横浜新港湾岸再開発地区-第九倉庫の自動署名
誰もいない会議室で、契約書だけが残業していた。
午前零時十三分。
横浜新港湾岸再開発地区。
旧第九号保税倉庫。
赤茶けた煉瓦風の外壁を持つその倉庫は、ノクティス・グローバル不動産が進める湾岸再開発計画の中核物件だった。
昼間は、観光客の笑い声が遠くから届く。
だが夜は違う。
海風がフェンスを鳴らし、港湾灯が白く滲み、倉庫の壁が濡れたように黒く沈む。
仮設会議室の長机には、一冊の契約書が置かれていた。
表紙には、こうある。
旧第九号保税倉庫跡地譲渡契約書。
その横に置かれた黒いボールペンが、ひとりでに動き出した。
かり。
かり。
かり。
署名欄に、名前が書かれていく。
高沢悠介。
ノクティス・グローバル不動産、湾岸再開発準備室。
昨日の午後まで、この会議室で契約書類の確認をしていた男の名前だった。
ボールペンは止まらない。
契約書のページが、風もないのにめくれた。
別紙。
譲渡資産明細。
土地。
建物。
付属設備。
旧貨物用エレベーター。
残置什器。
その一番下に、新しい行が増えた。
品名、高沢悠介。
重量、〇・〇七二トン。
状態、未通関。
保管場所、第九倉庫。
引渡予定、満潮時。
会議室の窓の外で、遠くの海が低く鳴った。
同時に、倉庫の奥から重い扉の開く音がした。
まるで、何か大きな荷物を受け入れる準備をしているように。
翌朝。
高沢悠介は、どこにもいなかった。
ただ、倉庫の奥にある古い木箱の取っ手に、彼の社員証だけが吊るされていた。
社員証には、赤い荷札が結ばれている。
そこには、印字されたような黒い文字で、こう書かれていた。
未通関。
所有者不明。
第九倉庫へ搬入済。
◇
「横浜だ」
谷本課長は、会議室の前方で短く言った。
東京都港区。
ノクティス・グローバル不動産、日本支社。
第三資産管理部の会議室は、朝から妙な空気に包まれていた。
画面には、夜の倉庫が映っている。
海沿いの再開発地区。
フェンス。
仮設照明。
赤茶色の古い外壁。
そして、誰もいない会議室の机に置かれた契約書。
黒瀬透は、会議室の端で紙コップのコーヒーを持っていた。
まだ、甘い缶コーヒーの味が口の奥に残っている気がする。
長野の廃校案件から戻ったばかりだった。
正確には、戻ったというより、戻された。
報告書を書き、関係者に頭を下げられ、東京へ戻り、椅子に座ったら次の資料が来た。
会社員の怖いところは、怪異よりメールの方が速いことである。
「旧第九号保税倉庫跡地。湾岸再開発プロジェクトの一部だ。複合商業施設とホテル、イベントホールへの転用を予定している」
谷本が資料をめくる。
いつもより眉間の皺が深い。
「昨夜、湾岸再開発準備室の高沢悠介が行方不明になった。現地警察には届け出済み。ただし、現場に争った形跡はない」
画面が切り替わる。
古い木箱。
吊るされた社員証。
赤い荷札。
未通関。
所有者不明。
第九倉庫へ搬入済。
会議室の空気が、少し沈んだ。
若手社員の一人が、小さく呟く。
「悪質ないたずらじゃないんですか」
「俺もそう思いたかった」
谷本は低い声で答えた。
「ただ、監視カメラに妙なものが残っている」
映像が再生される。
午前零時十三分。
仮設会議室。
無人の机の上で、ボールペンが勝手に動いている。
署名欄に、高沢悠介の名前が書かれていく。
そのあと、契約書のページが勝手にめくれた。
譲渡資産明細。
そこに、高沢の名前と体重が記載される。
数秒後、会議室のドアが開いた。
映像の中に、高沢が入ってくる。
いや、違う。
高沢はすでに行方不明になっている。
その時間、彼は自宅に帰ったはずだった。
映像の中の高沢は、虚ろな顔で契約書を拾い上げる。
そして、会議室の奥にあるはずのない扉へ向かって歩いていく。
