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横浜新港湾岸再開発地区-第九倉庫の自動署名

誰もいない会議室で、契約書だけが残業していた。


午前零時十三分。

横浜新港湾岸再開発地区。

旧第九号保税倉庫。


赤茶けた煉瓦風の外壁を持つその倉庫は、ノクティス・グローバル不動産が進める湾岸再開発計画の中核物件だった。


昼間は、観光客の笑い声が遠くから届く。


だが夜は違う。


海風がフェンスを鳴らし、港湾灯が白く滲み、倉庫の壁が濡れたように黒く沈む。


仮設会議室の長机には、一冊の契約書が置かれていた。


表紙には、こうある。


旧第九号保税倉庫跡地譲渡契約書。


その横に置かれた黒いボールペンが、ひとりでに動き出した。


かり。


かり。


かり。


署名欄に、名前が書かれていく。


高沢悠介。


ノクティス・グローバル不動産、湾岸再開発準備室。

昨日の午後まで、この会議室で契約書類の確認をしていた男の名前だった。


ボールペンは止まらない。


契約書のページが、風もないのにめくれた。


別紙。


譲渡資産明細。

土地。

建物。

付属設備。

旧貨物用エレベーター。

残置什器。


その一番下に、新しい行が増えた。


品名、高沢悠介。

重量、〇・〇七二トン。

状態、未通関。

保管場所、第九倉庫。

引渡予定、満潮時。


会議室の窓の外で、遠くの海が低く鳴った。

同時に、倉庫の奥から重い扉の開く音がした。


まるで、何か大きな荷物を受け入れる準備をしているように。


翌朝。


高沢悠介は、どこにもいなかった。


ただ、倉庫の奥にある古い木箱の取っ手に、彼の社員証だけが吊るされていた。


社員証には、赤い荷札が結ばれている。


そこには、印字されたような黒い文字で、こう書かれていた。


未通関。

所有者不明。

第九倉庫へ搬入済。



「横浜だ」


谷本課長は、会議室の前方で短く言った。


東京都港区。

ノクティス・グローバル不動産、日本支社。


第三資産管理部の会議室は、朝から妙な空気に包まれていた。


画面には、夜の倉庫が映っている。


海沿いの再開発地区。

フェンス。

仮設照明。

赤茶色の古い外壁。


そして、誰もいない会議室の机に置かれた契約書。

黒瀬透は、会議室の端で紙コップのコーヒーを持っていた。


まだ、甘い缶コーヒーの味が口の奥に残っている気がする。

長野の廃校案件から戻ったばかりだった。


正確には、戻ったというより、戻された。


報告書を書き、関係者に頭を下げられ、東京へ戻り、椅子に座ったら次の資料が来た。


会社員の怖いところは、怪異よりメールの方が速いことである。


「旧第九号保税倉庫跡地。湾岸再開発プロジェクトの一部だ。複合商業施設とホテル、イベントホールへの転用を予定している」


谷本が資料をめくる。

いつもより眉間の皺が深い。


「昨夜、湾岸再開発準備室の高沢悠介が行方不明になった。現地警察には届け出済み。ただし、現場に争った形跡はない」


画面が切り替わる。


古い木箱。

吊るされた社員証。

赤い荷札。

未通関。

所有者不明。

第九倉庫へ搬入済。


会議室の空気が、少し沈んだ。


若手社員の一人が、小さく呟く。


