せめて、最悪ではないように
スイージュは人殺しかそうでないかといえばきっぱり人殺しである。
殺した人数がどのくらいなのか、何万人か何十万人か何百万人か、そんなことは覚えていない。初めの一人がどこだったかを覚えていないので数えられるわけもないのだった。
しかし美しい。たとえ、その姿が十歳に満たなくとも。
ひとたび跳ねればそのまま空へ飛び立って行く――実際そうすることはできるが――妖精の如く整った顔貌、銀の髪は幽雅で無二の輝き、瞳は氷のように澄んで蒼穹よりも青く、肌の色は霊峰カナデウスに降り積もる雪に匹敵する。
生まれながらに数千年持ち歩いている美しさは、何人殺しても損なわれることはない。
台状の転送機が置かれた大型のテントで彼女はため息をついた。
入口で出会い頭に首の骨を折った男の髪を掴んで引きずって数歩。テントの中、恐怖一色を目に映した者たちを視線で一撫でする。それで宣言は終わる。お前たちの命は握ったのだと。
「転送機を止めなさい」
下命は静かに。
どこかで唾を飲む音がした。一人の震える手が何がしかの操作をすると、動力音が消え、台の表面に描かれた祈法紋章から光が消える。
動かない男を離す。落ちた頭蓋が地面を打つ。
口づけをねだるように顎を持ち上げ、聖女は愛らしく目を細めた。血色のよい唇が動く。
「さて。殺された護衛は何人でしたっけ?」
さほど大きくもない声が、テントの中、轟きよりも空気を揺らす。
ちょっと待って。
あることに気がついてアークは目を揺らした。
攻撃を受けたことを理解した賊が集まり向かってくる。
混合者の衝撃に忘れてしまっていた。賊は引き受けると言い切ったが、今『感覚』――未来視は使えないのだ。
(あたし、こんな敵を相手にするとき『感覚』使わないで戦ったことあったっけ?)
師との訓練は一対一だった。村で師が畑仕事の合間に営んでいる剣術道場で、一対多で戦ったことはあるが、殺すつもりでかかってくる者はもちろんいない。殺す意思――殺したいという願望ではなく――の有無は戦闘力の段階を数段飛ばしに変える。
そして、殺したことのある者とそうでない者の〝それができる〟の差は這いずる赤ん坊と二足歩行する大人ほどある。
賊は殺すつもりでかかってくる。
剣。斧。銃。列車を横倒しにするような武器も賊にはある。
奴隷であれば教養はないかもしれないが集団で戦う知恵はカウンよりもあるだろう。
『感覚』を使えば賊に勝つのは容易だ。容易だった。勝つ方法がわかるのだから。
だが。
剣の柄を握る右腕が震える。
命を奪う意思を持った最初の一撃が迫る。
聖女は転送機に腰を下ろした。
殺された護衛が合計何人か聞かされていなかったので、適当に殺し、適度に生かしてある。
無意識に肩にかかった髪を払ってしまい、手を染めた返り血が髪を汚す。聖女は真空の刃でその部分を切った。汚れた髪は地につく前に溶けて消え、聖女の肩には穢れない髪が再生される。
「妹の様子はどうでしょうね」
体は動いた。
自然と、考えるまでもなく。
凶刃は軽く炎の剣で払えば焼き切れてどこかへ飛んでしまったし、動揺した賊の体を突くのには一秒もかからない。
残りはただの順番だ。
崖の壁を活かせば囲まれる危険はなく、湿地での訓練はしていないらしい賊の足は泥にとられて鈍い。
幾度目かの攻撃を打ち払い横に走る。
「喰らえ――!」
ついと上半身を傾ければ銃弾は側を通り過ぎるだけ。刃でも弾でも、当たらなければこれだけのことだ。
「っ!? よけた――!?」
回り込む賊の剣を弾き飛ばし、がら空きになった胴を蹴倒して道を開ける。追ってくる賊がある。走る。走りながら祈文を唱えて最後の一小節を唱え終わった瞬間、地面に剣を突き立てた。
「〈天使の抱擁〉!」
刀身に彫られた祈法文字が輝き、剣を――アークを中心に高く火柱が上がる。そして、火は沈むようにして地を流れ賊の体を焼く。火と水の違いはあれど、ちょうど、シスクの津波のように。
絶叫。纏わりつく火を払おうと転がる賊。全身が炎に包まれるほど負傷したのは近くの者だけだ。後方にいた者は、皮膚を爛れさせ服の一部を燃やしたものの、戦えなくなるほどにはいたっていない。
戦意を挫かせる者はあったらしい。数人が武器を捨てて逃げる。
混合者の男が進み出て祈文を唱え、呼応して鱗が光るのを見ても体に迷いはない。剣帯の後ろに仕込んだ釘状の投擲刃を抜いて放つ。
(強くなりなさい。誰にも負けないように。誰もあなたの命を奪えぬように)
師――元帝国将軍の声が血液と混じり合い手足の先まで行き渡る。
(あなたはいずれ――)
積み重ね研鑽され修められた技はアークの命を必ず守る。
(いずれマテラス帝国の皇帝になる方なのだから!)
