【前編】旧サパーン・クレット・ナイトマーケット跡地-閉店後の出店者名簿
深夜三時五十九分。
旧サパーン・クレット・ナイトマーケット跡地の場内放送が、三年ぶりに鳴った。
『本日の営業は、まだ終了していません』
閉鎖済みの市場に、客はいない。
屋台もない。
少なくとも、警備会社から派遣されたニラン・チャイワットは、そう聞かされていた。
高架道路の下に広がるその土地は、かつてバンコクでも有名な夜市だった。
古着、古い腕時計、中古スマートフォン、ムエタイ柄のTシャツ、安いサングラス、串焼き、パッタイ、甘いタイティー。
観光客も地元の若者も、夜になるとこの狭い通路にあふれたという。
今は違う。
フェンスは錆び、電飾看板は外され、屋台の骨組みだけが雨ざらしになっている。
アスファルトには黒い油染みが残り、ところどころに破れたビニールシートが絡んでいた。
解体予定地。
再開発用地。
関係者以外立入禁止。
ニランの仕事は、そこを朝まで見回ることだった。
『繰り返します。本日の営業は、まだ終了していません』
「……何だよ」
ニランは懐中電灯を握り直した。
放送設備の電源は落ちている。
管理事務所のブレーカーも切られている。
この市場には、もう電気が通っていないはずだった。
なのに、通路の奥で、ひとつの看板が点いた。
赤。
青。
紫。
安っぽいネオンの光が、湿った空気の中でぼやける。
次に、鉄板の音がした。
じゅう、と油が跳ねる音。
ナムプラーの匂い。
焼けた肉の甘い匂い。
ライムを絞ったような、酸っぱい匂い。
ニランは足を止めた。
夜市の匂いだった。
「誰かいるのか」
返事はなかった。
代わりに、細い通路の両側で、屋台の明かりが一斉に点いた。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
布の屋根。
プラスチック椅子。
古いガラスケース。
山積みになったサンダル。
色褪せたTシャツ。
電球に群がる虫。
そのすべてが、閉鎖前の夜市みたいに並んでいる。
だが、人だけがいなかった。
屋台の奥に立っているものは、店主の形をしていた。
エプロンをつけ、手を動かし、商品を並べている。
けれど顔がない。
目も鼻も口もなく、湿った紙袋を被せたように、ただ平らだった。
その一体が、ニランの方へ手招きした。
『見ていって』
タイ語だった。
だが、声は屋台の中からではなく、場内放送のスピーカーから聞こえた。
ニランは後ずさった。
逃げようとした時、足元で何かが鳴った。
かちり。
値札を貼る音だった。
彼の胸元にぶら下がっていた警備員証に、いつの間にか白い値札シールが貼られていた。
巡回記録込み。
十三バーツ。
「やめろ……」
ニランは警備員証を引きちぎろうとした。
だが、シールは剥がれない。
それどころか、値札の下に新しい文字が印字されていく。
区画番号、B-13。
出店者名、ニラン・チャイワット。
営業状態、開店準備中。
通路の奥で、誰かが笑った。
複数の声だった。
男の声。
女の声。
老人の声。
子どもの声。
客引きの声。
値切る声。
袋を破る音。
小銭の落ちる音。
その全部が、ひとつの市場みたいに重なっていた。
『店を開けて』
ニランは叫んだ。
その声は、市場の喧騒に飲み込まれた。
翌朝、旧サパーン・クレット・ナイトマーケット跡地のフェンス前で、ニランの懐中電灯だけが見つかった。
電池は切れていなかった。
ライトは、まだ市場の奥を照らしていた。
そして閉鎖済みのガラスケースの中には、彼の警備員証が置かれていた。
白い値札つきで。
◇
未完高層コンドミニアムの件は、社内的には片づいたことになっていた。
かなり薄めた報告書は送信済み。
祠の再移設については、アピチャートが現地の専門家と僧侶の手配を進めている。
ノクティス・タイ現地法人の仮設事務所では、昨日の騒ぎが嘘のように、コピー機が紙を吐き、誰かの電話が鳴り、空調が頼りない音を立てていた。
黒瀬透は、その一角の来客用ソファに座っていた。
帰国便まで、まだ時間がある。
正確には、時間があるのではなく、会社員らしく中途半端に余っていた。
空港へ向かうには早い。
観光するには疲れている。
寝るには短い。
つまり、何かに巻き込まれるにはちょうどいい。
「黒瀬さん」
その嫌な予感を、アピチャート・スラサックが丁寧に形にした。
昨日の高層コンドミニアム案件で、黒瀬を案内した現地担当者である。