貨物用エレベーターのような、錆びた扉だった。
扉の上には、白い文字が浮かんでいる。
第九搬入口。
扉が開く。
中は真っ暗だった。
高沢はそこへ入った。
扉が閉じる。
映像はそこで途切れた。
誰も言葉を発しなかった。
谷本がリモコンを置く。
「旧図面上、その位置に扉はない。貨物用エレベーターも、少なくとも現存設備には含まれていない」
「現存設備には、ですか」
黒瀬が言った。
谷本がこちらを見る。
「昔はあった可能性がある。倉庫だからな。だが、今回の問題はそこじゃない」
画面が再び切り替わる。
契約書の写真。
署名欄には、複数の関係者名が並んでいる。
その一番下に、すでに名前があった。
黒瀬透。
会議室の数人が、気まずそうに黒瀬を見た。
黒瀬は紙コップを置いた。
「早いですね」
「感想がそれか」
谷本の声は少し荒かった。
黒瀬は肩をすくめる。
「契約書に名前が載るの、普通はもう少し手続きがあるので」
「そういう話じゃない」
谷本は資料を閉じた。
そして、会議室の空気を押しのけるように言った。
「黒瀬。今回は、お前に行けとは言わない」
会議室が静まった。
黒瀬も少しだけ目を上げた。
谷本は続ける。
「パレルモ、プラハ、長野。短期間で妙な案件が続きすぎてる。お前が平気な顔してるからって、こっちまで平気なわけじゃない」
「課長」
「俺は上に説明する。人が消えてるんだ。現地警察と本社法務で止める理由は立つ。お前が無理して行く必要はない」
谷本の声には、叱るような硬さがあった。
だが、その奥にあるのは明らかに心配だった。
黒瀬は少しだけ困った顔をした。
そういう顔をされる方が、怪異より対応に困る。
「お気遣いありがとうございます」
「気遣いじゃない。命令にしたいくらいだ」
「じゃあ、命令じゃないうちに行きます」
「おい」
「横浜なら近いですし。終電がある怪異は、まだ優しい方です」
「怪異とか言うな。会議室でそういう単語を普通に使うな」
「失礼しました。設備異常物件です」
「言い換えればいいと思うな」
何人かが、苦笑ともため息ともつかない息を漏らした。
黒瀬は契約書の写真を見た。
署名欄。
関係者名。
黒瀬透。
だが、黒瀬が見ていたのはそこではない。
署名欄の下。
小さな備考欄。
そこにだけ、他の名前とは違う役割が書かれている。
担保提供者。
黒瀬透。
首筋に、冷たい刃が触れた。
皮膚の上を、薄い氷で撫でられるような感触。
「……まあ」
黒瀬は小さく息を吐いた。
「放っておいても、こっちに来そうなので」
谷本の表情が険しくなる。
「何か分かってるのか」
「いえ。ただの勘です」
「黒瀬」
「はい」
「俺は、お前のそういうところが嫌いだ」
「傷つきますね」
「本気で言ってる」
谷本は、資料の束を黒瀬の前に置いた。
「行くなら、条件がある。現地で少しでも危ないと思ったら戻れ。勝手に奥へ入るな。夜間作業はするな。連絡は一時間ごとに入れろ」
「課長、それだと何も調査できない可能性があります」
「命がある方が大事だ」
「社会人っぽくない意見ですね」
「うるさい」
谷本は一瞬だけ目を伏せ、それから低く言った。
「お前は、便利屋じゃない。部下だ。そこだけ間違えるな」
黒瀬は何も返さなかった。
返す言葉が、すぐには見つからなかった。
代わりに、資料を持って立ち上がる。
「分かりました。できるだけ、普通の不動産調査として帰ってきます」
「できるだけじゃなく、必ず帰ってこい」
「善処します」
「善処で逃げるな」
谷本の声が、兄貴分のそれになっていた。
黒瀬は少しだけ笑った。
「じゃあ、契約書に書いておいてください」
「縁起でもないことを言うな」
会議はそこで終わった。
黒瀬は会議室を出る。
廊下の窓に、自分の姿が映っていた。
くたびれたスーツ。
眠そうな目。