アークは英雄アクロノクト皇太子の一の姫。物心がつく以前より皇帝になるものとして師に扱われ、訓練を課されてきた。
魔法がなくても関係がなかった。そんなものは考慮されずに磨かれた技術が、研ぎ澄まされた知覚が、敵を倒し生き延びる術を忘れない。
「慈悲があるなら一息に殺して欲しい」
地に倒れて胸板を踏まれ、首に剣を突きつけられながら混合者の男は諦念の目で言った。よく見ると鱗が輝いているのは硬質なためだけではなく、一枚一枚に祈法文字が刻まれそれが光を反射するせいだった。
太腿に刺さった連なる棘の痛みに耐え、アークは滴る寸前の汗を左手で拭う。
「降伏するなら殺さないよ。人を殺すのは好きじゃないから」
彼は瞼をおろす。
「この体が何だかわかるだろうか」
「……。シーナルの……」
「そうだ。私はシーナルの奴隷だ。この失態の咎めがお前の慈悲を受けて殺されるよりも軽いものだと思わないでもらいたい」
息を呑む。
このような基地を一つ作るにはそれなりの思惑と労力が必要だったはずだ。人材も、被害はごまかしの利くものではない。その責を負わされた彼がどのような目に遭うか?
アークはシーナルがこのような失敗をした奴隷に具体的に何をするのか、漠然と、『ただ酷いこと』という曖昧なイメージしか持てない。
しかし――脳裏に棺めいて並ぶポッドが浮かぶ。それを見たときの、背筋に数多の水疱ができて一斉に弾けていく感触が蘇る。
この場を切り抜けるために嘘や戯言を口にしているとは思えなかった。その気力がない。見ればわかった。この男は疲れている。
黒く焦げた鱗と赤く爛れた皮膚を視線でなぞる。彼は疲れている。
剣を握る力が弱まる。
「終わりました? こっちも済みましたよー。森に入った者とか全員逃さず昏倒させて来ました。あんまり殺してないので褒めてください」
聖女が燃えるキャビンの裏から明るく顔を出した。
「何してるんです?」
腰の後ろに両手を回し、聖女は上半身を斜めに傾けた。
説明すると、あっさりと、
「殺してあげればいいんじゃないですか。それが彼の望みなら。手を汚すのが嫌ならわたしがやりますけど」
「そうじゃないんだ」
こういうのを、なぜうまく言えないんだろう。アークは懸命に言葉を探すのだが糢糊として口にできる形に並ばない。
『駄目』なのだ。
本人がいくら殺して欲しいと頼んできても『こういうのは駄目』なのだ。アークはやりたくないし、他の誰にもやらせたくない。これ以上は『駄目』だ。理屈ではない。駄目なものは駄目だ。
「ではどうするんです。酸鼻極まる罰を受けるのを承知で剣を引きますか? シーナルが彼を許す期待はしないほうがいいですよ。情けをかけて殺してあげるのを慈悲と呼んでもわたしは構わないと思います」
「このままみんな逃がして……」
「刺青を入れられただけの下級奴隷ならなんとかならないこともないでしょう。ですが、彼のその姿ではどこへも行けませんよ。それともあなた面倒見られます?」
「元の姿に治してあげられない?」
「やろうとすればできますけどやりません」
言葉が冷たさを帯びるのに目を見開く。
彼女は片目を眇めて、
「『は? なんで?』って顔してますけど。いいですか。彼の所属がザーズかテメナキズか、オティル大陸のシーナル本拠地かは知りませんけど、その周辺国は奴隷制を敷いていて、彼のような存在は合法なんです」
「でも」
