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バンコク未完高層コンドミニアム-赤い供物の家

バンコクの高層タワーで、人が三センチになった。


もちろん、医学的な意味ではない。


消えたノクティス現地スタッフは翌朝、三十二階のモデルルームに置かれた祠の中で見つかった。

小さなスーツ姿の人形として、赤い供物の横に、きちんと正座していた。


夜間警備員のソムチャイは、最初、それを悪趣味な冗談だと思った。


高層階のモデルルーム。

ガラス張りのリビング。

まだ誰も住んだことのないベッドルーム。

川の向こうには、湿った朝焼けに霞むバンコクの街並みが広がっている。


その一角に、場違いなものがあった。


小さな祠だった。


精霊のための家。

金色の屋根、細い柱、赤や黄色の花輪、供物皿。

そこに、赤い甘い飲み物の瓶が三本置かれている。


昨日までは二本だった。


祠の奥に、人形が一体増えている。

濃紺のスーツ、白いシャツ、小さな革靴。

首には、米粒ほどの社員証。


それでも、写真を拡大すれば分かった。


ノクティス・タイ現地法人、開発管理担当。

プラサート・チャイヤポン。


昨日の夜から行方が分からなくなっている男だった。


「……冗談だろ」


ソムチャイは震える手でスマートフォンを取り出し、プラサートに電話をかけた。


呼び出し音が鳴った。


廊下ではない。鞄の中でもない。モデルルームのどこかでもない。


祠の中からだった。


ちりりりり。


ちりりりり。


小さな人形の胸元で、米粒ほどの何かが淡く光っている。


ソムチャイは一歩、後ずさった。


その時、祠の奥から赤ん坊の泣き声がした。

薄く、かすれた声。

けれど、間違いなく人間の赤ん坊の声だった。


「誰か、いるのか」


そう言いかけて、ソムチャイは口を塞いだ。


祠の中の人形が、ゆっくりとこちらを向いたからだ。


人形なのに。

木でできているはずなのに。


胸だけが、かすかに上下していた。



黒瀬透は、休み方を知らない。


それは本人も薄々分かっていた。


横浜の旧第九号保税倉庫案件の後、谷本課長から午後休と翌日午前休を命じられた。命じられた、というより、ほぼ追い出された。


休め。

戻ってくるな。

顔だけ見せたら帰れ。


上司としては、かなりまともな命令だった。


ただし、黒瀬は会社員である。

会社員にとって「帰る」とは、業務が終わったことを意味しない。

メールが来る。

チャットが鳴る。


別部署の人間が、なぜか一階ロビーで待っている。


「黒瀬」


日本支社の自動ドアの前で、黒瀬は足を止めた。


声をかけてきたのは、海外開発企画部アジア開発室の葛西航平だった。

黒瀬と年齢は近い。

海外リゾートやサービスアパートメント開発に関わる、社内では表向き華やかな部署の人間である。


今の顔色は、その華やかさからかなり遠かった。


「休みじゃないのか」


「休みです」


「じゃあ、悪い。五分だけ」


「休みの人間から五分取るの、だいぶ重罪ですよ」


「本当に悪いと思ってる」


冗談の温度ではなかった。


葛西は周囲を見回し、スマートフォンを差し出した。


「タイ案件だ。バンコクの未完タワー。現地視察に、俺が行く予定だった」


「いいですね。休暇っぽい」


「休暇じゃない。で、現地からこれが来た」


画面には、モデルルームらしき部屋が映っていた。

高層階、夜景、ガラス窓、高級そうなソファ。

そして、その隅にある小さな祠。


祠の中には、スーツ姿の人形が一体座っている。


「昨日から、現地スタッフが一人消えた」


「警察は?」


「入ってる。でも事故とも事件とも判断できない。監視映像では、消えた社員がモデルルームに入った後、祠の前で立ち止まって、それっきりだ」