「悪質ないたずらじゃないんですか」


「俺もそう思いたかった」


谷本は低い声で答えた。


「ただ、監視カメラに妙なものが残っている」


映像が再生される。


午前零時十三分。

仮設会議室。


無人の机の上で、ボールペンが勝手に動いている。


署名欄に、高沢悠介の名前が書かれていく。


そのあと、契約書のページが勝手にめくれた。


譲渡資産明細。


そこに、高沢の名前と体重が記載される。


数秒後、会議室のドアが開いた。


映像の中に、高沢が入ってくる。


いや、違う。


高沢はすでに行方不明になっている。


その時間、彼は自宅に帰ったはずだった。


映像の中の高沢は、虚ろな顔で契約書を拾い上げる。


そして、会議室の奥にあるはずのない扉へ向かって歩いていく。


貨物用エレベーターのような、錆びた扉だった。


扉の上には、白い文字が浮かんでいる。


第九搬入口。

扉が開く。

中は真っ暗だった。

高沢はそこへ入った。

扉が閉じる。

映像はそこで途切れた。


誰も言葉を発しなかった。


谷本がリモコンを置く。


「旧図面上、その位置に扉はない。貨物用エレベーターも、少なくとも現存設備には含まれていない」


「現存設備には、ですか」


黒瀬が言った。


谷本がこちらを見る。


「昔はあった可能性がある。倉庫だからな。だが、今回の問題はそこじゃない」


画面が再び切り替わる。


契約書の写真。


署名欄には、複数の関係者名が並んでいる。


その一番下に、すでに名前があった。


黒瀬透。


会議室の数人が、気まずそうに黒瀬を見た。


黒瀬は紙コップを置いた。


「早いですね」


「感想がそれか」


谷本の声は少し荒かった。


黒瀬は肩をすくめる。


「契約書に名前が載るの、普通はもう少し手続きがあるので」


「そういう話じゃない」


谷本は資料を閉じた。


そして、会議室の空気を押しのけるように言った。


「黒瀬。今回は、お前に行けとは言わない」


会議室が静まった。


黒瀬も少しだけ目を上げた。


谷本は続ける。


「パレルモ、プラハ、長野。短期間で妙な案件が続きすぎてる。お前が平気な顔してるからって、こっちまで平気なわけじゃない」


「課長」


「俺は上に説明する。人が消えてるんだ。現地警察と本社法務で止める理由は立つ。お前が無理して行く必要はない」


谷本の声には、叱るような硬さがあった。


だが、その奥にあるのは明らかに心配だった。


黒瀬は少しだけ困った顔をした。


そういう顔をされる方が、怪異より対応に困る。


「お気遣いありがとうございます」


「気遣いじゃない。命令にしたいくらいだ」


「じゃあ、命令じゃないうちに行きます」


「おい」


「横浜なら近いですし。終電がある怪異は、まだ優しい方です」


「怪異とか言うな。会議室でそういう単語を普通に使うな」


「失礼しました。設備異常物件です」


「言い換えればいいと思うな」


何人かが、苦笑ともため息ともつかない息を漏らした。


黒瀬は契約書の写真を見た。


署名欄。

関係者名。

黒瀬透。


だが、黒瀬が見ていたのはそこではない。


署名欄の下。


小さな備考欄。


そこにだけ、他の名前とは違う役割が書かれている。


担保提供者(・・・・・)

