旧神無木第三小学校跡地-鏡の中の出席簿
廃校の監視カメラには、誰もいない教室が映っていた。
ただし、壁の鏡の中だけは別だった。
鏡の中では、授業が行われていた。
木の机。
小さな椅子。
黒板の前に立つ女教師。
椅子に座る、ランドセルを背負った子どもたち。
全員が、こちらを向いている。
そして一番後ろの席だけが、空いていた。
机の上には、白い紙が貼られている。
そこに、黒い墨で名前が書かれていた。
黒瀬透。
鏡の中の教師が、ゆっくりと出席簿を開いた。
映像に音声はない。
それでも、口の動きだけは分かった。
くろせ、とおる、くん。
黒瀬は空港のベンチで、スマートフォンの画面を見つめた。
プラハから帰国したばかりだった。
スーツケースは足元。
首元にはまだ、見えない刃の冷たさが残っている。
黒瀬はしばらく黙ってから、スマートフォンを閉じた。
「帰国して五分でこれか」
そして、小さく息を吐く。
「せめて入国審査くらい通ってから呼んでほしいな」
◇
ノクティス・グローバル不動産、日本支社。
翌朝の会議室には、妙な気まずさが漂っていた。
理由は簡単だ。
黒瀬透が、昨日までチェコの曰く付きホテル案件に行っていたからである。
そして今、画面には国内の廃校が映っている。
誰かが小声で言った。
「黒瀬、帰ってきたばかりじゃないのか」
「帰ってきましたね」
黒瀬は紙コップのコーヒーを持ったまま答えた。
「体調は?」
「時差ぼけ以外は普通です」
「普通の基準がもう分からん」
会議室の前方で、三谷課長が資料を操作した。
「今回の案件は、長野県神無木村にある旧神無木第三小学校跡地だ。弊社が取得し、企業研修施設兼グランピング施設として再開発する予定だった」
画面に木造校舎が映る。
山の中の小さな学校だった。
校庭は雑草に覆われている。
錆びた鉄棒。
傾いた朝礼台。
校舎の窓は一部ベニヤ板で塞がれていた。
日本の田舎にある、よくある廃校。
そう見える。
「現地調査に入った測量業者一名、施工管理会社の担当者一名、弊社現地スタッフ一名が失踪している」
会議室が静かになった。
「失踪?」
「警察には届け出済みだ。ただ、現場に争った形跡はない。監視カメラだけが残っている」
三谷課長が映像を切り替える。
教室。
古い鏡。
鏡の中だけに映る、子どもたち。
何人かが息を呑んだ。
「……加工じゃないんですか」
「現地警察も、最初はそう見た。だが、映像データに改ざんの痕跡はないそうだ」
「いや、でも鏡だけって」
「それと、失踪した三名の名前が、校舎内に残っていた古い出席簿に追記されていた」
画面が切り替わる。
黄ばんだ出席簿。
鉛筆で書かれた名前。
三人の名前には、赤い丸がついていた。
「赤い丸は?」
「出席、の意味らしい」
誰も何も言わなかった。
学校。
出席簿。
鏡。
消えた大人たち。
嫌な材料が、きれいに揃っている。
黒瀬はコーヒーを飲んだ。
ぬるかった。
「黒瀬君」
三谷課長が、言いにくそうにこちらを見る。
「疲れているところ申し訳ないが」
「あ、俺いきます」
早かった。
会議室の全員が、またか、という顔をした。
三谷課長だけが眉間を押さえる。
「まだ何も言ってない」
「誰でもいいんでしょう?」
「いや、今回も誰でもいいわけじゃない」
「じゃあ俺で」
「その理屈は何なんだ」
「慣れてるので」
黒瀬は画面の鏡を見た。
鏡の中の子どもたちは、映像の中で動かない。
ただ、こちらを見ている。
一番後ろの空席。
黒瀬透。
「それに、もう名前呼ばれてるみたいなので」
「名前?」
「いえ。こっちの話です」
黒瀬は立ち上がった。
「今日中に現地入ります。新幹線なら夕方前には着けるので」
「本当に大丈夫か?」
「はい。国内なので、領収書が日本語です」
「判断基準がそこなのか」
「かなり重要です」
黒瀬はそう言って、資料を受け取った。
首筋に、薄い刃が触れている。
いつもより、ほんの少しだけ冷たい。
◇
神無木村は、山の影に沈む村だった。