葛西は、もう一枚の画像を見せた。


祠の前。

赤い供物の横に、小さな木札が置かれている。


そこには、日本語でこう書かれていた。


お帰りなさい。

葛西航平様。


「俺、まだタイに行ってないんだぞ」


黒瀬は無言で画面を見た。


祠の奥に、もう一枚の小さな木札がある。

画像の解像度では、普通なら読めない。

だが、黒瀬には読めた。


黒瀬透。


首筋に、冷たい刃が触れた。

皮膚一枚の上を、薄い氷で撫でられるような感触。


「葛西さん」


「何だ」


「俺、今休暇中なんです」


「分かってる。本当に悪い」


「なので、これを引き受けると労務上かなりよくない」


「……すまん」


「あと、タイは暑い」


「そこか?」


「重要です」


黒瀬はスマートフォンを見つめた。


祠の中の影。

赤い供物。

人形の胸。

そして、自分の名前。


「でも、まあ」


黒瀬は鞄の持ち手を握り直した。


「行かない方が、後で面倒そうですね」


葛西の顔に、安堵と罪悪感が同時に浮かんだ。


「本当に、いいのか」


「よくはないです。休暇なので」


「助かる」


「助かったかどうかは、帰ってから判断してください」



黒瀬はロビーの自動ドアへ向かった。


外は、夕方の湿った風が吹いていた。首筋の刃は、まだ冷たい。


「休暇って、出張先を選べる制度じゃないんですけどね」


誰に言うでもなく、黒瀬はそう呟いた。



バンコクの夜は、熱を持っていた。


空港を出た瞬間、湿った空気がスーツの内側まで入り込んでくる。

高架鉄道の下を、車とバイクが途切れず流れていた。

屋台の油、甘い飲み物、雨上がりのアスファルト、排気ガス。

遠くで寺院の屋根が金色に光り、その手前に高層ビルのガラス壁が立っている。


古いものと新しいものが、遠慮なく同じ場所にある街だった。


迎えに来たのは、ノクティス・タイ現地法人のプロジェクトマネージャーだった。


「アピチャート・スラサックです。チャートで構いません」


四十代前半くらいの男性だった。

短く刈った髪。日に焼けた顔。

白いシャツの袖を肘までまくり、首から現場用のIDカードを下げている。


「日本から来ていただいて、申し訳ありません」


「休暇中だったので、むしろ会社にはいない扱いです」


「それは、よくないのでは」


「はい。よくないですね」


黒瀬がそう答えると、アピチャートは困ったように笑った。

だが、その目は笑っていなかった。


車は市街地を抜け、川沿いの開発地区へ向かった。

途中、黒瀬は窓の外を見ていた。

ビルの足元に、小さな祠がある。

ホテルの入口にも、商業施設の脇にも、高架の下にも。

赤い飲み物、花輪、線香、小さな家。


「祠、多いですね」


「ここでは、珍しくありません。土地や建物には、それぞれのものがいます。敬意を払うために、家を用意します」


「家」


「はい。飾りではありません」


その言い方に、少しだけ硬さがあった。


黒瀬は視線を戻した。


「今回、その飾りではないものを、飾りにした」


アピチャートは黙った。


やがて彼は、低く言った。


「止めました。本来の祠は、敷地入口にありました。工事車両の搬入に邪魔になるから、仮置きすることになった。そこまでは、まだ手順を踏めば何とかできたかもしれません」


「その後ですね」


「投資家向けのモデルルームで、タイらしさを見せたいと言われました」


黒瀬は少しだけ目を閉じた。


「嫌な言葉ですね」


「私もそう思います。祠の一部を、高層階のモデルルームへ移しました。花を置き、赤い飲み物を置き、写真を撮った。ローカル文化を取り入れた高級レジデンス、という資料に使うためです」