どこにでもいる会社員。
その首に、誰にも見えない刃が添えられている。
そして、今回の契約書には、すでに自分の名前がある。
署名者ではなく。
担保提供者として。
「……また面倒な欄に入れられたな」
黒瀬は小さく呟いた。
◇
横浜の夜は、海の匂いがした。
駅から湾岸地区へ向かうタクシーの窓の外で、観覧車の光がゆっくり回っている。
高層ビル。
ホテル。
ライトアップされた遊歩道。
観光客の声。
だが、再開発フェンスを一枚越えると、空気が変わった。
舗装の継ぎ目に溜まった雨水。
古い倉庫の黒い影。
大型トラックが通った後に残る、低い振動。
海に近い場所特有の、錆びた鉄と塩の匂い。
旧第九号保税倉庫は、華やかな港町から少しだけ外れた場所にあった。
赤茶けた外壁。
高い窓。
分厚い鉄扉。
壁には、古い番号札が残っている。
九。
白いペンキは剥がれ、数字の周囲だけが妙に黒ずんでいた。
「黒瀬さんですね」
フェンス前で待っていたのは、ノクティス横浜開発チームの社員だった。
志摩玲奈。
二十代後半くらいの女性で、紺色の現場用ジャケットを着ている。
髪を後ろでまとめ、手にはタブレットを持っていた。
顔色はあまりよくない。
「第三資産管理部の黒瀬です。遅くなりました」
「いえ。こんな時間に来ていただいて、すみません」
「横浜なので近いです。領収書も日本語ですし」
「そこですか?」
「重要です」
志摩は一瞬だけ笑いそうになったが、すぐに倉庫を見上げた。
「高沢さんは、私のチームの先輩です。昨日まで普通に話していました」
「最後に会ったのは?」
「昨日の十九時頃です。この倉庫の仮設会議室で契約書類を確認していました。高沢さんは先に帰ったはずです。入退館ログも、十九時四十二分に退館になっています」
「でも、監視映像には午前零時十三分に戻ってきている」
「はい」
「入館ログは?」
「ありません」
「なるほど」
「なるほど、なんですか」
「こういうの、ログがある時とない時で性格が変わるので」
「性格?」
「設備異常の話です」
「今、嘘つきました?」
「かなり薄めました」
志摩は困ったように眉を寄せた。
黒瀬は倉庫入口へ向かう。
ゲート横には、仮設の入退館システムが置かれていた。
志摩がタブレットを操作する。
「入館者として、黒瀬さんの名前を登録します」
「お願いします」
登録音が鳴る。
ぴ。
画面に表示された。
黒瀬透。
入館。
その瞬間、倉庫の奥から、かすかな紙の擦れる音がした。
かり。
黒瀬は顔を上げた。
「今、何か」
「聞こえましたか?」
「はい」
「私も、昨日から時々聞こえます。ペンで何かを書くような音です」
「嫌な労働音ですね」
「労働音?」
「誰もいない場所で書類仕事してる音は、だいたい嫌です」
志摩は返事に困った顔をした。
倉庫の中は、広かった。
天井が高く、鉄骨が暗闇に沈んでいる。
床には古いレール跡が走っていた。
壁際には木箱や錆びたラックが残っている。
一部は再開発準備のために整理され、仮設照明と養生シートが張られていた。
それでも、倉庫全体には古い港の空気が残っている。
荷物を待つ場所。
荷物を隠す場所。
荷物を誰かの所有物に変える場所。
「仮設会議室はこちらです」
志摩が案内した。
倉庫の一角に、白いパネルで仕切られた部屋がある。
中には長机、椅子、モニター、簡易複合機。
そして、机の中央に契約書が置かれていた。
旧第九号保税倉庫跡地譲渡契約書。
黒瀬は近づく前に足を止めた。
「触っていませんよね」
「はい。警察が確認した後、そのままです」
「声に出して読んだりは?」
「していません」
「よかったです」
「読んだら駄目なんですか?」
「まだ分かりません。ただ、契約書は読んだだけで確認済みにされることがあります」
「普通の契約でもそうですね」
