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ホテル・ミゼリコルディア-午前七時のチェックアウト

死んだ男は、翌朝七時きっかりにチェックアウトした。


ただし、彼の死体はすでに前日の夜、地下機械室で見つかっていた。


監視カメラの映像には、午前七時ちょうどのフロントが映っている。


古い大理石のカウンター。

磨かれていない真鍮(しんちゅう)のベル。

壁にかかった止まった時計。


そこに、死んだはずの男が歩いてきた。


男は青白い顔で、濡れたスーツを着ていた。

片足を引きずりながら、フロントに近づく。


そして、カメラに向かって口を動かした。


『出してくれ』


音声はなかった。


だが、唇は確かにそう動いていた。


次の瞬間、フロントのベルが鳴った。


ちん、と乾いた音。


映像の中の男は、何かを差し出すように右手を伸ばした。


その手には、一枚の古い請求書が握られていた。


文字は英語だった。


Room 404.

|No breakfast.《朝食不要》

Paid.(支払済)


午前七時一分。


映像は乱れた。


そして現実のフロント前に、男の死体が落ちてきた。


まるで、どこか見えない客室から放り出されたように。



「チェコですか」


黒瀬透は、会議室の隅で紙コップのコーヒーを持ったまま言った。


ノクティス・グローバル不動産、日本支社。


朝一番の案件共有会議は、いつも通り空気が重かった。

空調は効いているのに、誰も上着を脱がない。

プロジェクターに映っている写真が、原因だった。


古いホテル。

大理石のフロント。

真鍮のベル。

その前に置かれた、白いシートをかぶせられた何か。


「ホテル・ミゼリコルディア。プラハ旧市街の歴史的建造物だ。弊社が取得済みで、来春から改装予定だった」


三谷課長が資料をめくる。


「現地の資産評価チームが三名、立て続けに死亡。警察は事故として処理したが、現地法人が再調査を要求している」


「死亡原因は?」


「一人目は転落。二人目は低体温症。三人目は心停止」


「ばらばらですね」


「そう。ただし共通点がある」


画面が切り替わる。


古い請求書の写真だった。


Room 404.

No breakfast.

Paid.