「不動産屋がやりそうな最悪ですね」


「ええ」


アピチャートは、川沿いにそびえる黒い建物を指した。


「それが、今回の物件です」


未完成の高層コンドミニアム。


下層階は養生シートに覆われ、上層階には未施工の暗い穴が残っている。

夜景の中で、そのタワーだけが妙に沈んで見えた。

敷地の隅には、コンクリートブロックの上に空っぽの台座がある。


「あそこに、祠がありました」


黒瀬は台座を見た。


何もない。


だが、何もない場所ほど、たまにうるさい。


「戻した方がよさそうですね」


「私もそう思います。ただ、現地の僧侶と専門家を呼ぶ前に、人が消えました」


「順番が悪いですね」


アピチャートはタワーを見上げた。


「今、祠は三十二階のモデルルームにあります」


黒瀬は首元に触れた。

刃は、さっきより少しだけ冷たい。


「高い家ですね」



三十二階のモデルルームは、完成済みに見えた。


白い大理石調の床。

ガラス張りのリビング。

川を見下ろすバルコニー。

高級そうなソファ。

ベッドルームには、まだ誰も使っていないはずの寝具が整えられている。


だが、黒瀬は部屋に入った瞬間、違和感を覚えた。


―――生活感がある。


ソファのクッションが沈んでいる。

ベッドの片側に、誰かが横になったような皺がある。

ダイニングテーブルの椅子が、一脚だけ引かれている。

キッチンのシンクに、水滴が残っている。


未入居のモデルルームにあるべきではない、人の気配。


それも、住んでいる人間の気配ではない。


住もうとしている何かの気配だった。


「ここです」


リビングの隅に、祠があった。

精霊のための小さな家。

金色の屋根。

細い柱。

花輪。

線香立て。

赤い供物の瓶が三本。


その奥に、小さな人形が座っている。


スーツ姿。

首から社員証。


プラサート・チャイヤポン。


黒瀬は近づきすぎない場所で足を止めた。


「触りましたか」


「いいえ。警察も、最小限の確認だけです」


「供物は?」


「今朝、増えていました。誰も置いていません」


黒瀬は祠の前の床を見た。


小さな足跡がある。

子どもの裸足の跡。

濡れている。

水ではない。

赤い供物が薄く伸びたような、甘い匂いのする液体だった。


その時、部屋の奥から赤ん坊の泣き声がした。


アピチャートの肩が跳ねる。


「まただ」


「返事しないでください」


黒瀬は短く言った。


泣き声は、ベッドルームの方から聞こえていた。

細い。

弱い。

助けを求めるような声。


「子どもが」


「はい」

「本当に、子どもがいるように聞こえます」

「聞こえるようにしているんでしょうね」

「している?」

「まだ分かりません。でも、こちらから声をかけるのは危ない」


泣き声が止まった。


代わりに、女の声がした。


タイ語だった。


黒瀬には意味が分からない。

だが、アピチャートの顔色が変わった。


「何と言っていますか」

「……帰ってきたの、と」


リビングの空気が、少し重くなった。


祠の中で、赤い供物の瓶がかすかに揺れる。

瓶の液面に、黒いものが映った。


舌のようだった。


薄く長い黒い舌が、液体の中から瓶の内側をなぞる。


ぬるり。


黒瀬は眉をひそめた。


「祠に、舌は普通ないですよね」

「ありません」

「ですよね」


赤ん坊の泣き声が、またした。


今度はベッドルームではない。


祠の中だ。


黒瀬は祠を見た。


奥の暗がり。

人形の背後。

そこに、小さな目がいくつも開いていた。


アピチャートが低く呟く。


「ピー・ポープ……」

「何ですか」

「人に憑き、腹の中を食う悪霊です。昔からの話です。ただ……これは違う」

「違う?」

「ピー・ポープは、人の中に入る。でも、これは」


アピチャートは祠を見た。


「家に入っている」


黒瀬は、ゆっくりと部屋を見渡した。


祠。

モデルルーム。

赤い供物。

赤ん坊の声。


帰ってきたの、という問い。


ここはモデルルームだ。

誰かが住むための部屋ではない。

誰かに売るための部屋。

まだ生活が始まっていない、住宅の見本。


なのに、部屋は住人の気配を持ち始めている。