白いシャツの袖は今日も肘までまくられていたが、顔色は昨日とは違っていた。
怯えている。
だが、ただ怯えているだけではない。
何かを先に知ってしまった人間の顔だった。
「帰国前に、確認をお願いしたい資料があります」
黒瀬はソファに座ったまま、少しだけ目を細めた。
「確認だけで終わった確認、俺の業務履歴にほとんどないんですが」
「分かっています」
「分かっている顔ですね」
「はい」
アピチャートは薄いファイルを差し出した。
表紙には、英語とタイ語で物件名が書かれている。
旧サパーン・クレット・ナイトマーケット跡地。
退去確認および残置物処分資料。
黒瀬は無言でその文字を見た。
「昨日の物件とは、別件です」
「別件という言葉、最近あまり信用していません」
「同じ投資グループが関わっています。ノクティスは土地整理と商業施設化の管理を担当しています」
「それは、かなり別件じゃないですね」
黒瀬はファイルを開いた。
市場跡地の区画図。
屋台の配置表。
旧営業許可台帳。
退去確認書。
残置物処分リスト。
不動産会社の資料としては、珍しくない。
むしろ、古い市場の再開発なら当然必要になる書類だった。
問題は、その最後のページにあった。
出店者名簿。
区画番号、B-13。
臨時出店者、黒瀬透。
営業状態、開店中。
退去確認、未了。
黒瀬はしばらく黙った。
「俺、屋台出した覚えないんですが」
「私も、あなたが出店した記録は知りません」
「知っていたら、それはそれで困ります」
黒瀬はページを指で押さえた。
紙は普通のコピー用紙だ。
インクも普通に見える。
だが、名前の周囲だけが妙に黒い。
紙の繊維の奥に、煤のようなものが染み込んでいる。
首筋に、冷たい刃が触れた。
見えない。
けれど、確かにそこにある。
黒瀬透の首に、常に添えられている不可視の処刑刃。
悪魔由来の怪異に近づくと、その刃は反応する。
昨日もそうだった。
一昨日も、その前も。
最近、反応が少し勤勉すぎる。
黒瀬は首元を軽く掻いた。
「この市場で何が?」
アピチャートは一度だけ目を伏せた。
「警備員が一人、消えました。昨夜です」
「警察は?」
「入っています。ただ、現場には争った痕跡がない。監視カメラも、午前三時五十九分から四時までの一分だけ映像が乱れています」
「三時五十九分」
黒瀬は、冒頭の資料にあった時刻をもう一度見た。
場内放送作動記録。
三時五十九分。
営業終了確認ログ。
四時ちょうど。
閉鎖済みの市場に残っていた、あり得ない記録。
「その時間に、何かが起きるんですね」
「おそらく」
「今から行けば早すぎる」
「はい。日中は、ただの跡地です。警察も、弊社の現地スタッフも確認しました。屋台も電気もありません。けれど昨夜、警備員はその一分で消えました」
「つまり、三時五十九分に合わせて行けと」
「お願いする立場ではありません」
アピチャートの声は低かった。
「ですが、この名簿にあなたの名前があります。私が見なかったことにしても、たぶん……」
「後で面倒になる」
黒瀬が言うと、アピチャートは黙って頷いた。
窓の外では、バンコクの夕方が濃くなり始めていた。
高架道路の下をバイクが流れ、歩道の屋台には明かりが入り、炭火で焼かれる豚串から甘い煙が上がっている。
街は夜に向けて、少しずつ温度を変えていく。
黒瀬はファイルを閉じた。
「分かりました。三時半に現地入りしましょう」
「帰国便は」
「ずらします」
「申し訳ありません」
「いえ。ここまで来ると、帰国便の方が怪異に合わせてくれないのが悪いです」
アピチャートは返事に困った顔をした。
昨日より少しだけ、黒瀬の言い方に慣れてきている顔でもあった。
「それまで、資料を見せてください。市場の閉鎖経緯、退去交渉、残置物処分リスト。あと、消えた警備員の巡回ルート」
「用意しています」
「助かります」
黒瀬はファイルを鞄に入れた。
「三時五十九分に営業する市場なら、閉店前に行かないと」
◇
出発一時間前に再度落ち合い、黒瀬とアピチャートは仮設事務所で資料を確認した。
旧サパーン・クレット・ナイトマーケット。
高架道路の下、運河沿い、古い倉庫群の隣にあった夜市。
かつては、夕方から深夜まで人が途切れなかったという。
古着。
古い腕時計。
中古スマートフォン。
ムエタイ柄のTシャツ。
安いサングラス。
串焼き。
パッタイ。
甘いタイティー。
袋入りのジュース。