駅から車で四十分。
道は細く、ガードレールの向こうには深い谷が続いている。
六月の終わりだというのに、山の空気は湿って冷えていた。
黒瀬を迎えたのは、地元役場の職員だった。
「榊原真帆です。今回、村側の窓口を担当しています」
三十歳前後の女性だった。
黒い髪を後ろで一つに結び、現場用のジャンパーを着ている。
真面目そうだが、目の下に濃い疲れがあった。
「ノクティスの黒瀬です。よろしくお願いします」
「遠いところをすみません」
「いえ。昨日はもっと遠かったので」
「海外出張帰りだと聞きました」
「はい。時差ぼけで、今なら多少の怪奇現象は夢で済ませられます」
榊原は一瞬だけ笑いかけて、すぐに表情を戻した。
「冗談を言える状況なら、少し安心しました」
「冗談を言わないと、だいぶ嫌な状況なので」
車は山道をさらに登った。
やがて、杉林の切れ目に校舎が見えた。
旧神無木第三小学校。
木造二階建ての小さな校舎。
正面玄関の上には、色褪せた校章。
校庭の隅には、半分土に埋もれた百葉箱がある。
校舎の背後には、濃い杉林が迫っていた。
人の気配はない。
ただ、校舎の二階の窓に、一瞬だけ白いものが見えた。
カーテンではない。
小さな手だった。
黒瀬は見なかったことにした。
「ここ、元々は学校用地だったんですか」
榊原が鍵を取り出しながら答える。
「いいえ。昔は村の祠があった場所だそうです」
「祠」
「帰り子様、と呼ばれていました」
「帰り子様」
黒瀬はその言葉を繰り返した。
「かわいい名前ですね」
「名前だけは」
「最近、そういうの多いな」
「え?」
「いえ」
玄関の鍵が開いた。
中に入ると、古い木の匂いがした。
湿気。
埃。
かすかなカビ。
それに、チョークの粉の匂い。
廃校になって十年以上経っているはずなのに、学校の匂いだけは残っている。
廊下には、子どもたちの絵がまだ貼られていた。
山。
川。
運動会。
笑顔の家族。
そのどれもが、少しずつ色褪せている。
「失踪した人たちは、どこで最後に確認されました?」
「二階の三年一組です。監視カメラの映像では、三人とも午後三時三十三分に教室へ入っています」
「三時三十三分」
「はい。そのあと、鏡の前で立ち止まって、消えました」
「消えた?」
「映像では、そう見えます」
榊原の声が小さくなる。
「でも実際の教室には、誰もいませんでした」
二階の階段は、歩くたびにぎしぎしと鳴った。
廊下の突き当たりに、三年一組の札が残っていた。
黒瀬は扉の前で足を止める。
「榊原さん」
「はい」
「中で名前を呼ばれても、返事しないでください」
「名前を?」
「はい」
「なぜですか」
「学校なので」
「学校なので?」
「名前を呼ばれて返事をすると、だいたい出席になります」
榊原は顔を引きつらせた。
「それ、冗談ですか」
「半分くらいは」
「残り半分は」
「業務上の注意です」
黒瀬は扉を開けた。
三年一組の教室は、映像で見た通りだった。
机はほとんど撤去されている。
床には枯れ葉が散っている。
黒板には、誰かが昔書いた落書きが薄く残っていた。
そして教室の後ろの壁に、大きな姿見がかかっていた。
古い鏡だった。
木枠は黒ずみ、上部には小さな注連縄が巻かれている。
学校の備品にしては、明らかに異質だった。
黒瀬は近づきすぎない位置で止まった。
鏡には、現実の教室が映っている。
無人の教室。
黒瀬。
榊原。
今のところ、それだけだ。
「この鏡、最初からここに?」
「村の資料では、昭和五十六年に移されたとあります」
「祠から?」
「たぶん」
「たぶん?」
「詳しい記録がないんです。ただ、この学校が建ったとき、裏山の祠を移したという話は残っています」
「そういう記録は、だいたい薄い方が嫌ですね」
黒瀬は教室の隅に置かれた段ボール箱を見た。
中には古い教材や日誌が詰められている。
「見ても?」
「お願いします」
黒瀬は手袋をはめて、資料をめくった。
学級日誌。