黒瀬透。


首筋に、冷たい刃が触れた。


皮膚の上を、薄い氷で撫でられるような感触。


「……まあ」


黒瀬は小さく息を吐いた。


「放っておいても、こっちに来そうなので」


谷本の表情が険しくなる。


「何か分かってるのか」


「いえ。ただの勘です」


「黒瀬」


「はい」


「俺は、お前のそういうところが嫌いだ」


「傷つきますね」


「本気で言ってる」


谷本は、資料の束を黒瀬の前に置いた。


「行くなら、条件がある。現地で少しでも危ないと思ったら戻れ。勝手に奥へ入るな。夜間作業はするな。連絡は一時間ごとに入れろ」


「課長、それだと何も調査できない可能性があります」


「命がある方が大事だ」


「社会人っぽくない意見ですね」


「うるさい」


谷本は一瞬だけ目を伏せ、それから低く言った。


「お前は、便利屋じゃない。部下だ。そこだけ間違えるな」


黒瀬は何も返さなかった。


返す言葉が、すぐには見つからなかった。


代わりに、資料を持って立ち上がる。


「分かりました。できるだけ、普通の不動産調査として帰ってきます」


「できるだけじゃなく、必ず帰ってこい」


「善処します」


「善処で逃げるな」


谷本の声が、兄貴分のそれになっていた。


黒瀬は少しだけ笑った。


「じゃあ、契約書に書いておいてください」


「縁起でもないことを言うな」


会議はそこで終わった。


黒瀬は会議室を出る。


廊下の窓に、自分の姿が映っていた。


くたびれたスーツ。

眠そうな目。

どこにでもいる会社員。

その首に、誰にも見えない刃が添えられている。


そして、今回の契約書には、すでに自分の名前がある。


署名者ではなく。

担保提供者として。


「……また面倒な欄に入れられたな」


黒瀬は小さく呟いた。



横浜の夜は、海の匂いがした。


駅から湾岸地区へ向かうタクシーの窓の外で、観覧車の光がゆっくり回っている。


高層ビル。

ホテル。

ライトアップされた遊歩道。

観光客の声。


だが、再開発フェンスを一枚越えると、空気が変わった。


舗装の継ぎ目に溜まった雨水。

古い倉庫の黒い影。

大型トラックが通った後に残る、低い振動。

海に近い場所特有の、錆びた鉄と塩の匂い。


旧第九号保税倉庫は、華やかな港町から少しだけ外れた場所にあった。


赤茶けた外壁。

高い窓。

分厚い鉄扉。

壁には、古い番号札が残っている。


九。


白いペンキは剥がれ、数字の周囲だけが妙に黒ずんでいた。


「黒瀬さんですね」


フェンス前で待っていたのは、ノクティス横浜開発チームの社員だった。


志摩玲奈。

二十代後半くらいの女性で、紺色の現場用ジャケットを着ている。

髪を後ろでまとめ、手にはタブレットを持っていた。

顔色はあまりよくない。


「第三資産管理部の黒瀬です。遅くなりました」


「いえ。こんな時間に来ていただいて、すみません」


「横浜なので近いです。領収書も日本語ですし」


「そこですか?」


「重要です」


志摩は一瞬だけ笑いそうになったが、すぐに倉庫を見上げた。


「高沢さんは、私のチームの先輩です。昨日まで普通に話していました」


「最後に会ったのは?」


「昨日の十九時頃です。この倉庫の仮設会議室で契約書類を確認していました。高沢さんは先に帰ったはずです。入退館ログも、十九時四十二分に退館になっています」


「でも、監視映像には午前零時十三分に戻ってきている」


「はい」


「入館ログは?」


「ありません」


「なるほど」


「なるほど、なんですか」


「こういうの、ログがある時とない時で性格が変わるので」


「性格?」


「設備異常の話です」


「今、嘘つきました?」


「かなり薄めました」


志摩は困ったように眉を寄せた。


黒瀬は倉庫入口へ向かう。


ゲート横には、仮設の入退館システムが置かれていた。


志摩がタブレットを操作する。


「入館者として、黒瀬さんの名前を登録します」


「お願いします」


登録音が鳴る。


ぴ。


画面に表示された。


黒瀬透。

入館。