「全員、死亡時にこの紙を持っていた」


会議室の誰かが、小さく舌打ちした。


「……現地の嫌がらせじゃないんですか」


「それなら警察に任せればいいだろ」


「いや、でも三人はさすがに」


「そもそも、なんで日本支社に話が来るんですか」


もっともな意見だった。


黒瀬もそう思った。


チェコのホテルで起きた死亡事故を、日本支社の会議室で朝九時に聞かされている。

不動産会社の仕事は広い。

広いが、広すぎる。


「本社側から、日本支社に一名出してほしいとのことだ。現地法人だけでは、これ以上人を入れられないと」


「いや、それは……」


空気が固まった。


誰も目を合わせない。


出張。

海外。

死亡事故三件。

しかもホテル。


普通の社員なら、そこそこ強い拒否反応を示す組み合わせだ。


黒瀬は紙コップを置いた。


「あ、俺いきます」


会議室の視線が、一斉に集まった。


「黒瀬君?」


「誰でもいいんでしょう?」


「いや、誰でもいいわけじゃないが」


「じゃあ俺で。今月、残業時間まだ見た目よりは少ないので」


「見た目よりって何だよ」


「自己申告です」


隣の先輩社員が、呆れたように笑った。


「お前、またそういう案件行くのか」


「仕事なので」


「怖くないの?」


「飛行機の乗り継ぎの方が怖いですね。遅れると全部終わるので」


冗談のように言ったが、黒瀬の顔はほとんど眠そうなままだった。


三谷課長は少し迷ったあと、資料を閉じた。


「分かった。黒瀬君、現地のマルタ・ノヴァークという担当者と合流してくれ。目的は原因調査と、改装計画の継続可否判断だ」


「了解です」


「無理はするなよ」


「はい。無理そうなら経費精算だけして帰ります」


「そこは先に調査しろ」


「善処します」


会議はそこで終わった。


誰も知らない。


黒瀬透が、なぜこういう案件だけ妙に引き受けるのか。


誰も知らない。


彼の首筋に、今も不可視の刃が触れていることを。


冷たく、薄く、重い刃。


それは黒瀬が呼吸するたび、皮膚一枚の上で静かに揺れた。


――執行猶予。


声ではない何かが、脳の奥に残っている。


黒瀬は首元を指で掻いた。


「……次は国内にしてほしいな」


誰にともなく、そう呟いた。



プラハの夜は、石畳がよく冷える。


空港から市街地へ向かう車窓の向こうで、尖塔が黒い影になっていた。

街灯は暖かいのに、建物の影は深い。

古い街は、夜になると輪郭だけが過去に戻る。


ホテル・ミゼリコルディアは、旧市街の外れにあった。


白い外壁は煤け、窓枠には黒い蔦が絡んでいる。

正面玄関の上には、ラテン語らしき文字が刻まれていた。


|Misericordia《慈悲》


「慈悲深いホテル、ですか」


黒瀬はスーツケースを転がしながら言った。


「名前だけなら、いい物件ですね」


「名前だけなら」


隣で答えたのは、現地担当のマルタ・ノヴァークだった。


二十代後半くらいの女性で、金色に近い茶髪を後ろで束ねている。

厚手のコートの襟を押さえながら、ホテルを見上げていた。


「中はかなり古いです。配管、電気、空調、全部やり直し。けれど文化財指定の問題で、壁や階段は簡単に壊せません」


「不動産屋が一番嫌いなやつですね」


「ええ。しかも人が死にます」


「それはもっと嫌ですね」


黒瀬がそう言うと、マルタは少しだけ笑った。


ホテルの中は、冷蔵庫のように冷えていた。


天井の高いロビー。

赤い絨毯。

古いシャンデリア。

フロントカウンターの上には、問題の真鍮のベルが置かれていた。


黒瀬はベルに触れなかった。


代わりに、その隣に置かれた分厚い台帳を見た。


「これ、まだ置いてるんですか」


「戦前からある宿泊台帳です。文化財扱いなので、勝手に処分できません」


「面倒ですね」


「はい。とても」


マルタはフロントの奥から段ボール箱を取り出した。


「亡くなった三人の資料です。警察から戻ってきたものもあります」


「ありがとうございます」


黒瀬は手袋をはめ、資料を確認した。


一人目。

資産評価担当。地下階段から転落。


二人目。

設備調査員。屋上で発見。外傷なし。体温だけが異常に低かった。


三人目。

法務担当。地下機械室で心停止。


死因はばらばら。


だが、死亡推定時刻は全員、午前一時十三分から午前七時の間。


そして、全員が同じ請求書を持っていた。


Room 404.

No breakfast.

Paid.


「このホテルに四階は?」


「あります。ただし四階の客室は三〇一から三一八です」


「四階なのに三百番台?」


「昔の増築で番号が変わっています。現在、四〇四号室は存在しません」


「分かりやすくて助かる」


「助かるんですか?」


「はい。存在しない部屋は、大体ろくでもないので」


マルタは返事に困った顔をした。


黒瀬は気にせず、請求書の写真を並べた。


「全員、宿泊者ではないんですよね」


「はい。改装前なので客は入れていません。三人とも日帰り調査です」


「なのに請求書」


「そうです」


「チェックインしてないのに、チェックアウトだけさせられている」


黒瀬は小さく呟いた。


その時だった。


ちん。


フロントのベルが鳴った。


マルタの肩が跳ねる。


黒瀬は顔だけを上げた。


ベルの前には誰もいない。


ロビーには二人しかいない。


だが、ベルは確かに鳴った。


「……今の」


「録音ですかね」


「電源は入っていません」


「じゃあ、電源代が浮きますね」


「黒瀬さん」


「すみません。怖がるタイミングでしたか」


「普通はそうです」


「努力します」


黒瀬はベルに近づいた。


触れない。


覗き込むだけ。


ベルの表面には、小さな傷が無数についていた。

その傷が、文字のようにも見えた。


名前だ。


いくつもの名前が、真鍮の表面に爪で刻まれている。


黒瀬は目を細めた。


「マルタさん。今日、この建物に入った人間の名前は、どこかに記録しました?」


「入口の電子管理システムに。あなたと私の名前を入れました」


「紙には?」


「入れていません」


「なるほど」


黒瀬は古い宿泊台帳を開いた。


革の表紙は乾き、紙は黄色く変色している。

ページをめくると、戦前から戦中にかけての宿泊記録が並んでいた。


名前。

国籍。

部屋番号。

到着時刻。

朝食の有無。


その中に、何度も同じ文字があった。


No breakfast.