職員会議録。
出席簿。
昭和五十六年。
ページを開いた瞬間、空気が少し冷えた。
出席番号。
名前。
日付。
出欠。
ところどころに、赤い丸がある。
欠席ではない。
出席でもない。
赤い丸の横に、小さく文字が書かれていた。
帰。
「帰、ですか」
榊原が覗き込む。
「帰り子様の帰、でしょうか」
「おそらく」
黒瀬はページをめくった。
十月十三日。
その日だけ、赤い丸が異様に多い。
出席者よりも、帰の印が多い。
そして欄外に、教師の字で一文が書かれていた。
“数が合わない。鏡で確認。”
黒瀬の目が細くなる。
「数が合わない」
その時、校舎のどこかでチャイムが鳴った。
きん、こん、かん、こん。
古い学校のチャイム。
榊原が肩を震わせる。
「電気は止めているはずです」
「でしょうね」
黒瀬は腕時計を見た。
午後三時三十三分。
鏡の中で、教室の明かりが点いた。
現実の教室は薄暗いままだ。
だが鏡の中だけ、夕方の光が差している。
机が並んでいた。
子どもたちが座っていた。
黒板には、白いチョークで日付が書かれている。
昭和五十六年十月十三日。
鏡の中の教師が、教壇に立っていた。
髪を後ろで束ねた、若い女教師。
顔はぼやけて見えない。
教師は出席簿を開いた。
榊原の唇が震える。
「これが……映像の」
「はい。見すぎないでください」
「でも、あそこに」
鏡の中の一番後ろ。
空席が二つあった。
一つには、黒瀬透。
もう一つには、榊原真帆。
白い紙が貼られている。
榊原が息を呑んだ。
鏡の中の教師が、口を開く。
さかきばら、まほ、さん。
音はない。
それでも、耳の奥で声が響いた気がした。
榊原の口が、反射的に動く。
「は――」
黒瀬が、彼女の手首を掴んだ。
「返事しない」
榊原の声が止まった。
鏡の中の子どもたちが、一斉にこちらを向く。
笑っていない。
怒ってもいない。
ただ、待っている。
返事を。
出席を。
黒瀬は鏡に向かって、ゆっくりと言った。
「すみません。今日は見学です」
鏡の中の教師の首が、わずかに傾く。
次に呼ばれた名前は、黒瀬だった。
くろせ、とおる、くん。
黒瀬は返事をしなかった。
代わりに、出席簿を持ち上げる。
「確認します」
鏡の中の教師が、動きを止めた。
「これは授業じゃないですね」
教室の温度が下がった。
榊原が、黒瀬の袖を掴む。
「何が分かったんですか」
「まだ途中です。でも、少なくともこれは学校の怪談じゃない」
黒瀬は出席簿の赤い丸を指した。
「学校のふりをした、もっと古いものです」
チャイムがもう一度鳴った。
今度は、終業ではない。
始業のチャイムだった。
鏡の中の子どもたちが、机を叩き始める。
とん。
とん。
とん。
小さな手が、一定のリズムで机を叩く。
とん。
とん。
とん。
それは拍手ではない。
太鼓の音に似ていた。
神楽の拍子。
黒瀬は窓の外を見た。
校舎の裏。
杉林の奥に、小さな祠が見える。
「榊原さん。裏の祠、案内できますか」
「今ですか?」
「はい」
「鏡は?」
「長居すると、着席を勧められそうなので」
鏡の中で、黒瀬の席の椅子が少しだけ引かれた。
ぎい、と音がした。
現実の教室にも、その音だけが響いた。
黒瀬は眠そうな目で鏡を見た。
「座りませんって」
◇
校舎裏の祠は、杉林の中にあった。
小さな石の祠。
朽ちた木の鳥居。
注連縄は古く、紙垂は雨で溶けかけている。
祠の前には、丸い石が十三個並んでいた。
子どもの頭ほどの大きさの石だ。
それぞれに、薄く名前が刻まれている。
雨風でほとんど読めない。
榊原が懐中電灯を向ける。
「これ、子どもの名前ですか」
「たぶん」
「十三個」
「出席簿の“帰”の数と合います」
黒瀬は石の列を見た。
十三個の石。
十月十三日。
午後三時三十三分。
三という数字が重なっている。
だが本質は数字ではない。
数えること。
人数を合わせること。
「帰り子様の資料はありますか」
「村誌なら、役場からコピーを持ってきています」
