オマケ:【熱帯夜】
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『熱帯夜と、優しい温もり』
愛の神殿の聖女室は、夜が更けてなお、昼間の熱を吸い込んだ大理石の壁が、
ぬるま湯のような余熱を放ち続けていた。
開け放した窓のカーテンは風を捉えられずに気怠げに垂れ下がり、
熱を帯びた神殿の庭園からは、月夜に照らされ、咲き誇る花々の濃密な香りが、
ほんの少し、微風と共に部屋に運ばれてくる。
「……はぁ。本当に、今夜は寝苦しいですね……」
リリアはベッドの上で寝返りを打ち、首筋に張り付いた柔らかな金髪をそっと指先で払った。
ふと、御子様との今日までの出来事を思い出す。
ドクン、と、胸の奥が妙に熱く跳ねる。
火照りが引かないのはこの『熱帯夜』のせいなのか。
それとも、あの黒く澄んだ瞳を持つ御子様が、
同じ神殿の屋根の下に眠っているという事実のせいなのか。
「……いけませんね。私は聖女なのですから、常に平静でいなければ」
自分を戒めるように小さく呟き、ベッドから静かに足をついた。
淡い月明かりが、彼女の白い寝衣を透かして床に影を落としている。
少しでも涼を得ようと窓辺に寄りかかり、静まり返った夜空を見上げた。
リリアは、頭を撫でて貰った所に、そっと指先を置いた。
触れた瞬間に蘇るのは、あの迷宮で、獣化してしまった自分を拒絶もせず、
ただ真っ直ぐに見て、その手のひらで「よしよし」と優しく撫でてくれたあの人の手の温もり。
理知的で、けれど誰よりも綺麗で揺るぎない、御子様の気配が、
この寝苦しい夜の空気の中で、鮮烈な熱を伴って胸の奥に溢れてくる。
「……御子様。あなたは今、どんな夢を見ておられるのでしょうか」
窓枠にそっと手を乗せ、リリアは遠い月を見つめた。
―――御子様のように、そっと静かに優しく照らしてくれる月。
……明日になれば、またあの『犬畜生』と不毛な罵り合いをして、
御子様を困らせてしまうに違いない。
本当はもっと、優しい姿で、あの人の隣に寄り添いたいのに。
「……明日は、あの犬畜生よりも早く、御子様に朝一番のお茶を淹れて差し上げなくては……!」
寝苦しい夜の静寂の中、リリアは小さな決意を胸に、
月の光を浴びながら微笑む。
胸の内の火照りはまだ収まらないけれど、冷たい石の床で少しだけ冷まされた足を運びながら、
彼女は今度こそ、御子様の夢を見るために、ゆっくりとベッドへと戻っていくのだった。
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『熱帯夜と、冷めぬ熱情』
愛の神殿を包む夜気は、どこまでも濃密で、逃げ場のない温圧を孕んでいた。
レオニダスは薄暗い私室のベッドの上で、寝衣の襟元をゆるめ、
細い指先で自身の濡れた前髪を払った。
額に滲む汗は生温かいが、彼の心臓を支配している熱に比べれば、
それはあまりにも微々たるものだった。
神殿の最奥から、かすかに流れてくる、
あの清々しい、凛とした、透明な水を思わせるような澄み切った『氣』の余韻。
(……ああ。何という心地よさだろうか)
レオニダスは暗闇の中で、自身の胸元にそっと手を当てた。
かつて退屈の極みにいた自分が、初めて手に入れた生涯の主。
「……御子様は今、この寝苦しい地獄のような暑さの部屋の中で、
どのような涼やかな佇まいで、過ごしておられるのだろうか。」
窓越しに、静かに優しく照らしてくれる、美しい御子様に似ている月を眺める。
あの清廉な佇まいを、この世界のあらゆる泥から、自らの身命を賭して護り抜く。
その誓いだけが、彼の灰色だった胸の内に、消えない色彩を灯し続けている。
ふと、彼は机の上に置かれた、硝子の器に視線を落とした。
中には、夕刻に汲み上げておいた冷たい泉の水が、月光を浴びて静かに揺れている。
レオニダスは硝子の器を両手で包み込み、自らの火照った額へと、その冷えた硝子をそっと押し当てた。