その瞬間、倉庫の奥から、かすかな紙の擦れる音がした。


かり。


黒瀬は顔を上げた。


「今、何か」


「聞こえましたか?」


「はい」


「私も、昨日から時々聞こえます。ペンで何かを書くような音です」


「嫌な労働音ですね」


「労働音?」


「誰もいない場所で書類仕事してる音は、だいたい嫌です」


志摩は返事に困った顔をした。


倉庫の中は、広かった。

天井が高く、鉄骨が暗闇に沈んでいる。

床には古いレール跡が走っていた。

壁際には木箱や錆びたラックが残っている。

一部は再開発準備のために整理され、仮設照明と養生シートが張られていた。


それでも、倉庫全体には古い港の空気が残っている。


荷物を待つ場所。


荷物を隠す場所。


荷物を誰かの所有物に変える場所。


「仮設会議室はこちらです」


志摩が案内した。


倉庫の一角に、白いパネルで仕切られた部屋がある。


中には長机、椅子、モニター、簡易複合機。

そして、机の中央に契約書が置かれていた。


旧第九号保税倉庫跡地譲渡契約書。


黒瀬は近づく前に足を止めた。


「触っていませんよね」


「はい。警察が確認した後、そのままです」


「声に出して読んだりは?」


「していません」


「よかったです」


「読んだら駄目なんですか?」


「まだ分かりません。ただ、契約書は読んだだけで確認済みにされることがあります」


「普通の契約でもそうですね」


「普通じゃない場合は、もっと面倒です」


黒瀬は手袋をはめた。


契約書を開く。


署名欄には、関係者の名前が並んでいた。


高沢悠介。

志摩玲奈。

他数名。


そして、黒瀬透。


だが、やはり違う。


高沢や志摩の名前は、署名欄にある。


黒瀬の名前だけは、担保提供者欄にあった。


「俺、担保になった覚えないんですが」


「担保?」


志摩が覗き込む。


その瞬間、契約書の紙面が波打った。


黒いインクが滲む。


志摩玲奈。


彼女の名前の横に、小さな印が浮かび上がった。


確認中。


同時に、志摩の右手首に、白い紙片が現れた。


荷札だった。


細い紐が、いつの間にか手首に巻きついている。


志摩が息を呑んだ。


「なに、これ」


黒瀬が彼女の手首を掴む。


荷札には黒い文字が印字されていく。


検品前。

重量未確定。

第九倉庫保管予定。


志摩の顔から血の気が引いた。


「黒瀬さん」


「落ち着いてください」


「落ち着ける状況じゃないです」


「はい。なので、慌てないでください」


「同じでは?」


「業務上は違います」


黒瀬は荷札に触れない。


代わりに、契約書のページをめくった。


別紙。


譲渡資産明細。

土地、建物、設備。


その下に、人の名前がある。


高沢悠介。


志摩玲奈。


さらに空白の行。


黒瀬透。


ただし、黒瀬の欄だけはまだ薄い。


「署名じゃない」


黒瀬は呟いた。


「え?」


「これは、署名させてるんじゃない」


契約書の端で、黒いインクが蠢く。


黒瀬は眠そうな目のまま、それを見つめた。


「人間を、明細に移してる」


会議室の照明が、一度だけ瞬いた。


倉庫の奥で、重い金属音がした。


がこん。


まるで古い搬入口の扉が、少しだけ開いたような音だった。



「第九搬入口?」


志摩はタブレットで図面を開いた。


黒瀬と志摩は、仮設会議室を出て倉庫内を歩いていた。


会議室の中に長くいるのは危険だと、黒瀬が判断したからだ。


志摩の手首には、まだ荷札がある。


引っ張っても外れない。

ハサミを入れようとすると、刃の方が欠けた。


「現行図面にはありません。旧図面にも、少なくとも確認済み資料にはありません」


「確認済み資料には」


「未整理の資料が、奥の旧事務室に残っています」


「行きましょう」


「大丈夫なんですか?」


「大丈夫じゃないので、資料を探します」


「黒瀬さん、言い方」


「すみません。前向きに危険です」


「もっと嫌です」


二人は倉庫奥の旧事務室へ向かった。