「アピチャートさん。事故の記録を見せてください。この物件で、工事中に亡くなった人がいるはずです」


アピチャートは息を呑んだ。


「なぜ、それを」

「赤ん坊が泣いているので」

「……記録はあります。ですが、公式には作業員一名の転落事故です」

「公式には」

「子どもについては、記録に残っていません」


黒瀬は祠の奥を見た。


小さな人形の胸が上下している。

まだ生きている。

だが、その胸元に細い赤黒い糸が刺さっていた。

糸は祠の奥へ伸びている。


縛っているというより、吸っている。


「早めに調べた方がよさそうです」


黒瀬は祠から一歩離れた。


「この家、食事中です」



物件管理室は、二階の仮設事務所にあった。


アピチャートは古い図面、工事記録、事故報告書、移設申請書を机に並べた。

黒瀬は手袋をはめて資料をめくる。


祠の移設申請。

現場動線図。

モデルルーム演出案。


そこには、嫌なほど綺麗な言葉が並んでいた。


地域文化への敬意。

タイらしい生活体験。

伝統と現代性の融合。


黒瀬はそれを見て、紙を横へ置いた。


「敬意って、資料に書くと薄くなりますね」

「私も、そう思います」


事故報告書は薄かった。

基礎工事中の転落事故。

死亡者一名。

氏名、マリサ・カンラヤー。

作業補助員。

救急搬送後、死亡確認。


子どもの記録はない。


だが、添付写真の隅に、小さなサンダルが映っていた。

ピンク色の子ども用サンダル。

事故報告書では、そこに触れられていない。


「この人に、子どもは?」

「いました。二歳の男の子です。現場には本来、入ってはいけなかった」

「亡くなったんですか」

「分かりません」


アピチャートは苦しそうに続けた。


「公式には、子どもは現場にいなかったことになっています。けれど、作業員の間では噂がありました。事故の後、泣き声が基礎の下から聞こえたと」

「探したんですか」

「探しました。私もいました。でも、見つからなかった」

「工期は」


アピチャートは答えなかった。


答えないことが、答えだった。


黒瀬は資料を閉じる。


「祠を移したのは、その後ですね」

「はい。事故から三か月後です」

「本来の台座は、事故現場に近い」

「近いです」

「そこから、祠を高層階へ持っていった」


黒瀬は三十二階の見取り図を見た。


リビング、ベッドルーム、キッチン、バルコニー、祠。


モデルルームは、生活を見せるために作られた空間だ。

生活そのものではない。

だが、怪異にとっては違う。

ここは、家として飾られている。

家族が住む場所として演出されている。


そこに、本来の家を失った母子の霊が入り込んだ。


そして、供物に寄ってきた何かが、その構造を利用した。


「ポープ・バーン」


アピチャートが、ぽつりと言った。


「正式な名前ではありません。古い人が言うことがあります。家に棲み、家族のふりをして、中に入った者を食べるもの。ピー・ポープに似ているが、人ではなく、家に憑く」

「家を食う悪魔ですか」

「家に入った人を、家の中で食う悪魔です」

「分かりやすくなってきました」

「分かりやすいですか」

「嫌な意味で」


その時、管理室の照明が一度だけ消えた。


すぐに戻る。


机の上に、赤い液体が落ちていた。


ぽたり。


ぽたり。


天井からではない。

資料の上からだった。


祠の写真。

赤い供物の液面。

そこから、現実の机へ赤い液体が滲み出している。


液体は事故報告書の余白を這い、文字を作った。


タイ語。


アピチャートが青ざめる。


「何と?」

「帰ってきたの、と」


次の瞬間、部屋の隅で赤ん坊が泣いた。


管理室には、誰もいない。


黒瀬は立ち上がった。


「三十二階に戻ります」

「危険です」

「はい」

「分かっていて行くんですか」

「休暇中にここまで来て、管理室で終わるのも嫌なので」


黒瀬は資料のコピーを手に取った。


「それに、たぶん次は、向こうから来ます」



三十二階の廊下は、最初より暗かった。


仮設照明はついている。

だが、光が奥まで届かない。


エレベーターの表示が、奇妙な文字になっていた。


HOME()