「奴隷制が間違っていると感じるのはあなたの価値観です。わたしも気に入りませんが北方の国では当たり前にあるものです。法とは政治で、わたしたちは、どんなに気に入らなくても政治への介入はしません。なぜなら」
口を挟もうとしたアークを制して続ける。
「気に入らないことをやめさせ、気に入ったことだけをさせる。それを〝わたしたち〟はできてしまうから。その結果がもたらすものは何でしょう? ――わたしたちによる世界の支配です。
わたしたちは支配しません。そう決まっています。それは誓いであり約束です。永遠の約束です」
《永遠の守護者》の誓い。永遠の約束。
絶大なる力を持つ魔法使、《永遠の守護者》。彼らは支配しない。どこかの国を治めたという記録はない。彼らはヒューンの守護者で、支配者ではない。
なぜ《永遠の守護者》がヒューンを守護する者なのか、なぜ守護し続けるのか、それはまだ聞けていない。簡単に踏み込んでいい領域ではないと感じていた。そう、少し行動を共にしただけで悟った。《守護者》という立場に在り続ける彼女らの〝はじまり〟はとても残酷なものに根ざしていると。
誓いはきっと、残酷なはじまりに抗い、なお役目を果たし続けるために必要とされたものだ。スイージュの、永遠に小さな少女の、教科書を読み上げるように語る滔々とした言葉に混じる哀しみがそれを示している。
「奴隷の解放はただの窃盗ではなく政治行為なんですよ。時と場合によっては国政に逆らう行為に助力することはありますが、今回はしません。あなたが彼らを解放するのは止めませんがわたしは手を貸しません。殺すか、悲劇に放逐するか。選択はあなたがなさい」
汗が冷える。
一番良いものであるはずの《永遠の守護者》の救済を失った選択をしなければならない。
悩める時間は長くない。
殺すのは嫌だ。だが。
考える。考えろ。何がいいか。どちらがいいか。殺すか、悲劇に放り出すか、どちらがましか――
ましな選択などない。この二択に『よりまし』などない。どちらも駄目だ。
ならば、答えは二択の外に用意すればいい。
男の上から体をどけ、剣を収める。疲れ諦めた男は脱力したままだ。
「こういうのはどうかな。『あたしたちはここに来なかった』。あたしは少しなら治療祈法が使える。ねぇ、怪我なら……治してくれない?」
「……それくらいなら。死んでいないのが条件ですが」
「ねえ、女の人を攫うのはシーナルの命令ではないんだよね?」
男は薄く目を開ける。
「ああ。それは下の者が勝手にやったことだ」
「あたしたちの本来の目的は力信体の奪還でも賊の壊滅でもない。なら『彼らは力信体以外のものに手をつけなかった』『だからこのアジトは襲撃されていない』。そういうことにできれば、この人へのお咎めはなんとかならないかな?」
「わたし、何人か殺しましたよ」
「どのくらい?」
「彼らが殺した数と帳尻が合うよりまだ少ない程度ですね。あなたのほうも何人かは死ぬだろうと思いまして」
「列車を襲ったときに返り討ちに遭ったことにしよう。『あたしたちは列車に乗っていた』『力信体を奪うことにこそ成功したが、偶然手練が乗っていたために何人かは犠牲になった』。ありえないことじゃない」
アークたちが前の列車の出発に間に合っていたら実際にそうなっただろうし、力信体すら奪わせはしなかったろう。
「それなら、私は、このまま生きては、いけるだろうな」
ゆっくり、男が上半身を起こす。
「指揮の悪さで主の財産を消耗したとの叱責はあるだろうが」
「壊した建物はどうしますか?」