「普通じゃない場合は、もっと面倒です」
黒瀬は手袋をはめた。
契約書を開く。
署名欄には、関係者の名前が並んでいた。
高沢悠介。
志摩玲奈。
他数名。
そして、黒瀬透。
だが、やはり違う。
高沢や志摩の名前は、署名欄にある。
黒瀬の名前だけは、担保提供者欄にあった。
「俺、担保になった覚えないんですが」
「担保?」
志摩が覗き込む。
その瞬間、契約書の紙面が波打った。
黒いインクが滲む。
志摩玲奈。
彼女の名前の横に、小さな印が浮かび上がった。
確認中。
同時に、志摩の右手首に、白い紙片が現れた。
荷札だった。
細い紐が、いつの間にか手首に巻きついている。
志摩が息を呑んだ。
「なに、これ」
黒瀬が彼女の手首を掴む。
荷札には黒い文字が印字されていく。
検品前。
重量未確定。
第九倉庫保管予定。
志摩の顔から血の気が引いた。
「黒瀬さん」
「落ち着いてください」
「落ち着ける状況じゃないです」
「はい。なので、慌てないでください」
「同じでは?」
「業務上は違います」
黒瀬は荷札に触れない。
代わりに、契約書のページをめくった。
別紙。
譲渡資産明細。
土地、建物、設備。
その下に、人の名前がある。
高沢悠介。
志摩玲奈。
さらに空白の行。
黒瀬透。
ただし、黒瀬の欄だけはまだ薄い。
「署名じゃない」
黒瀬は呟いた。
「え?」
「これは、署名させてるんじゃない」
契約書の端で、黒いインクが蠢く。
黒瀬は眠そうな目のまま、それを見つめた。
「人間を、明細に移してる」
会議室の照明が、一度だけ瞬いた。
倉庫の奥で、重い金属音がした。
がこん。
まるで古い搬入口の扉が、少しだけ開いたような音だった。
◇
「第九搬入口?」
志摩はタブレットで図面を開いた。
黒瀬と志摩は、仮設会議室を出て倉庫内を歩いていた。
会議室の中に長くいるのは危険だと、黒瀬が判断したからだ。
志摩の手首には、まだ荷札がある。
引っ張っても外れない。
ハサミを入れようとすると、刃の方が欠けた。
「現行図面にはありません。旧図面にも、少なくとも確認済み資料にはありません」
「確認済み資料には」
「未整理の資料が、奥の旧事務室に残っています」
「行きましょう」
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃないので、資料を探します」
「黒瀬さん、言い方」
「すみません。前向きに危険です」
「もっと嫌です」
二人は倉庫奥の旧事務室へ向かった。
錆びた扉を開けると、古い紙と湿気の匂いが押し寄せた。
木製の棚。
崩れかけた段ボール。
鉄製の書庫。
壁には、旧第九号保税倉庫と書かれた古い札が残っている。
黒瀬は懐中電灯を向け、棚の書類を確認した。
貨物目録。
入庫台帳。
差押品記録。
保管料請求書。
所有者不明貨物一覧。
「港っぽいですね」
「ここは元々、港湾倉庫ですから」
「ええ。港は、入ってきたものに名前をつける場所です」
「名前を?」
「誰の荷物か。どこから来たか。どこへ行くか。何キロか。税金はいくらか。保管するのか、引き渡すのか」
黒瀬は古い目録を開く。
紙は湿気を吸って波打っていた。
昭和二十年代。
三十年代。
外国製の機械部品。
繊維。
酒類。
骨董品。
所有者不明貨物。
差押貨物。
その中に、妙な項目が混ざっていた。
品名、男一名。
重量、〇・〇六一トン。
状態、未通関。
備考、言語不明。
黒瀬の指が止まる。
次のページ。
品名、女一名。
重量、〇・〇四九トン。
状態、所有者不明。
備考、引取人なし。
志摩が口元を押さえた。
「これ、人のことですか」
「たぶん」
「そんな」
「昔の記録は、たまに人間を物みたいに扱います」
黒瀬はさらにページをめくる。
同じような記録がいくつも続く。
人名ではない。