錆びた扉を開けると、古い紙と湿気の匂いが押し寄せた。


木製の棚。

崩れかけた段ボール。

鉄製の書庫。

壁には、旧第九号保税倉庫と書かれた古い札が残っている。


黒瀬は懐中電灯を向け、棚の書類を確認した。


貨物目録。

入庫台帳。

差押品記録。

保管料請求書。

所有者不明貨物一覧。


「港っぽいですね」


「ここは元々、港湾倉庫ですから」


「ええ。港は、入ってきたものに名前をつける場所です」


「名前を?」


「誰の荷物か。どこから来たか。どこへ行くか。何キロか。税金はいくらか。保管するのか、引き渡すのか」


黒瀬は古い目録を開く。


紙は湿気を吸って波打っていた。


昭和二十年代。

三十年代。

外国製の機械部品。

繊維。

酒類。

骨董品。

所有者不明貨物。

差押貨物。


その中に、妙な項目が混ざっていた。


品名、男一名。

重量、〇・〇六一トン。

状態、未通関。

備考、言語不明。


黒瀬の指が止まる。


次のページ。


品名、女一名。

重量、〇・〇四九トン。

状態、所有者不明。

備考、引取人なし。


志摩が口元を押さえた。


「これ、人のことですか」


「たぶん」


「そんな」


「昔の記録は、たまに人間を物みたいに扱います」


黒瀬はさらにページをめくる。


同じような記録がいくつも続く。


人名ではない。


品名として、人間の特徴だけが記録されている。


男一名。

少年一名。

身元不明。

所有者不明。

未通関。

引渡済。


「ひどい」


志摩の声が震えた。


「これが本当なら、事件ですよ」


「本当でも、昔すぎる。記録も薄い。会社の調査では、ただの不適切な旧資料扱いになるでしょうね」


「そんな言い方」


「すみません」


黒瀬は書類を閉じた。


「でも、怪異はこういう薄められた記録が好きです」


事務室の奥で、紙が擦れる音がした。


かり。


かり。


志摩が黒瀬の袖を掴む。


「また」


「はい」


「会議室からですよね?」


「いえ」


黒瀬は奥の壁を見た。


書庫の裏。


そこに、細い隙間がある。


現行図面にはない空間。


黒瀬は書庫を押した。


重い。


志摩も手伝う。


軋む音とともに書庫がずれ、裏に小さな扉が現れた。


錆びた鉄扉。


上部に、白い文字。


第九搬入口。


志摩の呼吸が止まった。


「映像の扉……」


「出ましたね」


「どうしますか?」


「開けない方がいいです」


「じゃあ、戻りますか?」


「いえ。開けずに調べます」


「そんなことできます?」


「できる範囲で」


黒瀬は扉の表面をライトで照らした。


鉄扉には、無数の傷がついていた。


爪痕のようにも見える。


文字のようにも見える。


その中央に、小さな銘板がある。


満潮時開放。


黒瀬は腕時計を見た。


「満潮まで、あと二十分くらいですね」


「調べてる場合ですか?」


「かなりないです」


扉の向こうで、水音がした。


ざざ。


ざざ。


ここは倉庫の奥だ。


海は、フェンスの向こうにある。


それでも、扉の向こうから潮の匂いが濃く流れ込んでくる。


志摩の手首の荷札に、新しい文字が浮かんだ。


検品済。

引渡待ち。


志摩が悲鳴を押し殺した。


黒瀬は荷札を見る。


「進んでますね」


「どうすれば止まりますか」


「手続きのどこかを否定します」


「手続き?」


「はい。これは呪いというより、業務フローです」


「嫌な業務ですね」


「かなりブラックです」


その瞬間、倉庫内のスピーカーが鳴った。


電源は入っていないはずだった。


ざり。


ざり。


古いノイズ。


そして、低い声。


『引渡確認をお願いします』


志摩の口が反射的に開きかける。


黒瀬が短く言った。


「返事しない」


志摩は唇を噛んだ。


スピーカーの声が続く。


『引渡確認をお願いします』


今度は、タブレットが震えた。


画面に電子承認のポップアップが出ている。


第九倉庫残置資産引渡確認。


承認しますか?