三十二階の表示ではない。

上でも下でもない。ただ、HOME。


「こんな表示はありません」

「でしょうね」


モデルルームの扉は開いていた。


中から、温かい空気が流れてくる。

エアコンは切っているはずだった。

それなのに、部屋の中だけが人の体温を持っている。


黒瀬は一歩入って、すぐに足を止めた。


部屋が変わっている。


ソファの上に子ども用の服が置かれていた。

ダイニングテーブルには三人分の皿。

ベッドルームの扉は半開きで、奥から赤ん坊の泣き声がする。


祠の前には、赤い供物が増えていた。


五本。

いや、六本。


そのうち一本に、ストローが刺さっている。

ストローの先は、祠の奥へ伸びていた。

細く黒い舌のように。


アピチャートが低く言った。


「祠を、壊しますか」

「壊しません」

「でも」

「祠は悪くない。たぶん、母子も完全な加害者じゃない」

「では、何を」

「食べているやつだけ切ります」


祠の中には、プラサートの人形がある。

その隣に、作業服の人形が一体。

さらに奥に、小さな影がいくつも並んでいた。


黒瀬は祠を見つめた。


「アピチャートさん。これから、何か聞こえても返事をしないでください。謝罪も、返事になります」

「分かりました」

「特に、帰ってきたの、には答えない」


その時、ベッドルームの扉が開いた。


ぎい、と音がした。


中から、女が出てきた。


若い女だった。

濡れた黒髪。

作業服。

裸足。

腕には、赤ん坊を抱いている。


顔は青白い。

だが、怒っているようには見えなかった。

疲れ切っている。

眠れないまま、ずっと誰かを待っている顔だった。


アピチャートが、ほとんど声にならない声で呟く。


「マリサ……」


女は彼を見た。

そして、口を開いた。


タイ語。


アピチャートの唇が震える。


黒瀬が短く言った。


「訳さなくていいです」


だが、アピチャートは苦しそうに言った。


「なぜ、戻らないの、と」


女の腕の中で、赤ん坊が泣く。


その声に混ざって、別の音がした。


くちゃ。


くちゃ。


何かを噛む音。


女の背中から、赤黒い糸が伸びている。

糸は祠の奥へ繋がっている。


女の口は泣いている。


だが、噛んでいるのは女ではない。


祠の屋根の下。

金色の装飾の影に、黒い口が開いていた。

目はない。

鼻もない。

ただ、口だけ。

細い舌が何本も伸び、赤い供物を舐め、人形の胸に刺さり、女の背中を操っている。


「ポープ・バーン……」


黒瀬は静かに言った。


「母親が客を呼んでいるんじゃない」


女の口が動く。


帰ってきたの。


今度は、日本語だった。

黒瀬の耳に、はっきり届いた。


黒瀬は答えない。


代わりに、祠を見る。


「呼ばされてるんです」


黒い口が、笑った。


祠の奥で、赤黒い舌が何本も蠢く。

赤ん坊の泣き声が、急に大きくなった。

助けを求める声。それに重なるように、部屋全体から女の声が響く。


帰ってきたの。


帰ってきたの。


帰ってきたの。


アピチャートが耳を塞いだ。


「すみません。私たちが、祠を動かした。彼女たちの場所を奪った。だから」

「謝るのは後です」

「でも」

「今すると、入室扱いになります。謝罪も返事です」


その瞬間、床に赤い線が走った。


玄関から祠へ。

祠からダイニングへ。

ダイニングからベッドルームへ。

まるで、家の動線を示す案内線のように。


アピチャートの足元に、小さな木札が現れた。


アピチャート・スラサック。

お帰りなさい。


彼の身体が、ふらりと前に傾く。


黒瀬が腕を掴んだ。


「見ない」

「足が、勝手に」

「家に帰る時の動線に乗せられてます」

「そんな」

「モデルルームなので、動線設計だけはしっかりしてますね」

「今、それを言いますか」

「言わないと、少し怖いので」


黒瀬はアピチャートを引き戻しながら、祠を見た。


黒い口が、さらに開く。

祠の中のプラサート人形が、苦しそうに胸を上下させる。

赤黒い糸が強く脈打つ。


吸っている。

食っている。


肉ではない。


その人間が現実に占めている場所を。

帰る場所を。

身体の大きさを。