品名として、人間の特徴だけが記録されている。
男一名。
少年一名。
身元不明。
所有者不明。
未通関。
引渡済。
「ひどい」
志摩の声が震えた。
「これが本当なら、事件ですよ」
「本当でも、昔すぎる。記録も薄い。会社の調査では、ただの不適切な旧資料扱いになるでしょうね」
「そんな言い方」
「すみません」
黒瀬は書類を閉じた。
「でも、怪異はこういう薄められた記録が好きです」
事務室の奥で、紙が擦れる音がした。
かり。
かり。
志摩が黒瀬の袖を掴む。
「また」
「はい」
「会議室からですよね?」
「いえ」
黒瀬は奥の壁を見た。
書庫の裏。
そこに、細い隙間がある。
現行図面にはない空間。
黒瀬は書庫を押した。
重い。
志摩も手伝う。
軋む音とともに書庫がずれ、裏に小さな扉が現れた。
錆びた鉄扉。
上部に、白い文字。
第九搬入口。
志摩の呼吸が止まった。
「映像の扉……」
「出ましたね」
「どうしますか?」
「開けない方がいいです」
「じゃあ、戻りますか?」
「いえ。開けずに調べます」
「そんなことできます?」
「できる範囲で」
黒瀬は扉の表面をライトで照らした。
鉄扉には、無数の傷がついていた。
爪痕のようにも見える。
文字のようにも見える。
その中央に、小さな銘板がある。
満潮時開放。
黒瀬は腕時計を見た。
「満潮まで、あと二十分くらいですね」
「調べてる場合ですか?」
「かなりないです」
扉の向こうで、水音がした。
ざざ。
ざざ。
ここは倉庫の奥だ。
海は、フェンスの向こうにある。
それでも、扉の向こうから潮の匂いが濃く流れ込んでくる。
志摩の手首の荷札に、新しい文字が浮かんだ。
検品済。
引渡待ち。
志摩が悲鳴を押し殺した。
黒瀬は荷札を見る。
「進んでますね」
「どうすれば止まりますか」
「手続きのどこかを否定します」
「手続き?」
「はい。これは呪いというより、業務フローです」
「嫌な業務ですね」
「かなりブラックです」
その瞬間、倉庫内のスピーカーが鳴った。
電源は入っていないはずだった。
ざり。
ざり。
古いノイズ。
そして、低い声。
『引渡確認をお願いします』
志摩の口が反射的に開きかける。
黒瀬が短く言った。
「返事しない」
志摩は唇を噛んだ。
スピーカーの声が続く。
『引渡確認をお願いします』
今度は、タブレットが震えた。
画面に電子承認のポップアップが出ている。
第九倉庫残置資産引渡確認。
承認しますか?
はい。
いいえ。
志摩の指が、画面へ吸い寄せられる。
黒瀬がタブレットを取り上げた。
「押さないでください」
「でも、手が勝手に」
「会社の承認フローって、そういうところありますよね」
「今それ言います?」
「はい。たぶん、この怪異は現代の承認フローにも乗ってます」
黒瀬はタブレットの画面を見た。
承認者欄。
志摩玲奈。
立会人欄。
高沢悠介。
担保提供者欄。
黒瀬透。
黒瀬は小さく眉を動かした。
「高沢さん、まだ立会人扱いか」
「生きてるんですか?」
「可能性はあります。完全に引き渡されていなければ」
「完全に、というのは」
扉の向こうで、金属が軋んだ。
がこん。
第九搬入口が、内側から叩かれた。
志摩の荷札に、最後の一行が印字される。
引渡時刻、満潮。
「今です」
黒瀬が言った。
◇
第九搬入口が開いた。
扉の向こうに、海があった。
あり得ない。
倉庫の奥にある小部屋の扉だ。
外壁に面してすらいない。
それなのに、扉の向こうには夜の海が広がっている。
黒い水面。
白い霧。
古い桟橋。
そして、海へ続く貨物用の木製スロープ。
スロープの上には、人影が立っていた。
顔の見えない倉庫番のような影。
作業服。
古い帽子。
片手には、貨物用のフック。
もう片方の手には、分厚い台帳。
影が台帳を開く。