榊原は鞄からファイルを取り出した。
黒瀬はページをめくる。
帰り子様。
山で迷った子ども、川で流された子ども、飢饉で失われた子ども。
帰ってこない子の名を鏡に映し、村人が一人ずつ呼ぶ。
呼ばれた名に返事がなければ、赤い丸をつける。
それで、その子は“こちらにいない”と認められる。
つまり、本来は死者を死者として弔う儀式だった。
帰ってこない子を、無理に帰さないための儀式。
黒瀬はページを止めた。
そこに、気になる一文があった。
“数を違えるな。違えれば、帰る子と帰らぬ子が入れ替わる。”
榊原が青ざめる。
「入れ替わる……」
「そういう思想だったんでしょうね。死者の数を間違えると、生者が向こうへ持っていかれる」
「でも、今は子どもじゃなくて大人が」
「学校になったからです」
黒瀬は校舎を見上げた。
「祠の鏡を学校に移した。毎日、先生が出席を取る。名前を呼ぶ。返事をする。欠席を確認する」
風が杉の葉を揺らした。
ざわざわと、子どもの囁きのような音がした。
「弔いの儀式と、学校の出席確認が混ざったんです」
榊原は祠の石を見た。
「じゃあ、あの子たちは」
「帰ってこなかった子どもたち、でしょうね」
「助けられますか」
「難しいです」
黒瀬は即答した。
榊原が息を詰める。
黒瀬は続ける。
「死んだ人間を現実に戻す話じゃない。これは、死者の弔いが壊れて、生者を巻き込んでいる状態です」
「では、失踪した三人は」
「まだ完全に編入されていなければ、戻せる可能性はあります」
「完全に、というのは?」
その時、校舎から声が聞こえた。
子どもたちの声だった。
小さく、揃った声。
せんせい、たりません。
せんせい、まだ、たりません。
榊原が振り返る。
二階の三年一組の窓に、子どもの影が並んでいた。
現実の窓だ。
鏡の中ではない。
黒瀬は顔を上げる。
「時間が進んでますね」
「何の時間ですか」
「六時間目の終わりまで、だと思います」
「終わると?」
「帰れなくなる」
黒瀬は祠の前にしゃがんだ。
十三個の石。
その後ろに、小さな空白があった。
十四個目を置けるだけの隙間。
そこに、新しい石が置かれかけている。
まだ名前は刻まれていない。
だが表面に、薄く線が浮かんでいた。
榊原真帆。
榊原の顔から血の気が引いた。
「私の名前……」
「まだ途中です」
黒瀬は石に触れず、立ち上がった。
「出席簿に戻ります」
「大丈夫なんですか」
「大丈夫かどうかは、戻ってから考えます」
「軽いですね」
「重く考えると、足が止まるので」
二人は校舎へ戻った。
廊下には、さっきまでなかった足跡があった。
小さな裸足の跡。
濡れている。
山の泥の匂いがした。
三年一組の扉は、開いていた。
中から、授業の声が聞こえる。
今度は音がある。
「榊原真帆さん」
女教師の声。
「榊原真帆さん」
榊原が耳を塞ぐ。
「聞こえる……」
「返事しないでください」
「でも、頭の中に」
「はい。出席確認なので、聞こえるようにしてきます」
黒瀬は教室に入った。
鏡の中の教室は、さっきより現実に近づいていた。
机の影が床に映っている。
チョークの粉が、現実の黒板受けに落ちている。
鏡の中の子どもたちの視線が、皮膚に刺さる。
女教師が、出席簿を開いている。
そして、現実の机の一つに、白い紙が置かれていた。
榊原真帆。
黒瀬はそれを拾おうとした。
その瞬間、鏡の中の子どもたちが一斉に叫んだ。
だめ。
だめ。
それ、まほちゃんのせき。
榊原の身体が、ふらりと鏡に向かって動く。
黒瀬が止めようとした。
だが、遅かった。
榊原の影だけが、先に鏡の中へ伸びた。
現実の榊原は教室にいる。
だが鏡の中では、彼女が席に座っていた。
黒瀬は舌打ちしかけて、やめた。
「榊原さん。俺の声、聞こえますか」
「聞こえます」
声は震えていた。
現実の榊原の口は動いていない。
鏡の中の榊原が答えている。
「立てますか」
「立てません。足が、机の下に」
