第五話 夜明け
エイダンは手帳をめくった。
頁は、半分以上が埋まっている。観察対象の特徴。発言。行動。人間との認識の相違。
記録としては上々だった。けれど読み返すうちに、妙なことに気づいた。
どの頁にも、自分の問いが書いてある。
なぜ人を迷わせるのか。なぜ死を悲しむのか。なぜ人間を水へ引き込むのか。答えを得るたびに、問いのほうが増えていた。
一頁目の隅には、小さく『リャナンシー』と書いてある。その横に書き足せることは、今夜も、何一つなかった。
「……難しいな」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
彼は手帳を閉じて胸ポケットへ戻し、薪を一本くべた。ぱちり、と火の粉が散る。
その音に重なって、足音がした。
跳ねる音でも、蹄でも、水音でもない。ゆっくりと地面を踏む、人間の足音だった。
エイダンは顔を上げた。
霧の中に、人影が立っていた。男にも女にも見える。年齢も分からない。古びた衣服をまとって、篝火の光の縁で足を止めている。
今までの客と違い、近づいてこない。ただ、火を見ている。
いや、火ではなかった。
人影の視線は、広場の端の、古い木の腰掛けと、縁の欠けた木椀に向いていた。
エイダンの手が、胸ポケットへ伸びかけて、止まった。
用途不明、と書いたあの腰掛けだ。
「……どうぞ」
それだけ言って、彼は腰掛けのほうへ手を向けた。質問ではない。そう自分に言い聞かせながら。
人影は、ゆっくりと腰掛けへ歩いた。
「……今年は、いつもの人がいないな」
「体調を崩しています。代わりが私で、申し訳ありません」
「いや」
人影は腰掛けに座り、火へ手をかざした。
「火があれば、いい」
それきり、二人とも黙った。
これまでの客たちは、黙っていても勝手に話し始めた。この人影は違った。何かを尋ねてほしいのか、ただ火を見ていたいだけなのか、エイダンには分からなかった。
聞きたいことは、山ほどあった。
名前。いつの人なのか。どこに住んでいたのか。どうして毎年、ここへ来るのか。
質問が喉まで上がるたびに、彼は薪を掴んだ。
一本、足す。炎が少し高くなる。今度は、足しすぎなかった。
しばらくして、人影のほうから口を開いた。
「昔は、あそこに家があった」
視線の先には、誰も住んでいない草地があった。エイダンは知っている。村の古い記録では、あの一帯は百年以上、誰の土地でもない草地だ。家の跡も、道の跡もない。
「家も、道も、畑も。ずいぶん変わった」
「……はい」
「それでも、この夜には来られる」
人影は、草地から目を離さなかった。
「帰る場所を、探しているのかもしれんな」
静かな声だった。悲しんでも、怒ってもいない。そういう事実があるのだと、告げているだけの声だった。
エイダンの視線が、一瞬だけ、村のほうへ流れた。開け放たれた戸口には、灯りが点っている。どの家の食卓にも、帰ってきた誰かのための席があるはずだった。
「家族が、いた」
エイダンは、うなずいた。
何も、尋ねなかった。
人影は、それ以上何も言わなかった。
エイダンは立ち上がり、荷物から魔法瓶を取り出した。夜食に用意してきた、ミルクを入れた紅茶だ。
縁の欠けた木椀に、注ぐ。
湯気が立った。腰掛けの隣へ、椀を置く。
人影は、しばらく椀を見ていた。
それから、両手でそっと包んだ。触れているのかどうかは、分からなかった。
湯気が、人影の顔の前で揺れた。
「……すまんな」
「いいえ」
それだけだった。
夜明けが近づいていた。
東の空は、薄い金色を帯び始めている。霧がほどけ、木々の輪郭が戻ってくる。人影の輪郭は、逆に、少しずつ薄くなっていった。
人影が立ち上がった。
「朝になれば、道が閉じる」
「帰り道は……」
言いかけて、エイダンは口を閉じた。帰り道が分かることと、帰る場所があることは、同じではない。
人影は気にした様子もなく、微笑んだ。
「道は覚えているよ。昔から通っていた道だからな」
「そうですか」
「火を絶やさないでくれ」
「はい。必ず」
人影は、霧の中へ歩いていく。
エイダンは、何度も口を開きかけた。名前を。来年も来るのかを。
全部、飲み込んだ。
人影は一度だけ振り返り、笑ったようだった。
次の瞬間、そこには誰もいなかった。
木椀の湯気だけが、まだ細く立っていた。
エイダンは、空になった腰掛けを、しばらく見つめていた。それから手帳を開き、空白の頁に最初の一行を書いた。
『今夜、ひとりの人に会った』
それ以上は、書かなかった。
*
朝日が、森の向こうから差し込んだ。
黒い兎も、白い女も、水の気配も、いつの間にか消えていた。篝火は静かな熾火になっている。
サウィンの夜が、終わった。
エイダンは手帳を閉じようとして、最後のページに、見覚えのない文字があることに気づいた。
『次のサウィンにも、火のそばで』
自分の字ではなかった。
いつもの彼なら、真っ先に研究課題にしただろう。異界の住人は、人間の記録媒体に干渉できるのか。筆跡の鑑定。紙の分析。
彼は、手帳を閉じた。
何も書き足さずに、胸ポケットへしまった。
*
小屋の戸を開けると、師匠が寝台の上で身を起こしていた。顔色は、昨日よりましだった。
「……火は」
「絶やしませんでした」
「異界のものに、話しかけたか」
「何体かと」
「何体か!?」
師匠は怒鳴りかけて、窓の外、広場のほうを見た。
「……最後の客には」
「何も、尋ねませんでした」
師匠は長いこと黙っていた。
「……わしも、毎年、聞きたくなる。聞いたことは一度もないがな」
それから、布団を頭までかぶった。
「帰れ。もう一眠りする」
エイダンは、一礼して小屋を出た。
朝の空気は冷たく、澄んでいた。広場へ寄ると、腰掛けと木椀は、夜のままそこにあった。
椀の底に、冷めた紅茶が少しだけ残っていた。
彼は、腰掛けも木椀も動かさなかった。
来年も、同じ場所にあるように。