家族ではない者を、家族という名目で家の中に収め、祠の奥で少しずつ食っている。


黒瀬は、ようやく理解した。


「これは、祟りじゃない」


女の幽霊が動きを止める。


黒い口だけが、祠の奥で笑っている。


「帰宅でもない。家族に迎えているわけでもない」


黒瀬は一歩、祠へ近づいた。


「家のふりをした胃袋を作っているだけです」


リビングの壁紙が波打った。

白い壁の下から、赤黒い膜のようなものが透けて見える。

高級なモデルルームの内装が、内側から生き物の腹のように蠢く。


黒瀬の首筋に、不可視の刃が強く触れた。


まだだ。


まだ、切れない。


黒瀬は言葉を続けた。


「本来、祠は居場所を用意するものだった。土地のものに、ここにいてくださいと示すための家だった」


祠の黒い口が、舌を伸ばす。

赤い供物の瓶が一斉に倒れ、赤い液体が床を這った。


「供物は、敬意です。餌じゃない。泣き声は、誘導音声じゃない。警報です」


赤ん坊の声が、ひときわ大きく響いた。


「そして」


黒瀬は、モデルルームの壁を指した。


「ここは家じゃない」


部屋全体が揺れた。


「まだ誰も住んでいない。誰の生活も始まっていない。売るために作った見本です」


黒い口が、初めて唸った。


『帰ってきた』


それは、女の声ではなかった。

腹の底を擦るような、湿った声。


『家に、入った』


「入ってません。祠を見た。供物を見た。泣き声を聞いた。それだけです」


『供物を、受けた』


「受けたのはあなたです」


『家族を、迎えた』


「迎えてない」


黒瀬の声が、少し低くなった。


「食っているだけだ」


その瞬間、首筋の刃が離れた。


代わりに、モデルルームの天井の上で、重い金属を引きずる音がした。


ずるり。


ずるり。


高層階の床が、処刑台のように軋む。


黒瀬の背後に、見えない何かが立ち上がる。

巨大で、冷たく、無骨な、不可視の処刑鉈。


黒瀬は女を見なかった。

見ているのは、その背後。

祠と供物とモデルルームと泣き声をつなぐ、赤黒い糸の束だった。


「罪状確定」


祠の屋根が軋む。


赤い供物の液面に、無数の目が浮かぶ。


「祠の捕食器官化。供物の餌化。泣き声の誘導利用。生者の住人偽装」


黒い口が叫んだ。


『家だ』


「違う」


『家族だ』


「違う」


『帰ってきた』


「誰も帰ってない」


黒瀬は、最後に言った。


「家族は、食料じゃない」


不可視の刃が、持ち上がる。


空気が裂けた。

ガラス窓に縦の亀裂が走る。

だが、割れない。


切られるのは、建物ではない。


「アラストル」


赤黒い糸が、一斉に黒瀬へ伸びた。

供物の舌、祠の目、家の動線、泣き声、帰宅の問い。

すべてが、黒瀬を家の中へ引き込もうとする。


黒瀬は動かなかった。


「執行」


不可視の処刑鉈が振り下ろされた。


音はなかった。


ただ、モデルルームの内側だけが裂けた。


白い壁紙の裏から、赤黒い膜が剥がれ落ちる。

高級なソファの影に張り付いていた舌が切れる。

床に走っていた帰宅動線が、黒い煙になってほどける。


祠の中のミニチュア家具が、ばらばらに崩れた。


小さな人形たちの胸に刺さっていた赤黒い糸が、一斉に断ち切られる。


プラサート人形が倒れた。


いや、人形ではなくなっていく。

小さな手足がほどけ、木目が消え、輪郭が光の粒になって床へ落ちる。


祠の奥で、黒い口だけの悪魔が浮かび上がった。


赤い供物の液体をまとった、口だけの影。

牙の間に、家の模型のようなものがいくつも挟まっている。


それは悲鳴を上げた。


声ではない。

飲み込んだ家々の軋み。

噛み砕いた名前。閉じ込めた人間の呼吸。

それらが混ざった音だった。


黒瀬は、少しだけ眉をひそめる。


「うるさいですね。深夜の内覧でも、もう少し静かです」


見えない刃が、もう一度動いた。


黒い口が、縦に裂けた。


赤い液体が宙で止まる。

その中に浮かんでいた目も、舌も、歯も、すべてが線のように断たれて消えていく。


最後に、女の幽霊が残った。


背中の糸は切れている。

腕の中の赤ん坊は、もう泣いていなかった。


彼女は黒瀬を見なかった。

アピチャートも見なかった。

ただ、ガラス窓の向こう。