はい。


いいえ。


志摩の指が、画面へ吸い寄せられる。


黒瀬がタブレットを取り上げた。


「押さないでください」


「でも、手が勝手に」


「会社の承認フローって、そういうところありますよね」


「今それ言います?」


「はい。たぶん、この怪異は現代の承認フローにも乗ってます」


黒瀬はタブレットの画面を見た。


承認者欄。

志摩玲奈。


立会人欄。

高沢悠介。


担保提供者欄。

黒瀬透。


黒瀬は小さく眉を動かした。


「高沢さん、まだ立会人扱いか」


「生きてるんですか?」


「可能性はあります。完全に引き渡されていなければ」


「完全に、というのは」


扉の向こうで、金属が軋んだ。


がこん。


第九搬入口が、内側から叩かれた。


志摩の荷札に、最後の一行が印字される。


引渡時刻、満潮。


「今です」


黒瀬が言った。



第九搬入口が開いた。


扉の向こうに、海があった。


あり得ない。


倉庫の奥にある小部屋の扉だ。


外壁に面してすらいない。


それなのに、扉の向こうには夜の海が広がっている。


黒い水面。

白い霧。

古い桟橋。


そして、海へ続く貨物用の木製スロープ。


スロープの上には、人影が立っていた。


顔の見えない倉庫番のような影。


作業服。


古い帽子。


片手には、貨物用のフック。


もう片方の手には、分厚い台帳。


影が台帳を開く。


『未通関貨物、引渡時刻です』


志摩の身体が、ふらりと扉へ向かった。


黒瀬が腕を掴む。


しかし、足元の床に白い線が走った。


貨物用の誘導線。


志摩の靴が、その線に沿って滑るように動く。


「黒瀬さん!」


「引っ張らないでください。腕が抜けるかもしれません」


「怖いことを冷静に言わないでください!」


「すみません。怖いですよね」


「はい!」


「俺も嫌です」


黒瀬は志摩の腕を掴んだまま、もう片方の手で契約書のコピーを広げた。


仮設会議室から持ち出していたものだ。


契約書の表面に、黒いインクが走る。


売主。

第九倉庫管理組合。


買主。

ノクティス・ベイフロント開発合同会社。


譲渡対象。

旧第九号保税倉庫跡地、建物、付属設備、残置資産、未通関貨物一式。


「見えてきました」


黒瀬が呟く。


影がフックを鳴らした。


かん。


『譲渡対象物を引き渡します』


「違う」


黒瀬は顔を上げた。


「これは土地売買契約じゃない」


影の動きが止まる。


志摩を引く力も、わずかに弱まった。


黒瀬は契約書を見下ろす。


「最初は、自動署名の怪異だと思いました。誰かの名前を署名欄に書いて、契約当事者にするものだと」


倉庫内の照明がちらつく。


「でも違う。高沢さんも志摩さんも、途中から署名欄じゃなく明細に移っている。重さまで書かれている。人間を契約者にしているんじゃない」


黒瀬は扉の向こうの影を見た。


「人間を、貨物にしている」


海霧が濃くなった。


スロープの上に、いくつもの木箱が浮かぶ。


その一つに、高沢悠介の社員証が貼られていた。


箱の中から、微かな声がする。


出してくれ。


志摩が息を呑む。


「高沢さん……!」


「まだ間に合うかもしれません」


影が台帳を閉じた。


『記録があります』


「記録はあります」


黒瀬は頷く。


『署名があります』


「署名もあります」


『引渡対象です』


「そこが違う」


黒瀬の声が低くなった。


「人間は貨物じゃない」


倉庫全体が軋んだ。


壁の古い番号札が震える。


九。


九。


九。


何度も揺れる。


影の声が、低く歪んだ。


『所有者不明』


「所有者不明にしたのは、お前たちだ」


『未通関』


「人間に通関も未通関もない」


『残置資産』


「生きている人間を、土地の付属物にするな」


志摩の荷札に亀裂が入る。


だが、まだ切れない。


黒瀬の首筋に、不可視の刃が触れた。


冷たい。


しかし、まだ動かない。


処刑には、もう一つ必要だった。


ルールの芯。


この怪異が、何を装い、どこで歪んでいるのか。


黒瀬は契約書の売主欄を指で叩いた。


「第九倉庫管理組合」


影がわずかに揺れた。


「この組合、もう存在しませんね」


志摩が顔を上げる。


「え?」


「旧資料で見ました。昭和二十年代に解散している。少なくとも、現在この土地を売る権限はない」


契約書の文字が滲む。


「存在しない法人が、存在しない搬入口から、所有できない人間を、所有者不明貨物として引き渡そうとしている」


