第四話 エッハ・ウシュケ
ちゃぷり。
ちゃぷり。
森の向こうから、水の音がした。
村の近くに川はある。だが、今聞こえているのは、川のせせらぎとは違った。誰かが浅瀬を歩いているような音だった。
エイダンは、胸ポケットへ伸びかけた手を、途中で下ろした。手帳は、開かなかった。
篝火の明かりが届かない場所に、黒い水面が広がっていた。
おかしい。ここは村外れの広場で、川があるのは森を抜けた先のはずだ。それなのに水面は、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。篝火の光の縁まで来たところで、水面はぴたりと止まった。
やがて、水の中から一頭の馬が姿を現した。
濡れた黒い毛並み。長いたてがみ。水滴を滴らせる脚。馬は首を振り、鼻先から水を飛ばした。
「人間」
低い声だった。
「お前、泳げるか?」
「泳げますが、得意ではありません」
「そうか。沈むなよ」
「……沈む?」
「水に入れば、沈む」
エイダンの背筋が冷えた。光の縁に触れる水は、篝火の光を映しているはずなのに、底が見えない。
書物の記述が、次々と頭に浮かぶ。水辺に現れる馬。人を背に乗せる。乗せた人間を、水中へ引きずり込む。水の気配に触れた皮は、貼り付いて離れない。
エイダンは、両手を背中に回して組んだ。触れないために。
「あなたは、ケルピーですか?」
「それは、海の向こうの親戚の呼び名だな」
馬は、つまらなそうに水面を蹴った。
「こっちでは、エッハ・ウシュケと呼ぶ者もいる」
「失礼しました」
エイダンは、一度だけ頭を下げた。
「人間を水へ引き込む、という伝承があります。触れた者は、皮が貼り付いて離れられなくなる、とも」
「ある」
「否定はなさらないのですね」
「引き込んだことはある。離れようとする者は、多いな」
あまりにあっさりとした答えだった。
プーカは人間の常識をからかい、バンシーは伝承を悲しげに受け止めた。だがこの馬は、人間を水へ引き込んだことを、隠そうとも、恥じようともしない。
「なぜ、人間を水に引き込むのですか?」
「水があれば、入る。それだけのことだ」
「ですが、人間は水の中では息ができません。溺れて死んでしまいます」
「お前たちは魚を捕るだろう?」
「……ええ」
「魚は水の中にいる。お前たちは魚を捕まえる。俺が人間を水に引き込むのと、何が違う?」
「魚と人間は違います」
「どこが?」
エイダンは口を開き、すぐには答えられなかった。
「……人間は陸で暮らします。魚は水の中で暮らす。人間が水に引き込まれれば、帰ってこられないこともある」
「魚だって、水から出れば帰れないだろう」
「それは……」
「魚にも、生きる権利があるのか?」
「あります。ですが、人間は魚を捕って食べます」
「なら、俺もそうなのかもしれないな」
エッハ・ウシュケは、どこか納得したように首を傾けた。
「水に浸かった人間は、なかなかうまい。肝はよくないがな」
「肝ですか?」
「お前たちも、魚の内臓は捨てるだろう?」
まるで食事の好みでも語るような口調だった。
エイダンは、息を止めた。
背中で組んだ手の指が、白くなるほど絡み合う。
脅しではなかった。ただの、感想だった。その軽さが、何より恐ろしかった。
「あなたの考え方は、分かりました。ですが、ここに住む人たちは、水に引き込まれたいとは思っていません」
「なら、お前が入らなければいい」
「私だけの話ではありません」
エッハ・ウシュケは、すぐには答えなかった。黒い耳が、わずかに動く。
「……自分が助かれば、それでいいのではないのか?」
エイダンは答えに詰まった。見学のつもりで来たのだ。村を守る義理は、本来ない。
「……任されたからです」
「それだけか?」
「それだけでは、足りませんか」
エッハ・ウシュケはエイダンを見つめ、それから、ふっと鼻を鳴らした。
「妙な人間だな」
そう言いながらも馬は水面を蹴り、向きを変えた。
「俺は、もう行く」
「どちらへ?」
「水のあるところへ」
「……そうですか」
エイダンは、今度は引き止めなかった。
黒い水面の上を、馬が遠ざかっていく。霧に溶ける直前、馬は一度だけ振り返った。
「人間。火を消すなよ」
エイダンは目を見開いた。
「あなたは、火を消してほしくないのですか」
「火が消えれば、俺たちはどこへ行けばいい?」
その言葉を最後に、馬は消えた。水の音が遠ざかり、広場には篝火のはぜる音だけが残った。
エッハ・ウシュケの姿が水の向こうへ消えると、薪の山に目を向けた。
残っている薪は、半分にも満たない。足しすぎないよう気をつけながら、燃え残りの熾火に空気が通る向きへ、薪を組み直す。炎が揺れ、薪の表面を赤い光が走った。
それから手帳を取り出し、書いた。
『意思疎通が可能であることと、安全であることは別である』
書き終えて、手帳を閉じた。それなのに、あの一言が頭から離れなかった。
――火が消えれば、俺たちはどこへ行けばいい。
引きつけて、遠ざけるための火だと思っていた。集められる側にとって、ここは何なのだろう。
顔を上げる。
東の空の端が、墨を水で薄めたように、ほんの少しだけ色を変えていた。黒ではない。かといって、青でもない。さっきまで見えていた星が、いくつか減っていた。
霧の色も違う。闇に沈んでいた色が、乳白色へ戻りつつある。
遠くで、鳥が一声だけ鳴いた。