黒瀬の指が止まる。


No breakfastと書かれた客だけ、出発時刻が空欄だった。


「朝食なし、か」


「どうかしましたか?」


「朝食を食べなかったんじゃない。朝までいなかった」


その瞬間、ロビーの照明が一度だけ瞬いた。


壁の時計が動き出す。


針は、午前一時十三分を指していた。


「黒瀬さん」


マルタの声が震える。


フロント奥の監視モニターが、勝手についた。


画面には廊下が映っていた。


赤い絨毯。

真鍮の壁灯。

古い客室の扉。


だが、今のホテルにそんな廊下はない。


廊下の奥に、扉が一つだけ見える。


404。


白い数字が、黒い扉に浮かんでいた。


モニターの中で、扉が少し開いた。


そして、奥から女の声がした。


『チェックインを確認しました』


マルタが息を呑む。


黒瀬は台帳に視線を戻した。


空白だったページに、インクが染み出していた。


Marta Novak.


文字が勝手に書かれていく。


部屋番号は、404。


「……私の名前」


「ですね」


「どうすれば?」


「まず、返事しないでください」


モニターの中の廊下から、また声がした。


『延泊をご希望ですか?』


マルタは口を開きかけた。


黒瀬が、彼女の肩を軽く押さえる。


「返事しない」


『延泊をご希望ですか?』


声は、今度はチェコ語になった。


マルタの顔色が変わる。


母国語で問われると、人は反射的に答えそうになる。


「いいえも駄目です」


「いいえも?」


「質問に反応した時点で、会話が成立します。こういうのは、返事をしたことにされる」


黒瀬はモニターを見た。


「だから、しませんって」


声が止まった。


ロビーの空気が、少し重くなる。


床の下から、何かを引きずるような音がした。


ずるり。


ずるり。


濡れた絨毯を、重い荷物が動くような音。


マルタが小声で言う。


「何の音ですか」


「たぶん、サービスですね」


「何の?」


「最悪の方の」


黒瀬は請求書を一枚持ち上げた。


「マルタさん。亡くなった三人は、この声に返事をした可能性があります。あるいは、扉を開けた」


「それだけで?」


「ホテルにとっては十分なんでしょう。宿泊意思あり、と処理できる」


「そんなの契約ではありません」


「はい」


黒瀬は静かに頷いた。


「そこがいいですね」


「いい?」


「処理しやすい」


彼は台帳をめくった。


戦時中のページ。

一九四三年。

一九四四年。


No breakfast。

No breakfast。

No breakfast。


その横に、小さな印があった。


黒い鐘の印。


黒瀬は資料の請求書と見比べる。


同じ印だった。


「マルタさん。このホテル、戦時中の記録は?」


「全部は残っていません。ただ、噂はあります。逃げてきた人を泊めて、翌朝にはいなくなっていたと」


「警察に引き渡した?」


「あるいは、もっと悪い相手に」


「なるほど」


黒瀬は台帳を閉じた。


「これは幽霊じゃないですね」


モニターの中で、404号室の扉がさらに開く。


奥は真っ暗だった。


その暗闇から、ホテルマンのような影が現れる。


顔はない。

ただ、古い制服だけを着ている。

片手に鍵束。

もう片方の手に、請求書。


『チェックアウトは午前七時です』


声がロビーに響いた。


マルタの名前が書かれたページに、赤い線が引かれる。


到着時刻。

午前一時十三分。


出発予定。

午前七時。


黒瀬は腕時計を見た。


「あと五時間半くらいですか」


「落ち着いていますね」


「朝まで待つと、明日の朝が来ないかもしれないので」


そう言って、黒瀬はフロントカウンターの中に入った。


「黒瀬さん?」


「調査します」


「今から?」


「はい。残業です」


黒瀬は古い台帳をカウンターの上に置いた。


そして、自分の名刺を一枚取り出す。


ノクティス・グローバル不動産

黒瀬透


それを台帳の上に置いた。


ベルが鳴る。


ちん。


モニターの中の顔のないホテルマンが、黒瀬の方を向いた。


『宿泊をご希望ですか?』


「いいえ」


マルタが息を呑んだ。


黒瀬は軽く手を上げる。


「今のは大丈夫です。こっちから言った拒否なので」


『宿泊をご希望ですか?』


「いいえ。俺は宿泊客ではありません」


黒瀬は名刺を指で叩いた。


「調査員です」


空気が凍った。


台帳のページに、黒いインクが滲む。


Kurose Toru.