海が荒れ始めた。


扉の向こうで、黒い波がスロープを叩く。


黒瀬は続ける。


「しかも、これは保税倉庫の手続きですらない。通関のふりをしているだけだ。やっているのは、土地に残った負債を、現代の関係者へ移すこと」


『引渡』


「違う」


黒瀬は静かに言った。


「押し付けだ」


その瞬間、首筋の刃が、一瞬だけ離れた。


代わりに、倉庫の床下から重い金属を引きずる音が響く。


ずるり。


ずるり。


古い倉庫の床板が、巨大な処刑台のように軋んだ。


志摩が息を止める。


黒瀬の背後に、何かが立ち上がる。


見えない。


だが、そこにある。


倉庫の天井より高く、海霧より冷たい、不可視の大鉈。


黒瀬は契約書を片手に持った。


「罪状確定」


影がフックを振り上げた。


黒瀬は動かない。


「人身の貨物化。所有権の偽造。存在しない法人による不当譲渡」


倉庫内の書類が、一斉に舞い上がる。


契約書。

貨物目録。

入庫台帳。

差押記録。

所有者不明貨物一覧。


すべてが黒瀬の周囲を回り始めた。


「アラストル」


不可視の刃が、持ち上がる。


空気が裂けた。


海霧が真っ二つに割れる。


影が初めて後ずさる。


『契約は』


「成立してません」


黒瀬は、最後の一言を落とした。


「執行」


不可視の処刑鉈が振り下ろされた。


切ったのは、倉庫ではない。


契約書でもない。


人間を未通関貨物として扱い、土地の負債ごと譲渡する、その所有権移転ルールだった。


まず、契約書の譲渡資産明細が裂けた。


土地。

建物。

設備。

残置資産。


その下に書かれていた人名だけが、黒い糸のようにほどけて消える。


志摩玲奈。

高沢悠介。


黒瀬透。


荷札が真っ二つに切れた。


志摩の手首から紙片が落ちる。


それは床に着く前に、ただの白い紙になった。


第九搬入口の向こうで、海が割れた。


黒い水面に、見えない刃の跡が走る。


スロープが裂ける。


木箱が割れる。


箱の中から、人影が転がり出た。


高沢悠介だった。


顔色は悪い。


だが、息をしている。


倉庫番の影が台帳を抱えたまま叫んだ。


声は、人の声ではなかった。


紙を破る音。


錆びた扉の悲鳴。


波に沈む荷物の音。


それらが混ざった、古い倉庫そのものの声だった。


『未処理貨物が』


「未処理のままでいい」


黒瀬は淡々と言った。


「少なくとも、生きている人間で処理するな」


見えない刃が、もう一度動いた。


倉庫番の影は、縦に裂けた。


同時に、背後の台帳も裂ける。


貨物目録に記された「男一名」「女一名」「所有者不明」という文字が、黒い煙になって剥がれていく。


海霧の奥で、いくつもの人影が立ち上がった。


古い服を着た者。

濡れた髪の者。

顔の分からない者。


彼らは誰も、黒瀬を見なかった。


ただ、海の方へ歩いていく。


今度は、誰かの荷物としてではなく。


自分の足で。


第九搬入口が、音もなく閉じた。


倉庫の奥には、ただの錆びた鉄扉だけが残っていた。


銘板の文字は消えている。


満潮時開放。


―――その文字も、もうない。



「高沢さん!」


志摩が駆け寄った。


高沢悠介は、倉庫の床に倒れていた。


意識は朦朧としているが、生きている。


唇がかすかに動いた。


「箱の中に……いた」


志摩が泣きそうな顔になる。


「救急車を呼びます」


「お願いします」


黒瀬は割れた契約書を拾い上げた。


表紙は破れている。


署名欄も、譲渡資産明細も、ほとんど白紙になっていた。


ただ、一箇所だけ文字が残っている。


担保提供者。

黒瀬透。


その下に、新しい文字が浮かんだ。


未確定罪状:担保提供記録(・・・・・・)あり。


黒瀬の首筋に、不可視の刃が戻った。


皮膚一枚の上。


いつでも落とせる場所。


いつも通り。


だが、今回は少し違った。


刃の根元にある黒い紋様が、熱を持ったように疼く。


処刑人の印。


そして、契約書のさらに下。


黒いインクが、一瞬だけ滲んだ。


保証対象。


■■■■。


文字はすぐに消えた。


読めなかった。


あるいは、読まない方がよかった。


黒瀬は契約書を閉じる。


「……担保って、だいたい回収される時が一番面倒なんですよね」


誰も答えなかった。


遠くで救急車のサイレンが聞こえ始める。


志摩が高沢のそばでこちらを見た。


「黒瀬さん。今のは、何だったんですか」


