の女。

少年のように細い青年。

誰も黒瀬を見なかった。

彼らは、自分の屋台を見た。

空になった棚を見た。

切れた区画札を見た。


そして、ひとりずつシャッターを下ろすように、静かに姿を薄くしていった。


最後に残ったのは、B-13の奥にいた店主だった。

紙のような顔が裂け、古い男の顔が現れる。

片目が白く濁った、痩せた老人だった。

彼はガラスケースの中の腕時計を一つ取り上げた。


時計の針が、初めて動く。


午前四時。


老人は黒瀬に何かを言った。

タイ語だった。

黒瀬には分からない。


アピチャートが、震える声で訳した。


「……もう、閉めていいか、と」


黒瀬は少しだけ目を伏せた。


「はい」


市場の奥で、場内放送が鳴った。


『本日の営業は、終了しました』


それは、初めてただの放送のように聞こえた。


次の瞬間、すべての灯りが消えた。



朝が来る頃、旧サパーン・クレット・ナイトマーケット跡地は、ただの再開発予定地に戻っていた。


錆びたフェンス。

骨組みだけの屋台。

破れた布屋根。

雨ざらしの看板。

油染みの残るアスファルト。

運河の湿った匂い。


それ以上でも、それ以下でもない。


消えていた警備員ニラン・チャイワットは、B区画の外れで見つかった。

古いガラスケースの横に倒れていた。

意識は朦朧としていたが、生きていた。


彼は、救急隊員に同じことを繰り返したらしい。


「閉店まで、店を見ていた」


アピチャートはフェンスの前で、その報告を聞いていた。

スマートフォンの画面には、もうQR決済の通知はない。

手首の値札も消えている。

ただ、薄い赤い跡だけが残っていた。


「彼らは、閉店できたのでしょうか」


アピチャートが言った。


黒瀬は市場跡地を見た。


「少なくとも、誰かを新しい在庫にしなくてもよくなったと思います」


「それは、救いですか」


「不動産案件としては、かなりましです」


「あなたの基準は、ときどき分かりません」


「俺も、たまに分からなくなります」


黒瀬は足元に落ちていたものを拾った。

白い区画番号札だった。


B-13。


割れている。

もう効力はない。

ただのプラスチック板だ。


そう思った瞬間、裏面に黒い文字が浮かび上がった。


臨時出店者、黒瀬透。

取扱品目、未確定罪状。

販売価格、■■■■。

執行猶予:継続。


黒瀬の首筋に、不可視の刃が戻った。

いつもの位置。

皮膚一枚の上。

いつでも落とせる場所。


ただ、今回は刃の根元にある黒い紋様が、値札を貼られた時のように、じわりと熱を持った。


処刑人の印。


アピチャートが、黒瀬の手元を見た。


「何か、書かれていますか」


黒瀬は区画札を裏返し、ポケットに入れた。


「ただの閉店確認です」


「本当ですか」


「かなり薄めると」


アピチャートは疲れたように笑った。

昨日より、少しだけ笑い方が自然だった。


遠くで、朝の屋台が店を開け始めている。

本物の屋台だ。

炭火に火が入り、袋入りのコーヒーが並び、通勤前の人々が足を止める。

バンコクの街は、何事もなかったように朝の商売を始めていた。


黒瀬はそれを見て、短く息を吐いた。


「帰国便、また変えないと」


「申し訳ありません」


「いえ」


黒瀬はスマートフォンを取り出した。

画面には、航空会社の予約変更ページが開いている。


その下に、見覚えのない通知が一件だけ残っていた。


購入履歴。

商品名、処刑猶予。

価格、未払い(・・・)


黒瀬はしばらく画面を見つめた。

それから、通知を閉じる。


「市場でも空港でも、未払いは追ってくるんですね」


誰も答えなかった。


フェンスの向こうで、風が吹いた。

閉鎖された夜市の奥から、小さな鈴の音が一度だけ聞こえた。


―――ちりん。


それきり、市場は沈黙した。

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