スイージュは宙を掴むように手を振る。キャビンを燃やしていた火が消えた。
「列車を撃った大砲があるでしょ? あれが暴走したとか、偽装して。そのくらいは自分たちでして。
ええと――あのさ。これはこの人を殺すより、酷い目に遭うだろうって知ってて放って帰っちゃうより、随分ましな案だと思うんだ」
「でも結局、わたしには治療するなりの労力を割けというわけですよね?」
試すような笑みに、アークは笑い返さなかった。
「優しくて働き者のお師匠様は、可愛い弟子のためにならやってくれる。でしょう?」
「いいですよ。不幸の数は少ないほうがいいです」
「ありがとう」
「彼女に感謝するといいですよ。わたしは本当にどちらでもいいと思っていましたから」
太腿の怪我を治すと、アークは事の次第をリヒテに報告するために走っていった。背中が遠ざかる。混合者の男も同じ背中を見つめている。
聖女は密かに満足していた。あの野良皇女は、出くわした理不尽について自分が無力であることを理解している。それでも、遠い国、遠い文化、遠い価値観を自分に合わせようとしてすべてを解決できる存在に駄々をこねなかった。
《永遠の守護者》の誓いを明かせばその重みを迷わず尊重した。無理強いをしなかった。
二択で迫られて、しかしその簡単な選択を使わずに自分の答えをだした。
彼女の答えは〝誰にとってもせめて最悪ではない〟。言い方を変えれば全方位からの妥協であろうが――悪くない。
彼女は無謀で軽率で無駄の多い頑張り屋だ。されどもそういった頑張り屋にありがちな正義感の虜ではない。
その無駄の多い優しさはこれからも折につけ彼女自身を危険に晒すだろう。困り果てて絶望し、疲弊してむせび泣き、頽れて立てなくなる日も来るだろう。
しかし残念ながらスイージュの好みである。
「〈皇黒〉の髪と瞳。マテラス帝室の血に連なる姫とお見受けする。どなたかは存じ上げないが」
驚いて、座り込んだままの男を注視する。
「奴隷になる前の経歴は?」
「エメア国の軍人だった。十七年前、マテラスとの戦争で負傷し……何がどうなったのか……目が覚めたらシーナルの奴隷として印と鎖をつけられていた。そのときにはもうこの体だった」
一つの文明が興り、滅び、再び興り人体改造の技術が確立するたびに何度でも発案され、何度でも起こる悲劇だ。シーナルやエリフと違い、ヒューンの体は変形に耐えやすい。当然だが。
何度見る悲劇でも、胸にこみあがる痛ましさが涸れることはない。
「なんとかしてあげたくなっちゃうんですけど……さっき言ったことは嘘ではないのでやりません。恨んでくれて結構です」
「あなたは?」
「スイージュ」
至極端的に答えると、彼は深くうなだれた。
「《血塗れ聖女》……天は、私を見捨てたのだな」
「どうでしょう。見捨てたのはわたしで、わたしは天ではありません。祈る天があるのなら希望はまだとっておきなさい」
「聖女以上の希望がこの世にあると?」
「なぜないと思いますかね。たった今、あの少女があなたに希望を抱き続けられる時間を繋いだでしょう。あ。いいことを教えてあげます。彼女はアーク。マテラスの皇太子アクロノクトの姫で真名はアーキタイプクルチェ。瞼の裏にでも刻んでおきなさい。死ぬときにもその名だけは心に残るように」
男は今は見えないアークの姿を探す。
「繰り返しますが、わたしは天でも神でもありませんよ」
夜風が睫毛を震わせる。
「人かどうかは、怪しいのでしょうね……」