ひんやりとした感触が肌を伝う。
その心地よさに意識を委ねた瞬間、彼の脳裏を過ったのは、
あの人が自らの暴走を遮るように、頭を撫でてくれた、
あの冷静で、けれど誰よりも優しく、確かな、手のひらの絶対的な重みだった。
「……御子様。どうか、明日も御傍に……」
窓から吹き込む生温かい風を顔に受けながら、レオニダスは瞳の奥に、
静かで、揺るぎない光を宿す。
明日になれば、またあの『聖女様』と不毛な言い争いをして、
あの美しい人を呆れさせてしまうのかもしれない。
けれど、あの人の隣という唯一無二の聖域を、一歩たりとも他の誰かに譲るつもりはなかった。
昼夜問わず、御子様のお傍で御守りし続けていたい。
……寝顔も見たい……。
しーーん
静まり返った神殿の闇の中。
レオニダスは器の冷たい雫を指先で一滴すくい、自らの渇いた唇を潤す。
胸の奥を焦がす熱情を、主を護るための確かな拍動(生きる糧)へと変えながら、
彼は明日の朝一番の『ご奉仕(お茶淹れ)』に備えるため、ゆっくりと、深い安寝の中へと沈んでいくのだった。
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『熱帯夜と、月夜の慈愛』
―――夜半。愛の神殿の御子客室。
昼間の熱気をそのまま閉じ込めたような、じっとりとした生暖かい風がカーテンを揺らしている。
まさに、この世の全てを熱情で満たそうとする愛の神の世界らしい、息苦しいほどの『熱帯夜』だった。
「……はぁ。さすがに、この湿度は堪えるな。この湿気と温度では眠れない」
神代 蓮はベッドの上で上体を起こし、額に張り付いた黒髪を静かにかき上げた。
月明かりだけが差し込む静寂の中、彼は一度、深く息を吐き出す。
「……じめじめと、エイローシス並みの鬱陶しさだな……いや、エイローシスの方が上か」
この『愛と情熱の世界』に強制召喚され、〖恋愛フラグ〗という名の、散々な迷惑行為で散々な目に遭った。
命の危険まで脅かされる始末。そして、この世界にいる間は、これからもまだまだ災難が続くのだろう。ウンザリする。
唯一の救いは、俺を慕い、支えてくれる、信頼できる存在が傍に居てくれることだ。
何度助けられたか分からない。
「……元の世界に還るまで、俺も何か二人に恩を返さないとな」
蓮は音もなく石床に足を下ろすと、部屋の対角線上にある二つの窓へと視線を向けた。
(空気の流入口と、排出口の比率。地盤の石材が持つ蓄熱性と、放射冷却の効率……)
部屋の構造と、淀む熱気の「流れ」を計算していく。
蓮は立ち上がり、風上にある窓をわずか数センチだけ狭め、逆に風下にある窓を大きく押し開いた。
空気の通り道を絞ることで流速を上げ、室内のこもった熱を強制的に吸い出す、物理的な「ベンチュリ効果」の応用。
さらに、器に用意していた氷水を、石床の熱が最も篭りやすい角の数箇所へ、静かに薄く撒き広げていく。
水が蒸発する際の潜熱が、床の熱をさらりと奪い去っていく。
スウゥゥゥ―――――――・・・・・・
わずか数分後。澱んでいた部屋の空気が、驚くほど滑らかに動き始めた。
熱を帯びていた石床からは心地よい涼風が這うように生まれ、部屋の温度を確実に引き下げていく。
それは魔法のような奇跡ではなく、彼が己の知恵だけで手繰り寄せた、小さくも確かな安寧だった。
「……よし、これでようやく眠れそうだ」
月光を浴びながら、蓮は残った氷水を静かに喉へと流し込む。
「……フッ、明日の朝は、二人で競争しながら、俺のお茶を用意してくれるんだろうな……」
蓮は、自分を慕ってくれる二人を思いながら、空に浮かぶ月を眺める。
その横顔は、夜空を優しく照らす月の様に、静かで綺麗な優しい微笑みだった。
心地よい夜風の音だけが残された部屋で、蓮は静かに、穏やかな眠りの中へと沈んでいくのだった。
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