第15話 エルシャと霧の月曜日
秋が深まり、朝晩には霧の出る日が増えてきました。
日課のヘンリーの散歩中、目深に外套のフードを被っていても、煙の匂いのする霧が前髪を湿らせます。
辺境でも冬には霧が出ましたが、こんなに臭くはありませんでした。
ヘンリーもヒゲに纏わりつく湿気が鬱陶しいらしく、時々プルプルと頭を振っています。
重く厚い雲に覆われた王都の秋は、まるで湿った新聞紙を被って寝ている夜のような不快さがあります。
ため息の出る憂鬱な朝です。
皆さま、いかがお過ごしでしょう。
エルシャ・グリーンフィールズ。先日、七歳の誕生日を迎えました。
ヘンリーが恨めしそうに空を見上げています。澄み渡った辺境の空と、真夏の太陽を思い出しているのかも知れませんね。
貴族学校の夏季休暇の半分を、わたしとヘンリーは辺境の牧場で過ごしました。
牧場にはアニーちゃんがいます。お母さんを亡くした家で、父親と兄に暴力を振るわれていた女の子です。色々あって、正式にソフィアさんとベックさんの養子になりました。
あれから約半年。アニーちゃんは別人のように元気で明るくなっていました。
実はアニーちゃんは以前のことを、ほとんど覚えていません。そして、まるで生まれた時から牧場にいたように過ごしているのです。
ソフィアさんをお母さん、ベックさんをお父さんと呼び、幸せそうに笑っています。
ハドソンおじいちゃまが、それも心を守るためにあり得ることだと言っていました。
悪いことではありません。アニーちゃんが笑っていて良かったと心から思います。一緒に牧場を駆け回って、とても楽しく過ごしました。
ですがなぜか、時々……心の端っこの方が、キシキシと音を立てるみたいな気持ちになりました。
わたしの身体は、生きるために魂の記憶を呼び起こすことを選びました。
アニーちゃんの心は、忘れることを選んだのです。
どちらも、悲しい選択です。
どちらも、わたしたちが望んだものではありません。
どちらにも、少し理不尽さを感じます。
「帰ろうか、ヘンリー」
考え込んでいたら、ヘンリーが川べりまで行ってしまいました。フンフンと水の匂いを嗅いでいます。
王都の川の水は、あまりきれいではないので、飲まないで欲しいです。
少し霧が晴れてきました。けれど、秋晴れとは程遠い天気です。
* * *
「ただいま帰りました」
今日はエバンスお父様の家に泊まっています。
「おかえりなさい。エルシャ、ヘンリー」
食堂へ行くと、シャーリーお母様が優雅にモーニングティーを楽しまれていて、朝から良いものを見られました。こういうのを『眼福』というみたいです。
「エバンスお父様はどうしたんですか?」
「朝早くに帰って来て、慌ただしくまた出掛けてしまったわ。ちゃんとベッドで寝ないと身体に毒よって言ったんだけど……」
頬に手を当てて、心配そうにため息をついています。シャーリーお母様に心配をかけるなんて、エバンスお父様らしくないですね。
「何か、揉めごとか事件かしらね……」
そのままシャーリーお母様と朝食を食べ、身だしなみを整えてもらってから学校へと向かいました。
――放課後。
わたしはエバンスお父様の家へは戻らずに、詰所へと向かいました。少し……胸騒ぎがしたからです。
そして、それは思い過ごしではありませんでした。詰所にはピリピリとした空気が漂っています。
「あっ、エルシャ」
ピートくんが急ぎ足で通り過ぎそうになり、引き返して来て言いました。
「今日は“ちびっ子隊員”の日じゃないよな? どうしたの?」
「ちょっと気になることがあって……」
ほんの少し話し込んだだけでしたが、入り口の方から声が飛んで来ました。
「おおいピート、早くしろよ。置いて行かれるぞ!」
出動前の、忙しい時間だったようです。
「……エルシャごめん! またな!」
「はい、行ってらっしゃい!」
少し頼もしくなったピートくんの後ろ姿を見送って、ダグラスお父さんの執務室へ向かいます。落ち着かない気分なので、お父さんの顔を見て安心したいです。