『未通関貨物、引渡時刻です』
志摩の身体が、ふらりと扉へ向かった。
黒瀬が腕を掴む。
しかし、足元の床に白い線が走った。
貨物用の誘導線。
志摩の靴が、その線に沿って滑るように動く。
「黒瀬さん!」
「引っ張らないでください。腕が抜けるかもしれません」
「怖いことを冷静に言わないでください!」
「すみません。怖いですよね」
「はい!」
「俺も嫌です」
黒瀬は志摩の腕を掴んだまま、もう片方の手で契約書のコピーを広げた。
仮設会議室から持ち出していたものだ。
契約書の表面に、黒いインクが走る。
売主。
第九倉庫管理組合。
買主。
ノクティス・ベイフロント開発合同会社。
譲渡対象。
旧第九号保税倉庫跡地、建物、付属設備、残置資産、未通関貨物一式。
「見えてきました」
黒瀬が呟く。
影がフックを鳴らした。
かん。
『譲渡対象物を引き渡します』
「違う」
黒瀬は顔を上げた。
「これは土地売買契約じゃない」
影の動きが止まる。
志摩を引く力も、わずかに弱まった。
黒瀬は契約書を見下ろす。
「最初は、自動署名の怪異だと思いました。誰かの名前を署名欄に書いて、契約当事者にするものだと」
倉庫内の照明がちらつく。
「でも違う。高沢さんも志摩さんも、途中から署名欄じゃなく明細に移っている。重さまで書かれている。人間を契約者にしているんじゃない」
黒瀬は扉の向こうの影を見た。
「人間を、貨物にしている」
海霧が濃くなった。
スロープの上に、いくつもの木箱が浮かぶ。
その一つに、高沢悠介の社員証が貼られていた。
箱の中から、微かな声がする。
出してくれ。
志摩が息を呑む。
「高沢さん……!」
「まだ間に合うかもしれません」
影が台帳を閉じた。
『記録があります』
「記録はあります」
黒瀬は頷く。
『署名があります』
「署名もあります」
『引渡対象です』
「そこが違う」
黒瀬の声が低くなった。
「人間は貨物じゃない」
倉庫全体が軋んだ。
壁の古い番号札が震える。
九。
九。
九。
何度も揺れる。
影の声が、低く歪んだ。
『所有者不明』
「所有者不明にしたのは、お前たちだ」
『未通関』
「人間に通関も未通関もない」
『残置資産』
「生きている人間を、土地の付属物にするな」
志摩の荷札に亀裂が入る。
だが、まだ切れない。
黒瀬の首筋に、不可視の刃が触れた。
冷たい。
しかし、まだ動かない。
処刑には、もう一つ必要だった。
ルールの芯。
この怪異が、何を装い、どこで歪んでいるのか。
黒瀬は契約書の売主欄を指で叩いた。
「第九倉庫管理組合」
影がわずかに揺れた。
「この組合、もう存在しませんね」
志摩が顔を上げる。
「え?」
「旧資料で見ました。昭和二十年代に解散している。少なくとも、現在この土地を売る権限はない」
契約書の文字が滲む。
「存在しない法人が、存在しない搬入口から、所有できない人間を、所有者不明貨物として引き渡そうとしている」
海が荒れ始めた。
扉の向こうで、黒い波がスロープを叩く。
黒瀬は続ける。
「しかも、これは保税倉庫の手続きですらない。通関のふりをしているだけだ。やっているのは、土地に残った負債を、現代の関係者へ移すこと」
『引渡』
「違う」
黒瀬は静かに言った。
「押し付けだ」
その瞬間、首筋の刃が、一瞬だけ離れた。
代わりに、倉庫の床下から重い金属を引きずる音が響く。
ずるり。
ずるり。
古い倉庫の床板が、巨大な処刑台のように軋んだ。
志摩が息を止める。
黒瀬の背後に、何かが立ち上がる。
見えない。
だが、そこにある。
倉庫の天井より高く、海霧より冷たい、不可視の大鉈。
黒瀬は契約書を片手に持った。
「罪状確定」
影がフックを振り上げた。
黒瀬は動かない。
「人身の貨物化。所有権の偽造。存在しない法人による不当譲渡」