勝手に名前が書かれた。


部屋番号は、404。


黒瀬はそれを見て、少しだけ笑った。


「やっぱり、そう来ますか」


モニターのホテルマンが請求書を差し出す。


『チェックインを確認しました』


「確認してないですね」


『宿泊記録があります』


「記録はあります。でも契約がない」


『名前があります』


「名前だけですね」


ずるり。


また、床の下で重い音がした。


今度はロビー全体が軋んだ。

壁紙の裏から、古い廊下の匂いが滲む。

埃。

湿った木材。

冷えた血のような鉄臭さ。


フロントの奥に、存在しない扉が浮かび上がった。


404。


黒瀬の背後で、マルタが叫ぶ。


「扉が!」


「見ない方がいいです」


「でも」


「見ると泊まったことにされるかもしれません」


「そんな無茶な」


「このホテル、かなり無茶な会計処理をしているので」


黒瀬は台帳を開いたまま、古いページを指で示した。


「このホテルは、昔から同じことをしていたんです。客を泊める。名前を書く。朝食なしにする。翌朝にはいない」


ホテルマンの影が、扉の前で止まる。


「泊めた記録だけが残る。本人がどこへ消えたかは関係ない」


黒瀬は続けた。


「今はそれが、電子ログと監視カメラに乗り換えただけです。名前が記録されれば宿泊者。廊下に映れば移動済み。請求書が出れば精算済み」


モニターが一斉に乱れた。


何台ものカメラ映像に、黒瀬が映っていた。


廊下を歩く黒瀬。

階段を降りる黒瀬。

404号室の前に立つ黒瀬。


だが、本物の黒瀬はフロントにいる。


「映像で現実を作っているわけじゃない。逆ですね」


黒瀬は眠そうな目で、モニターを見た。


「記録したことを、現実に押し付けている」


『チェックアウトは午前七時です』


「でしょうね」


『精算が必要です』


「でしょうね」


『宿泊費をお支払いください』


フロントのベルが激しく鳴った。


ちん。

ちん。

ちん。


マルタの名前の横に、Paidの文字が浮かびかける。


黒瀬の声が、少しだけ低くなった。


「でも、駄目です」


ベルが止まった。


「契約には、最低限必要なものがあります。誰が、何を、どの条件で受けたか。宿泊なら、部屋があって、客が同意して、サービスが提供される」


彼は台帳の404という数字を指した。


「この部屋は存在しない」


次に、マルタの署名を指した。


「この署名は本人のものじゃない」


最後に、請求書を持ち上げた。


「そして、宿泊していない人間に命で精算させている」


ロビーの温度が、一気に下がった。


息が白くなる。


ホテルマンの影が、扉から半歩出た。


黒瀬は逃げなかった。


「これは宿泊契約じゃない。ただの名義偽造です」


影の鍵束が震える。


「死者の未払いを、無関係な生者に押し付ける。客を守るはずの宿が、客の名前だけを盗んで売り払う」


黒瀬の首筋に、冷たい刃が触れた。


いつもより強い。


皮膚が切れる寸前の圧。


だが、黒瀬は表情を変えない。


「条件は揃いました」


床の下から、重い金属を引きずる音が聞こえた。


ずるり。


ずるり。


今度の音は、ホテルのものではない。


もっと深く、もっと冷たい。


地獄の処刑場で、巨大な鉈が持ち上がる音。


黒瀬は台帳に手を置いた。


「罪状確定」


ロビーの照明が消えた。


暗闇の中で、404号室だけが開いている。


黒瀬は静かに告げた。


「アラストル」


見えない何かが、ホテルの天井を越えて立ち上がった。


刃は見えない。


だが、空気が裂けた。


壁紙が震え、床板が鳴り、シャンデリアのガラスが一斉に澄んだ音を立てる。


黒瀬は最後の一言を落とした。


「執行」


不可視の処刑鉈が振り下ろされた。


音はなかった。


いや、音が消えた。


ベルの音も。

時計の音も。