プラスチック椅子の食堂。
スピーカーから流れる古い流行歌。
観光客向けの英語看板と、地元客向けのタイ語の手書き札。
「この市場も、昔は有名でした」
アピチャートは区画図を広げながら言った。
「観光客も来ましたが、地元の人も多かった。店は小さくても、ここで何年も商売していた人がいます。家賃を払って、家族を食べさせて、子どもを学校へ行かせていた」
「再開発には向かない場所ですね」
「ええ。とても」
アピチャートは短く答えた。
「再開発に向いている場所は、たいてい人が少ない場所です。人が多い場所ほど、書類が増えます」
「人が多いと、生活がありますからね」
「はい」
退去確認書は、やけに整っていた。
整いすぎていた。
全区画、退去済み。
残置物、確認済み。
営業許可、終了済み。
補償金、支払済み。
きれいな言葉が並んでいる。
だが、添付写真の中には、閉鎖日の翌日にも営業しているように見える屋台があった。
シャッターは半分開き、奥に人影が写っている。
それでも書類上は、退去済みになっていた。
黒瀬はその写真を指で軽く叩いた。
「この人は?」
「分かりません。出店者名簿と照合しましたが、一致しませんでした」
「名簿にない店主」
「はい。古い市場では珍しくありません。親の代から使っていた区画、又貸し、口約束、日払い。書類上の出店者と、実際に店を出していた人が違うことがあります」
「なるほど」
「だから、整理が難しかった」
「難しかったものを、簡単にしたんですね」
アピチャートは否定しなかった。
「はい」
深夜二時四十分。
二人は事務所を出た。
外の空気は、まだ熱を持っていた。
バンコクの夜は、簡単には冷えない。
道路にはタクシーとバイクが残り、屋台の明かりはまばらになっている。
それでも、完全には眠らない街だった。
車は高架道路を抜け、運河沿いの道へ入った。
水面は黒く、ところどころにネオンの色を映している。
運河の向こうには、低い倉庫の屋根が並んでいた。
古い看板。
錆びたシャッター。
半分剥がれた広告。
その奥に、高いフェンスで囲まれた広い敷地がある。
旧サパーン・クレット・ナイトマーケット跡地。
到着したのは、午前三時二十八分だった。
フェンスには、ノクティス・グローバル不動産の仮設看板が取り付けられている。
その下に、タイ語と英語でこう書かれていた。
商業複合施設建設予定地。
関係者以外立入禁止。
黒瀬は車を降りた。
湿った熱気が、すぐにスーツの内側へ入り込んでくる。
昨日の高層コンドミニアムの上層階とは、まるで違う空気だった。
ここは地上だった。
熱、油、泥、水、錆、犬の匂い。
人が暮らしていた場所の匂いが、まだ残っている。
フェンスの向こうは暗い。
屋台の骨組みが、黒い影になって並んでいた。
ところどころに破れた布屋根が垂れ、風が吹くたびに小さく揺れる。
通路の中央には、色褪せた看板が落ちていた。
MANGO SHAKE。
THAI TEA。
VINTAGE WATCH。
SECOND HAND PHONE。
英語が混ざっている。
観光客向けの名残だろう。
「警備員が消えたのは、どのあたりですか」
「奥のB区画です」
アピチャートはフェンスの鍵を開けながら答えた。
「古着と中古スマートフォンの店が多かった場所です。あと、小さな食堂もありました」
「B-13は?」
アピチャートは一瞬だけ動きを止めた。
「その区画です」
「やっぱり」
鍵が開いた。
フェンスの扉が、軋みながら内側へ動く。
黒瀬は腕時計を見た。
午前三時三十一分。
「まだ二十八分ありますね」
「待ちますか」
「中で待ちましょう。発動前の状態も見たいので」
「危険では」
「危険です」
黒瀬は市場の奥を見た。
「でも、三時五十九分に何が変わるのか見ないと、たぶん分かりません」
アピチャートは小さく息を吐いた。
そして頷いた。
「分かりました」
「アピチャートさん」
「はい」
「中で声をかけられても、返事しないでください」
「分かっています」
返事が早かった。
昨日の経験が、ちゃんと役に立っている。
黒瀬は少しだけ感心した。
「あと、物を受け取らない。値段を聞かない。商品に触らない。写真を撮る時は、俺が確認してから」
「はい」
「買い物もしない」
「する余裕はありません」
「分かりませんよ。夜市は誘惑が多いので」
アピチャートは緊張した顔のまま、少しだけ眉を寄せた。
「冗談ですか」