タワーの足元。

本来、祠があった空っぽの台座の方を見ていた。


黒瀬は小さく言った。


「そこに戻した方がいいです」


女の姿が薄れる。


赤ん坊を抱いたまま、夜の湿った空気に溶けるように消えていった。


祠の中の明かりが、ふっと消える。


赤い供物の瓶は、ただの瓶になっていた。



プラサート・チャイヤポンは、モデルルームの床に倒れていた。


身体は元の大きさに戻っている。

顔色は悪い。

だが、息はある。


アピチャートが駆け寄り、救急へ連絡する。


プラサートは意識が朦朧としたまま、同じことを繰り返した。


「狭かった」

「ずっと、誰かが飲んでいた」

「子どもが、泣いていた」


黒瀬は祠の前にしゃがんだ。


壊れてはいない。

ただ、屋根の金色が少しだけくすんでいる。


祠の奥には、小さな木札が一枚残っていた。


黒瀬は手袋をはめたまま、それを取り出す。


表には、黒い文字。


執行猶予:継続。


黒瀬の首筋に、不可視の刃が戻る。

皮膚一枚の上。

いつも通り。

ただ、少しだけ重い。


木札の裏には、黒い歯形のような跡があった。

噛み跡ではない。

文字が食い残された跡だった。


読めるのは、一部だけ。


……喰われるべき罪……


黒瀬は、しばらくそれを見つめた。


アピチャートが近づいてくる。


「黒瀬さん?」

「いえ」


黒瀬は木札をポケットにしまった。


「少し、嫌な食べ残しを見ただけです」

「食べ残し?」

「こちらの話です」


救急隊の足音が近づいてくる。


モデルルームは、ただのモデルルームに戻っていた。

白い床。

ガラス窓。

高級そうなソファ。

誰も住んでいない部屋。

誰かが住んでいるふりをするための部屋。


それ以上でも、それ以下でもない。



翌朝。


バンコクの空は、昨夜の湿気を残したまま明るくなった。


未完タワーの足元では、現地の僧侶と専門家、工事関係者が集まり、祠を本来の台座へ戻す準備をしていた。


再開発計画は一時停止。

モデルルームの使用も中止。

投資家向け資料から、「地域文化への敬意」という薄い言葉は削除されることになった。


黒瀬は仮設事務所でノートパソコンを開いていた。


原因欄に、こう入力する。


「モデルルーム内装備品の配置不備、現地宗教的設備の移設手続き不備、および夜間警備体制の異常」


少し考えてから、追記する。


「祠および供物台については、現地関係者立会いのもと、本来位置への復旧と適切な管理手続きを行うこと」


嘘ではない。


かなり薄めた本当だ。


アピチャートが、紙カップのコーヒーを持ってきた。


「ありがとうございました」

「いえ。休暇中なので、勤務扱いになるかは微妙です」

「それは、問題では」

「かなり問題ですね」


アピチャートは少しだけ笑った。


そして、外の祠を見た。


「彼女たちは、戻れたのでしょうか」


黒瀬も窓の外を見る。


空っぽだった台座に、小さな家が戻されていく。

赤い供物は、もう置かれていない。

今は花だけがある。


「少なくとも」


黒瀬は言った。


「食われる家ではなくなったと思います」


アピチャートは深く息を吐いた。


黒瀬のスマートフォンが震えた。


葛西からだった。


『無事か?』


黒瀬は返信する。


『休暇先としては少し暑かったです』


すぐに既読がついた。


『本当に悪かった。帰ったら飯奢る』


黒瀬は少し考えて、返信した。


『胃に優しいものでお願いします』


送信。


その後、もう一通メッセージが届いた。


谷本課長からだった。


『明日の午前まで休みだと言ったはずだが、葛西から妙な礼の電話が来た。説明は午後でいい。とりあえず寝ろ』


黒瀬は画面を見て、少しだけ目を伏せた。


返事を打つ。


『寝ます』


送信。


首筋の刃が、ほんの少しだけ冷たくなる。


まるで、それでいいのかと確認するように。


黒瀬はスマートフォンを伏せた。

窓の外では、祠が本来の場所へ戻されている。

バンコクの朝は、もう暑い。


「休暇って、難しいですね」


黒瀬はそう呟いて、ノートパソコンを閉じた。

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