監視モニターのノイズも。

ホテルマンの声も。


次の瞬間、フロントの台帳が真っ二つに割れた。


紙だけではない。


そこに書かれていた宿泊記録。

404号室という存在しない部屋。

午前七時のチェックアウト。

No breakfastの印。

Paidという清算。


それらが、まとめて切断された。


モニターの中の廊下が、横一線に裂ける。


404号室の扉が、黒い紙のように折れた。


顔のないホテルマンが、請求書を握ったまま動きを止める。


その胸元に、見えない裂け目が走った。


『お客様』


影が初めて、苦しそうな声を出した。


『まだ、精算が』


「いえ」


黒瀬は淡々と言った。


「領収書、不要です」


見えない刃が、もう一度動いた。


ホテルマンの影は、古い埃になって崩れた。


同時に、マルタの名前の横に浮かんでいたPaidの文字が消える。


台帳のページが、風もないのにめくれていく。


No breakfast。

No breakfast。

No breakfast。


無数の記録が黒く滲み、ただの古いインクになっていった。


ロビーに、静けさが戻る。


壁の時計は止まっていた。


時刻は、午前一時十四分。


マルタはその場に座り込んだ。


「……終わった、んですか」


「たぶん」


「たぶん?」


「こういう物件に百パーセントはないので」


「不動産の説明みたいに言わないでください」


「実際、不動産なので」


黒瀬は割れた台帳を閉じた。


真鍮のベルは、中央から綺麗に割れていた。

もう二度と鳴らないだろう。


マルタは震える手で顔を覆った。


「私は、助かったんですね」


「はい。チェックインしてないので」


「……ありがとうございます」


「いえ。仕事なので」


黒瀬はそう言って、フロントの床に落ちた請求書を拾った。


文字は消えていた。


Room 404も、Paidもない。


ただ、紙の端に小さく一行だけ残っている。


執行猶予:継続


黒瀬の首筋に、また冷たい刃が触れた。


少しだけ離れていた刃が、元の位置に戻る。


皮膚一枚の上。


いつでも落とせる場所。


黒瀬は請求書を折りたたみ、スーツの内ポケットに入れた。


「……こっちの精算は、まだ先ですか」


誰も答えなかった。



翌朝。


ホテル・ミゼリコルディアは、ただの古いホテルになっていた。


冷えたロビー。

埃っぽい階段。

壊れた配管。

改装費のかかりそうな壁。


それ以上でも、それ以下でもない。


―――現地警察は、地下の古い隠し通路を発見した。

戦時中、客を裏口から連れ出すために使われていたらしい。


だが、404号室は最後まで見つからなかった。


黒瀬は帰国便を待つ空港で、報告書を書いていた。


原因欄には、こう入力する。


「老朽化した監視システムの誤作動、および過去資料管理上の重大な瑕疵」


しばらく考えてから、追記した。


「改装前に宿泊台帳の適切な保全処理が必要」


嘘ではない。


かなり薄めた本当だ。


その時、マルタからメッセージが届いた。


『ホテルのベル、処分されることになりました。あなたのおかげです』


黒瀬は返信する。


『よかったです。次は普通の水漏れ案件等で会いましょう』


送信。


その直後、日本支社から新しいメールが届いた。


件名は短かった。


『至急確認:国内学校跡地の映像記録について』


添付ファイルが一つ。


開くと、監視カメラの静止画だった。


廃校の廊下。

割れた窓。

古い鏡。


そして鏡の中だけに、授業を受けている子どもたちが映っていた。


黒瀬は空港の天井を見上げた。


「帰国してそのまま出社か……」


彼は目を閉じ、深く息を吐く。


首筋の刃が、ほんの少しだけ冷たくなった。


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