倉庫内の書類が、一斉に舞い上がる。
契約書。
貨物目録。
入庫台帳。
差押記録。
所有者不明貨物一覧。
すべてが黒瀬の周囲を回り始めた。
「アラストル」
不可視の刃が、持ち上がる。
空気が裂けた。
海霧が真っ二つに割れる。
影が初めて後ずさる。
『契約は』
「成立してません」
黒瀬は、最後の一言を落とした。
「執行」
不可視の処刑鉈が振り下ろされた。
切ったのは、倉庫ではない。
契約書でもない。
人間を未通関貨物として扱い、土地の負債ごと譲渡する、その所有権移転ルールだった。
まず、契約書の譲渡資産明細が裂けた。
土地。
建物。
設備。
残置資産。
その下に書かれていた人名だけが、黒い糸のようにほどけて消える。
志摩玲奈。
高沢悠介。
黒瀬透。
荷札が真っ二つに切れた。
志摩の手首から紙片が落ちる。
それは床に着く前に、ただの白い紙になった。
第九搬入口の向こうで、海が割れた。
黒い水面に、見えない刃の跡が走る。
スロープが裂ける。
木箱が割れる。
箱の中から、人影が転がり出た。
高沢悠介だった。
顔色は悪い。
だが、息をしている。
倉庫番の影が台帳を抱えたまま叫んだ。
声は、人の声ではなかった。
紙を破る音。
錆びた扉の悲鳴。
波に沈む荷物の音。
それらが混ざった、古い倉庫そのものの声だった。
『未処理貨物が』
「未処理のままでいい」
黒瀬は淡々と言った。
「少なくとも、生きている人間で処理するな」
見えない刃が、もう一度動いた。
倉庫番の影は、縦に裂けた。
同時に、背後の台帳も裂ける。
貨物目録に記された「男一名」「女一名」「所有者不明」という文字が、黒い煙になって剥がれていく。
海霧の奥で、いくつもの人影が立ち上がった。
古い服を着た者。
濡れた髪の者。
顔の分からない者。
彼らは誰も、黒瀬を見なかった。
ただ、海の方へ歩いていく。
今度は、誰かの荷物としてではなく。
自分の足で。
第九搬入口が、音もなく閉じた。
倉庫の奥には、ただの錆びた鉄扉だけが残っていた。
銘板の文字は消えている。
満潮時開放。
―――その文字も、もうない。
◇
「高沢さん!」
志摩が駆け寄った。
高沢悠介は、倉庫の床に倒れていた。
意識は朦朧としているが、生きている。
唇がかすかに動いた。
「箱の中に……いた」
志摩が泣きそうな顔になる。
「救急車を呼びます」
「お願いします」
黒瀬は割れた契約書を拾い上げた。
表紙は破れている。
署名欄も、譲渡資産明細も、ほとんど白紙になっていた。
ただ、一箇所だけ文字が残っている。
担保提供者。
黒瀬透。
その下に、新しい文字が浮かんだ。
未確定罪状:担保提供記録あり。
黒瀬の首筋に、不可視の刃が戻った。
皮膚一枚の上。
いつでも落とせる場所。
いつも通り。
だが、今回は少し違った。
刃の根元にある黒い紋様が、熱を持ったように疼く。
処刑人の印。
そして、契約書のさらに下。
黒いインクが、一瞬だけ滲んだ。
保証対象。
■■■■。
文字はすぐに消えた。
読めなかった。
あるいは、読まない方がよかった。
黒瀬は契約書を閉じる。
「……担保って、だいたい回収される時が一番面倒なんですよね」
誰も答えなかった。
遠くで救急車のサイレンが聞こえ始める。
志摩が高沢のそばでこちらを見た。
「黒瀬さん。今のは、何だったんですか」
黒瀬は少し考えた。
「契約関連資料の権限確認不備です」
「絶対違いますよね」
「あと、旧倉庫内資料の管理不備」
「それも違います」
「満潮時における設備異常」
「報告書ですか?」
「はい」
志摩は疲れた顔のまま、少しだけ笑った。
「かなり薄めましたね」
「濃いままだと、通らないので」
◇
翌朝。
旧第九号保税倉庫は、ただの古い倉庫に戻っていた。
錆びた鉄扉。
湿った床。
潮の匂い。
改修費のかかりそうな外壁。