鏡の中の榊原の足元には、赤い紐が絡みついていた。
運動会の鉢巻のような赤い布。
それが椅子と足を結んでいる。
女教師が、出席簿に丸をつけようとしていた。
黒瀬は息を吐いた。
「なるほど」
「なるほどじゃないです!」
「すみません。こっちの話です」
黒瀬は出席簿を見た。
現実の出席簿。
昭和五十六年十月十三日。
十三人の帰。
そして今、榊原真帆の名前の横に赤い丸がつきかけている。
「これは、欠席を埋めてるんじゃない」
黒瀬は呟いた。
女教師の手が止まる。
「欠席者を戻しているように見せて、生きている人間を新しい欠席者にしている」
鏡の中の教師が、こちらを見た。
顔はまだぼやけている。
だが、その目だけが黒かった。
「帰り子様の儀式は、本来、帰らない子を帰らないと認めるためのものだった。死者を無理に呼び戻さないための弔いだった」
黒瀬は一歩、鏡に近づいた。
「でも、学校がそれを壊した。毎日名前を呼んで、返事をさせて、出席にした。死んだ子も、いない子も、いることにした」
教室の机が揺れた。
とん。
とん。
とん。
子どもたちの手が机を叩く。
「そして今は、監視カメラも入館名簿もメールの宛名も、全部“出席簿”として扱っている」
黒瀬は自分の名が書かれた席を見た。
「名前を見た。名前を呼んだ。だから出席。雑ですね」
鏡の中の教師が、初めて声を出した。
『数が合いません』
その声は、若い女教師のものではなかった。
もっと古い。
もっと湿った。
土の下から響くような声。
『帰る子の数が、合いません』
「でしょうね」
黒瀬は頷いた。
「でも、それはあなたの都合です」
鏡の中の子どもたちが、ぴたりと動きを止めた。
黒瀬の首筋に、不可視の刃が触れる。
冷たい。
重い。
だが、まだ振り下ろされない。
足りない。
処刑するには、まだ怪異の芯を掴む必要がある。
黒瀬は榊原を見た。
「榊原さん。祠の資料に、最後の一文がありましたね」
「数を違えるな……」
「その続き」
榊原は震えながら答えた。
「違えれば、帰る子と帰らぬ子が入れ替わる」
「はい」
黒瀬は鏡に向き直る。
「つまり、この儀式は“入れ替え”を禁じていた。死者と生者を混ぜるな、と言っていた」
鏡の表面に、細かなひびが走った。
「なのに、今あなたがやっていることは何ですか」
女教師の黒い目が揺れる。
「帰らぬ子のためと言いながら、生きている人間を席に座らせている。弔いのふりをして、数合わせをしている」
鏡の中で、榊原の名前に赤い丸がつく。
しかし丸は完成しない。
黒瀬の声が低くなる。
「これは出席確認じゃない」
床の下から、重い金属を引きずる音が聞こえた。
ずるり。
ずるり。
木造校舎の床板が、ゆっくりと沈む。
見えない巨大な刃が、どこか深い場所から持ち上がる。
「欠席者を埋めるために、新しい欠席者を作っているだけです」
鏡の中の教師が叫んだ。
『数が、合わない』
「合わないなら、空席のままにしておくべきでした」
黒瀬は鏡の前に立った。
鏡の中には、彼自身の席がある。
黒瀬透。
女教師が出席簿を開く。
『黒瀬透くん』
黒瀬は答えなかった。
ただ、静かに言った。
「出席しません」
教室が震える。
『黒瀬透くん』
「欠席で」
『黒瀬透くん』
「仕事なので来ましたが、入学した覚えはないです」
鏡の中の子どもたちが、口々に囁く。
ずるい。
先生、ずるい。
席があるのに。
名前があるのに。
黒瀬は少しだけ目を伏せた。
「席があることと、そこに座るべきことは違います」
その言葉で、不可視の刃が定まった。
黒瀬の首筋に触れていた冷たさが、一瞬だけ離れる。
代わりに、教室の天井の上で、何かが構えた。
アラストル。
地獄の刑吏長。
罪を数え、首を落とし、概念を断つもの。
黒瀬は鏡に手を触れないまま、告げた。
「罪状確定」
鏡の中の教室が、ざわめいた。
女教師が出席簿を抱きしめる。
子どもたちが机の下に隠れる。
榊原が目を閉じる。
黒瀬は続けた。
「アラストル」