執務室のドアをノックすると、すぐに返事がありました。ヘンリーは廊下で待つようです。ぺたりと伏せてあくびをしています。
「エルシャか……。ちょうどいい、座って話を聞いてくれ」
ダグラスお父さんが少し疲れのにじんた声で言いました。部屋には目の下に隈の出来たエバンスお父様もいます。
「厄介な事案が発生した。エルシャは“霧の爆弾魔”について、どの程度知っている?」
「霧の……?」
思いもよらない方向に話が進んでいます。二人の様子から、深刻な事態だと伝わってきます。
「えっと……。五年くらい前に王都で連続爆破事件があって、犯人は捕まっていないんですよね? 霧の深い夜に犯行が行われることから“霧の爆弾魔”と呼ばれていた……」
「その通りだ……。先日、その犯人と思われる人物から、新聞社に犯行声明が届いた」
「それを踏まえてしばらく、ちびっ子隊員の仕事はお休みして頂きます」
「えっ? なぜです?」
霧の爆弾魔と、ちびっ子隊員の仕事に関係があるようには思えません。
「危険があるかも知れないんだ。聞き分けてくれ」
……実のところ、わたしには心当たりがあります。
春先から詰所で事務員の仕事をしている、ジェーンさんという女の人がいます。ピートくんの学生時代からのお友だちです。
わたしは以前、そのジェーンさんとダグラスお父さんの会話を聞いてしまったことがあるのです。
――――
『子供の頃に、新聞の切り抜きをスクラップしていたんです。シリアルキラー“霧の爆弾魔”を追う特殊捜査部隊の若きエース、ダグラス・リードは、私の英雄でした』
ジェーンさんは、そう言っていました。ダグラスお父さんが、特殊捜査部隊のエースだったことは、ピートくんからも聞いたことがあります。
『奥様と幼い息子さんが犠牲になった時は、私、ショックで三日も寝込んで……』
マーサおばさまの工房に、普段は伏せられている写真立てがあります。あの写真立てにはきっと……。
『自分を過信して調子に乗り、妻と子を守れなかった情けない男だ』
ダグラスお父さんのその言葉は、言いようのない後悔に満ちていました。
わたしはあの時、『これはダグラスお父さんの、踏み込んではいけない場所だ』と思いました。興味本位で知るべきことではない。そう思って、敢えて事件のことは調べなかったのです。
ダグラスお父さんは机の上に組んだ手に額を乗せて、感情を排除した声で言いました。
「警ら隊員やその家族が、標的になるかも知れないんだ」
“なぜ、ダグラスお父さんの家族が、狙われたのか”
それはおそらく、お父さんが抱える傷の、大きな原因になっているのでしょう。
「わかりました。図書館で調べものをするのはいいですか?」
「あ、ああ……。必ずヘンリーを連れて行ってくれ。それと、暗くなる前にハドソン先生の家に帰ること……。それから、不審な荷物や箱を見つけても近寄らないようにしてくれ」
「はい……。お二人も無理しないで下さい。顔色が悪いです」
廊下のヘンリーを呼んで、胸元の救助バッグから、初雪草の飴を取り出して渡します。初雪草は辺境の山で採れる、滋養のある薬草です。
「エルシャ、くれぐれも慎重に。無茶をしてはいけませんよ」
わたしはこっくりと頷いて、執務室を後にしました。
『わたしはたった六歳の幼女ですが、出来ることがあるはずです』
あの夜、屋根裏部屋で立ち上がったわたしが、呟いた言葉です。
あれから一年。七歳になったわたしは、出来ることも増えました。
わたしは、自分を守らなければいけません。ダグラスお父さんを、これ以上傷つけないために……。
「まずは、知ることから……です!」
詰所を出ると、気が逸って自然と小走りになってしまいました。
図書館まであと少し……というところで、低い雲から霧がほどけたような細かい雨が落ちてきました。
霧ではじまった月曜日は、まだ終わりそうにありません。
読んでいただきありがとうございます。
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