「半分くらいは」
黒瀬はフェンスをくぐった。
足元のアスファルトは、まだ昼の熱を残していた。
だが、市場の中へ一歩入ると、空気が少しだけ変わる。
外の車の音が遠くなった。
代わりに、別の音が近づいてくる。
袋を開ける音。
油の跳ねる音。
小銭を数える音。
ハンガーが金属の棒に当たる音。
閉鎖済みの市場に、あるはずのない音だった。
黒瀬は通路の奥へライトを向けた。
屋台の列が、闇の中に続いている。
骨組みだけのはずの店に、いつの間にか布がかかっていた。
破れた電飾が、細く光っている。
一軒。
また一軒。
通路の両側で、屋台の灯りが点いていく。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
アピチャートが、小さくタイ語で何かを呟いた。
祈りの言葉かもしれない。
黒瀬は前方を見たまま言った。
「今のは、返事じゃないですよね」
「違います」
「なら大丈夫です」
市場の奥から、声がした。
『見ていって』
柔らかい女の声だった。
すぐに、別の男の声が重なる。
『安いよ』
さらに、老人の声。
『今日はいいものがある』
声は全部タイ語だった。
だが意味だけは、不思議と分かる。
耳ではなく、看板や値札や電球の明滅が、意味を伝えてくるようだった。
黒瀬は黙って進んだ。
左側の屋台には、古着が並んでいる。
派手なシャツ。
擦り切れたジーンズ。
ムエタイのパンツ。
観光客向けの象柄ズボン。
どれも湿っていて、誰かがさっきまで着ていたような重みがあった。
右側のガラスケースには、中古スマートフォンが並んでいる。
画面はすべて点いていた。
電源が入っている。
充電ケーブルはない。
その一台の画面に、文字が浮かんだ。
助けて。
アピチャートが息を呑む。
黒瀬は近づきすぎない位置で止まった。
スマートフォンには、白い値札が貼られていた。
通話履歴込み。
十三バーツ。
その横に、警備員証が置かれている。
名前は、ニラン・チャイワット。
写真の中の男は、眠そうな目でこちらを見ていた。
その警備員証にも値札がある。
巡回記録込み。
十三バーツ。
「昨夜の警備員です」
アピチャートの声が低くなった。
「でしょうね」
「生きていると思いますか」
「まだ、値札だけなら」
黒瀬はガラスケースの奥を見た。
顔のない店主が立っている。
紙袋のように平らな顔。
手だけが忙しなく動き、スマートフォンを一台ずつ磨いている。
その手が止まった。
店主は、ゆっくりと黒瀬の方へ首を向けた。
『いくらにする?』
黒瀬は答えなかった。
『いくらにする?』
今度は日本語だった。
アピチャートが黒瀬を見た。
黒瀬は片手を軽く上げ、黙っていろと示す。
『いくらにする?』
声は近づいてくる。
ガラスケースの内側からではない。
市場中の屋台から、同じ問いが繰り返されている。
いくらにする。
いくらにする。
いくらにする。
黒瀬は足元を見た。
自分の靴の爪先に、白いものが貼りつきかけている。
値札シールだった。
黒瀬はしゃがまず、靴を軽く振った。
シールは剥がれない。
むしろ、黒い文字がにじみ始める。
区画番号、B-13。
臨時出店者、黒瀬透。
営業状態、開店準備中。
「なるほど」
黒瀬は小さく呟いた。
「俺は商品じゃなくて、店側ですか」
通路の奥で、ネオンが一斉に明滅した。
赤、青、紫。
濡れたアスファルトに、安っぽい光が伸びる。
その先に、一軒の屋台があった。
B-13。
白い区画札が、電球の下で揺れている。
屋台には、まだ何も並んでいない。
ただ、中央に空のガラスケースが置かれていた。
ケースの上には、小さな黒い看板。
KUROSE TORU SHOP
黒瀬はそれを見て、しばらく黙った。
「看板まで作られてる」
アピチャートの声が震えた。
「黒瀬さん、これは」
「はい」
黒瀬は眠そうな目のまま、B-13の屋台を見つめた。
「開店準備ですね」
腕時計の秒針が、三時五十九分へ近づいていく。
屋台の奥に、顔のない店主が一体立っていた。
いや、店主ではない。
店番を引き継ぐように、こちらへ場所を空けている。
その手には、白い区画番号札があった。
B-13。
店主はそれを差し出した。
『店を開けて』
黒瀬は受け取らなかった。
ただ、少しだけ首を傾ける。
「すみません」
市場の喧騒が、ぴたりと止まった。
黒瀬は静かに言った。
「副業申請、まだ出してないので」