床板が鳴った。
校舎全体が、巨大な処刑台のように軋む。
刃は見えない。
だが、窓ガラスに縦の亀裂が走った。
黒板の文字が剥がれた。
鏡の中の黒瀬の席だけが、真っ二つに割れる。
「執行」
不可視の処刑鉈が、振り下ろされた。
切ったのは鏡ではない。
子どもたちでもない。
女教師でもない。
出席簿に名前を書かれた者を“出席”にする、そのルールだった。
鏡の中の教室を、横一線に裂く。
赤い丸が割れる。
名前がほどける。
黒瀬透。
榊原真帆。
失踪した三人の名前。
鉛筆の文字が、糸のようにほどけて空中へ散った。
鏡の中の榊原を縛っていた赤い紐が切れる。
彼女の身体が、椅子から落ちた。
同時に、現実の榊原が床に崩れ落ちる。
「榊原さん」
黒瀬が駆け寄る。
榊原は咳き込みながら、黒瀬の腕を掴んだ。
「戻っ……戻りました?」
「はい。欠席扱いです」
「それ、助かったって意味ですか」
「だいたい同じです」
鏡の中で、子どもたちはまだ座っていた。
だが、もうこちらを見ていない。
彼らは黒板の方を向いている。
女教師の姿は薄れていた。
出席簿だけが、教壇に残っている。
そのページには、十三個の赤い丸があった。
だが、もう誰の名前も書かれていない。
黒瀬は静かに言った。
「帰らない子は、帰らないままでいい」
鏡の中のチャイムが鳴った。
きん、こん、かん、こん。
今度は、終業のチャイムだった。
子どもたちの姿が、一人ずつ薄れていく。
最後に、一番前の席の小さな子どもが振り返った。
口が動く。
ありがとう。
音はなかった。
鏡は、ただの古い鏡に戻った。
次の瞬間、鏡の中央に細い亀裂が走った。
ぱきん、と乾いた音。
鏡は割れなかった。
ただ、亀裂の奥に、一瞬だけ別のものが映った。
黒瀬の首。
その首に触れる、不可視の刃。
そして刃の根元に刻まれた、黒い紋様。
処刑人の印。
黒瀬は目を細めた。
「……またそれですか」
榊原が顔を上げる。
「何か見えたんですか」
「いえ」
黒瀬は首元を指で掻いた。
「見なかったことにしたいものが少し」
◇
翌朝。
旧神無木第三小学校から、失踪していた三人が見つかった。
場所は校舎裏の祠のそばだった。
三人とも意識は朦朧としていたが、生きていた。
口を揃えて、同じことを言ったらしい。
「授業が終わるまで、帰れなかった」
鏡は撤去され、祠へ戻されることになった。
再開発計画は大幅に見直し。
グランピング施設ではなく、村の資料館として一部保存する案が出ている。
黒瀬は役場の会議室で、報告書を書いていた。
原因欄には、こう入力する。
「既存設備と地域民俗資料の管理不備、および監視システム上の映像異常」
しばらく考えて、追記する。
「敷地内祠および鏡については、地元関係者立会いのもと保存処理を行うこと」
かなり薄めた本当だ。
榊原が温かい缶コーヒーを持ってきた。
「黒瀬さん。ありがとうございました」
「いえ。仕事なので」
「それ、本当に口癖なんですね」
「便利なので」
榊原は少し笑った。
「村の人たち、あなたにお礼を言いたいそうです」
「お気持ちだけで」
「なぜですか?」
「土着の方々のお礼は、たまに重いので」
「失礼ですよ」
「経験則です」
黒瀬は缶コーヒーを受け取った。
その時、スマートフォンが震えた。
ノクティス日本支社からのメールだった。
件名。
『至急:湾岸再開発地区における契約書の自動署名について』
添付画像を開く。
夜のオフィス。
誰もいない会議室。
机の上に置かれた契約書。
そこに、見えない誰かの手で名前が増えていく。
一番下の署名欄には、すでにこう書かれていた。
黒瀬透。
黒瀬はしばらく画面を見つめた。
そして、缶コーヒーを開ける。
「国内案件が続くのはありがたいんですけどね」
榊原が不安そうに尋ねる。
「また、何か?」
「たぶん」
黒瀬はひと口飲んだ。
甘すぎる缶コーヒーだった。
「次は、契約書です」
首筋の刃が、ほんの少しだけ冷たくなった。