黒瀬は少し考えた。


「契約関連資料の権限確認不備です」


「絶対違いますよね」


「あと、旧倉庫内資料の管理不備」


「それも違います」


「満潮時における設備異常」


「報告書ですか?」


「はい」


志摩は疲れた顔のまま、少しだけ笑った。


「かなり薄めましたね」


「濃いままだと、通らないので」



翌朝。


旧第九号保税倉庫は、ただの古い倉庫に戻っていた。


錆びた鉄扉。

湿った床。

潮の匂い。

改修費のかかりそうな外壁。

残置物だらけの事務室。


それ以上でも、それ以下でもない。


高沢悠介は病院へ搬送された。


命に別状はない。


ただ、目を覚ました後も、しばらく同じことを繰り返していたらしい。


「ずっと箱の中で、波の音がしていた」


旧事務室から見つかった貨物目録は、横浜開発チームと法務部で再調査されることになった。

再開発計画は一時凍結。

少なくとも、旧第九号保税倉庫の解体は延期された。


黒瀬は倉庫近くの仮設事務所で、ノートパソコンを開いていた。


原因欄に、こう入力する。


「契約関連資料の権限確認不備、旧倉庫内資料の管理不備、および満潮時における設備異常」


少し考えてから、追記する。


「旧第九号保税倉庫内の未整理台帳については、再開発着手前に専門家立会いのもと保全・確認を行うこと」


嘘ではない。

かなり薄めた本当だ。


スマートフォンが震えた。


谷本課長からだった。


「はい、黒瀬です」


『生きてるか』


第一声がそれだった。


黒瀬は窓の外の海を見た。


朝の横浜は明るい。


昨夜の海霧が嘘のようだった。


「はい。今のところ」


『今のところじゃなくて、ちゃんと生きてろ』


「難しい要求ですね」


『難しくするな』


谷本の声には、明らかに安堵が混じっていた。


それを隠すように、少し乱暴な口調になっている。


『高沢も見つかったと聞いた。志摩さんからも連絡があった。お前がいなかったら危なかったらしいな』


「設備異常に対応しただけです」


『その設備異常で人が消えるんだろうが』


「最近の設備は高性能なので」


『茶化すな』


黒瀬は黙った。


谷本も、一瞬黙った。


そして、声を少し落とした。


『黒瀬。今日はもう帰れ。報告書は最低限でいい。午後は休みにする。これは命令だ』


「午後だけですか」


『一日休めと言いたいところだが、お前どうせ変な顔するだろ』


「変な顔はしてないと思います」


『してる。休みの取り方を知らない社畜の顔だ』


黒瀬は少しだけ笑った。


「では、午後休で」


『明日も午前は出てくるな』


「課長、優しいですね」


『部下を使い潰す趣味はない』


「会社員としては珍しいタイプです」


『お前な』


谷本はため息をついた。


『とにかく、戻ったら一回顔を見せろ。無事確認くらいさせろ』


「承知しました」


『あと、黒瀬』


「はい」


『お前が何を抱えてるのか、俺は知らん。言えないこともあるんだろう。だが、危ない時は危ないと言え。上司をただの承認印だと思うな』


黒瀬は、返事を忘れた。


窓ガラスに、自分の姿が映っている。


冴えない会社員。

くたびれたスーツ。

眠そうな目。


その首に、誰にも見えない刃。


そして、その下に残る黒い紋様。


担保提供者。

黒瀬透。


黒瀬は、ゆっくりと息を吐いた。


「……ありがとうございます」


電話の向こうで、谷本が少しだけ黙った。


『礼を言うくらいなら、ちゃんと休め』


「善処します」


『善処禁止だ』


通話が切れた。


黒瀬はスマートフォンを机に置いた。


その隣には、昨夜の契約書の切れ端がある。


担保提供者。

黒瀬透。


文字は、もう動かない。


だが、紙の端に、小さな一行だけが残っていた。


執行猶予:継続。


黒瀬の首筋に、刃が静かに触れる。


それは、いつも通りの冷たさだった。


ただ、今回は。


―――ほんの少しだけ、重かった。


黒瀬は契約書の切れ端を封筒に入れ、鞄へしまう。


そして、仮設事務所の窓から横浜の海を見た。


朝の海は穏やかだった。


昨夜、人を貨物に変えようとした水面とは思えない。


「次は、普通の契約書だけ見たいですね」


彼はそう呟いて、ノートパソコンを閉じた。


休むためではない。


報告書を送信したからだ。


社畜は、怪異を処理した後でも、報告書の送信ボタンだけは押さなければならない。

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