残置物だらけの事務室。
それ以上でも、それ以下でもない。
高沢悠介は病院へ搬送された。
命に別状はない。
ただ、目を覚ました後も、しばらく同じことを繰り返していたらしい。
「ずっと箱の中で、波の音がしていた」
旧事務室から見つかった貨物目録は、横浜開発チームと法務部で再調査されることになった。
再開発計画は一時凍結。
少なくとも、旧第九号保税倉庫の解体は延期された。
黒瀬は倉庫近くの仮設事務所で、ノートパソコンを開いていた。
原因欄に、こう入力する。
「契約関連資料の権限確認不備、旧倉庫内資料の管理不備、および満潮時における設備異常」
少し考えてから、追記する。
「旧第九号保税倉庫内の未整理台帳については、再開発着手前に専門家立会いのもと保全・確認を行うこと」
嘘ではない。
かなり薄めた本当だ。
スマートフォンが震えた。
谷本課長からだった。
「はい、黒瀬です」
『生きてるか』
第一声がそれだった。
黒瀬は窓の外の海を見た。
朝の横浜は明るい。
昨夜の海霧が嘘のようだった。
「はい。今のところ」
『今のところじゃなくて、ちゃんと生きてろ』
「難しい要求ですね」
『難しくするな』
谷本の声には、明らかに安堵が混じっていた。
それを隠すように、少し乱暴な口調になっている。
『高沢も見つかったと聞いた。志摩さんからも連絡があった。お前がいなかったら危なかったらしいな』
「設備異常に対応しただけです」
『その設備異常で人が消えるんだろうが』
「最近の設備は高性能なので」
『茶化すな』
黒瀬は黙った。
谷本も、一瞬黙った。
そして、声を少し落とした。
『黒瀬。今日はもう帰れ。報告書は最低限でいい。午後は休みにする。これは命令だ』
「午後だけですか」
『一日休めと言いたいところだが、お前どうせ変な顔するだろ』
「変な顔はしてないと思います」
『してる。休みの取り方を知らない社畜の顔だ』
黒瀬は少しだけ笑った。
「では、午後休で」
『明日も午前は出てくるな』
「課長、優しいですね」
『部下を使い潰す趣味はない』
「会社員としては珍しいタイプです」
『お前な』
谷本はため息をついた。
『とにかく、戻ったら一回顔を見せろ。無事確認くらいさせろ』
「承知しました」
『あと、黒瀬』
「はい」
『お前が何を抱えてるのか、俺は知らん。言えないこともあるんだろう。だが、危ない時は危ないと言え。上司をただの承認印だと思うな』
黒瀬は、返事を忘れた。
窓ガラスに、自分の姿が映っている。
冴えない会社員。
くたびれたスーツ。
眠そうな目。
その首に、誰にも見えない刃。
そして、その下に残る黒い紋様。
担保提供者。
黒瀬透。
黒瀬は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとうございます」
電話の向こうで、谷本が少しだけ黙った。
『礼を言うくらいなら、ちゃんと休め』
「善処します」
『善処禁止だ』
通話が切れた。
黒瀬はスマートフォンを机に置いた。
その隣には、昨夜の契約書の切れ端がある。
担保提供者。
黒瀬透。
文字は、もう動かない。
だが、紙の端に、小さな一行だけが残っていた。
執行猶予:継続。
黒瀬の首筋に、刃が静かに触れる。
それは、いつも通りの冷たさだった。
ただ、今回は。
―――ほんの少しだけ、重かった。
黒瀬は契約書の切れ端を封筒に入れ、鞄へしまう。
そして、仮設事務所の窓から横浜の海を見た。
朝の海は穏やかだった。
昨夜、人を貨物に変えようとした水面とは思えない。
「次は、普通の契約書だけ見たいですね」
彼はそう呟いて、ノートパソコンを閉じた。
休むためではない。
報告書を送信したからだ。
社畜は、怪異を処理した後でも、報告書の送信ボタンだけは押さなければならない。




